第三章② ~ムーン~

警視庁のいつもの部屋に戻った警部と私は、改めてここまでの捜査で判明した情報を整理してみた。警部の言葉に従い私がホワイトボードに板書する。

まずは被害者である釈凛子について。仕事は医療事務、半年前から交際していた土井悟と先月婚約。昨日の足取りは、午後4時に職場の病院を出る、そして午後5時から予約していた常連のネイルサロン『カルナック』で薔薇の3Dアートの施術を受け、完成した両手の指をデジカメで撮影、そして午後8時に店を出た。廊下を帰って行く姿を砂辺という歯科医に目撃されているが、翌朝公園で絞殺体が発見されるまで、それ以降の足取りは不明。
現時点での死亡推定時刻は午後5時から午前0時なので、店を出た午後8時から午前0時の間に殺害されたと考えられる。ただすでに雨が降っていたにも関わらず、現場で発見された彼女の折り畳み傘には使用された形跡がないのが疑問点。

続いて鳥海李音についての考察。ネイルサロン『カルナック』のネイリストにして経営者。今の所被害者に会った最後の人物。昨日の午後5時から被害者にネイルアートを施術、被害者が8時に帰った後は残業をしていたようで、安藤という警備員が午後10時にそれを確認している。また午前0時にも帰宅する彼女とエレベーターで会っている。
被害者のスマートフォンに個人の番号が登録されていたこと、『ニュー・カタラクト』が被害者の住むマンションの名前だと知っている様子であったことなどから、被害者とはプライベートな交流もあったと推測されるが、本人は明言を避けているのが疑問点。

以上、情報を整理してみても結局それ以上の進展はなかった。私は板書していたペンを置き、警部も壁際のソファに沈み込む。そしてしばしそれぞれの黙考に入った。
どうなのだろう、鳥海李音は事件に関わっているのだろうか。それとも当初疑ったように強盗犯の仕業なのだろうか。変人上司を見ると、やはりネイリストに引っ掛かるものを感じているらしく、彼女から預かったデジカメの写真データを一枚ずつチェックしていた。
「釈さんは本当にネイルアートが好きだったんだね」
やがて低い声がしみじみと言った。
「この三年間で色々な3Dアートをやってるよ。薔薇とかカーネーションとかの花シリーズだけじゃない、イルカとかツバメとかの動物、リンゴやマスカットとかの果物、星座や建物のシリーズまである。指も色々変えながら…本当に楽しそうだ。施術を受けてる釈さんだけじゃなくて、施術してる鳥海さんの楽しさまで写真から伝わってくるよ」
「写真だけで釈さんの手だとわかるんですか?」
「ちゃんと写真のデータに日付とイニシャルが入れてあるからね。それに何枚も見てると、なんとなく同じ手だってわかるようになった。きっと鳥海さんなら一目で誰の手かわかるんだろうね」
「警部は…鳥海さんを疑っておられますか?」
「少なくとも友人関係だったのは間違いないと思う。いつも午後5時からの一番最後の予約枠だったのも、終わった後で一緒に食事に行ったりしてたからじゃないかな。
ねえムーン、明日でいいからその辺りを調べてくれるかい?」
了解です、と手帳にその指示をメモしているとデスクの電話が鳴る。出ると監察医務院からだった。司法解剖が終わり釈凛子の検案書が仕上がったとのことで、受話器を置くとすぐにFAXが流れてきた。腰を上げた警部が手に取り、私も横から覗き込む。
やはり遺体が長時間雨に打たれていたために、通常よりも慎重な検案が行なわれたらしい。死亡推定時刻は午後5時から10時に短縮されていた。また遺体が屈曲された状態で運搬された可能性があるとも記されていた。
「警部、これは…」
「やっぱり殺害現場はあの雑木林じゃないんだよ。彼女は屋内で殺害されてあそこへ運ばれたんだ。それにムーン、ここを見て」
警部は検案書の一点を指差す。それは胃の内容物を記した欄。私もすぐにその意味を察する。
「どうやら私たちは大きな勘違いをしていたみたいだね」
「でもおかしいですよ。犯人が鳥海さんで釈さんがネイルサロンで殺害されたのなら、歯科医の目撃証言はどうなります?」
「あれは替え玉だ。鳥海さんがなりすましていたんだろう。わざと歯医者の先生に目撃させて、釈さんがちゃんと店から帰ったように見せかけたんだよ」
まさかそんなことが…。警部がそこでまたおしゃぶり昆布を口にくわえる。
「犯行の全貌が見えてきた。残るは証拠、そして動機だ。やっぱり土井さんが清算した過去の女性関係っていうのが気になるね」
「そのことなんですが」
伝えておくべきだろう。私は遠慮がちに口を開く。
「動機についてですが、その、もしかしたら…、いやあの、本当にもしかしたらなんで違うかもしれないんですけど」
しどろもどろなのが自分でもわかる。上司は珍しそうにこちらを見た。
「いいよ、言ってごらん」
「自慢みたいでちょっと言いにくいんですけど…」
ポツリポツリとその推論を伝える。最初は何の話だろうという顔をしていた警部も途中から目を見開いてくる。そしてゆっくり右手の人差し指を立てるとそのままのポーズで静止、私が話を終えても全く動かなくなってしまった。まるで仕上げのUVライトでカチコチに固められたネイルアートのようだ。
…来た。これはこの人の頭脳が猛スピードで回転している時の現象。こうなると黙って待つしか私にはすることがない。
「まさか…」
数分の後、ようやく警部の硬直が解ける。そう呟くと変人上司はソファの上に置いたままにしていたデジカメに飛びついた。そして何かを探すように一枚一枚を一心不乱にチェックしていく。
「やっぱり…ムーン、君の考えは当たっているよ」
そう言われてもわけがわからない。気になって私もデジカメの画面を覗き込む。警部はこれまでに撮影された釈凛子のネイルアートを見ているようだった。カシャ、カシャ、とこの三年間の彼女の指が紙芝居のように切り替わっていく。そしてその確認作業はついに昨日の写真まで来る。
はしゃいだ指のポーズで撮影された薔薇のネイルアート。警部の前髪に隠れていない左目がじっとそれを見つめる…そこには驚愕の色が浮かんでいた。
「警部、どういうことですか?」
尋ねた私に低い声が告げる。
「証拠も動機も…ここにあったんだよ」
次の瞬間、警部はくわえていた昆布を一気に呑み込んだ。