エピローグ ~ムーン~

警部の言葉に鳥海李音は勢いを失った。そして小さく「そう…ですね」と呟くと後ろを振り返る。そこはこのネイルサロンの施術スペース…彼女が愛した仕事場であり、多くの客が癒された安らぎの場。
警部もそれ以上何も言わなかった。実はこの人にはもう一つ気付いていることがある。デジカメでこの三年間の間に釈凛子に施術されたネイルアートを順にチェックした時、一つ奇妙なことがあったのだ。アートのデザインや施術する指はその都度色々変えられていたが、必ず左手の薬指には毎回大きな3Dアートが施されていた。
そのことを警部はこう推理した。左手の薬指は愛の誓いの指輪をするための指。鳥海李音は釈凛子のその指を守っていたのではないか。つまり、男たちから贈られる穢れた指輪のリングが通らないように、ネイルアートでガードしていたのではないかと。
もちろんこれは警部の想像。本人に確かめる理由も必要もない。だがもし本当にそうだったとすれば…鳥海李音が釈凛子に注いだ愛情はエゴや支配に近いものだったのかもしれない。婚約指輪をさせないためのネイルアートなんて…まるで純潔を守るための貞操帯じゃないか。それを他者が施すなど…本人の人権を著しく侵害している。
「その3Dアート…」
こちらを振り返り、私の左手を見ながら彼女は言った。私ははっとする。
「一ヶ月後にははずさないといけませんよ。ずっとそのままにしてたら爪の病気になっちゃうこともありますから。もう私ははずしてあげられないので…別のネイルサロンでお願いしてください」
「…はい」
「あ、でも自信作だから一ヶ月はちゃんとつけててほしいな」
彼女はまた軽口を叩いたが警部はもうそれを咎めなかった。
そうか…どんなに素晴らしい作品を仕上げてもネイルアートは一ヶ月で消え去る運命の芸術なのだ。こんな儚い物で相手の心を永遠に支配することなんてできない。彼女が釈凛子に毎月ネイルアートを施術し続けたのは…やっぱり純粋な愛情、やがて奪われてしまうものを必死に抱きしめるような、祈りの愛情だったのかもしれない。
「それとムーンさん」
彼女の優しい目が私を見る。
「さっき、この容姿のせいでっておっしゃったけど…そんなこと言わないでください。色々と苦労されたんだとは思いますけど…自分の美しさを否定しないでほしいです。それはあなたの宝物だし、せっかくそんな魅力を持ってるんだから…。美容に携わった人間からの最後のお願いです」
「…ありがとうございます」
はい、とはどうしても言えなかったので私はそう答えた。彼女はクスッと笑うと施術スペースの方へ歩き出す。
「窓を閉めてきますね」
その背中はすっと伸びて動きは気品に満ちている。隣で警部が言った。
「大丈夫かい、ムーン?」
「…はい」
私はしっかり答える。窓に手を掛けて向こうを向いたまま彼女が明るく言った。
「そうだ、警部さん、ムーンさん、ちょっと入口のドアを見てください」
警部と私は振り返る。別に…何も変わった所はない。すると夜風がふいに吹き込んで背中をくすぐった。
向き直ると開け放たれた窓。もうそこにネイリストの姿はなかった。

-了-