エピローグ

●ムーン

 徳岡かえでは晃の犯人隠匿、そして二十年前の陽一郎殺害を含め全ての罪を認めた。屋敷の使用人たちと料亭の従業員たちに最後の申し送りをしてから自分で河原町署に出向くとのことで、警部と私はおいとますることにした。被疑者を逮捕せずに放置することに一抹の不安も覚えたが、彼女が思い余ったりしないということは私にも何故か確信できた。
 和室を出るまでの間、合わせて腰を上げた八尋そよかは何も話さなかったが…。
「あの」
 ふすまを閉じる直前に一つだけ女当主へ言葉を投げた。
「うちとまた会えてよかった?」
 沈黙。また遠くで鹿威しが優しく鳴る。
「…そうやなあ」
 やがて彼女は静かに振り返り、笑むことも儚むこともなく、ただまっすぐに娘を見て答えた。
「まあ、嫌やなかったわ」

 屋敷を出た頃には、若きテレビディレクターはすっかりいつもの調子に戻っていた。鼻唄混じりにスキップする彼女を筆頭に、夕暮れの小道を三人で歩く。
「はーいカイカン先生、質問よろしいどすか?」
 ふいに立ち止まって明るく挙手するそよか。
「私は先生じゃないですよ」
「まあええから。ねえ、なんでうちがあの人の娘やって思うたんですか? そんなに顔が似てますやろか」
「フフフ」
 警部も不気味に笑って足を止める。私もそれに合わせた。
「顔もですが、一番は耳です」
「耳? どういう意味やのん?」
「ヨシコママのスナックでカウンターに突っ伏して寝てらっしゃった時、初めて八尋さんの耳の形を見て…かえで先生に似てるって思ったんです。前にビンさんから聞きました。血液型やDNAの鑑定なんてなかった時代、耳の形は親子を証明する重要な根拠だったそうですよ」
「そうなんや。それであの時、うちの耳をじっと見てはったんですね。てっきりカイカンはんは耳フェチなんやと思うてました」
「それは大いなる誤解です」
 少し慌てるバリトンボイスにハスキーボイスはさらに尋ねた。
「耳の形が決定打やったんですか?」
「他にもあります。例えば名前。『かえで』を漢字で書くと木へんに風。『そよか』も風を感じるお名前ですから、もしかしたら先生は養子に出す娘の名前にせめて自分とのつながりを託したのかなって」
 彼女は口を開けて固まる。
「強いて決定打を挙げるなら、それは柿です。果物の柿。ムーンから聞きました。二人でお屋敷を訪ねた時、先生が柿を振る舞ってくれて、それを食べたあなたが号泣したって。
 使用人も大勢いる徳岡家の当主がわざわざ自分で柿を剥いて出したのは娘への母心。きっと八尋さんも無意識のレベルでそれを感じ取って涙が出たんだと思いました」
「ロマンチストやなあ、世の中みんなカイカンはんみたいに考えられたら平和やと思いますけど」
「ちょっとこじつけが過ぎますかね」
 彼女は少し首を傾げてから優しく笑む。
「まあええわ、今回はそのこじつけを受け入れることにしときます。ついでにカイカンはんとうちの出会いも運命にこじつけさせてもらいます。そういうたら推理の時はうちのことを『そよかさん』って呼んでくれはってましたよね、『八尋さん』やなしに」
「あれは説明の都合上です。八尋さんが八尋家に養子に入って…とか言うとややこしいですから」
「そんなこと言わんと、またそよかさんって呼んでほしいわあ。これから一緒に番組を作る運命やないですか、ほら、ハグしましょ。鎖国女のムーンさんは邪魔やからどっか行ってくだはれ」
 カッチーン! また胸を強調して抱き着くジェスチャーをする性悪女。久しぶりに怒りの第7波が押し寄せる。
「いい加減にしてください。強制猥褻罪で逮捕しますよ。それに警部の取材はお断りですから」
「京都までつき合わせはってそれはあんまりやないですか」
「あなたが勝手について来たんでしょ!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。ここは講習の面前だよ。大声出してたら恥ずかしいから」
「そんな恥ずかしい格好の警部に言われたくありません!」
「ナルホド。それもそうか、フフフ」
 変人上司は笑ってまたおしゃぶり昆布をくわえる。
「あ、カイカンはん、昆布食べてはる! やっぱり昆布には何かルーツがあるんやないですか?それをインタビューさせてください」
「いえ、それは…」
 困った顔の警部に強引テレビディレクターは珍しく勢いを緩めた。
「まあ…ええわ。ルーツで説明できるほど、人生は簡単やないですもんね」
 くるりとスカートの裾を翻すとまた彼女が鼻唄で歩き出す。警部と私も続いた。そのまましばらくは無言の行進。淡い秋茜が歴史の街と彼女の頬をほのかに染めている。
 今回の事件では彼女自身自らのルーツを多く知ることとなった。自分の命はどこから流れてきたものなのか、人はそれを知ることで立ち止まってしまうこともある。でもきっと、八尋そよかなら大丈夫だろう。悔しいがそんな気はする。
 遠くでお寺の鐘が鳴った。さすがに法隆寺ではないだろうが、私も母親の剥いてくれた柿が食べたくなってきた。誰かが剥いてくれた果物は優しさのかたまりだから。
「あーあ」
 彼女が大きく伸びをする。
「カイカンはんが取材NGやったら年明けの特番はどないしたらええんやろ。もうプロデューサーに枠はもろうとるから何かせな大目玉や。今からネットサーフィンしてもええネタが見つかるかなあ。これはネット遠洋漁業くらいせなあかんかも。
 それでもあかんかったらムーンさん、責任取って出てください、お色気シーンもありで」
「だったら君たち二人で湯けむり温泉レポートでもしたら?」
「射殺していいですか?」
「冗談冗談、ムーン、そんな殺し屋みたいな目で睨まないで」
「うわあ、ほんまに悪魔の顔や。天使のうちとは大違いやなあ」
「どこが天使なんですか!」
 そんな馬鹿なことを言い合いながら私は頭の中でこれからのことを考える。晃とかえでが罪を認めたとなれば、緘黙を貫いている古高もきっと真実を語るだろう。彼はずっと罪滅ぼしの気持ちで徳岡家のために生きてきた。そして和美も。
 今ならはっきりわかる。私が施設で面会した時に彼女が願っていた孫たちの幸せ。その『孫たち』という言葉には、そよかのことも含まれていたのだと。

 やがて最寄りのバス停に到着。河原町署へ向かう警部と私に、そよかはそこで別れを告げた。
「ほなまた、東京でお会いしましょう。うちはせっかくやからお父さんとお母さんに顔出してきまーす」
 無邪気な笑顔で大きく手を振ると、小柄な彼女は夕焼けの京都を駆けていった。

 徳岡寧々の意識が戻ったのはそれから三日後だった。中里夫妻とそよか、そして蛍ちゃんが見守る中、彼女はまるで白雪姫が目覚めるかのように穏やかに覚醒したという。彼女は愛する娘をまだ力の入らない両手で、それでも力の限りに抱きしめたのだった。
 そしてさらに数日を置き、気の早い店ではクリスマス装飾の準備を始めた頃にようやく警察の面会の許可も出た。まだ頭に包帯は巻いていたものの、一般の個室の窓辺のベッドで寧々は穏やかに警部と私の聴取に応じてくれた。
「全て間違いありません」
 おおよそのことはそよかから聞いていたらしい。愛する夫に命を狙われたことに大きなショックを受けながらも、その胸中には晃を案ずる気持ちがまさっているように見えた。
「あの人はどれくらいの罪になりますか?」
 こちらの質問が終わったところで彼女はそう尋ねた。
「被害者は二人とも無事だったとはいえ、やはり実刑は覚悟せねばならないと思います」
 警部が感情を込めずに答える。
「でも晃さんが間違ったことをしたのは…」
「わかっています。彼が勘違いしてしまったのには同情すべき事情も大きいです」
「あたしもいけないんです。晃さんの血液型と蛍の血液型が合わないことには気付いていたのに…そのことには触れないようにしてました。それを指摘してしまったら何かが壊れてしまいそうで、怖くて」
 そうか、彼女はこのことも胸に押し込めて一人で悩んでいたのだ。
「でも蛍は間違いなく晃さんとあたしの娘だから、それだけを信じようとしてました。ちゃんと向き合ってなかったのはあたしも同じです。ですから刑事さん、あの人だけが悪いわけじゃないんです」
「そう…ですね」
 数秒を挟んで低い声は返す。
「あなたの証言次第では情状酌量が認められるかもしれません」
「証言します」
 彼女は間髪入れずに答えた。向けられる真剣な眼差し。ベッドの横の棚には親子三人が写った写真が飾られている。そこに並ぶ笑顔たちを彼女は取り戻そうとしているのだ。
「あなたはそれでよろしいんですか?」
 穢れた心の私はつい尋ねた。彼女は迷いなく頷く。
「そよかと同じ気持ちです。あたしも必ずハッピーエンドにしたいので。元気カフェオレを飲んで頑張ります」
 膝が震えた。その微笑みには確かな決意があった。
 徳岡家を翻弄した緋色の呪縛、今彼女はそれをかいくぐり、また歩き出そうとしている。恨むのではなく許すという情念によって。
「了解です」
 警部も微笑む。
「あなたの証言が必要な時はまた来ますから」
そしてそのまま退室。私も一礼してそれに続いた。廊下を少し進んだ所で幼い女の子を抱いた中里夫妻とすれ違う。会釈だけで通り過ぎたが、私はふと振り返る。幼稚園の制服姿のその女の子は祖父の手からジャンプで降りると、先ほどの病室へと元気に駆け込んでいった。
「ママ、来たよ!」

 ハッピーエンド…この仕事では絶対に有り得ないことだと私は思っていた。まだまだいくつもの障壁を乗り越えねばならないが、もしかしたらこの家族だけはそこにたどり着くことができるのかもしれない。
「ムーン、どうしたんだい?」
 先を歩く変人上司が怪訝な顔。
「いえ、何でもありません」
 小走りで追いつく。
 たまには私も信じてみようか、ハッピーエンドを。蛍ちゃんの幼い声に混じって、その幸福の序曲が少しだけ聴こえた気がしたから。

「こっちこっち! もう始まってるよ」
 警部と私がその足で警視庁内の剣道場を訪れると、入り口では柔道着姿の美佳子が手招きしていた。
「やあ氏家巡査。今回はお世話になったね」
「こんにちは警部さん。また何かあったら言ってください」
「ありがとね美佳子。そんな格好してるってことは稽古中?」
 彼女の柔道は中学時代からの筋金入りだ。当然警視庁の柔道部でもその名をはせている。
「さっきまでね。でも今はそんな場合じゃないの。ほら早く、すっごい試合なんだから」
 友人に服の袖を引っ張られて板張りの剣道場に入るとそこは熱気に満ちていた。人ごみの向こうからは甲高い声と竹刀が交わる音が聞こえてくる。かき分けて進むと防具を着けた二人が間合いを計りながらにじり寄っているのが見える。
 それにしてもたくさんの人だ。ギャラリーだけでなく、最前列にはテレビカメラや照明を抱えた者の姿もある。
「小手!」「面!」
 二人の剣士は叫び合って踏み込むとまた竹刀を交える。途端に周囲の歓声も沸き立った。
「面、一本!」
 同時に技が決まったように見えたが、今のは面が入ったらしい。両者礼をして後ろに下がっていく。
「すごい迫力ね」
 私が言うと隣で美佳子も腰に片手を当てる。
「まさに気迫と気迫の真剣勝負、しびれるわ」
「本当に幕末の京都の戦いみたいだね」
 気付けば警部もすぐそばに来ていた。どうやら試合はそこで一度休憩らしい。剣士のうち背の低い方がこちらに気付いたようで、大きく手を振って駆けてきた。
「カイカンはん、応援しに来てくれはったんですか?」
 防具を脱ぎながら尋ねるハスキーボイス。やがてそこに八尋そよかの紅潮した顔が現れる。
「見てくれはりました? うちの華麗な一本」
「ええ、今ちょうど。いやあ、すごいですね。さすがは元剣道部の主将」
「本当にいい筋をしてますよ」
 彼女の後ろから対戦相手の剣士もやってくる。防具を脱ぐとそこには江里口の顔。相変わらず瞳が無駄に輝いている。
「やあエリー、惜しかったね」
「その呼び方はやめてくれって言ってるだろ。それに負けてるわけじゃない。少々苦戦はしてますが、今の所3対3、先に5本取った方が勝ちですから」
「絶対うちが勝ちますよ、見ててください!」
 彼女はいつかのようにまた竹刀を構える。隣で江里口が溜め息。
「まったく、どうして僕がこんなことしなくちゃいけないんですか」
「あら、とってもかっこよいですわよ、警視さん。交通課からもファンがたくさん見に来てますし」
 美佳子が返す。確かに制服姿の若い婦警もギャラリーに混じって黄色い声を上げている。照れ隠しなのか本当に興味がないのか、江里口はぷいとそっぽを向いた。
「今回は本当に色々ありがとう、エリー。おかげで京都でもスムーズに捜査ができた」
「警視庁きっての恥さらしが上洛するわけだからね、そりゃあ気を回しますよ。では八尋さん、五分休憩したらまた。ああ、変な同期を持つと苦労する」
 ブツクサ言いながら彼はその場を離れた。
 そう、これが今回のテレビ企画。題して『警視庁剣士VSテレビ局剣士、驚異の斬り込み取材!』。警視庁内の剣道部を特集したもので、試合中は防具で隠れているから顔もわかりにくく、警察官たちが剣道に勤しむ姿が放映されるのは警視庁にとってもイメージアップ、なおかつ彼女が望んでいたこれまでにない切り口の警察取材ということでこの案になったのだ。
「昨日寧々に会ってきました。もうすっごい元気です」
「私とムーンも今面会してきました。強い人ですね、彼女は」
「うちの親友やもん。はようまた…晃さんにも会えたらええですね。そしたらまたうちが二人の仲を取り持たんと。ほんま世話の焼ける話や」
「八尋さーん、ちょっといいですか」
 そこでカメラマンが彼女を呼ぶ。
「はーい、今行きまーす。ほなカイカンはん、それとおまけにムーンさん、うちの勇姿をよう見とってくださいね。あ、もちろんテレビのオンエアーも絶対見てください! すみれちゃんとこのみちゃんも見てくれるってメールくれました!」
 そういえば北海道の女カイカンも番組が放映されたらぜひ見たいと言っていた。今回のお礼も兼ねて、録画して送らねば。
 そんなことを思っていると、立ち去りかけたそよかがくるりと振り返った。
「ああそれと、今回はこの企画に甘んじましたけど、カイカンはんの取材をあきらめたわけやないですから。そのうちまたアタックします、京女はこのくらいじゃへこたれまへんえ!」
 そのままカメラマンの所へ行ってしまう彼女。低い声は「やれやれ」と漏らす。隣で私も肩をすくめた。

 間もなく試合も再開。再び防具をまとって向き合う二人の剣士。間合いを詰めて激しい攻防がくり広げられる。沸き立つ歓声。気付けばさらにギャラリーも増えて剣道場の熱気は最高潮に達していた。

●徳岡かえで

 取調室のドアが開いて松平が入ってくる。
「えらい長丁場お疲れ様でした。本日で聴取はおしまいです、かえでさん」
「こちらこそ、お手数をおかけしました」
 私は椅子に腰掛けたまま一礼。
「徳岡寧々さんの容態、ますますええらしいですよ。年内には退院できそうやそうです」
「有難いことどす」
「それに、晃さんをかばう証言をたくさんしてはるようで。伊藤さんもそうです。晃さんに自首してもらうためにわざと記憶喪失の振りなんかして。ほんまおたくの息子さんは愛されとるお人ですなあ」
「みなさんにようしてもろうて」
 枯れるくらい泣いたはずなのに、また涙が滲みそうになる。
「古高さんも和美さんも、悪いのは自分らやってくり返し減刑を嘆願してはります。徳岡家の名声はどうなってもええから裁判で証言させてくれって言うてはるみたいですよ。被害者のお二人も晃さんをかばってはるし、これはすごいことです」
 私は小さく息を吸う。
 何を守ってきたのか。何を守れなかったのか。
 何が真実だったのか。何が偽りだったのか。
 もはやわからなくてもいいだろう。連綿と続く時代の流れの中では徳岡家三百年の歴史さえもほんのささいな濁流に過ぎない。さらに人一人の存在など、川面に浮かぶひとひらの落葉にも満たないものだ。あがいて流れに逆らおうが、甘んじて流れに身を任せようが、たどり着く岸部はさほど変わりはしない。
 それでも子供たちには未来に向かって生きてほしい。あたたかい日光のように、やわらかいそよ風のように、たくましく、そして自由に。
「ああ、そうやそうや」
 思い出したように言う松平。
「これ、差し入れやそうです」
 ポケットから小さな袋を手渡される。中を見て私は送り主をすぐに察した。
「これ、一本吸ってもよろしおすか?」
「取調室は禁煙なんですけど…そいつについては決まりがないからええでしょう」
「おおきに」
 私には息子と娘以外にもたくさんの子供たちがいる。かつて彼らに諭した言葉を今は自分のために噛みしめなければ。
 あの頃私は教卓の隅にこれを山積みし、クラスで何か善いことをした生徒にはこれを一本ずつあげていた。困っている同級生を助けた子、勉強や運動を頑張った子、人知れず廊下のゴミを拾っていた子、つらい時でも笑っていた子…その気持ちを忘れてほしくなくて。子供を物で釣るのかと一部の保護者からはクレームも出たが、最初はご褒美目的でもいつしかそれが自然な習慣になればいいと私は願った。それが経験も知識もないダメ教師の、精一杯の教育アイデアだった。
「一日一善、昆布一本」
 小さくその言葉を口にする。
「え、何か言わはりました?」
 怪訝な松平に私はかぶりを振る。
「いえ、何でもおまへん」
 そして袋から取り出したおしゃぶり昆布を、そっと口にくわえた。

-了-