第二章② ~ムーン~

 マンションの前に停めた車の中で私は待っていた。デリケートなケースだから、と警部は単身で容疑者の部屋に入っていった。いつもは私も同席させるのに…きっとどこかこの事件には警部にとって重要な要素が含まれていたのだろう。
…犯人は視覚障害者である、今朝ソファに寝転んだ瞬間警部はそうひらめいたようだった。真っ暗な部屋でもいつものソファに迷いなく飛び込めるのは、視覚に頼らなくても慣れている空間だから。であればこの事件の犯人も普段から暗闇の廊下や階段に慣れている人間…と思い至ったのだ。名塚や不動産屋に確認してそれに該当するのは211号室の男性だと特定され、今日は一日その裏付けに奔走した。
それにしても皮肉な話だ。通常であれば彼は最も容疑の圏内から遠い場所にいただろう。しかし停電が起こったことで全ての条件が反転し彼は最有力容疑者に躍り出てしまった。
最初警部からこの推理を聞いた時、正直信じられなかった。目の不自由な人間にこんな大それたことができるはずがないと先入観で決め付けてしまったのだ。しかし一つ一つ検証していくと物理的に十分可能だと実感した。偽物の遺書だって、普段から音声ソフトとブラインドタッチでパソコンを操作している人間なら造作なく作れる。走ったり跳んだりだって何の問題もない。
そういえば目の不自由な老人が部屋をピカピカに掃除して生活しているのを見たことがある。目の不自由な紳士が誰よりもきっちり正装してパーティに出席しているのを見たことがある。そう、障害があるからできないわけではないのだ。健常者がそうでない者より優れているとは限らないのだ。
社会では健常者とされている私だってどう考えても欠陥品。それが障害と呼ばれているかどうか、それが認知されているかどうかの違いだけで、人間というのは誰だってどこかに不足がある。不具合がある。そう、みんな同じ。人間なら誰だって幸福を求めるし、誰だって過ちを犯す可能性があるのだ。
だとしたら平等って何だろう。不謹慎って何だろう。優遇って何だろう。弱者って何だろう。
「ハア…」
自分の中に存在した差別意識と偏見を知って思わず溜め息が出る。そしてそんなものに囚われず推理を展開した変人上司に改めて感服した。
これで二通の遺書や首吊りロープの謎も解けた。残る謎は二つ、緑川殺害の動機と801号室の玄関を施錠した方法。これについても警部は既に結論を出していた。しかしそれを確かめるためにはある人物の帰還を待たねばならない。
腕時計を見る…もうじき午後10時。警部は今彼とどんな話をしているのだろう。
私は車を出た。今夜は空も晴れていて満月がよく見える。満月の夜には自殺や殺人の件数が増えるという論文を読んだことがあるが、あの月の光が昨夜二人の男に自殺と殺人を思い立たせたのだろうか。
…そんなわけないか、昨夜は空は曇っていたのだから。月の魔力なんて届くはずがない。
ムーンなんて名乗っておいて滑稽だが、なんだか月が怖くなって私は北の空に視線を移した。
都心から離れているせいか星がよく見える。夜空のスクリーンには夏の大三角が輝いていた。
白鳥座のデネブ、鷲座のアルタイル、そして琴座のベガ…。そこでふと思い出す。琴座…そうだ、あれは琴座にまつわる物語だった。
警部の後ろについて黙々と暗闇の中を歩いた時に感じたあの既視感の正体。幼稚園でギリシャ神話の絵本を読んでもらった時に聞いたあの話だ。そう、オルフェウスとエウリュディケの物語。

アポロンの息子であるオルフェウスは音楽の才に恵まれ、その歌声と琴の音色で周囲を魅了した。やがてエウリュディケという女性と結婚するが、彼女は若くして毒蛇に噛まれて死んでしまう。
慟哭したオルフェウスは地の底の冥界に赴き死者の国の王であるハデスに妻を返してほしいと懇願した。王は了解したが一つだけ条件を出す。無事に地上世界に戻るまで絶対に妻を振り返ってはならないと。
了解したオルフェウスは歩き出し、エウリュディケもその後ろをついていく。長い暗闇を黙々と歩く二人。しかし本当にエウリュディケが後ろをついてきているのかオルフェウスにはわからない。
やがて出口が近付き辺りは明るくなってくる。気が緩んだのか心配したのか、オルフェウスはそこで振り返ってしまう。妻は確かにそこにいたが、次の瞬間彼女は冥界に引き戻される。そしてもう二度と組成のチャンスは与えられず、絶望したオルフェウスもやがて命を落とし、彼の持っていた琴が天に上げられ琴座になった…。

幼稚園の先生はどうしてオルフェウスは振り返ってしまったのかを色々な解釈で話してくれた。でも私はそれよりエウリュディケの気持ちの方が気になったのを子供心に憶えている。
闇の世界に落とされた自分。迎えに来てくれた愛する夫。暗闇でその背中を追いながら彼女は何を考えていたのだろう。

「あの…」
星座を見ながら物思いにふけっていると突然横から声をかけられた。
「もしかして警察の方ですか?」

 彼女を連れて静かに211号室に入る。リビングの方からは警部の声が聞こえていた。
「やはり…奥様と緑川さんの不倫があなたの殺人の動機でしたか」
「ええ。妻は僕にはばれてないつもりでしょうけど、目が悪くたってそのくらいはわかるもんですよ」
「犯行には奥様が持っていた合鍵を使用したわけですね」
「こっそり抜き取っておきました。玄関を施錠しておいた方がより自殺に見せかけられると思って」
これで残りの謎も解けた…いや、そんなことを言っている場合ではない。私は焦って男の妻である彼女を見た。すると彼女は厳しい面持ちでただ黙って頷いた。
「あれ?ちょっと待ってくださいね刑事さん。そこの玄関に…誰かいませんか?」
男が言う。人は一つの感覚を失うと残された感覚が鋭くなるというが、彼もまた気配というものにとても鋭敏らしい。
「誰かいるのですか?」
警部が歩み寄ってくる。私は扉を開けて謝罪した。
「すいません警部、私です。奥様が会いたいとおっしゃったのでお連れしたんです」
警部は「そう」と感情なく言う。すると彼女は私を押しのけるように前に進み出た。
「あなた…」
「お前、明日まで実家じゃなかったのかよ」
「ニュースで…緑川さんが転落死したって知って急いで戻ってきたのよ。もしかしたらあなたと何かあったんじゃないかと思って」
夫婦の会話が始まる。警部と私は少し部屋の隅に移動した。
「どうして俺と何かあるって…」
「私たちの関係に気付いてるんじゃないかと…前から思ってたわ」
「そうか。いやいい、謝らないでくれ。お前は長い間俺に連れ添ってくれた。苦労や我慢が多かっただろ?ストレスがいっぱいあっただろ?浮気されたって俺は文句は言わん」
「ならどうして…。今刑事さんと話してるの聞いたわ。あなたが緑川さんを…」
「それでもどうしても気持ちがおさまらなかったんだ」
「だったら…ねえ、私を殺せばよかったじゃない。裏切ったのは私なのよ」
「できるわけないだろ!」
男が床をドンと踏んだ。
「お前がいないと…俺は生きられないんだぞ」
その言葉を最後に男は歯を食いしばって押し黙る。憤りと悔しさに耐えているようだ。私は小声で警部に「やめさせますか?」と尋ねたが、警部は彼を見つめたまま「いや」と答えた。
「あなた…」
彼女が一歩近付く。男は僅かに口を開いた。
「先週…お前、ここに緑川を連れ込んでただろ。俺が留守した日だ。それで俺が予定より早く帰宅した時、お前何をした?」
妻が絶句する。
「俺が気付かないと思ってわざとここでイチャイチャしてたよなあ?俺と普通に会話しながら横には息を殺した緑川がいてお前の体を触ってた。俺がわかってないとでも思ったか?お前と緑川は…」
「もうやめて!」
言葉を遮って妻が叫んだ。騒然とする室内。まずい、これ以上はもう…そう思った瞬間、私の隣で警部が震える声で言った。
「奥さん…今の話は本当ですか?あなたはそんなことをしたんですか?」
警部がわなわなと妻ににじり寄る。そして次の瞬間、その低い声が破裂した。
「それが…どれだけこの人を傷付けたかわかってるのか!」

…時間が停止する。
拳を握り俯いたままの男。耳を塞いで床に崩れた妻。その傍らに立つ警部。そして…両手を口に当てて固まる私。

こんな警部はこれまで見たことがない。どんなに変人でも、けして余裕を失わない人なのに。どんな時でも加害者の行為を正当化しない人なのに。
『人間として最低なことをしてしまった』…緑川の本物の遺書の文面が脳裏をかすめる。
気付けば私は警部の背中に手を添えていた。