プロローグ

9月上旬、往生際の悪い残暑が居座る東京の夜。夕食を済ませた私はまたいつものように冷蔵庫のオレンジジュースをグラスに注いだ。そしてソファでテレビを見ながらその甘酸っぱい風味を噛み締める。これが至福のひと時。
しかしそんな寛いだ空気を玄関のチャイムが乱す。その無機質な音は一人暮らしの室内に二度くり返された。グラスを置いて時計を見るともう9時が近い。こんな時刻の来客なんて滅多にない。
「どちら様ですか?」
腰を上げてドア越しに尋ねる。低くてよく通る声が「警察です」と答えた。幾分の動揺を覚えながらも私はテレビを消し、そっと玄関の鍵を回す。
「夜分にすいません、警視庁のカイカンと言います」
ドアを少し開くと、そこにはボロボロのコートにハット、長い前髪が右目を隠した異様な男が立っていた。正直この人だけだったら反射的にドアを閉めたかもしれない。でもその後ろに控えていたのは清潔感のある綺麗な女性。警察手帳を示しながら彼女は自らをムーンと名乗った。二人揃って変な名前だけど、ふざけているわけではないらしい。
「竹中美鈴さんですね?少しだけお伺いしたいことがありまして」
低い声が私の名前を確認した。見た目はちょっとあれだけど、その口ぶりから礼節を備えた人物であることはわかる。私はチェーンロックをはずす。
「どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます。あ、玄関先で結構ですので。ではさっそくですが…」
女刑事が後ろ手にドアを閉めると、すぐにカイカンは本題に入った。
「あなたのお母さんは竹中芳江さんですね?」
頭の中に轟く爆発音。突然遠くで山が火を噴いたように、あるいは巨大な隕石が大地に激突したように、世界が没落する感覚が押し寄せる。そのまま思考が停止、少し遅れてじわじわと込み上げてくる戦慄。それは…二度と聞きたくない、できれば二度と思い浮かべたくもない女の名前だった。
私の不快が伝わったのか、カイカンは少し慌てたような仕草をする。
「あ、ごめんなさい…あなたを不愉快にするつもりはないんです。ただどうしても捜査上、お母さんについて確認しなくてはならないことがありまして」
「…わかりました」
笑顔は作れなかったけど、かろうじて動き出した思考でそう答える。そして「ちょっとお待ちください」と断わってから私は天井を仰ぐ。…大丈夫だ、冷静に冷静に。
「失礼しました。捜査にご協力はします。ですが…ごめんなさい、お母さんと言う呼び方はやめていただけますか」
言ってしまった。でも言わずにはいられなかった。困惑する二人に私はさらに続ける。
「大人げなくてすいません。ただその人のことを…私は母親と思っていませんので」
「こちらがぶしつけでしたね」
ハットの鍔をそっと直すカイカン。
「では…芳江さんと呼ばせていただきますね」
前髪に隠れていない左目が伺いを立てる。私は黙って頷いた。
「ありがとうございます。では、改めて…。実は今、警察は芳江さんの行方を捜しています。そこで確認なのですが、あの、芳江さんと最後にお会いになったのはいつですか?」
また世界が少し揺らぐ感覚。考えるだけでも忌まわしい。でもこの人たちが悪意で私の記憶をほじくり返しているわけじゃないのはわかっている。私はありのままを答えた。
「最後に会ったのは…私が高校1年生の時です。だからちょうど十年前になりますね。ただ会ったといっても一瞬顔を合わせただけで、まともな会話はしていませんけど」
「会話を…しておられない?」
「はい、していません。今もそうですけど、その頃も私はあの人を嫌っていました。話なんてしたくありません。だって幼い頃、あの人に捨てられましたから。私はずっと新潟の祖父母の家で育ったんです」
「そうでしたか。ではその高校1年生の時に一瞬お会いしたというのは…」
「いきなり現れたんですよ。私は学校帰りの路上で声を掛けられました。それで、もう二度と関わらないでと伝えてすぐ走って逃げました」
話しているだけであの日の恐怖感・嫌悪感が込み上げてくる。カイカンは黙って頷き、右手の人差し指をそっと立てた。
「おつらいことを思い出させて恐縮です。その日が何月何日だったかご記憶ですか?」
「いえ、日付までは…。ただ2学期が始まってすぐだったので…今ぐらいの時期だったと思いますけど」
「十年前の9月の上旬ですね。それが芳江さんと会われた最後…それ以降は訪ねて来られなかった?」
そういえば…と嫌な記憶が連鎖する。
「一度だけ、夜に家に来て祖父が追い返している声を聞いたことはありました。路上で会ってから一週間くらい後だったと思います。ただ祖父はあの人を家に入れませんでしたし、私も2階の自室にいたので直接見てはいません」
「そう…ですか。ちなみに芳江さんは何の用事だったのでしょうか」
「わかりません。でもどうせ…ろくなことじゃないでしょう。お金に困ったとかそういうことだと思います」
立てていた指が下ろされる。女刑事はその後ろで頻りにメモを取っていた。
「教えていただいて助かりました。確認になりますが、十年前の9月に新潟で会われたのが最後、ということですね?」
「はい。できればこのまま…一生会わないことを願っています」
この人たちを責めるつもりはないのについつい言葉がきつくなってしまう。そこでカイカンはわずかに頬を緩めた。女刑事も手帳をしまう。
「ご協力ありがとうございました。質問は以上です、これで失礼します」
二人は揃って頭を下げる。そして踵を返してドアノブを掴もうとしたけど…。
「ちょっと!」
自分でも驚く。私は思わず彼らを呼び止めていた。二つの顔が振り返る。
「いやあの、大きな声を出してごめんなさい。でもちょっと…待っていただけませんか」
頭は混乱しながらも私の口は動き続ける。
「その、どういうことか説明してください。どうしてあの人を捜してるんですか?」
もちろんあの女に興味なんてない。ただ…このまま話が終わってはモヤモヤするのはわかりきっていた。カイカンは一瞬逡巡したようだったけど、こちらに向き直って「あくまで可能性ですが」と前置きした上で女刑事に説明を命じた。彼女は頷いてから非情なほど落ち着いた声で捜査の主旨を話してくれた。
「先月、北陸の海岸で人間の遺体が入ったスポーツバッグが発見されました。中には重りも一緒に詰められており、長年バッグごと海に沈められていたようです。それが先月の荒波で岩場に打ち上げられたものと警察は考えています」
女刑事はちらりと上司を見た。カイカンは目だけで続けるよう促す。
「遺体は三十代から四十代の女性です。死後少なくとも七年以上は経過していると見られています。そして衣類や所持品などから…その身元が竹中芳江さんではないかという可能性が浮上しまして」
そこまで言うと女刑事はそっと目を伏せた。カイカンが言葉を継ぐ。
「そんなわけで警察は殺人事件の可能性も視野に入れて捜査してるんですよ。もちろんまだ遺体が芳江さんと確定したわけではありません。警察の調べでは、芳江さんは少なくとも十年前までは横浜に暮らしておられたようです。ただ現在どこにおられるのかは全く足取りが掴めません。
戸籍を調べたら新潟のご両親はすでに亡くなられ、ご兄弟もいない。一度結婚されていますが二十年以上前に離婚。ただ娘さんが一人いて、現在東京で暮らしてらっしゃることがわかった…そこで現地の警察から警視庁に協力要請が来たというわけです」
そうやって私にたどり着いたのか。まったく…血縁というのはなかなか切っても切れないものだな。
「実は先ほど、芳江さんがかつて働いておられた横浜のお店にも行ってきました。店はリニューアルしていましたが、一人当時から働いている従業員さんがいまして。その人のお話では、芳江さんはある日突然出勤しなくなったそうです。やはり十年くらい前だったとおっしゃっていました。
男と駆け落ちしたとか、借金取りから夜逃げしたとか…噂は色々あったようですが、結局それ以降芳江さんは姿を見せず、誰も本当のことはわからなかったそうです」
そこでカイカンは口を押さえる。
「ごめんなさい、失礼なことを…」
「構いません、そういう人ですから」
私はきっぱり答えた。失礼なんかじゃない。むしろあの女には当然の評価だ。働いていた店というのもどうせいかがわしい店だろう。
「あの人はいい加減でだらしない生活をしていました。縁を切ってよかったと心から思っています。だから…仮にその遺体があの人でも、私は少しも心が痛みません」
できればそうであってほしいとさえ思ったけど、さすがに警察の前で口にするのは控えた。男に溺れて、金に困って、それでトラブルに巻き込まれて悪い奴らに消されたんならあの女にふさわしい死に方だ。いい気味だ。
哀れむような目をするカイカンに私は胸を張って伝える。
「私にとっての親は、祖父母ですから」
「そうですか…」
刑事は優しく笑む。そしてすっと靴箱の上の写真立てに視線を流した。そこに写っているのは車椅子に座るおばあちゃんとその傍らに立つおじいちゃん。新潟にいた頃、おじいちゃんと一緒におばあちゃんのお見舞いに行った時に病院の庭で私が撮影した写真だ。カイカンは少し黙ってそれを見つめたけど、特に何も言わなかった。
「念のためお伺いしますが、もし必要が生じたらご遺体の確認にご協力いただけますか?」
「それはお断わりします」
私は即答した。例え遺体でもあの女に金輪際関わりたくない。
「了解しました。それでは失礼致しますね、おやすみなさい」
カイカンは特段咎めることもなくまた頭を下げ、女刑事も従う。私は会釈だけ返す。
二人はそのまま黙って外に出ると、最後に女刑事がもう一度一礼して丁寧にドアを閉めた。その音が重たく玄関に響く。

「…最悪」
鍵を回し、チェーンロックを掛けながら私はぼやいた。
本当に最悪だ。あの悪魔がまた私の人生に関わってくるなんて。海に沈んでたんならそのまま魚の餌になればよかったのに。それにしても、北陸で遺体が発見されるなんて一体どういう…。
ダメだダメだ、考えるな。あの女のことで悩むなんて人生の浪費だ。あいつがどこでどうやって死のうが知ったこっちゃない。
私は自分の両頬をピシャリと叩く。そして笑顔を作ると、写真立ての二人に話し掛けた。
「大丈夫、ちゃんと幸せになるから。見守っててね、おじいちゃん、おばあちゃん!」
それからソファに戻って残りのオレンジジュースを一気に飲み干す。また甘酸っぱい味が口の中に広がった。