第九章 殺意の残り火

1

 緊急個人面談を終え一通りメモのノートを読み返すと、沖渡は数学準備室を出た。ゆっくりと体を右に向け、その先に延びる廊下を見つめる。そしてロボットのように正確な歩幅で音もなく前進を開始した。
「ここが…書庫」
数学準備室から3メートルほどの所で立ち止まる。そう、そこはまさしく出口遊が発見された書庫のドア。現在は新しいドアがはめられ、室内は警察により現場保存されている。沖渡は微動だにせず何かを考えている。そしてまた静かに歩き出した。その動きには全く無駄がないばかりか生命の躍動さえ感じられない。
「ここが…図書っ質の…後方のドア」
2メートルほどで足を止める。そこは普段は施錠されたままのドア。また微動谷しない沖渡、はたから見ればあまりにも奇妙な行動だろう。
「そして…」
前進すると10メートルほどで図書室の出入り口となっている前方のドア。沖渡はそこでも立ち止まり、ドアを開けて室内を見た。もう中には誰もいない。肌寒い静寂だけがそこにある。
「ここが…図書室」
誰にでもなく言う。その声は無人の図書室に不気味に響いた。そしてドアを閉めると、さらに廊下を前進する。
「そして…司書室」
2メートルほど進んだ所にあるのが司書室のドア。岡本や原田のデスクがある部屋だ。もしさらに廊下を前進すれば屋上と3階に繋がる階段があるのだが…沖渡はそれはせず、今歩いてきた後ろを振り返った。そしてまたオイルの切れたロボットのように固まる。
落ち葉の香りを含んだ秋風がそっと吹いた。グラウンドには部活に励む運動部員たちの声が響く。グラウンドの反対側からはプオーンという路面電車の警笛が遠くに聞こえる。
「それしか…ないな」
数分の沈黙の後、沖渡は言った。そして司書室のドアに向き直る。
「失礼します」
勢い良くドアに手をかける。彼はそのしばらく後、そこで二つの意外な報せを受けることになる。

「あら沖渡先生、生徒たちとの面談は終わりましたの?」
岡本は自分のデスクにいた。入ってきた沖渡に彼女は力ないながらも笑顔を作ったが、原田は黙ったまま窓際でタバコをくゆらせていた。
「ええまあ。小笠原は欠席、板村と渡辺はボイコットでその三人とは話せませんでしたけど」
沖渡も直線的な笑顔を作る。
「最後に岡本先生にお話を伺っておしまいです」
「…あら、何かしら?」
「図書室から書庫へ繋がるあの重たい鉄扉、普段から開いてたんですよね?」
「ええ、いつも開けてましたよ。生徒たちが書庫の本も閲覧できるように」
「では岡本先生、一昨日の大掃除中、どこにおられましたか?」
「ここですよ。原田先生とデスクの整理を」
沖渡が深く頷いた時、原田のダミ声が飛んできた。
「沖渡先生、君は一体何を調べてるんだね?大掃除がどうしたっていうんだ」
原田は不機嫌をあらわにしてデスクの灰皿でタバコをもみ消す。その時、すぐ脇の電話が鳴った。面倒臭そうにそれを取る。
「はい、こちら司書室…はい、原田です。え…?何ですって?」
表情がさらに険しくなった。その様子を見て岡本が尋ねる。
「何かありました?」
英語教師は受話器を口から離し、焦った様子で言った。
「どうやら図書委員の女子が自転車で下校中に…交差点で事故に遭ったらしんです」
「ええっ」
短い悲鳴を上げる国語教師。数学教師も目を丸くした。
「原田先生、それは…」
沖渡が言いかけた時、突然ガラッと勢いよく廊下からのドアが引かれ、酒井教頭が飛び込んできた。息を切らしながら彼は言った。
「お、岡本先生、来てください!実は…」
度重なる予想外の報せに、教師たちは驚愕するばかりだった。

2

 渡辺太郎は部活でグラウンドに出ていた。彼は野球部、只今キャプテン・岡村による地獄の千本ノックの真っ最中だ。
時刻は午後4時半。一応ライトを守っている彼に、ふと込み上げてくる思いがあった。
(今日の面談、結局すっぽかしちゃったけど…よかったのかな。
あの時は勢いで板村と勝手に出ていっちゃったけど、沖渡先生、結構マジだったよな)
彼は自分の軽はずみな行動を後悔し始めていた。
「コラ渡辺、ボヤボヤするな!」
突然のキャプテンの怒鳴り声にはっとして顔を上げる。同時にボールは彼に向かって打たれた…が、手元が狂ったのか明後日の方向へ大きなループを描いて飛んでいった。渡辺はポカンとそれを見送るしかなかった。他の部員たちも呆然としている。
「ハッハッハ!校舎の屋上に上がったな。いよっ岡村、超特大ホームランだ!」
野球部顧問の物理教師・藤川だけが一人で大笑い。岡村は再び声を張り上げて叫んだ。
「何してんだ渡辺、取りに行ってこい!」
説教に失敗した時ほどかっこ悪いことはない。ここは逆らっても火に油を注ぐだけと判断し、渡辺は素直にボールを取りに向かった。

 渡辺は校舎の階段を上っていく。そして4階まで来た時、ちょっと図書室の方に目をやった。
( さすがにもう面談は終わったよな…。そういえば、板村はどうしたんだろう?あれから姿を見なかったような…)
面談をボイコットして板村と図書室を出た時のことを思い出す。
(廊下を少し歩いた所であいつは「トイレに寄っていくから先に教室へ戻れ」と言った。戻るクラスも違うから素直にそうしたけど、今から思えばあの時のあいつの瞳は…何か異様な光を放っていたような…。まさか、図書室で起きているっていう事件の犯人は…?)
頭を左右にブンブンと振ってその考えを断ち切る。
(何を考えてんだ、俺は!あの時板村は無関係な自分が呼び出されたことに怒ってただけだ。それで厳しい目つきになってただけだ。その後であいつを見かけなかったのはただの偶然だろう、もうとっくに下校してるはずだ!)
渡辺はそう考え直すとさっさと屋上へと上がった。しかし何か嫌な予感がつきまとうのを振り払えないでいる自分にも気付いていた。
屋上に出る。ここは立入禁止ではないが、雨風にさらされてかなり汚い。そのため福場のような一部の愛好家を除いて出入りする生徒はほとんどいない。渡辺にとってもここに来るのは本当に久しぶりだった。
無機質な貯水タンクが並ぶだけの殺風景な構図。景色は大きな太陽の洗礼を受けて茜色に染まっている。その見事な夕焼けにしばし心を奪われそうになるが、吹きつける風は地上よりも冷たく、もう冬が近いことを告げていた。
「ええと、キャプテンの場外ホームランは…」
独り言を言いながらボールを探して歩く。…とその時、彼の目は明らかに異様な物体を捕えた。
(何だあれ…?屋上の隅の方に…)
もう数歩近付いてみる。
(…人だ、人が倒れてる!)
それは確かに横になっている人間だった。学生服から男子であることがわかる。
(昼寝か?こんな所で?)
込み上げる不安を押さえきれず、足は自然とその人間に駆け寄る。
(違う昼寝じゃない。体勢も不自然だ!あれは…)
渡辺は自分の目を疑うという経験を生まれて初めてすることとなった。

…赤。それは夕焼けよりもずっと濃い赤。
そこには、額を血に染めた板村朋之が身をよじるように横たわっていた。

3

 福場が一人暮らしの部屋に帰ると電話がけたたましく鳴っていた。全員の面談が終わるのを見届けてからすぐに学校を出たのだが、帰りに公園のベンチに座りそこで考えごとをしていたため時刻はすでに午後6時を回っていた。こだわりのトレンチコートを脱ぎ、右手で学ランのボタンを外しながら福場は左手で受話器を取る。
「はい福場です。あ、先生ですか」
受話器の向こうから抑揚に乏しい沖渡の語りが聞こえてきた。しかしその声はかなり深刻な響きを帯びている。
「え…水田さんの…?はい、自転車事故…」
新たなる悲劇の報告が届いたのだ。ボタンにかけられた福場の指が凍りつく。
「え?い、板村くんが…?な、殴られて屋上に…。そ、そんな」
もはや理解不能。心臓が激しく脈打ち、そのポンプに押されるように全身から熱い汗が噴き出してくる。
(また『大工』か?
いや、『大工』は出口?…違うのか?
もう、いやだ、いやだ、いやだ…。もうこれ以上、何も、誰も傷つけないでくれ…!やめて、やめて…!)
「福場、聞いてるのか?」
沖渡の力強い声が届く。福場は腰が砕けたようにその場に座り込んでしまっていた。
「は、はい、聞いてます」
右手を長い前髪に絡ませながら、脈を落ち着けようと必死に試みる。
「動揺するのはわかる。本当に…信じられない事態だからな」
「先生、何が…どうなってるんですか?僕にはもう…」
福場の声は自分でも聞き取れないほどに震えている。
「前にも言ったが疑心暗鬼にはなるなよ、福場。大丈夫だ、全て説明がつく出来事たちなんだ。恐怖と突然性が私たちの冷静な思考回路を遮断していたんだよ」
「説明がつくって…」
「今日の面談の時、頼んでおいたことがあっただろう?あれを…聞かせてくれ」
「え?あ、ああ、はい。たいしたことは無いんですが…」
沖渡の声に導かれて少し落ち着きを取り戻してきた福場は、彼にその情報を伝えた。

 一通り聞き終わって、沖渡は静かに言った。
「…ありがとう。本当に良くやってくれたよ、福場」
その声は確信に満ちている。それは今まで授業でもそれ以外でも一度も聞いたことのない沖渡の声だった。
「先生、あの…」
その問いかけが届く前にガチャンと電話は切れた。

ツーッ、ツーッ、ツーッ…。