プロローグ

 まるで甲子園球場のように無数の緑色の蔦が外壁を覆う古い木造校舎の小学校。
「みんなとお勉強するんは今日が最後になりました」
 窓には澄んだ冬空が広がる6年1組の教室。
「急な話でほんまに、ほんまにごめんなさい」
 黒板の前に立った若い女教師は教え子たちに深々と一礼。その頭の中で生徒一人一人の名前を念じているのか、しばらくそのまま動かなかったが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「3学期の授業は教頭先生が代わりにやってくれはるから安心してな」
 優しく微笑む。すると一人の女子生徒が「嫌だ」と呟く。
「嫌だよ先生、あたし、先生の授業がいい!」
「僕も!」
「俺だってそうだよ」
「先生やめないで!」
 運動会の玉入れのように次から次へと飛んでくる言葉たち。女教師はぐっと両手の拳を握り少しだけ顎を反らしたが、微笑みは崩さない。そして声が止むのを待ってそっと頷いた。
「ありがとな。みんなの卒業式が見られへんのは残念やけど、そんなふうに言うてもらえて先生はほんまに幸せや」
 生徒の何人かは潤んだ瞳で鼻をグズグズ鳴らしている。そのまま涙の大合唱になってしまいそうだった空気を断ち切るように彼女はパンと手を叩く。
「ほな、先生から最後の宿題を出します。プリントはありまへん、口で言います。そやからみんな、ちゃんと心のノートにメモしといてな」
 子供たちは唇を結んで背筋を正す。
「準備はええ? 言いますよ。最後の宿題です。
 一つ、友達と家族を大切にすること。二つ、努力せずに良い結果を期待せぬこと」
 それぞれの胸の中で鉛筆を走らせているのだろう。聞き返すことも口を挟むこともなく、子供たちはみんな彼女の言葉に集中している。
「そして三つ、身の周りはいつも綺麗にしておくこと。以上です」
 沈黙の教室。数秒を置いてまた少しずつざわめきが戻る。
「三つ目はお前には無理だ、いつも机の中グチャグチャだしな」
「うるさい、これからちゃんとやる! お前こそ家族を大事にできんのか?」
「もう十分してるだろ」
「どこがだよ、いつも母ちゃんの悪口ばっか言ってるくせに」
 数人の男子がそんなことを言い合う。
「これからもあたし、友情を大切にするからよろしくね」
「あたしもあたしも。それにちゃんと努力もしなくちゃ。3学期は朝の持久走、もっと頑張ろう」
 女子もそんな言葉を交わす。
「はいはいみんな、お静かに。先生がいてへんでも、この宿題はこれから一生かけてやり遂げるように」
 返されるのはやや弱気な「はい」の声。
「元気があらへんなあ。まあよろしい。ほな授業を始めますよ」
 女教師はまたパンと手を叩く。そして肩に垂らした黒髪をポニーテールに結わえると、さっそうと教科書を構えた。
「1時間目は歴史の授業。今日は最後やからまとめスペシャル、先生の故郷の京都の歴史を平安時代から江戸時代まで一気にまとめます。みんなええどすか?」
「出た、先生の『ええどすか』だ」
 最前列の女子が言って室内にどっと笑いが起きる。そしてメソメソしていた子供も明るさを取り戻し、一斉に「ええどすえ」が返された。
「元気でよろしい。ほなまずは平安時代。京都の『京』っていう文字は大きいっていう意味やったね。そやから魚へんに京をくっつけたら何手読むんやったっけ?」
「くじらです!」
 一人の男子が即答。
「そう。つまり京都は大きな都っていう意味なんや。歴史はくり返す、良いことも悪いことも。この大きな都で色々な出来事がくり返されていくわけです。ほな平安京が始まったのは何年やったかな?」
「なんと見事な平安京で710年!」
 得意げに答えた男子に隣の女子がすかさず訂正。
「違うよ、それは平城京で奈良の都でしょ。平安京は鳴くようぐいすで794年」
「そうだっけ? ちょっと勘違いしたな。でも鎌倉幕府は憶えてるぜ、良い国作ろうで4192年だろ」
「それじゃ未来じゃん」
 教室にまた笑いが起きる。そんな教え子たちのやりとりに女教師は愛おしそうに漆黒の瞳をすっと細める。
「はいはいみなさん、脱線してはりますよ。そう、平安京は794年から。ここから江戸時代が終わるまで、京都には千年以上も都が置かれとったんどす。では平安時代でみんなが憶えておかなあかん出来事は…まず教科書84ページ」

 こうして女教師の人生最後の授業は幕を開けた。京都訛りの教えは子供たちの心に響き渡っていく。
 教え子の一人と彼女が再会するのはまだまだ遥か先、理科室の天体望遠鏡でも見えない、遠い遠い未来のことであった。