第四章 ~鳥海李音~

「いつもありがとうございます、またお越しくださいね」
営業スマイルで最後の客を見送る。壁の時計は午後7時過ぎ、よし、これで今日の仕事は終了。さっさと片付けをして帰りますか。そう室内に向き直ったところで、再び入口のドアが開く音。さっきの客が忘れ物でもしたのかな、と思って振り返ると…そこにはあの男が立っていた。
「失礼します」
その低くてよく通る声はカイカン…隣には女刑事の姿もある。
「あら、どうされましたか?」
あっけらかんと答えながら内心は動揺していた。二人の雰囲気が昨日とは明らかに違うことを感じたからだ。
「お疲れのところすいません。鳥海さん、少し…お話よろしいですか?お借りしていたデジカメもお持ちしましたので」
「構いませんよ」
二人を中に招きまたソファを勧めたが立ったままでいいという。なのでこちらも座らずに応対する。
「それで、どのようなお話でしょうか。釈様について知っていることは昨日全てお伝えしましたが」
「全てじゃないですよね」
刑事はきっぱり否定した。
「釈さんとあなたはただの客とネイリストの関係ではなかった。プライベートでも交流されていましたね」
いきなり核心を突きやがる。私はまた頭に血が上りそうになる。
「否定しても無駄ですよ。あなたが彼女のマンションに出入りしていたことは防犯カメラの映像で確認できました。また昨年には二人でエジプトへ旅行されていますね。これも海外渡航記録で確認が取れています」
「別に…否定なんてしませんよ」
落ち着け、想定内の展開じゃないか。私はあえて余裕を見せる。
「そうです、釈様とは店の外でもお会いしてました。それが何か…いけないことですか?ネイリストの倫理にも違反しないと思いますけど」
「ではどうして隠されたのですか?」
「別に隠したつもりはありません。ただ大っぴらに言って回ることでもないですから」
「そうですか」
カイカンは一歩退いた。
「まあそれはよしとしましょう。しかし、プライベートな交流があったとすると、逆にいえばトラブルが起こった可能性もあるということです。仲良くなって距離が縮まったからこそ、気まずくなって激しくぶつかり合うこともある。それが人間関係の常ですから」
「随分と寂しい言い方をされますね」
私は嘲笑を浮かべた。
「そういう人もいるかもしれませんが、私は仲良くしてました。別にぶつかり合ってもいません。もしかして警部さんは…私を疑ってらっしゃるんですか?私が釈様を手に掛けた犯人だと?」
「いいえ」
狭い店内に重たい声が響く。
「疑いの段階はもう過ぎました」
思わず身震いする。錯覚か?カイカンの長い前髪の奥の右目が光ったような気がした。

 わずかに指先が震えている。こいつは…私が犯人だと確信してやがるのだ。隣で女刑事も刺すような眼差しを向けている。あなたまで…私を裏切るの?昨日あんなに仲良くネイルアートをしたのに。
「本気でおっしゃってるんですよね?」
怒鳴りそうになるのをこらえて私は尋ねた。刑事はゆっくり頷く。
「だったらわかるように言ってください。私は一昨日いつもどおりに釈様…いえ、凛子ちゃんのネイルアートをしただけです。あの子も笑顔で帰っていきました。なのにどうして…私が殺したなんてことになるんですか?」
「釈さんは笑顔で帰ったりしていません。一昨日の夜、まさにここで殺害されたのです」
カイカンは虚空を切り裂くように右手の人差し指を立てる。そしてその指先はゆっくり部屋の奥…リラックスチェアーを指し示した。
「あなたはリラックスチェアーに座っている釈さんの首を絞めました。クッションに深く沈み込んだ状態では満足に抵抗することもできなかったでしょう」
どうしてわかるんですか、と言いかけて口をつぐむ。危ない危ない、それでは自白したも同然だ。冷静になれ、こいつは何も証拠なんか掴んじゃいない。そもそも証拠なんかない。当てずっぽうで言ってるだけだ。
「勝手な想像は困りますよ、警部さん」
「根拠があります。昨日ムーンが施術を受けた時、チェアから漂うコロンの香りが妙にきついと感じたそうです。きっとたくさんふりかけ過ぎたのでしょう。BGM、アロマ、レイアウト…お客さんの癒しのためにこれだけ気を遣っているあなたがどうしてチェアーの香りだけをきつくしているのか」
私はぐっと唇を噛む。
「人は絞め殺されると多くの場合失禁します。あなたはその痕跡を誤魔化すために必死にチェアーを清掃した。染みは消えましたが、どうしても臭いが気になってコロンを使ったのでしょう」
「そんなの…根拠でも何でもないじゃないですか。たまたまコロンの量を間違えることだってあるでしょ!そんなことで私が殺人犯になるんですか?」
図星を指されて焦っている。落ち着け、まだ何も証明されていない!
「凛子ちゃんはちゃんと生きて帰りましたよ!疑うんだったら目撃者を探してください!きっといるはずです、凛子ちゃんが店から帰るのを見ている人が」
「おっしゃるとおり、目撃者はいました。同じフロアの歯科医院の先生です。一昨日の夜8時、廊下を歩いて帰っていく釈さんらしき若い女性を見たそうです」
胸の奥に安堵が広がる。偽装工作はちゃんと功を奏したのだ。
「ウフフ、だったら警部さんのお話は全部おかしいじゃないですか。あの子がここで殺されたなんて…もう、ご冗談ばっかり」
「いいえ、目撃されたのは釈さんではありません」
茶目っ気を放ったがカイカンは乗ってこない。
「目撃されたのはあなたです。彼女のコートを着て、彼女のニット帽をかぶって、彼女のサングラスをかけて、彼女のスカーフを巻いて、彼女の靴を履いて、彼女のハンドバッグを持ってはいましたが、紛れもなくあなたです。彼女の格好をしてあなたは廊下を歩いた。理由はいずれ警察が聞き込みをした時、彼女がちゃんと8時に帰ったことを印象付けるためです」
「無茶苦茶ですよ!」
ついに私は声を荒げる。
「さっきから全部警部さんの都合がいいように想像してるだけじゃないですか。確かに歯医者さんは凛子ちゃんの知り合いじゃないから、絶対凛子ちゃんだったって断言はできないかもしれません。でも…別人だったって断言することもできないでしょ?」
「いいえ、できるんです。フフフ、これはあなたの言葉がヒントになりました」
カイカンは不気味に笑ってまた人差し指を立てる。
「あなたにとって不運だったのは目撃者に歯医者さんを選んだことです。ネイリストが人を見る時につい手を見てしまうように…歯医者さんはつい相手の口を見てしまうそうですよ。口の大きさ、歯並び、そして顎の形…あなたがおっしゃった職業病というやつです。
実際に釈さんの生前の写真を見ていただいて確認しました。一昨日の夜に目撃した女性とは顎の形が違う、先生はそう証言してくれました」
何ということだ。あの子の服を着込んで挙動まで真似たのに…顎のことはノーマークだった。くそう、マスクでもしていればよかった。
「よろしいですか?そうやってあなたは釈さんが店を去ったように演出した。そして夜中になってこっそり遺体を運び出したんです。警備員の安藤さんに伺いました。深夜0時、エレベーターで偶然会った時、あなたは大きなキャリーケースを引いていたと」
「それは…」
こちらが言い訳を考える間も与えずカイカンは続ける。
「キャリーケースの中身が何だったのかは言うまでもありませんね?その後あなたは車で公園まで行き、林の中に彼女を遺棄したのです。キャリーケースのタイヤの跡は激しい雨が消してくれました。確かに一見、雨の中で強盗に襲われたように見える。しかし、発見された彼女の折り畳み傘は使用された形跡がなかった。屋内で殺害された証拠です」
憎たらしい。ここまで何から何まで言い当てやがるとは。でも…落ち着け、全部状況証拠だ。私が手を掛けたという物的証拠は何もないじゃないか。キャリーケースは処分したし車の中も清掃した。こいつの話は…まだ推測の域を出ていない。
「本当に…随分なことをおっしゃいますね」
私は冷たい眼差しで迎え撃つ。
「遺体をキャリーケースに詰めて運んで捨てて来たなんて…この私がそんな残虐なことをする殺人犯に見えますか?まあいいです、そうやって人をお疑いになるのが警察のお仕事なんでしょうから、同じプロフェッショナルとして理解します。
ただ…残念ですが私はそんなことしていません。警部さんもプロでしたらちゃんと証拠を示してください。でなければ名誉棄損で訴えます」
「…わかりました」
カイカンは無表情のままコートのポケットから一枚の紙を取り出した。

「これは釈さんの司法解剖の結果です。ここに胃の内容物が記されているんですが…」
指差しながら刑事は続けた。
「コーヒーの成分もチーズケーキの成分もないんです。昨日ムーンにおっしゃいましたよね?通常のサービスとしてコーヒーとケーキを振る舞うと。しかし同じサービスを受けたはずの釈さんはそれらを口にしていないんです。
この結果を見た時、私はようやく勘違いをしていたことに気付きました。彼女はここでネイルアートを施術されてから殺されたんだとばかり思っていましたが、実はそうじゃなかった。彼女は殺害されてからネイルアートを施術されたんです」
室内を緊張が貫く。女刑事はさらに厳しい眼光で私を見た。
「先ほどあなたは残虐という言葉を使われましたが、まさにこれは残虐です。あなたは殺害してしまった彼女にいつもどおりネイルアートを施したんですから。そうやって彼女が楽しく施術を受けたように演出した…まるで悪魔の所業です」
私は拳を握って睨み返す。
「また決め付けですか。コーヒーとケーキを口にしなかっただけでそこまで決め付けていいんですか?たまたま食べたくない気分の時だってあるでしょ。それでネイルアートだけ受けて帰ったのかもしれないじゃないですか」
「いいえ、一昨日釈さんがネイルアートを受けるつもりはなかったのは間違いありません。だってその翌日、恋人と出掛ける予定だったんですから」
「何を言ってるんです、それなら尚更オシャレするんじゃないですか?」
「二人は貴金属店へ行く予定だったそうです」
言葉を失う。そんな…。
「やはり…ご存じなかったんですね。改めて恋人の男性にお話を伺って、そのことを教えてもらいました。意味がおわかりですよね?そう、昨日釈さんは婚約指輪を選びに行く予定だったんですよ。それなのにあんな大きな薔薇の3Dアートをするわけがない。指輪のリングが通らなくなってしまいますからね。少なくとも左手の薬指だけは絶対に避けたはずです。それなのにネイルアートは左手の薬指にもしっかり施されていた」
もちろん憶えている。私は彼女の右手の親指と人差し指に白い薔薇、左手の薬指と小指に赤い薔薇を咲かせたのだ。
「一昨日の夜、釈さんは先月のネイルアートをはずしてもらうためだけに来店したんです。でもそのことを言う前にあなたに殺害されてしまった。そして本来するはずのなかったネイルアートを施術されてしまったわけです」
全身がわなわなと震えだす。カイカンに追い詰められたせいじゃない。あの子がもう婚約の段階まで進んでいたからだ。交際を始めて半年だと言っていたのに…!
「釈さんのネイルアートは亡くなってから施された…この事実に気付いた時、犯行を立証する決定的な証拠が残されていることに思い当たりました。そう、これです」
今度はデジカメを取り出すカイカン。そして一枚の写真を表示するとそれを私に見せつけた。
「一昨日の夜撮影したこの写真…一見楽しそうな写真ですが、これはすでに亡くなっていた釈さんの手ということになります。あなたは台の上に彼女の手を置いて、無理矢理指のポーズをとらせたんですね?」
「そんなの…勝手な想像…」
もう言葉が出てこない。しかしカイカンは容赦なく続ける。
「想像ではありません。いいですか、この写真のポーズをよく見てください。中指を折り曲げて台に着けた状態で他の四本の指が上に伸びている」
そこで女刑事が素早く動き、キャスター付きの台…実際に撮影の時に使用した台を持って来た。
「写真と同じポーズをしてみてください」
彼女が有無を言わさぬ厳しさで指示する。私は台の上に自分の左手を乗せた。一体何だというのか。まず中指を折り曲げて第一関節と第二関節を台に密着させる。そして残りの四本の指を上に持ち上げる。

…そんな!

私は絶望する。親指、人差し指、小指は持ちあがるのに…薬指だけが微動だにしない。台の面に引っ付いたままだ。どんなに力を入れても1ミリも上がらない。私は思わず二人の刑事の顔を交互に見た。
「おわかりになりましたね?」
カイカンがどこか寂しそうに言った。
「解剖学の本で確かめました。人間の手というものは、中指を折り曲げてしまうと薬指を後ろに反らせない構造なんです。唯一の例外は…死後硬直。これも法医学の本で確かめました。人間の体は死亡すると徐々に筋肉が硬直して不自然な体勢でも固まることができる。
つまり何が言いたいかと申しますと、この写真は生きている人間には絶対にできないポーズだということ。硬直が始まりかけた指を無理矢理ポージングされた、死んだ人間にしかできないポーズだということです」
そういう…ことか。体から力が抜けていく。
これまで何千人の手に触れて来た。触れればその人の生き方までわかる気がした。そして手や指は私にとって最高の芸術を表現する美のカンバスだった。でも…解剖学に法医学か、そんな視点は持ち合わせていなかった。
「この写真を撮影した時、釈さんはもう亡くなっていました。ということは…」
「やめてください」
私は弱い声で説明を遮った。そしてゆっくり息を吸ってからそれをまたゆっくり吐き、その先の言葉を続けた。
「もう結構です。私が…ここであの子を手に掛けました。認めます」

 静まり変える室内。無言の時が過ぎる。もう二人は私を睨んでいなかった。むしろどこか哀れみを含んだ目を注いでいる。私は何かに頷いてそっと口を開いた。
「プロの仕事を…見せてもらいましたよ、警部さん。それに…ムーンさん」
「こちらこそ」
カイカンは小さくそう返す。
「お二人ならどうして私がこんなことをしたのか…わかってくれますか?」
また沈黙。やがてゆっくり低い声が言う。
「最初は釈さんがあなたの恋人を奪ったのかと思いました。でもそうじゃなかった、釈さんの婚約者の男性とあなたの間には何の関係もありませんでした。そうじゃなくて…釈さんは恋人だったあなたを捨てて男性の方を選んだ、それが許せなかったんですね」
「ご名答」
私はおどけて小さく拍手してみせた。
「そうです。凛子ちゃんとは友人関係じゃありません、愛し合っていたんです。だから土井とかいう男からアタックされてもあの子は応じる気なんてありませんでした。なのに…少しずつあの子は変わってしまった。私ではなくその男に心も体も傾けていった…」
話しているうちに今度は涙が滲んでくる。泣くなよ、絶対泣くなよ。
「一昨日の夜、はっきり言われました…終わりにしてほしいって。だから殺したんです。私にはプライドがありました、誰よりもあの子を愛してるプライドが。それを…あの子は裏切ったんです」
カイカンがそっと目を伏せる。しかし隣の彼女はまっすぐにこちらを向いたままだ。
「でもよくわかりましたね、私の気持ちが。あの子との関係は誰にも言ってなかったのに」
「私が警部に進言しました」
女刑事が口を開き、はっきりと告げた。
「おこがましく聞こえるかもしれませんが、私はこの容姿のせいで学生の頃から何度も異性にアタックを受けてきました。いやらしい目で見られたり、勝手に写真を撮られたり…嫌なこともたくさんありました」
「…でしょうね」
それは察していたつもりだ。こんなに美人なのに彼女が花や傘に欠けるのは、きっと彼女自身が美貌を嫌悪しているからだろうと。美しさのせいで不幸になった女を私は何人も見て来た。
でもだからこそ私は…ネイリストが好きなのだ。例え美しさのせいで悲劇に見舞われたとしても、それでも女には美しさの追究をあきらめてほしくない。私はそんな女たちを応援したい、もっともっと美しくしたいのだ。戦時中、街が軍に占領されても美しい服を作り続けたパリのファッションデザイナーたちのように。
私は口元を綻ばせて彼女を見た。女刑事は続ける。
「そんなふうに生きてきたので…私にはセンサーが備わっているんです。恋愛対象として興味を持たれた時に敏感に反応するセンサーが。昨日ネイルアートの施術を受けた時のあなたの視線に…失礼ですが、センサーは反応していました」
「ナルホド」
わざとカイカンのイントネーションを真似て頷いた。
「そういうことか…それで私が凛子ちゃんにもそんな感情を抱いてたんじゃないかって思ったんですね。大丈夫ですよムーンさん、あなたをくどいたりしないから。まあ、一回くらいデートしてみたかったですけど」
「そろそろいいですか」
カイカンが口を挟んだ。
「ふざけている場合じゃありませんよ。あなたはこれから長い時間をかけて償わなければならないんです。自分の罪を…自覚してください」
その言葉に怒りが込み上げてくる。
「罪…罪って何ですか?」
私は憎悪を込めてカイカンに詰め寄った。
「女を愛したことが罪だとおっしゃるんですか?」
「全然違います。あなたが誰を愛しても、それが罪になることはありません。そして…」
これまでで一番重たい声が告げた。
「あなたが誰を殺しても、それは必ず罪になるんです」