エピローグ ~飯森唄美~

 脈が落ち着くのを待って、私はゆっくり室内を見回す。
 さよなら、私の大好きな場所。
 心の中で言い、電気を消すとカイカンに続いて診察室を出る。歩きながら低い声が言った。
「ムーンのこと、恨まないであげてください。彼女は私の指示で演技をしただけですから」
「そんなこと気にしてたんですか?アハハ、もちろんですよ。まあ、あなたのことは末代までたたりますけどね」
 そんな冗談も言える。それにしても女刑事の芝居は見事だった。私がそれを見抜けなかったのはおそらく、全てが完全な嘘だったからだろう。本当と嘘が共存すれば必ずどこかに不協和音が出る。だからそこから切り崩せる。でも純度100%の嘘は混じりけがなさ過ぎて逆に本当との見分けがつかない。
 夫を愛するあの演技には微塵も本当がなかった。ということは…お節介ながら心配になる。随分残酷な設定を部下に演じさせたものだ、この人は。
「実はですねえ…」
 またカイカンが口を開く。
「一緒にお店でコーヒーを飲んだあの夜、本当はもっとあなたを追い詰めるつもりだったんですよ。でもお話しているうちに心が開きそうになっちゃって…。心が開いたら入り込まれてしまいますからね、それで慌てて退散したんですよ」
 私もあの夜のことを懐かしく思い出す。そういえば…この人は何をしに来たのかよくわからないうちに急に帰ってしまった。
「そうだったんですか…。アハハ、じゃあ少しはいいセン行ってたのかしら」
「あなたに教えてもらったこと、これからも大事にします。私は精神科医にはなれませんが、推理だけじゃなくてアセスメントもできる刑事を目指します」
「…ありがとう」
 正面玄関にたどり着く。ドアの向こうではアカデミー女優が車を停めて待っていた。
 玄関のドアを開けながらカイカンが私に言う。
「…今、私がどんな気持ちかわかりますか?」
 どうしてここでそんなことを訊くかなあ。
 まあでもこの一週間で改めてわかったことがある。ドアが開くのを待って、私は自信を持って答えてやった。
「わかりませんよ。人の心なんてわかるわけないじゃないですか」
 ああ、やっと言えてすっきりした。
 私は振り返らずに足を踏み出す。名前も顔も知らない、あの少女のことを思い出しながら。