第六章 裏面の顔

●ムーン

 午後9時半。カウベルの音と共にスナック色鉛筆のドアを開くと、八尋そよかはカウンターに突っ伏して寝息を立てていた。他の客の姿はない。
「あら」
 グラスを磨いていた手を止めてヨシコママが女神の微笑みで迎えてくれる。
「ムーンちゃん、お帰りなさい。お隣の素敵な男性はどなた?」
「はい、私の上司で…」
「どうも、警視庁のカイカンと言います」
 警部は小さく一礼。
「ああ、そよちゃんが取材中の刑事さんですね。噂どおりのバリトンボイスや。遠路はるばるお勤めご苦労様です」
「八尋さんに捜査の進捗をご報告に来たのですが」
 ちらりと彼女を見ながら私が言うと、ヨシコママは肩をすくめた。
「すっかり夢の中ですよ。よっぽど疲れてたんやろな。それより、せっかくいらしたんやからどうぞ座ってください。お腹すいてはりません?」
「実はハラペコでして。残り物でよいので何かいただけますか」
「残り物やなんてそんなそんな、あんな事件もあったから今日は閑古鳥が鳴いてはります。仕込みをしとったのをちゃっかり使わせていただきますわ」
「ありがとうございます」
 警部はそよかと椅子一つ開けて右の席に座る。私はさらにその右隣へ腰を下ろした。
「お飲み物はどないしはります?」
「まだ事件が解決していませんので烏龍茶を」
 私も同じ物を注文した。グラスを受け取ると、変人上司はコートのポケットから取り出した物体を口にくわえる。
「あ、すいません、当店は禁煙…って、それタバコやないですね」
「はい、おしゃぶり昆布です。煙は出ませんのでご安心を」
「失礼しました。そういえばそよちゃんが言うてましたよ、カイカンはんはタバコみたいに昆布をくわえるんやけどその理由を教えてくれへんって。フフフ、カイカンはんのルーツを知りたがっとるみたいです」
「そんな語る様なルーツはないですよ。それよりスナックなのに禁煙というのは珍しいですね」
「うちに通ってくれるお客さんには元気に長生きしてほしいんです。そやからお酒もたしなむくらいしかお出ししません。おかげでいっつも赤字ギリギリです」
「それは素晴らしい」
 ソプラノの笑い声にバリトンの笑い声が重なる。
「料理はお任せしますよ」
「ほな、ヘルシーでとびっきりおいしいのを作りますわ。これでもつまんで待っとってください」
 ヨシコママはナッツの入った皿を振る舞うと鼻唄で奥へ引っ込んだ。優しい店内の雰囲気によるものか、彼女の人柄によるものか、心の緊張がほっと緩む。しかし先ほど警部も言ったように事件はまだ解決していない…むしろ暗礁に乗り上げている。ここで気を抜くわけにはいかないのだ。烏龍茶を一口飲んでから私は切り出す。
「警部、これからどうされます?」
「京都で捜査を続けるかってことかい?」
 警部も顔から笑みを消す。
「もちろん続けるさ。このままだといずれ古高さんが犯人として送検されちゃううから」
「やはり晃さんが二つの事件の犯人だとお考えですか」
「そうだね。古高さんは晃さんの身代わりになって逮捕されたんだと思う。晃さんは古高さんとすり替わるために池田ショッピングパークへ逃げ込んだのさ。考えてもごらん、修学旅行生で溢れたお土産屋さんが逃走中の犯人にとって身を隠しやすい場所かい? そんな所に入らずに遠くまで逃げた方が絶対いい」
「そのことなんですが、私も考えてみたんです。仮に店内で待ち合わせてすり替わったとして、晃さん本人はどこへ消えたのでしょうか。あの時、私たちは店内をくまなく探しました。警備員にも頼んで自動ドアから出る客をチェックしてもらいました。どこにも…晃さんはいませんでしたよ」
 昆布を口元で動かしながら警部は腕組み。
「そのお店、他に出口はないのかい?」
「それも警備員に確認しました。他に出られるドアはないそうです」
「そう」
 少し黙って考える警部。薄暗い店内でそのシルエットはまるでさすらいの旅人のように見える。私は烏龍茶をもう一口。やがて変人上司はブンブン頭を振った。
「ダメだダメだ。こんな時はそう、これまでの経過と疑問を整理してみようか」
「はい」
 警視庁では部屋のホワイトボードに板書して情報を整理するのがいつものやり方だが今はそれがない、私は手帳を開いてペンを構えた。
「どうぞ、警部」
「じゃあ晃さんを中心に事件の経過を整理しよう。
 ええと…晃さんは京都の老舗料亭の一人息子で将来は後を継ぐ予定。京都の大学を卒業した後は東京に就職して現在営業の修行中。五年前に銀行窓口で働く寧々さんと知り合い、八尋さんのアシストもあって二人は交際開始、そして無事に結婚、娘の蛍ちゃんも生まれてまさに幸せの絶頂。でも今年の6月に晃さんが寧々さんの浮気を疑う。ムーン、きっかけは何だっけ?」
「昼間に晃さんが寧々さんに電話したら、家に一人でいるはずなのに様子がおかしかったことです。そして『早く抱いてちょうだい』と誰かに言っていたことですね」
「そう、それで 疑いを強めた晃さんは学生時代の友人の伊藤さんに寧々さんの素行の調査を依頼した。7月から8月にかけて、伊藤さんは何度か寧々さんを尾行したけど浮気の兆候は一切なし。また寧々さんは寧々さんで誰かに見張られてる視線を感じて交番や八尋さんに相談。そしてついに八尋さんの作戦で寧々さんを見張ってる伊藤さんが見つかってしまう。これが…」
「『八月十八日の聖戦』でしたね」
「フフフ、素敵なネーミングだよね。伊藤さんはそれをきっかけに尾行をやめて、浮気の疑いなしと晃さんに報告した。これで住めばよかったんだけど、晃さんは納得できなかった」
「いえ警部、一度は納得したのかもしれません。その後も晃さんは寧々さんに対してとても優しかったようですから。先週寧々さんが風邪を引いた時にも、代わりに蛍ちゃんの通院に付き添ってくれたと八尋さんから聞きました。伊藤さんの報告で浮気の疑いは一度は晴れていたのではないでしょうか」
「そう…」
 変人上司は声を落とす。
「でも11月5日、東京で寧々さんが襲われた第1の事件が起きる。運良く命は取り留めたけど未だ重体、犯人には殺意があったと見て間違いない。そして犯行時刻の晃さんのアリバイはどうだったかな?」
「不確実です。警部が推理されたトリックを用いれば、外回りの途中で忘れ物を取りにいくふりをして夏帆川で犯行に及ぶことは可能でした」
「そのとおり。しかも晃さんの靴から寧々さんが襲われた時に落としたカフェオレの成分も検出された。目撃された犯人と体型も一致する。犯人が晃さんである可能性は極めて高い」
「そう…ですね」
 ペンを走らせながら私は同意。
「さらに11月6日、私たちが伊藤さんに話しを聞きに行った直後、晃さんは失踪。エリーや氏家巡査が調べてくれた情報から京都へ逃亡した可能性が高い。
 そして11月7日、つまり今日、京都で伊藤さんが襲われた第2の事件が起きる。犯人として逮捕されたのは古高さんだ」
「はい。彼は自分が寧々さんも襲ったと主張しています」
「そう、ただ古高さんの証言には矛盾があって鵜呑みにすることはできない。晃さんをかばっている可能性は十分にある。第2の事件は、自首を勧めに来た伊藤さんを晃さんが思わず突き飛ばしてしまったと考えた方がしっくりくる」
「伊藤さんの記憶喪失が演技だとしたら、やはり彼は晃さんをかばっているのでしょうか」
「…おそらくね。事件の経過としてはだいたいこんなところかな。ムーン、まとまったかい?」
「大丈夫です」
 私は何とか書き留める。
「じゃあ続いては、事件の疑問の整理だ。
 晃さんが犯人だとした場合。疑問①、第1の事件の動機は何か? 寧々さんに対して浮気の疑いが再燃したのか、それとも他に寧々さんを憎む理由があったのか」
 私は「はい」と相槌。
「あと第1の事件にはもう一つ謎があったね。寧々さんの服のポケットに入っていた小さなビニールケース。事件とは無関係かもしれないけど、どうしてそんな物が入っていたのかを疑問②にしておこう」
「はい」
「疑問③、第2の事件で目撃者が聞いた『ええじゃないか』の意味。晃さんと伊藤さんが言い争いをしたとして、どうしてこんな言葉が出てきたのか」
 相槌を待たずに警部はそのまま続けた。
「疑問④、晃さんは池田ショッピングパークからどこへ消えたのか? 疑問⑤、古高さんはどうして晃さんをかばうのか? そして疑問⑥、今晃さんはどこにいるのか?
 だいたいこんなところかな」
 私はふとカウンターの皿のナッツが目に留まる。
「そういえば警部、豆の謎もあります。普段勤務中にスマホで遊んだりしない晃さんが、第1の事件の数日前に豆のホームページを見ていたんでしたよね」
「そうそう、それもあったね。ありがとうムーン。では疑問⑦、晃さんはどうして豆について調べていたのか?」
 警部は昆布をくわえたままナッツを一つ手に取ると親指でピンと空中に打ち上げる。そして落下してきたナッツを器用に口の中へ放り込んだ。
「行儀悪いですよ、警部」
「ごめんごめん。でもピーナッツを見たら誰でもこうしたくなるでしょ」
「なりませんよ」
 全く反省せずにポリポリ咬みながら低い声は続ける。
「主な疑問は全部で七つか…難しいなあ」
 私も手帳の記載を見ながら考える。この七つの疑問に答えが出せた時、事件の全貌は明らかになるのだろうか。しばしのシンキングタイムを経て、警部が昆布をポケットに戻した。
「ひとまず明日は私が徳岡家に行ってみるよ。晃さんがかくまわれてる可能性があるからね。それに…」
 そこで低い声はわずかにせつなさを帯びる。
「それに、かえで先生にも挨拶したいし」
 小学校時代の恩師が事件の容疑者の母親…数奇なめぐり合わせにこの人は今どんな気持ちでいるのだろう。私はあえてそれには触れず会話を続けた。
「晃さんがかくまわれているとしても、見つけるのは簡単じゃないと思います。平屋の大きな屋敷でしたし、捜索するとなると令嬢が必要です」
「まあ…ね」
 警部がまた黙りそうになった時、ヨシコママが二つの皿を手に戻ってきた。
「お待たせ致しました。色鉛筆特製、元気カレーでございます!」

「おいしい、これはキーヤンカレーにも負けてない!」
 一口食べるやいなや警部が声を上げた。
「何ていうのかな、初めての味で…甘味と辛味が同時に存在してる。いったいどうなってるんですか?」
「おおきに。でも味の仕掛けは企業秘密ですのであしからず」
 微笑むヨシコママ。私も一口…確かにおいしい。野菜もいっぱい溶け込ませているようでカレーなのに重た過ぎずとても口当たりが良い。
「警部、ヨシコママは隠し味の天才だそうですよ。八尋さんが言ってました」
「ナルホド。それにしても、フフフ…君と八尋さん、今日一日で随分仲良くなったみたいだね。いっぱいお話をして」
「え? いやあの、そんなにしてませんよ。業務上必要な言葉を交わしただけで」
「そうかい? 彼女は君や私にはない力を持ってる。それに助けられたりもしたんじゃないのかな」
「確かにそうかもしれませんが。いえ、逆に困った場面もたくさんありました。人様の家の塀を乗り越えたり、店内で木刀を振り回したり」
「フフフ、面白い人だよね」
 警部は眠る彼女の方を向く。
「純粋な寝顔だ。あれ、初めて見たけど…可愛い耳してるよ」
 警部の肩越しに私も左に目をやる。カウンターに突っ伏しているせいで彼女のオカッパが崩れ、小ぶりの耳が覗いていた。
「可愛い耳って…警部、それセクハラですから」
 変人上司も所詮は男、しばらくそよかの寝顔に見とれているようだった。私は無視しておいしいカレーを口に運ぶ。やがて警部の興味もカレーへと戻った。
「まあまあお二人さん、これからもそよちゃんと仲良うしてあげてえな。元気いっぱいに見えますやろけど、意外とナイーブでけなげな子なんやから」
 と、ソプラノボイス。ナイーブな子があんなにグイグイ取材を申し込んでくるものだろうかと私は胸の中で思う。そしてまた無意識に唇が動いた。
「八尋さんはどういう経緯でここでアルバイトを始めたんですか?」
「そうやなあ、そよちゃんがアルバイトの求人に申し込んできた時のことはよう憶えとります。高校1年生やった。語学留学に行きたいからそのための資金を貯めたいって言うてきたんや。そんなん親に出してもろうたらええやんってあたしは言うたんですけど、自分の夢は自分の力で叶えたいって譲らんかった。その熱意にほだされました」
「それで採用決定ですか」
 と、バリトンボイス。
「そうです。でもこのとおりちっこい女の子ですやろ、見た目には中学生…下手すりゃ小学生やから、最初はお客さんに驚かれましたわ。でもほんまに仕事を頑張ってくれて、すっかりお店の看板娘になりましたわ」
「では資金も貯まって語学留学にも行けたんですね」
「ええ、まあ」
 そこで彼女は笑顔を弱める。
「でもそれが…余計なことを明らかにしてもうて。せっかく夢への第一歩やったのに、ほんま人生いうんは皮肉なもんです」
 どういうことだろう、と私は思ったが警部は何かを察したようにすっと目を伏せた。そして私の困惑に気付いたのか、その低い声は小さく「パスポートの申請だよ」と告げた。
「さすがは刑事さんや」
 ヨシコママはせつなそうに頷く。
「そよちゃん、パスポートを申請するために役所へ戸籍謄本を取りに行ったんです。そしたらそれを見てわかってもうたんです…自分が八尋家の養子やったと」
 私は握っていたスプーンを落としそうになる。養子…つまり彼女の両親は血のつながった実の親ではなかったということだ。
「八尋さんはそのことをご両親に確認したんですか?」
 警部の問いにヨシコママは小さくかぶりを振る。
「そこがけなげなんやな。絶対ショックやったはずやのに、そんなこと全くおくびにも出さんで笑顔で語学留学へ行ったんやから。
 戻ってきた後もずっと明るうして…ほんまの親について教えてもらわんでええのってあたしが訊いても、生みの親より育ての親やってガッツポーズしてみせるんや。そんなん見てたらあたしの方が愛しくなってもうて、それで留学が終わってもここで働いてもろうたんです」
「本当のご両親については知らないわけなんですね」
「たいした子やわ、ほんまに。高校時代は女子剣道部の主将もしとったし、東京の大学行ったらちゃんと夢叶えてテレビ局に入ってまうんやからなあ。あとはええ殿方と巡りおうてくれたら言うことないんやけど、そっち方面は全然あかんのです」
「余計なお世話や」
 と、ハスキーボイス。見ると突っ伏していた彼女がむっくり顔を上げる。
「まったく、何の話をしてんのかと思うたら、ママ、カイカンはんにいらんこと言わんでええから」
「寝たふりするなんてやらしいなあ。いつから起きとったん?」
「カイカンはんがうちの耳を可愛いって言うてたあたりからや。カイカンはん、ついにうちの魅力がわかったんですね。京都まで来てくれはるなんて感激や」
「いやその、仕事で来ただけですから」
「運命の再会や。ほな、ハグしましょ」
「いやいや、そんなわけには」
 あたふたする変人上司。私はまた溜め息。
「こら、そよちゃん、ここは出逢い茶屋とちゃう。刑事さん困ってはるやん。まったく、そういう所があかんねんで」
 ヨシコママがそよかの頭をお盆でポンと叩く。
「いったいなあ、冗談やて、冗談。ママやって旦那さんにはベタベタしとるやん。それより今カイカンはんが食べてはるの元気カレーやろ。そろそろ隠し味の秘密を教えてえな」
「企業秘密どす。あしからず」
「ほんまにいけずやなあ」
 若きテレビディレクターは子供の様に口を尖らせた。
「就職決まった時に元気カフェオレの隠し味は教えてあげたやないの、それで満足しなさい。そうやなあ、そよちゃんが結婚した時には元気カレーの作り方も教えてあげますさかい、はよええ殿方を連れて来てください」
「うるさいわ」
 そんなやりとりを聞きながら私はスプーンを握り直す。自分が両親の実子でないことを知った時、彼女は知らないふりを突き通す道を選んだ。もちろんその理由はわからないが、もし私が同じ状況だったらきっと同じ道を選んだと思う。
 この世界には幸せを守るための嘘がある。均衡を保つための偽りがある。それはきっと必要なもので、恥ずべきことでも咎められることでもない。ただ時としてその嘘や偽りが悲劇の引き金を引いてしまうこともある。私の仕事はそんなことをたくさん思い知らされる。
「ママ、うちにもカレーちょうだい! お腹すいてきた」
「ずっと寝てたのになんでお腹がすきはるんやろなあ。そんなにちっこいのに胃袋だけでっかいんやから。はいはい、ご用意しますからそんな仏頂面しないの」
「ちゃんと可愛い顔してます。それよりママ、今夜はここに泊めて。ホテル探すの大変やし」
 そよかは我儘放題だ。それでもヨシコママは実家に泊まれとは言わなかった。生みの親ではなかったと知っても、彼女はきっと両親に感謝している。愛情も持っている。それでも…演じるのがつらい時もきっとあるのだろう。そういえば東京の彼女の部屋を訪れた時、そこに家族の写真は一枚もなかった。
「そうや、カイカンはんも一緒にお泊りしませんか?」
「いや、私はホテルの方が落ち着くので」
「遠慮せんといてください。ここでええやないですか。あ、でもムーンさんは遠慮してくださいね」
「当然です!」
 投げられた言葉を私は真っ向から薙ぎ払った。

 午後11時を回る頃、警部と私はスナック色鉛筆を出た。そよかはやっぱり疲れていたらしく大盛りのカレーをたいらげるとすぐにおねむ、ヨシコママにいざなわれて奥の部屋へと消えていった。
「八尋さんのエネルギーはすごいね。いつも全開って感じだ」
 人通りのない商店街に低い声が響く。
「エネルギーの配分が無茶苦茶ですよ。だからあんなふうに急に眠りこんじゃうんです。ヨシコママも困ってたじゃないですか」
「フフフ、そうだね。ちょっと君に似てるんじゃないかい?」
「どこがですか。私は人に迷惑をかけるのは嫌いです。八尋さんがさっさとホテルに行っていればヨシコママは一人でゆっくりできたはずです」
「そういう考え方もあるけど、逆もあるのさ。そういえば前にも説明しかけてそのままになってたね。ほら、彼女と君と私で行った喫茶店、私たちが去った後で彼女が何時間もカウンターに一人でいたって聞いて君は驚いてた」
「あきれたんですよ。彼女一人のために応対しなくちゃいけないマスターが大変だろうなと思って」
「でも彼女まで店からいなくなったらお客さんがゼロになっちゃうじゃないか。ヨシコママのスナックもそう、八尋さんがいてくれることでお客はゼロにならなかった。
 フフフ、京都ではカウンター席で自分が最後の一人の客だった場合、新しい客が来るまで席を立たないのがマナーらしいよ」
 私は驚く。自分にはそんな発想が全くなかった。
「それが…お店に対する思いやりってことですか」
「そういうこと。婉曲な言葉の襞に込められた京都人の優しさがわかってきたかな?」
「京都人はそうかもしれませんが、八尋さんはただの性悪女の気がします」
「でもそれが彼女の全てじゃないはずさ。さっきヨシコママが八尋さんに仏頂面しないのって言ってたのを聞いてふと思い出したんだ。
 知ってるかい? 京都の三十三間堂には顔が四面に彫られた仏像があるんだよ。正面だけじゃなく右と左にも別の顔がくっついてるんだ。人間もそう、誰だっていくつかの顔を持っているもんだ」
 私はそよかと過ごしたこの数日間を振り返る。取材を取り付けようと躍起になるテレビディレクターの顔、寧々を心配する親友の顔、ヨシコママに対する子供のように甘えた顔…私に向ける意地悪な顔だけではなく、確かに彼女は色々な顔を見せていた。
「そしてその仏像には後ろにも顔が彫られている…誰にも見せない裏面の顔がね」
 低い声が少し冷たく言った。裏面の顔…そうだな、そよかにとっては、自分が養女だったと知った時の顔がそうなのかもしれない。私にも誰にも見せていない顔がある。むしろ見せている顔の方が少ないくらいだ。
 じゃあ警部は…どうなのだろう。正面の顔さえ長い前髪で半分隠したこの人にはどんな顔が隠されているのだろう。
「それよりムーン」
 途端に明るい声。
「せっかくだからホテルに行く前に第2の事件の現場に案内してよ。この近くなんでしょ」
 了解を伝えて私は変人上司を油菜小路までお連れする。そう、無駄話をしている場合ではない。警部にどんな裏の顔があろうがなかろうが私の仕事には関係ないのだ。
「静かだねえ」
 細い路地を歩きながら警部が言った。辺りは深夜ということもあって不気味なくらい人影がない。
「なんか幕末の見回り組になった気分だよ。この闇の中に人斬りが潜んでいたらどうしよう」
「いたら大変ですよ」
 答えながら私もゾクりとする。もちろん人斬りがいるなんて思わないが、かつてこの地で相容れない正義を掲げた者たちが刀を手に命を奪い合ったのは事実。その正義ははたして正面の顔だったのか。無念を抱いて散っていった者たちの魂は今も碁盤の目の通りをさまよっているのだろうか。
「警部、ここです」
 油菜小路に到着。現場保存はすでに解かれていた。壁に付着した伊藤の血痕も拭き取られているが目を凝らしてよく見るとわずかに痕跡はある。また私はゾクりとした。
「ここで伊藤さんは犯人に突き飛ばされたわけか。ムーン、ここはどういう場所なの?」
「油菜小路は正式な名称ではないそうですが、昔は道に油菜がたくさん生えていたからそう呼ばれているそうです。静かで人通りも少ないので、若い子が内緒話をする時によくこの道に来るって八尋さんが言ってました」
「そう。ならやっぱり古高さんがここに伊藤さんを呼び出すっていうのは不自然だね。でも晃さんなら自然だ。学生時代に実際に伊藤さんとここに来ていたのかもしれない」
「そうですね」
 変人上司は右手の人差し指を立てる。
「いいかいムーン、状況証拠は晃さんの犯行を物語っている。寧々さんを突き落としたのも、伊藤さんを突き飛ばしたのも晃さんだと考えて矛盾はない。でも何かが…何かがこの事件を複雑にしている。まだ私たちの気付いていない、底知れぬ何かがあるんだ」
「底知れぬ何か…」
 私は口の中でくり返した。暗い路地に冷たい風が通り過ぎる。しかし淀んだ闇が払われることはない。

 徳岡晃…彼にはどんな裏面の顔があるのか。そしてこの夜のいったいどこに潜んでいるのだろうか。

●徳岡かえで

「入るで」
 私はそう告げてその部屋のふすまを引いた。彼はまたぼんやりと壁にもたれて畳に座っている。室内は薄暗く、机の上の夕食にもほとんど手がつけられていない。
「もう、ちゃんと食べなあかんって言うたやろ」
「食欲がないんだ。僕、これでいいよ」
 東京から持ってきたインスタントのカップうどんを手に取る彼。
「あかん、ちゃんと栄養のある物を食べな」
「ごめん」
 虚ろな目を畳に落としたまま弱い声が答えた。
「ごめん…本当にごめん、ごめん、ごめん」
 そして今度は壊れたレコードのように同じ言葉をくり返し始める。私は思わずそばに膝をついてその両肩に手をやった。
「もうええ、謝らんでええ」
「ごめん母さん、ごめん、ごめん」
「もうええ、もうええから」
 ぎゅっと抱きしめる。
「でも、僕のせいで古高さんが警察に…」
「あんたのせいやない。あんたはなんも悪いことあらへん」
「でも僕が寧々と伊藤を」
「それもあんたは悪うない。あんたを裏切った寧々さんが悪いんや。あんたを責め立てた伊藤さんが悪いんや」
 言っていて胸が痛む。しかしこの子に罪はない。私が絶対にこの子を守らねば。
「しっかりせなあかんで、晃」
 抱きしめていた腕を解き、私はまた息子の両肩に手を置く。
「あんたは徳岡家の後継ぎなんやから。いずれは徳岡屋もあんたが回していくんや」
 この子は私を頼って京都まで逃げてきた。この子には、この子だけには、悲しい思いをさせてはいけない。たとえどんな手を使っても、たとえ誰を欺いても。
「少しでもええからごはん食べてな、食器は朝に下げに来るから。ほら、それは母さんにお渡し」
 晃の手からカップうどんを奪う。
「汚い部屋やけど、栄養取ってぐっすり寝たら気持ちも落ち着くわ。ほな、また明日な」
「ありがとう、母さん」
 泣きそうになるのをぐっとこらえる。潤んだ瞳を着物の袖で隠しながら私はその部屋を出た。

 自分の部屋まで戻ると、ふすまの前で使用人の岸本さんが立っていた。古高さんに次いで長くここで働いてくれている彼女、凛としたたたずまいながらもその顔には動揺が浮かんでいる。
「奥様、警察の方からお電話で、明日、奥様に面会したいと言うてはります。東京の刑事さんやそうですが」
 ということは…今朝あの子と一緒に来た女刑事だろうか。ムーンとかいう妙な名前の。
「女の刑事はん?」
「いえ、男の方でした。低くて落ち着いた声の。お名前はカイカンとか言うてはります」
 またしても妙な名前だ。
「そう…わかったわ、午前10時なら空いとりますからそうお伝えして」
「かしこまりました」
 一礼してその場を去る岸本さん。彼女の背中が廊下の角を曲がるのを見届けてから私は自室に入る。そしてゆっくり息を吐き、鏡に映る自分の顔と強く頷き合った。

 刑事カイカン…どんな男だろうか。
 仮にどんな相手でも私は晃を絶対に守る。絶対に警察の手に渡さない。
 絶対に!

下巻に続く