第七章 眠れる森のママ

●徳岡かえで

 11月8日、自室の窓から見上げた秋空は今日も虚しくなるくらいの快晴だった。
 午前10時を回る。夕べ電話してきた東京の刑事は時間どおりにやってきた。その名はカイカン…異様な名前だ。岸本さんに案内させていつもの和室へ通し、私は少し時間を置いてからそのふすまを引く。てっきり座布団に座っているかと思ったが、ボロボロのコートにハットをまとった男は部屋の中央に庭を向いて佇んでいた。私の脈がわずかに速まるのがわかる。
「あの」
 そんな無防備な声を投げてしまう。すると男はゆっくりと振り返った。異様なのは名前と服装だけではない、その長い前髪は右目を覆い隠している。あまりにも不気味な刑事…のはずなのだが、そこで感情がふと立ち止まる。どこかで知っている顔のような気がしたのだ。
 「初めまして」の言葉を反射的に飲み込んで私は無言の視線を送る。彼は髪に隠れていない左目でじっとこちらを見ると、かぶっていたハットを脱いで深く一礼した。
「ご無沙汰しています、かえで先生」
 思考が追い付かない。かえで…先生? そんなふうに呼ばれたのは何十年ぶりだろう。
「憶えてませんか? 広島のツタカズラ小学校で先生が担任してらっしゃった6年1組の…」
 そう聞いた瞬間、目の前の彼の背景にあの小学校の映像が鮮やかに蘇った。緑色の蔦が外壁を覆った古い木造の校舎、時間割表や標語が壁に所狭しと貼られた教室、押せば軋む年代物の教卓、椅子、机、黒板、そこに集ったたくさんの子供たち。私が教師として生きることができたわずかな時間の永遠の記憶。そして子供たちの中の一人の姿が今目の前にいる刑事と重なる。
「もしかして」
 私はその生徒の名を呼んだ。彼は嬉しそうに頷く。
「はい、そうです。いやあ、憶えててくださったんですね。本当にお久しぶりです、かえで先生」
 憶えている、特にこの子のことは。授業中に不思議な質問をたくさんしてきた男の子…昨日もたまたま話題に出したばかりだ。私はふっと頬と肩に込めていた力を抜く。
「刑事さんがお見えになるっていうからどんな人かと思うたら…君やったのね。ああ驚いた。ほんま懐かしいわあ。立ち話もなんやし座りましょうか。はい、着席」
「はい!」
 私がおどけて手をパンと叩くと、彼もあの頃の様に返事をした。

 彼が座布団に座り、その体面の座布団に私も正座したところで岸本さんが二人分のお茶を運んでくる。彼女が去ってから私は改めて切り出した。
「久しぶり過ぎて変な気持ちやけど、どう、元気にしてたん?」
「はい。先生もお元気そうで」
「すっかりおばさん…いやもう孫もおるからおばあちゃんね。やんなっちゃうわ。でも…君が東京で刑事さんになっとるなんて思わんかった。私は広島を離れてもうてから、同窓会にも一度も顔出してへんから。そう言うたら、今日来る刑事の名前はカイカンって聞いとったけど、あれは何やのん? 昨日来た女の刑事さんもムーンとか言うてはったし」
「すいません、どっちも仕事上のニックネームです。ムーンは僕の部下で…先に京都へ行ってもらったんです。あ、ちなみにこの格好も制服みたいなもんでして」
「そうなんや、大変やね」
 そう答えつつも、きっとニックネームも服装も半分は自分が好きでやってるんだろうなと私は思う。あの頃もこの子は集団行動が苦手だった。空気を読めないというわけではない、ちゃんとわかっていてあえて人と違うことをしようとする天邪鬼な所があったから。
 ふいに穏やかな気持ちが胸を満たす。鹿威しの音が鳴り、彼に合わせて庭に目をやるともみじが一枚だけ風に散った。
「ほんまに懐かしいわあ」
 小さく言って元教師はお茶を一口、教え子もそれに従う。そしてしばらくはあの小学校のことや子供たちの近況について会話に花が咲いた。
「そう、彼はやっぱりお父さんの焼き鳥屋さんを継いだんやね。ずっとそう言うてたもんなあ」
「そうらしいですよ、中学を出たらすぐに修行して。他にも家業を継いでる子はたくさんいます」
「ほなあのお茶屋さんの娘さんも? きっと別嬪さんになっとるんやろうなあ」
 思い出の引き出しから愛しい名前がいくつも出てくる。その度に胸の奥にあたたかいものが込み上げた。
 教育者と名乗るにはおこがましいほどに短い私の教師人生。担任を務めたクラスも数えるほど。だからこそあの頃のことはずっと色褪せないでいる。子供たちの卒業を見届けられずに終わったことをずっとずっと悔やんでいる。
「ドッジボールが職員室に飛び込んじゃった時は大騒ぎでしたよね」
「ほんまよ、あの時私がどんだけ教頭先生にどやされたか。そやからもっと遠くでやらなあかんって言うたのに」
「みんな、かえで先生にかっこいいとこを見せたかったんですよ。運動会の時だって…」
 今日、教え子の一人がこうしてちゃんと生きていて、屈託なく笑っている姿を見られるのは心から嬉しい。願わくば、これがただの再会なら本当に幸せだったのに。
「学芸会の劇の時、セットが崩れそうになって慌てて先生が舞台に飛び出してきましたよね。みんな大笑いで」
「あれは恥ずかしかったなあ。ほんまに君は色んなことをよう憶えてはるわ」
 しかしわかっている。彼は思い出話をしに来たわけではない。彼は警視庁の刑事、晃のことを聞きに来たのだ。油断してはいけない、警戒しなくてはならない。特に…特にこの子は。
「とっても楽しいクラスだったから、先生が2学期でやめることになった時は本当に残念でした」
 笑みを弱めて声変わりですっかり低くなった声が話す。
「先生のいる卒業式で『仰げば尊し』を歌いたかったですよ」
「先生も…君たちが中学へ行く姿を見たかったわ」
 思わず本心がこぼれる。
「ごめんなさいね、自分で無責任に辞めたくせに何を言ってんだって思うかもしれへんけど、できれば3学期も担任を続けたかったの。そやけど…」
「わかってます、ご家庭の事情ですもんね。いいんです、別に怒ってませんよ。かえで先生が担任で僕たちは本当に楽しかったですから」
 突然の退職には当時保護者たちからも小学校にクレームが寄せられたと聞く。きっと私に関する噂のいくつかは子供たちの耳にも入ってしまっただろう。
 短い沈黙。また鹿威しが遠くで鳴る。
「ご結婚…されたんですよね」
 湯呑みを口から離して彼は言った。
「結婚するために先生を辞めたんですよね」
「やっぱり…知ってたんやね。そう、ここに嫁ぐために京都へ帰ったんどす」
 素直に認めた。私は陽一郎さんと結婚するために教師を辞めた、それは紛れもない事実だ。
「確かにびっくりしましたよ」
「ほんま、ごめんなさい。突然の退職になってもうて」
「いえいえ、びっくりしたのは突然だったことよりお相手です。クラスのみんなは、てっきりかえで先生は槇尾先生と結婚すると思ってたもんで」
 思わぬ名前が出て私は面食らう。本当に…子供の目というのは容赦がない。
「憶えてますか、美術の槇尾先生。若い男の先生で、かえで先生と仲良しでしたよね。噂だとお家にも遊びに行ってらしたとか」
「もう、何を言うてんの」
 私はあえて明るく返した。
「憶えとりますけど、槇尾先生とはそんなんやあらしまへん。堪忍してや。同世代やから仲良うしとっただけどす」
「今、槇尾先生はどうされてるんですか? 僕たちが卒業した春に故郷の北海道へ戻られたって聞きましたけど」
「知りまへんえ。退職してから一切連絡も取ってへんし…でもまあ絵を描くんが大好きな人やったから、どっかで美術の先生を続けてはるんやないかなあ。
 コラ、なんやその顔は。先生のことからかわんでええから君はどうなん? もうええ歳やろ。結婚してへんの?」
「そっち方面は全く才能がないようで」
「昨日来た部下の女刑事さんなんてええやん、すっごい別嬪さんやったし、しっかりしてはったし」
「勘弁してください。そんなことになったら大問題ですよ」
「別に大問題やないやろ。フフフ、先生はちゃんとわかっとりますよ。小学生の時、君が誰を好いとったか。隣の席の…」
「そんな話はいいですから」
 赤くなって彼はまた湯呑みを口に運んだ。そしてお茶が全身に染み渡るのを感じるようにゆっくり深呼吸。
「いやあ、それにしてもまさか先生が嫁がれたのがこんなすごいお家だなんて。徳岡屋っていったら京都では老舗の料亭らしいじゃないですか。廊下に鎧兜が飾ってあるお屋敷なんて初めて来ましたよ。ムーンから聞きました、あれは応仁の乱で使われた鎧なんですよね」
「そうどす。じゃあその応仁の乱が起きたのは何年?」
「人寄るなの1467年、確かそこから十年くらい続いたって授業でおっしゃってましたよね」
「大正解! すごいすごい」
 たいした記憶力だ。あの頃から思っていた。この子は誰がいつどんな発言をしたかを正確に記憶している。だから誰かが前と違うことを言っているとすぐに気付いてしまう。それを指摘して友達から孤立しているような場面もあった。人間は嘘をつく生き物。本当はそれに気付かない方が幸せなのかもしれない。
「ありがとうございます。でもすごいのはかえで先生ですよ。こんな由緒あるお家の当主を務めていらっしゃるなんて」
「当主なんて名ばかりどす。主人がはように亡くなったもんやから」
「あの方がご主人ですか?」
 彼は視線を正面の壁の上方に向けた。私もそれを追って振り返る。そこには徳岡家歴代当主の肖像画が並び、亡き夫はその一番右に飾られている。
「そう、陽一郎さんや」
「優しそうな方ですね。事故でお亡くなりになったと伺いましたが…交通事故ですか?」
「いいえ。お酒に酔って転んでもうて…頭をぶつけはったの」
 あの雨の夜のことを思い出し、落ち着きかけた私の脈がまた少し速まる。
「そうでしたか。いつ頃のことですか?」
「そうね、もう二十年になるわ」
 私は視線を教え子に戻すが、彼はまだ肖像画を見ていた。
「やがては先生の絵もあそこに飾られるんですか?」
「いえいえ、私はあくまで代理の当主やから。徳岡家の正式な当主は代々男って決まってはるし。それに絵のモデルになるなんて懲り懲りやわ、何時間もじっとしとかなあかんなんて耐えられへん」
「前にも絵のモデルの経験があるんですか?」
 一瞬脈がドキリと揺れる。私は慌てて話題を転換した。
「あらへんよ、モデルなんて柄やないわ。まあとにかく私は臨時の代理当主、息子が後を継ぐまでつないどるだけどす」
「そうですか」
 その瞬間、教え子の声が重たくなった。彼はそっと湯呑みを置くと、代わりに先ほど脱いだハットを取って頭にかぶる。
「その息子さんについてですが」
 気付けばその顔に笑みは寸分もなくなっていた。
「かえで先生、とても大切な質問をします」
 脈がじわじわ速くなるのがわかる。落ち着け、焦るな!
「晃さんは今このお屋敷の中にいらっしゃいますか?」
 嫌疑を浮かべた左目がじっと見つめてくる。私も湯呑みを置くと、無理に笑って真っ向からそれに対峙した。
「おらしまへんよ。何を言うてはるの」
「本当ですか? 晃さんが寧々さんの事件の翌日に失踪したことは昨日ムーンから聞いておられますよね」
「そやから昨日その別嬪刑事さんにお伝えしたわ。晃をかくもうたりしてへんって。確かに親は子供をかばうもんやけど、子供らがほんまに悪い時は私が警察に突き出しますって」
「晃さんは悪いことをしていないということですか。先生、単刀直入に伺います。東京で寧々さんを、そして京都で伊藤さんを襲ったのは晃さんではないんですか?」
 微塵も視線を逸らさずに問う彼。私も表情を崩さない。
「当然どす。昨日、府警の松平っちゅう刑事さんから連絡もらいました…うちの使用人の古高を逮捕したって。もちろんそれも悲しいことやけど、ほなら犯人は古高やないの?」
「確かに古高さんはそのように自供されています。自分が二人を襲ったと」
「それやったら晃を疑うことないやないの」
「ではどうして晃さんは失踪されたんでしょう」
「失踪、失踪って人聞きの悪い。別に犯人やから逃げとるんとちゃう、ちょっと連絡がつかへんだけや。寧々さんがあんなことになってもうて、ショック受けて、しばらく一人になりたいだけやと思います」
「昨日ムーンにもそうおっしゃったそうですね。男には一人きりになりたい時がある、亡くなったご主人もそうだったと」
 彼はまた肖像画を一瞥。
「陽一郎さんはどうして一人になりたくなったんですか?」
「今そんなん関係ないやろ!」
 つい語気を荒げてしまう。それでも彼はひるまない。
「かえで先生、先生が教育のプロであられたように、今僕は捜査のプロなんです。もちろんプロだから全て正しい、全てわかっているなんて言うつもりはありません。ただプロとして、質問一つ、説明一つにも責任を負って話しているつもりです」
 冷静な語り口だった。私も自分をそっといさめる。落ち着かなければ。そう、落ち着いて対処せねば。
「晃さんには寧々さんと伊藤さんを襲った疑いがあります。先生、これはプロとしての見解です。無責任な推測を語っているわけでも、興味本位で先生に質問しているわけでもありません。今は警察官として…ここにお邪魔しています」
「…ごめんなさい」
 思わずそう答えた。
「そうやね、ようわかったわ。怒ってごめんなさい」
「それはいいんです。先生は母親なんですから当然の反応です」
「ちゃんとお話を聞くわ。ただ死んだ主人が一人で引きこもった理由やったらほんまにようわからんのよ。まあ料亭の経営は楽やないから、それで悩んではったんやないかなと思うてますけど」
「そうですか。ありがとうございます」
「他に刑事さんは何が知りたいんどすか?」
「一番は晃さんの所在です。彼が事件に無関係でも、ちゃんと出てきて話を聞かせてほしい。この家にいるんじゃないかと考えたのは、警察の調べで晃さんが京都へ向かったらしいことがわかっているからです」
「仮に私がここで晃をかくもうとるなら、私はいつまであの子を隠し続けるんどすか? このままずっとお天道様の下に出られへんなんてそっちの方が可哀想やないの」
「そこなんです」
 彼は右手の人差し指を立てた。
「永遠にかくまうつもりとは思いません。おそらくは古高さんが起訴されるまで。あるいは裁判で有罪になるまで。一度事件が決着すれば、晃さんが姿を現したとしても判決を覆すのは至難の業ですから」
 さすがによくわかっている。私は奥歯を噛んだ。
「なので先生、お願いがあります」
 立てていた指を下げて低い声は言った。
「このお屋敷の中を確認させてください」
 私の心臓はドクンと跳ねた。

 教え子と共に家の中を回る。さすがにプロというだけのことはあり、それとなく、抜け目なく、彼は人が隠れられそうな場所をチェックしていく。もちろん私はそれ以上の知恵で晃を隠したつもりだ。あの子は存在しない部屋にいる、絶対に見つかるはずはない。
「天井の裏とか床の下とかも調べはるの、刑事さん?」
「いえいえ、忍者ハットリくんじゃないのでそこまでは。それにしても広いお屋敷ですね。和室がたくさんある。ここはどうかな?」
 ふすまを開けながら彼は明るく言った。まるでかくれんぼの鬼でもやっているかのようだ。浴室や手洗いまで回って次は台所。
「まさか冷蔵庫の中におるとは言わへんやろな」
「はい先生。…あ!」
 そこでテーブルの上に置かれたインスタントのカップうどんに彼は目を留める。私の脈がまた揺れる。夕べ晃の手から没収してきた物だ。でもよくよく考えれば日本全国どこでも売っている商品、何も案ずることはない。
「そのカップうどんがどうしたの?」
「いやあ、結構これが好きなんですよ、特にカレー味が」
「そういえば君は給食のカレーもいつもお代わりしとったなあ」
「そうでしたね、フフフ。しかし由緒ある徳岡家でもカップ麺を食べるんですか?」
 手に取ってまじまじと見る彼。
「食べますよ。うちはお公家とちゃうんや、そんな世間様から解離した暮らしをしてはらしまへん。レトルトカレーも冷凍食品もしょっちゅうどす」
「それはそれは」
 カップうどんを戻すと彼は台所を出た。また少し進んで細い渡り廊下に目を留める。
「この廊下は…どこへつながってるんですか?」
「料亭どす」
「料亭…徳岡屋ですか。そういえば同じ敷地内にあるんでしたね。入口は別々と伺いましたが、渡り廊下でお屋敷とつながってたんですね」
「そうどす。昔は料亭で食事しはったお客がそのまま屋敷でお泊まりっちゅうこともありましたから。まあそういうのは男の人のつき合いやから、主人が亡くなってからはなくなりましたけど。今はここを通るんは私と一部の従業員くらいどす」
「先生は料亭にも顔を出されるんですね。少し進んでみていいですか」
「かましまへん。まさか廊下に晃が隠れとると思うの?」
「念のためですよ」
 とはいえここは二人横に並ぶのも難しい細くて長い廊下。私の先を進むボロボロのコートの彼。その頭の中ではいったい何を考えているのか。いったいどこまで見抜いているのか。言葉を交わさず50メートルほど進むとやがて木製の引き戸に突き当たる。
「結構長い廊下でしたね。この向こうが料亭ですか。確かにおいしそうな香りがしますね」
「そうどす。今は仕込みも終わってぼちぼちお客さんが来る時間やから」
「ナルホド。料亭っていうとあれですよね、お客さんの席が個室に分かれてて、手をパンパン叩いたらふすまが開いて芸者さんが登場して」
「テレビドラマのみ過ぎやわ。まあご要望があれば芸者さんをお呼びすることもありますけど、普段は和食のお食事処っちゅう感じどす」
 彼は興味深そうに引き戸を撫でている。するとガラッとそれが開いて和服姿の女将が現れた。彼女は彼の風貌に目を丸くしていたが、すぐ後ろに私がいたので安堵を見せた。
「奥様、ちょうどお伺いしようと思うとりました。有栖川建設の社長はんがいらっしゃいまして、今から食事したいって言うてはるんやけど、どないしましょう」
「また有栖川さんかいな。あの人はいっつもいっつも予約もせんと」
「ほんまですよ。奥様にもお会いしたいって言うてはります。また虎の間にお通ししてもよろしおすか?」
「他のお部屋はもう埋まっとんの?」
「まだ藤の間と桐の間、あと梅の間も空いとります」
「それやったら藤の間でええわ。そちらにお通しして。後で顔出します」
「かしこまりました。ほな」
「あ、ちょっとすいません」
 踵を返そうとする女将を彼が呼びとめた。
「あの、お客さんにどのお部屋を割り当てるかはいつもかえでさんに確認して決めてらっしゃるんですか? 私は警察の者です、安心してお答えください」
「はあ、警察の方どすか。お部屋は基本的に予約のお電話を受けた従業員が決めとります。今みたいに急な時や特別なお客さんの時はかえで奥様にご相談しますけど」
「そうですか。料亭にはどんなお客さんがいらっしゃるんですか?」
「色々どすなあ。議員の先生もおれば企業の社長さんもおるし、芸能界の人がお越しになることもあります。若い人は少なめやろか」
「やっぱり大物御用達の店なんですね」
「そんなことあらしまへんえ」
 私が割り込む。
「確かにそういう方もいてはるけど、お客は平等っちゅうんがうちの節義や。お代さえきっちり払ってもろうたら、イチゲンさんでも歓迎するんが徳岡屋どす。なあ、女将はん」
「そうどすなあ。幕末の頃は長州の志士はんと新撰組の隊士はんが同時に店内にいてはったこともあったそうやから」
「それはすごいですね。でも大丈夫だったんですか?」
「もちろん顔を合わせんように女将がうまく立ち回ったんや。ばったりおうてもうたら料亭の廊下に血の雨が降ってまう。これは女将に語り継がれとる伝説どす」
 話し好きの女将は口に手を当てて上品に笑う。彼も楽しそうに頷いていた。
「女将はん、今からお昼の営業で大変やろ。ここはもうええから戻って」
「ありがとうございます。失礼します」
 私が促すと彼女は一礼し、「ほなさいなら」と引き戸を閉めた。
「刑事さん、満足しはった?」
 尋ねると教え子は振り返って苦笑い。
「どうせ晃が料亭の個室におるとでも思うたんやろ」
「はい。料亭なら食べ物もあるし身を隠すにはちょうどいいかと思ったんですけどね、従業員さんがランダムにお部屋を決めてるんじゃ難しいです。いつお客さんが来るかもしれない部屋に隠れてるわけありません」
「当然どす。疑うんやったら厨房や食糧庫の中も探しはりますか?」
「いえいえ。さすがに従業員さんが全員グルだとは思いませんから」
 大袈裟にかぶりを振る彼。
「それやったら戻りましょうか」
 再び細くて長い廊下を今度は私が先頭になって進む。屋敷まで戻ると、最後は私の部屋。
「失礼してよろしいですか?」
「何もやましいことはあらへん、どうぞ気の済むまで調べはって。こんなおばさんの部屋やしドキドキもせえへんやろ」
「そんなそんな。では」
 やや緊張した面持ちで教え子は入室。さほど広い部屋ではない。押入れや戸棚の中も物が詰まっていてもちろん人が隠れられるスペースなどない。すぐに彼もそう察したようだった。ただふと壁の写真に向く視線。家族写真に紛れてその黄ばんだ一枚は貼られていた。
「これ…修学旅行の時の集合写真」
「そう、6年1組のみんなで撮った写真。山口県の秋芳洞どす。あの時は誰かはんが洞窟の中で迷子になりはって大変やったわ」
「ご迷惑をおかけしました」
 彼はまた苦笑い。そして隣の写真へと視線を移す。それは晃の小学校の入学式で校門前で撮影した物だった。
「写ってるのは晃さんとかえで先生、それに陽一郎さんですね」
「そうどす。うちの人、いつもは仕事が忙しかったけど、晃の学校の行事だけは必ず来てはりました」
「息子さん思いのお父さんだったんですね」
「晃もようなついとった。そやからあの人が亡くなった時はひどい落ち込みようで。ちゃんと立ちなおってまっすぐ育ってくれてよかったわ」
 私はあえてそう言った。そう、晃はまっすぐな子、まっすぐ過ぎる子だ。

「納得しました。このお屋敷の中にはいらっしゃいませんね」
 玄関を出たところで彼は言った。
「何度も言うとるやないの、ここで晃をかくもうたりしてまへん」
「この敷地内にはお屋敷と料亭と、他に建物はありますか?」
「おまへん。残りの敷地は全部日本庭園や」
「すごいですね、管理が大変でしょう」
「これも商売。料亭にいらはったお客さんに庭園を散策してもらうんどす。どないしはる? 庭園も隅々まで調べはりますか、刑事さん?」
「そんな意地悪言わないでください。お客さんが散策する庭に晃さんがテント張って隠れていたら目立ち過ぎですから」
 彼は笑う。そして一緒に石畳を歩いて正門まで来た。通りには少しだけ冷たい風が吹いている。
「お見送りまでしていただいてありがとうございました。また先生に会えてよかったです」
 頭を下げる彼に私は笑顔でかぶりを振る。
「私も嬉しかった。ほんまに懐かしかったわ」
「先生…大変じゃないですか? こんなすごいお家の当主だなんて」
「名ばかりの当主や。むしろ小学校の先生の時の方が何倍もてんてこ舞いやった」
 そして何倍もやりがいがあった、と私は胸の奥で思う。すると彼はコートのポケットから取り出した物体を口にくわえた。それは…!
「やっぱり先生、憶えてましたか」
「おしゃぶり昆布…やね」
「はい、かえで先生といえばこれでしたよね。いつも教卓の隅に積んでありました。憶えてますよ、先生からの昆布の教え。一日一善、昆布一本。それで今もついこいつをくわえちゃうんです」
 教え…そうだ、そうだった。あの頃私は子供たちにおしゃぶり昆布を使って教えを説いていた。教師時代の記憶はあまりにも鮮明なのに、どういうわけだかそのことだけをすっぽり忘れていたらしい。
「そ、そうなんや。私はおしゃぶり昆布なんてもう何十年も食べてへんわ」
「僕はずっと食べてます。ただ、あの頃先生からもらう昆布が一番おいしかった気がします」
「ほんまに君って子は…」
 言葉はそれ以上続かなかった。彼も黙って背を向ける。
「元気にやるんやで」
「先生もお元気で。それにしても…不思議です」
 振り返らずにそう言い、昆布がコートのポケットにしまわれる。
「何が不思議やのん?」
「晃さんが失踪したというお話を警察がしても、先生は晃さんは犯人じゃない、だから逃げてるわけじゃないとしかおっしゃらないことですよ」
「母親なら息子の無実を信じるんは当然やないの」
「心配じゃないんですか?」
 背を向けたまま感情のない声が尋ねる。落ち葉が数枚足元を舞った。
「先生はどうして晃さんがご無事だとわかるんですか? 奥さんが何者かに襲われた翌日に姿を消してるんですよ。普通だったら晃さんも何か事件に巻き込まれたんじゃないかと不安に思いませんかね…母親なら。
 先生は晃さんが無事でいることは確信していらっしゃる。それは…どうしてでしょうか」
 微笑んだまま表情が凍る。しまった、しまった、しまった! 私はそんなところでしくじっていたのか。まさか晃をかくまっているからとは言えず、しかしうまい返しも出てこない。脈がどんどん速く、強くなって全身を打つ。何か、何か言わなくては!
「では先生」
 そのまま歩き出す教え子。そして無言の私にこれまでで一番重たい声が告げた。
「近いうちにまた来ます、今度は晃さんに会いに」

●ムーン

「失礼致します」
 私は二度ノックして入室した。京都市左京区にある高齢者施設、ここに徳岡家の先代当主・陽一郎の母であり、先々代当主・家光の妻である女性が暮らしている。彼女の名前は徳岡和美、すでにかなりの老齢のはずだがベッドに腰掛けたその姿にはそこはかとない風格があった。全く感情を浮かべない表情、白い髪を束ねた細い首筋をまっすぐに伸ばしている。
「突然すいません、警視庁のムーンと申します。事件の捜査で参りました」
「それは…ご苦労様どす」
 無表情を崩さず小さな声が返した。
「あまり詳しいことは申せないのですが」
 施設のスタッフからはショックを与えないように頼まれている。私は寧々が被害者であることや晃が失踪していること、古高が逮捕されたことなどには触れずに話すことにした。
「昨日…11月7日の午後、徳岡かえでさんがここにいらっしゃったと思います。その時のことを聞かせてください」
「かえでさんどすか。来てはりましたよ。よう来てくれはるんどす、優しいお人やから」
 施設の面会者記録では彼女が訪れたのは昨日の午後1時半、そして2時過ぎには施設をあとにしている。
「かえでさんはどんなご様子でしたか?」
「いつもどおりはんなりしてはりました。家のこともお店のこともちゃんとやっとりますから心配せんでええって言うて。ほんまにできたお嫁さんや。嫁いでも何も役に立てへんかったうちとは大違いどす」
「そんな。では特にいつもと変わったご様子はなかったんですね」
「そうどすなあ。まあ忙しそうではありましたか」
 わずかに目を細める和美。
「ちょうどうちが2時のお薬を飲んだ頃どす。かえでさんの電話が鳴って、なんやら慌てた様子で、すぐに帰ってまいました。いつもやったらもっとゆっくりしなはるんやけど」
 午後2時に電話…それはちょうどあの油菜小路の事件が起きた頃だ。
「そうでしたか。あの、この部屋に来たのはかえでさんお一人だけでしたか? 古高さんはご一緒ではなかったですか?」
「古高…」
 彼女に初めて寂しげな表情が浮かんだ。
「あの人は私には会いません。自分は使用人やからといつも遠慮する。昔から…ずっとそういうお人どす。なあ、刑事さん」
 そこで初めて彼女から質問が投げられた。
「孫たちは…幸せにしとりますか」
 一瞬答えに窮する。孫たち…すなわち晃と寧々のことを尋ねているのだ。
「陽一郎ははように死んでもうたから、うちは孫たちの幸せだけが願いなんどす。なあ、幸せに…しとりますか?」
 祈るような眼差しが向けられる。自分では具体的に何かをしてあげられない彼女にとって、祈ること、願うことが最大限の慈しみなのだろう。晃は失踪中、寧々は昏睡中、とても幸せと呼べる状況ではない。嘘をついて「はい」と答えるのは簡単だが、私という人間はそんな簡単なことをする能力すら持ち合わせていない。嫌になるほどしなやかさが欠如しているのだ。
 彼女は黙って返答を待っている。弱弱しくも凛々しい面持ち。私は一番ずるい言葉を告げるしかなかった。
「…きっと」

 河原町署の職員食堂。警部と落ち合った私は二人で遅めの昼食にありついた。変人上司は懲りずにここでもカレーを食べている。私はさすがに三日連続はきついのでニシンそばをいただく。
「カップうどんのEとWって知ってる?」
 スプーンを動かしながら突然低い声が尋ねた。
「え、いきなり何です?」
「カップうどんは同じ商品でも東日本販売用と西日本販売用で微妙に味付けが違うんだよ。ほら、うどんやそばは関東と関西で味が違うでしょ、君が今食べてるニシンそばもきっと関西風の味だ。だからカップうどんの容器をよく見ると、東日本用には『E』、西日本用には『W』ってアルファベットで表記されてるんだよ」
「そうなんですか、知りませんでした。確かに関東と関西では色々な物が微妙に違いますもんね。畳の大きさとか、電化製品のアンペアとか、だから引っ越す時は気を付けなきゃいけないって聞いたことがあります」
 てっきりランチの雑談かと思ってそう返したが、どうもそうではなかったらしい。警部は神妙な顔で続けた。
「午前中、かえで先生に頼んでお屋敷の中を見回らせてもらったんだ。晃さんは発見できなかったけど、台所にカップうどんが置いてあってね。その表記を見たら『E』だった」
「ということは…東日本用」
 私の箸が止まる。
「つまり晃さんが持ち込んだ物、ということでしょうか」
「おそらくね。東京のマンションから逃亡する時にバッグに詰めてきた物じゃないかな。途中でホテルに泊まったり、野宿したりすることになった場合に備えて」
 私はもぬけの殻になった彼の部屋の様子を思い出す。確かに床には衣類やカップ麺が転がっていた。あれはバッグに詰め込む時にこぼれたのだろう。
「かえで先生が失踪中の晃さんの安否を心配しないのも、無事でいるのを知ってるからだ。どうやって隠れているのかはわからないけど、晃さんがあの家にいるのは間違いない」
 変人上司はカレーを一口。
「それで、君の方はどうだった?」
「はい。ご指示どおり徳岡和美さんに会ってきました」
 私は箸を置き、手帳を見ながら報告する。黙ってそれを聞き終えると警部は少し座り直した。
「つまり、かえで先生は昨日の午後2時には和美さんの施設にいたわけだね。しかも誰かからの電話がかかってきて慌てて帰った」
「そうです。それに帰る時もいつもの運転手が車で送迎していたと施設のスタッフが証言しています」
「いつもの運転手…古高さんだね。となると彼も昨日の午後2時にその施設にいたわけだ。つまり同じ時刻に油菜小路で伊藤さんを突き飛ばすことはできない。お見舞いが終わってから伊藤さんに会いに行ったという彼の証言は真っ赤な嘘だ」
「そうなりますね」
 私は手帳をしまって大きく頷く。
「いいぞムーン、これで晃さんが犯人である可能性がさらに高まった」
「警部、かえでさんに電話をかけてきたのも晃さんではないでしょうか。彼は伊藤さんを負傷させてしまったことで動揺し、母親に助けを求めた。そこでかえでさんと古高さんは慌てて晃さんを救出に向かった。そして何らかのトリックで池田ショッピングパークで晃さんと古高さんがすり替わった」
 警部はスプーンを止めて優しく笑む。私にはその意味がわからない。
「どうか…されましたか?」
「いや、そこまで推理できるようになってくれて頼もしいかぎりだなって思って」
「はい? どうしたんですか警部、急にそんなしみじみと」
「ごめんごめん。これならいつか君がうちのミットを卒業する時も安心して送り出せるなとか、そんなことを考えちゃってね」
 変人上司はまるで一般上司のような顔をして水を飲む。ミットを卒業…つまりは異動ということか。確かに異動は警察官の常、特に若い頃は同じ部署にいられるのは長くても十年。いずれはこの人とも別れの時が来る。まあこの人は私がいてもいなくても何も変わらないだろうが、私はどうだろう。警部の下を去る時、どんな自分でいるのだろうか。
「かえで先生はね」
 低い声は優しいまま続けた。
「すごく生徒思いの先生だったんだ。だから…教え子の卒業式の前に辞めることになっちゃったのは先生が一番つらかったと思うよ」
 なんだそういうことか、と私は納得する。警部がセンチメンタルになっていたのは私がいつかミットを卒業することを思ってではない、憧れのかえで先生が不在だった自分の卒業式を思い出していたからなのだ。
「かえでさんはどうして途中で教師を辞められたんですか?」
「徳岡家に嫁ぐためさ。それで急遽2学期いっぱいで退職されてね」
「そうですか…」
 答えながらも少しモヤモヤする。2学期まで勤め上げたのなら3学期まで働いて退職した方がどう考えても切りがよい。たった三ヶ月が待てないくらい結婚を急がなくてはならない事情がかえでに、あるいは徳岡家にあったのだろうか。
「あ、ごめん。そばが延びちゃうから食べて」
「はい」
 変人上司に促され私が箸を握り直したところで、今度はポケットのスマートフォンが振動した。

「ヤッホー、美人刑事!」
 警部に断わってから電話に出ると東京の美佳子からだった。彼女は京都にいる私に代わって入院中の徳岡寧々の様子を見に行ってくれたという。
「ごめんね、なんか巻き込んじゃって」
「気にすんな、乗りかかった舟よ」
 彼女のこのサバサバしたおおらかさに私は何度も救われている。
「それより寧々さんの容態だけどさ、まだ意識は戻ってないんだけど少しずつ反応が出てきてるんだって。呼び掛けたら表情とか指先が動いたりするのよ」
「本当? ならよかった」
「だよね。それで主治医の先生の提案で今日は娘さんも病室に来て、特別にベッドのそばまで行って呼び掛けてもらったの」
「娘って…蛍ちゃん?」
「そうそう。すっごい可愛い子でね、お母さんに似てるからあれは将来美人になるわ。十年後にはあんたの地井も脅かされるかも」
「もう、何言ってんの」
 美佳子とならこんな冗談も交わせる。それにしても…蛍ちゃんもついに寧々と面会したのか。幼い瞳にはベッドで昏睡する母親の姿はどのように映っているのだろう。
「お母さんが土手から突き落とされたっていうのも蛍ちゃんは知ってるの?」
「さすがにそれは言ってないみたい。おじいちゃんとおばあちゃんが一緒に来ててさ、『ママは悪い魔法使いの魔法で眠っちゃってるから起こしてあげて』って蛍ちゃんに説明してた。そしたらさ、蛍ちゃんベッドサイドで『ママ起きて、ママ起きて』ってずっと呼び掛けてて…本当にいい子だわ。それ見てたらなんだかあたしもウルッときちゃった」
「眠れる森のママ」
 私たちの会話が漏れ聞こえたのか、対面の警部がスプーン片手にそんなことを呟く。
「それでどうなの? やっぱり逃げた旦那が怪しいの?」
「そうね…容疑は濃厚かな」
 電話の向こうで漏れる溜め息。
「蛍ちゃん、可哀想よね。お母さんがこんなことになって、しかもその犯人がお父さんだなんて。ただでさえ病気で好きな物が食べられないのに、本当にけなげな子だわ」
「病気って…ああ、食べ物のアレルギーがあるんだっけ」
「そう、アルファなんとかっていう特殊なアレルギーで、お肉類に制限があるんだって。だから大好きなハンバーグも今は食べられないみたい」
 美佳子は病室で中里夫妻とも話をしたという。その中で蛍ちゃんの病気の話題、そして行方不明の晃の話題も出たそうだ。中里夫妻は半信半疑ながらも、義理の息子を信じたい気持ちの方が強いらしい。
 この事件は必ずハッピーエンドにする…八尋そよかはそう豪語していたが、仮に警察が晃を逮捕したとしてもそれは多くの人が傷つく結末。ハッピーエンドとはほど遠い。
「色々ありがと、美佳子」
「あんたとは持ちつ持たれつじゃん。じゃああたし、交通課のパトロールに戻るわ。ファイト!」
「うん、そっちもね。ファイト!」
 心の中でハイタッチを交わして私たちは通話を終えた。そして今度こそそばを啜ろうと思ったところで…。
「ご一緒してよろしおすか?」
 現れたのはトレイを手にした松平。警部と私が揃って「どうぞ」と答えたので彼はまた笑いながら同じテーブルに腰を下ろす。
「ほんまに息がピッタリや。それでどないです、お江戸の名コンビは事件の真相にたどり着きそうですか?」
「もうちょっとの所まで来てる感じなんですが」
 警部が答えている間に私は箸を手に取る。
「ムーンが調べてくれたんですよ。古高さんは昨日の午後2時、徳岡和美さんの施設にいたというアリバイがありました。やはり犯人ではありませんよ」
「それは貴重な情報や。午後からの取り調べで古高にぶつけてみます。それにしても…和美さんですか。あの方、まだご健在なんですね」
「ご存じなんですか?」
 と、行儀悪くもそばを箸でつまみながら尋ねる私。
「ええ。もう二十年前になります。ご子息の陽一郎さんが亡くなられた時に僕も現場に行きましたので。当時は下っ端の新米刑事やったけど…あの人がえらいショックを受けてはったのをよう憶えとります」
「陽一郎さんは転倒事故で亡くなったんですよね」
 低い声が確認。
「酔っ払って帰宅して、廊下で転びはったんです」
「じゃあ徳岡家のお屋敷の中で亡くなったんですか」
「ええ。後頭部を金属性の棚の角にぶつけはって…打ち所が悪かったんやなあ」
「陽一郎さんは普段からそんなに泥酔するまで飲まれてたんですか?」
「もともとはそんなに飲む人やなかったはずです。そうそう、確か事故の半年くらい前やったかな、何日か誰とも会わずに部屋に引きこもって、それ以降だんだん飲む量が増えていきはったって従業員が証言してましたわ。お酒は恐ろしいですね」
 警部は相槌を打たない。
「本人は酔っ払って楽しい最期やったかもしれまへんけど、家族としてはつらいもんですよ。和美さんからしたら、夫に先立たれて、息子にも先立たれたわけやから。ほんまにあの人も…大変な人生で。いただきます」
 松平は割り箸を割った。
「大変というのは他にも何か?」
 せっかく食べようとしているところに警部がまた質問。そのせいで松平はつまんでいたひじきを落とす。
「徳岡家は名家やからええ話もようない話もぎょうさんあるんです。先輩の刑事から色々聞かされましたわ。もちろん和美さんに関する話も。
 戦後の間もない頃、料亭の経営がほんまに厳しくなったそうで。敗戦で華族も没落してみんな大変やった時代やから、とても高級料亭なんて行く余裕はなかったんやろなあ。普通の商売やったらそんな大赤字になったら店をたたむんでしょうけど…伝統ある徳岡屋はそうもいかん。ほなどうやってその窮地を打開したと思います、ムーンさん?」
 突然水を向けられて私は戸惑う。
「いやあの、えっと、わかりません」
「和美さんを徳岡家に嫁がせはったんですよ。あの人のご実家は戦争債権で富豪になっとったんです。かなり資金をバックアップしてもろうて、徳岡家の栄華も、料亭の経営も守られたそうです。和美さんのご実家にとっても、成り上がりの自分らが名門の徳岡家と縁戚になれるんはメリットやったんでしょうけど、はっきり言うて政略結婚です。和美さんは祝言の当日に初めてご主人の家光さんと対面したそうやから」
「時代劇みたいな話ですね」
 と、警部が口を開いた。私も考える。どの時代にもその時代ならではの苦楽がある。だから一概に比較して優劣をつけることはできないが、少なくとも恋愛という分野においては好きな者同士が自由に結婚できるようになった現代は恵まれていると言えるだろう。まあその恩恵に全くあやかっていない私が言っても説得力はないのだが。
「和美さんは結婚した後も、なかなか子宝に恵まれんで、随分つらい仕打ちを受けはったそうです。当時はまだ不妊の原因は女性側の問題やと決め付けられとった時代やし、徳岡家の当主は絶対男っちゅうんがしきたりで、女を産んでも関係ない、後継ぎになる男だけを産めって言われるわけですから」
 そこで京都の刑事は深く溜め息。
「親の都合で嫁がされて、子供ができんで責められて、ようやく生まれた陽一郎さんも自分より先に亡くなってもうて…ほんまにおつらかったと思いますわ。なまじお金持ちのお家に生まれてもうたんが、あの人の不運やったんですかね」
 松平はようやく食事を口に運ぶ。私はどうコメントしてよいかわからなかった。裕福がイコール幸福ではない、しかし経済的余裕なくして幸福を感じるのもまた難しい。
「かえで先生はどうだったんだろう」
 変人上司がふいに言った。
「あの、松平警部、かえでさんは自分の意志で徳岡家に嫁がれたのでしょうか」
「それもやっぱり、親が決めた結婚やったみたいですよ」
 味噌汁を一口啜ってから彼は答える。
「あの方もわりかしええとこのお嬢さんで、陽一郎さんとは子供の頃からの顔見知りやったそうです。特に陽一郎さんがかえでさんにぞっこんで、かえでさんが中学を卒業したらすぐにでも嫁に欲しいなんて言うてはったみたいですわ。
 名門の徳岡家からのご指名やからかえでさんのご両親も断わり切れんで、でもかえでさんは才女やったから大学は行かせたい言うて、ひとまず許嫁いう形におさまったそうです。かえでさんはお仕事もしたかったから大学出た後も結婚を先延ばしにして何年か働きはったみたいやけど、結局は連れ戻されて結婚。ほんま、せつない話です」
「連れ戻されて…」
 警部が口の中でくり返す。私は気になったことを尋ねた。
「陽一郎さんが亡くなった時、かえでさんはどんなご様子でしたか」
「凛としてはりましたよ。警察にも気丈に対応してはって…和美さんがずっと泣いてはったから自分がしっかりせなって思われたんかもしれませんね。夜中に廊下で倒れとるご主人を発見して通報しはったのもかえでさんです」
 彼はそこでまた溜め息。
「そう考えるとかえでさんもご主人に先立たれて、もし晃が逮捕されてもうたら息子さんも失ってまうわけですよね。いやはや、和美さんとおんなじ道をたどっとる。
 まったく…何の因果なんやろ。まるで呪いや」
 私の首筋を冷たい手が撫でた気がした。呪い…徳岡家にかけられた呪い。もしそんなものがあるとして、それはいつ、誰によってかけられたのか。誰を呪ってかけられたのか。
「末代まで呪うぞ、なんてのは時代劇の常套句やけど」
 松平は悔しそうに漬物を噛む。
「罰を受けるんは必ずしも罪を犯した本人やない…この仕事をしとるとほんまにそう感じることがようあります」
「同感です」
 気付けばカレーを食べ切っていた警部は静かにそう言ってスプーンを置いた。

 黙ってそばを啜りながら私は頭の中で考えていた。
 警部が言ったように、古高のアリバイが証明された以上、徳岡晃が一連の事件の犯人であると考えてまず間違いない。古高は彼をかばって逮捕されたのだ。カップうどんのことも踏まえれば、かえではそれに加担してあの屋敷で彼をかくまっているに違いない。
 しかし…どうしてそこまでするのか、それがわからない。幸いにして寧々も伊藤も一命を取り留めている。変に隠し立てするよりも晃に自首させた方が賢明ではないだろうか。何故そうしない? 何故そこまで晃を守る? この事件を動かしている見えざる手はどこから伸びてきているのか?
「ええじゃないか!」
 突然そんな声が後ろから聞こえた。警部も私もぎょっとしてそちらを向く。見ると一人の署員が厨房の調理員に詰め寄っていた。
「どうしたんでしょうか」
 低い声が尋ねる。
「何故今、あの人は『ええじゃないか』と。なんだか怒ってるみたいですし」
「え? ああ、あれはきっと」
 松平が笑う。
「きっとBランチを頼んだのにAランチが来てもうたんですよ。それで『これはAじゃないか』って文句言うてはるんでしょう。食堂のおばちゃん、時々間違えはるんです。僕も何回かありました。まあAでもBでもおいしいんやけど」
 なるほど。確かにそんなやりとりをしているようだ。ああびっくりした、油菜小路の事件で犯人が叫んだ『ええじゃないか』がここでも飛び出したのかと思った。まるでダジャレだなと苦笑いで前に向き直ると、私は変人上司が固まっていることに気付く。その身体は三十三間堂に並ぶ仏像のように微動だにしない。
 これはまさか…いや、間違いない。ついに来たのだ。これはこの人の頭脳がものすごいスピードで回転している時のサイン。
「あの、カイカン警部。どないしはりました?」
「大丈夫です、ちょっと考え事をされてるだけです。今の松平警部のお言葉がヒントになったようです」
「え、僕の? Aランチが何か事件に関係あるんですか? いやはや、お江戸の刑事はすごいなあ」
 この人がこうなってしまったら思考回路がクールダウンするまで待つしかない。むしろこの後緊急の指示が下るのが毎度のパターン。今のうちに食事を終わらせておかねば。私が一気にそばをかき込み始めたので松平はそれにも目を丸くする。
「Aじゃないか…豆…アルファ…?」
 やがて低い声はブツブツ支離滅裂な単語を並べ始めた。そして…。
「ムーン!」
 金縛りが解けて動き出す天才。私もちょうど最後の一本を啜り終える。
「君に頼みたいことがある」
「はい、何でしょう」
 よしきた、準備は万端だ。さあ、どんな命令でも驚かないぞ! 私は手帳とペンを構える。
「今すぐ北海道へ行ってくれ、土方さん!」
 …なんでやねん。

 京都には空港がない。しかし最寄の伊丹空港からの直通便に空席があったおかげで私は足軽以上のフットワークを発揮、同日夜には新千歳空港に着陸できた。11月上旬でも京都とは二十度近い寒暖差があり、降り立った瞬間に肌がそれを感じる。新撰組の副長だった土方歳三は新政府軍を相手に敗戦をくり返しながらやがてこの北の大地へとたどり着いた。いつだったか八尋そよかは私のことを彼に似ていると形容したが、まさか本当に北海道へ来ることになろうとは。もちろん私はここで殉死するわけにはいかない。戦況を覆すため、必ず事件解明の鍵を手にして京都へ戻らねば。
 到着ロビーから屋外へ出る。押し寄せる冷機に粉雪が舞っている。そして目の前には見覚えのある黒い4WDがエンジンを唸らせながら停まっていた。
「すいません、急にこんなお願いをして」
 私は再会の挨拶よりもまずそう謝りながら助手席のドアを開けた。運転席にいるのは緋色のコートとハットに身を包んだ女性。雪の様に白い肌と少し鼻の高い顔はやはりロシア人形のように綺麗だった。
「ご無沙汰ねムーンちゃん、ようやくあたしの出番かしら?」

 細い指でハンドルを操作しながら北海道限定販売のスナックを口にくわえる女警部。彼女の名前は法崎さくら、北海道警察新千歳署に勤務する、人呼んで女カイカンである。もちろん当人はそう呼ばれることをこの上なく拒んでいるが。
「本当にすいません、あまりに急な話で」
 私はシートベルトをしながら革めて詫びる。
「いいわよ、カイカンくんの突拍子のなさは昔からだし」
 車窓にはトンネルの中よりも真っ暗な北国の夜景が流れている。
「あの、事件の概要はご存じですか?」
「警視庁の江里口って人から情報提供書のFAXが来たわ。あとカイカンくんから電話もあったしね。東京と京都を結ぶ広域事件なんでしょ。そしてあたしの役目は北海道にいる一人の男を見つけること」
 そこで彼女はクスッと笑う。
「どうかされましたか?」
「ううん、ただムーンちゃんと最初に会った時のことを思いだしてさ。あの事件の時も二人でこうやって人探しをしたよなあって」
「そうでしたね。あの捜査もこんな雪がちらつく夜でした」
「なんか随分昔みたいな気もするし、ついこの前みたいな気もするし…時間の感覚って不思議だわ」
 確かにそうかもしれない。時計の針は一定のリズムを刻んでいるはずだが、人間の体感はそれと大きく食い違う。まだ三日しか経過していないのに、徳岡寧々の現場に急行したのが遠い昔のように感じられる。だが今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「さくらさん」
 私が語調を改めると女警部も真顔に戻った。
「今回探すのは三十年ほど前に広島のツタカズラ小学校で美術教師をしていた槇尾さんという男性です。特徴は…」
「見つけたわよ」
 洋画の吹き替えのように明瞭な声が返した。驚いて私は運転席に顔を向ける。
「名前は槇尾一成(まきお・いっせい)、57歳独身で現在は北雲在住。今は子供たちを相手に小さな絵画教室をしてるみたい」
 唖然とする私に女警部は悪戯っぽく笑む。
「ムーンちゃんが雲の上にいる間に調べたわ。北海道警察のコネクションをなめたらあかんぜよ。槇尾には電話してアポも取ったからこのまま向かっちゃうけどいい?」
「はい、お願いします。あ、いやその、ありがとうございます」
「いいの、今度東京へ行ったらカイカンくんにご馳走をおごってもらうから。じゃあ飛ばすから振り落とされないでね!」
 踏み込まれるアクセル。それと共に跳ね上がる車体。私は思わず座席にしがみついた。

 町外れにある彼の絵画教室は教室というより古びたアトリエであった。いくつものキャンバスが不規則に立たされ、デッサン用の石膏像はほこりをかぶり、床には絵の具や筆が無造作に散らばっている。遅い時刻なので子供たちの姿はないが、昼間でもいったい何人の生徒がここに通っているのだろう。壁にはオリジナルと思われる絵がいくつか飾られているが薄暗い室内ではその色彩も映えず、電気ストーブのオレンジ色の電熱線だけがやけに色めいて見えた。
「どうぞ」
 そんな部屋の奥にひっそりと座っていた男は声だけで私たちを招く。近付くと57歳の彼の容姿はまるで人生の最果てを生きる老人のように見えた。あまり散発もしていなさそうな灰色の頭髪に無精髭、痩せこけた身体をトレーナーとジーパンで覆っている。俗世間を捨てて何十年もこの部屋にこもっていると言われても信じてしまいそうな風貌だ。
「お電話した道警の法崎です。槇尾先生ですね。東京の警視庁からいらっしゃったこちらの刑事さんがあなたにお伺いしたいことがあるそうですのでお答えください」
 女警部に促され、私はさらに一歩彼に寄る。
「捜査一課のムーンと申します。現在東京と京都で連続して起きた傷害事件について調べています」
 男は何も反応しない。私は早々に切り込むことにした。
「徳岡かえで、旧姓小寺かえでさんのことはご存じですね?」
 二つの瞳に生気が宿る。彼は驚愕の表情で私を見ると声にならない声で口をパクパクと動かした。
「どうして…彼女の…小寺先生のことを?」
 ようやく出たかすれ声が尋ねる。
「詳しくは申せませんが、事件の関係者なのです。かえでさんのことを教えてください」
 彼は途端に憮然とした顔に変わる。
「何も…僕は何も知りません。もう何十年も会っていないんです」
「ご連絡は?」
「取ってません」
「広島の小学校で一緒に働いてらっしゃった頃、随分親しくされていたと伺いましたが」
 すっと逸らされる視線。
「槇尾先生、単刀直入にお伺いしますが、彼女とは当時どのようなご関係でしたか?」
 彼は返事をする代わりに目を閉じた。そして枯れた唇がわずかに「同僚です」と動く。
「同僚…それだけのご関係ですか?」
「ただの同僚です」
 目が開き、かすれ声がくり返す。
「彼女は親が決めた結婚のために職場を去りました。教え子の卒業式も見られずに、2学期末で退職になったのです。そしてあなたも3学期末で退職していらっしゃいますね。それは何故ですか」
「何故と言われましても。ただ故郷の北海道へ帰ろうと思っただけです。小寺先生とは関係ありません」
 それきり黙り込む彼。さらにいくつかの質問を投げてみたが元美術教師はすっかり反応しなくなってしまった。私の埒が明かない聴取に業を煮やしたのか、女警部はうろうろと室内を歩き回り始める。その度に古い木造の床が軋んでギイギイと音を立てた。
 …「いいかいムーン?」。
 変人上司の声が頭に過る。警部の指示はこうだった…槇尾とかえでが当時男女の仲だったのかを確かめてきてほしいと。そしてもしもそうだったのであれば、ずっと掴めなかったこの事件の奥底にある物の正体がわかるかもしれないと。
 しかし…当事者自身が認めない限り、三十年前の恋愛関係を証明するのは難しい。次第に投げる球もなくなり私は黙って奥歯を噛んだ。
「他に用がなければお引き取りください」
 彼が言った。どうする? このまま引き下がるしかないか?
 流れる沈黙。あきらめかけたその時…。
「先生!」
 女カイカンが明るく声を上げた。
「あたし、絵が大好きなんです。帰る前に先生の作品を拝見してもよろしいですか」
「いや、作品というほどの物は」
「ご謙遜なさらないでください。たくさん素敵な絵が飾ってあるじゃないですか。例えばそう…これ、これなんかとっても素敵。先生が描かれたんですよね」
 彼女は壁の一枚を指差す。槇尾は少し首を伸ばしてそれを見た。
「先生、これはどこの風景ですか?」
「それは広島の呉市にある噴水公園という公園の絵です」
「水が流れて光ってる感じがすごくリアルです。なんか音まで聞こえてきそう。じゃあじゃあ、こっちの海の絵はどこですか?」
「それも呉市の港から見た海…秋の瀬戸内海です。どちらも若い頃に描いた物ですよ」
「呉市って港町なんですか?」
「ええ。ただし貿易の港町じゃありません。軍港の港町です。あのどこか寂しくて厳しい雰囲気が好きでしてね」
「そうなんですね。じゃあ先生、こっちの絵は? ちょっとこっちへ来て解説してくださいよ」
 可愛く手招きする女警部、元美術教師はやれやれと腰を上げた。彼女が絵画好きとは知らなかった。しかもこんなに無邪気にはしゃぐ人だなんて。
「先生、この夜空の絵は写真を見て描かれたんですか?」
「いえ、僕は直接見た物しか描けないんで。これは広島市の比治山という山に夜中に登って描いたんです。冬の日でね、ほら、ここに冬の大三角が見えるでしょう」
 彼女の隣に立って彼も少し嬉しそうに語り始める。もしかしたら若い頃、画家を夢見ていたのかもしれない。すっかり蚊帳の外になってしまった私は手持ち無沙汰で無意味に腰に手を置く。するとそのタイミングでポケットの中のスマートフォンが振動した。画面を確認すると、なんと法崎警部からのメール。
『あたしが気を引いてる間に槇尾が座ってた椅子の奥の絵を確認して』
 驚いて彼女の方を見ると、女警部は槇尾の話に頷きながら一瞬だけ私にアイコンタクトした。どうやら事前に撃っておいたメールをポケットの中で送信したらしい。
 槇尾が座ってた椅子の奥の絵…そちらを見ると確かにある。その辺りは照明が消されているのでわかりにくいが、デッサン用の聖ジョルジュ像の隣、一つのキャンバスが布で隠されている。
「あたし、先生のファンになっちゃいました。個展とかされないんですか?」
「僕は画家じゃありません。画家のなりそこないの美術教師で、今じゃそれもほとんど引退してるようなもんですから」
「他に先生の作品はないんですか? あるなら拝見させてください」
「廊下にもいくつか飾ってますが…まったく、物好きな方だ。どうぞ、こちらです」
 彼に促され女警部は部屋を出ていく。そこでまたアイコンタクト…やるなら今しかない!
 ドアが閉まると同時に私は動いた。急いで槇尾が座っていた椅子の後ろに回り、そこにあるキャンバスの布をそっとめくる。
「あっ」
 思わず息を飲んだ。目が釘付けになって離れない。

 そこに描かれていたのは…!