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「失礼します」
聞き慣れない声に振り向くと、そこには不気味極まりない男が立っていた。ボロボロのコートにハットをまとい、長い前髪は右目を隠している。ネイルサロンの客としてはもちろんだが、一般的な社会人のルックスとしても明らかにおかしい。何だこいつは?条件反射の「いらっしゃいませ」の言葉が口の中で止まってしまう。
「お仕事中にすいません。今、お客さんはいらっしゃいませんか?」
「ええ…」
ひとまずそう答えた。こちらの疑念などお構いなしに男は店内に入ってくる。警備員を呼ぼうかと電話に手を伸ばしかけた瞬間、男に続いて入ってきたのは…あまりにも美しい女だった。私は思わず目を奪われる。
何だ?ひょっとして女優か?この近くでテレビドラマの撮影でもしているのか?そう考えると男が変な格好をしているのも納得。それにしても…これまでにも芸能人の客は何人か来たが、この女は群を抜いている。
しかし私の推測は全くはずれていた。彼女が後ろ手にドアを閉めたタイミングで男の低くてよく通る声が言う。
「私は警視庁の刑事でカイカンといいます。こちらは部下のムーン」
彼女の手には警察手帳が示される。刑事…この二人が?確かに言葉遣いは丁寧で礼節もあるようだが…それにしてもその容姿は何だ?異様と美貌、逆のベクトルでどちらも針が振り切れている。しかもカイカンとかムーンとか…名前までわけがわからない。
「刑事さん…ですか」
混乱する頭で私はかろうじてそう返す。そして自分の立場を思い出した。昨夜あの子をこの手に掛けた殺人犯…その私にとって警察は最も警戒せねばならない敵ではないか。いずれは来るだろうと覚悟していたが、昨日の今日でもう現れるとは…油断禁物だ。
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしてしまって。ここでネイリストをしている鳥海です」
得意の営業スマイルを一発。二人も軽く会釈した。
「警察の方とお話するのは初めてなもので…少々緊張しています。あの、どのようなご用件でしょうか?」
「殺人事件の捜査をしていましてね、あなたに伺いたいことがあるんです。お時間よろしいですか?」
「構いませんよ。ではどうぞ」
女刑事も手帳をしまいカイカンと一緒にこちらへ来る。近くで見るとますます綺麗だ。それほどメイクが濃いわけでもないからきっと素材が良いのだろう。
「すいません、小さいお店ですから応接室とかはないもので」
二人には受付前のソファに座ってもらい、自分は手近な椅子を持って来て腰を下ろす。
「それで、私に伺いたいことというのは…」
「はい、実はですね」
そう言いかけてカイカンは奥を見た。どうやらリラックスチェアーが気になっているらしい。
「ゆったりした大きな椅子ですね。あそこにお客さんが座られるのですか?」
「ええ、リラックスチェアーです。座るとわかりますがフカフカですよ。ネイルアートを施術している間、お客様に寛いでいただけるように」
「ナルホド」
刑事は独特のイントネーションで頷く。
「テレビやステレオまでありますね。他にも…小物や観葉植物、加湿器に空気清浄器、壁には絵まで掛かってるじゃないですか。これもお客さんのリラックスのためですか?」
「もちろんです。ここはサロンですから、お客様にはネイルアートだけじゃなくて癒しの空気を味わっていただきたいんです」
「ナルホド」
刑事はまた頷く。さっさと本題に入ってほしいのだがこいつはさらにキョロキョロしながら脱線を続けやがる。
「いやあ、こういう所に来たことがないもので。見た所リラックスチェアーは一台しかありませんが、ネイルサロンというのはそういうものなんですか?」
「三つ四つ椅子が並んでいて同時進行でやるお店もありますけどね、うちは私一人でやっていますからお客様も一人ずつ完全予約制で対応しています」
「予約制で一人ずつですか。であれば昨日ここに来たお客さんのことは憶えておられますよね?実はお伺いしたいのはそのことでして」
カイカンの顔から笑みが消える。隣の女刑事も眼光を鋭くしてメモの準備をした。
「釈凛子さんについて教えていただけますか?」
*
予想はしていたとはいえ、いきなり切り込んできやがったか。まあ…殺人事件が起きれば被害者の事件前の足取りを調べるのは当たり前だろう。特段私が疑われているわけではないはず。シミュレーションしていたとおりに答えればいいんだ。
「釈様ですか。ええ、昨日の午後5時からのご予約で…いつもどおりに施術を受けて帰られましたけど」
「何時頃帰られましたか?」
目を細めるカイカン。
「午後…8時頃です」
「釈さんは何かおっしゃっていませんでしたか?これからどこへ行くとか、誰かと会うとか」
「いえ、特には…。あの、釈様に何かあったんですか?先ほど殺人事件の捜査とおっしゃいましたけど」
不安を装って尋ねると、刑事は深い溜め息をつく。そして押し殺した声で告げた。
「…亡くなられました。今朝絞殺体が発見されたんです。現場は『ニュー・カタラクト』の近くの公園です」
「そんな…」
驚いたふりをする私の顔をカイカンはじっと見ていた。
「信じられません、釈様が…。昨日お会いした時はあんなにお元気だったのに」
「残酷な話です。釈さんは財布も奪われていました」
「じゃあマンションへ帰る途中で公園を歩いていて強盗に襲われたってことですか?」
「かもしれません。もちろん怨恨の線も考えられますから、今慎重に捜査を進めているところです」
まあ仕方ないか。できればなるべくスムーズに強盗事件として処理されてほしいものだ。
「同僚の方に伺いました。釈さんはネイルアートがお好きだったそうですね。ここに通われるようになって長いのですか?」
カイカンが少しだけ声に明るさを含ませる。
「三年くらい経ちますかね。私のアートを気に行ってくれて、すっかり常連さんでした。月末には必ず来ていただいて…」
話していて胸の奥が鈍く痛む。あの頃は本当に楽しかった。一緒にアートのデザインを考えたり、実際にそれを試してみたり…。私の技術の上達に彼女が貢献してくれたのは間違いない。それはとても感謝している。だからこそ…裏切ってほしくなかった。
「そうですか。あの、今日ももう5時ですがお客さんの予約は大丈夫なんですか?」
「ええ、残念ながら今夜の予約は入っていません。ですからゆっくり掃除でもしようかなと思っていたところで」
「だとしたらちょうどいい」
カイカンの顔に笑みが戻る。大袈裟に頷くと彼は右手の人差し指を立てた。
「では当日券でネイルアートをお願いしてもよろしいですか?もちろんお代はお支払いします」
こいつは何を言ってるんだろう。私が戸惑いながら「えっと…刑事さんにですか?」と確認すると、彼はいやいやと首を振った。
「ぜひ、ムーンの指にしてやってください」
「え?」
隣の女刑事はその美しさに似合わない渋い声を漏らした。
2
「ちょっと警部、どういうことですか?」
「だから君が鳥海さんにネイルアートをやってもらうってことだよ」
「ですから、どうしてそんなことしなくちゃいけないんですか!」
「私はネイルサロンとかネイルアートのことを何も知らないからね。百聞は一見にしかず、理解するには見せてもらうのが一番早いさ」
「そうかもしれませんが…だったら警部がやってもらえばいいじゃないですか」
「おいおい、私のこの格好でネイルアートをしてたらおかしいじゃないか」
「もうとっくにおかしいんです!」
変人と美人の刑事コンビが漫才のような言い合いをしている。カイカンの階級が警部であることもそのやりとりでわかった。警部って…結構偉いんじゃなかったっけ?でもこいつを見る限り…警戒するほどの相手でもなさそうだが。
それにしてもネイルアートを頼まれるなんてこれはシミュレートしていなかった。まあこんなに綺麗な女に施術できるなら、ネイリストとしては願ってもないけど。思わず心の中で舌なめずりをする。
結局女刑事が折れたらしい。渋々ながら私に「お願いします」とお辞儀した。こちらも「いえいえ」とちょっと苦笑い。
「ではお手を拝見致しますね。よろしいですか」
私は椅子ごとソファに接近すると、彼女が差し出した手に触れる。白くて細い指…爪も健康的だ。
「もしかして昔…ピアノをやられていました?」
「え?はい、ちょっとだけですが」
答える彼女の隣でカイカンも驚いている。
「そんなこともわかるんですか?」
「これでも何千人の指に触れてきましたから、まあ職業病ですよ。テレビを見ていてもすぐに女優さんの指を見てしまうんです。ムーン様はとても綺麗な手だから…ネイルアートはささやかな方がいいかもしれませんね。あ、でも少しだけ右手の指にはタコがありますね」
「きっと拳銃のせいだと思います。射撃訓練をしますから」
彼女は少し照れる。こんな美人が拳銃をぶっ放すんだと思うとそれはそれで興味深い。
「いやあ、まるで名探偵ですね。シャーロック・ホームズが握手しただけで相手の人生を言い当ててる場面みたいだ」
「そんなそんな。ウフフ、じゃあ警部さんもちょっといい?」
調子に乗った私は悪戯っぽくカイカンの手も取ってやる。途端にその顔がニヤけた。やっぱり変人でも男か。男なんてちょっとスキンシップしてタメ口を挟んでやるとすぐ喜ぶんだから。女刑事もそんな上司に冷たい視線を注いでいる。
「警部さんは…大きな手ですね。左手の指先が肥厚して固くなってるから…ギターとかやってらしたのかしら」
「まいりました、ご名答です。学生の頃に少々」
嘘ついちゃって、本当は今でも時々弾いてるくせに。まあいい、そこは指摘しないでおいてやるか。それにこいつのことなんて興味ないし。
「ではお客様、こちらへどうぞ」
私は腰を上げて彼女を立ち上がらせる。するとカイカンが呼び止めた。
「あの、鳥海さん、一つだけお願いがあります。ムーンの施術ですが、普段どおり、他のお客さんにするのと全く同じようにやってください。先ほどあなたがおっしゃった、癒しの空気も含めて全部」
「…承知しました」
どういう意図があるんだろう。まあいい、言われなくてもそうするつもりだ。私はプロのネイリストなんだから。
「ではムーン様、コートをお預かりしますね」
受け取ってからハンガーに掛けると私はリラックスチェアーを示す。
「そうしましたらここにお座りください」
「よろしくお願いします」
すごく緊張してるみたい、あんまり経験がないのかな。すれ違いざまに彼女の香水が鼻先をかすめる。その良い香りに俄然やる気が出てきた。
よし、やってやるか。私の技術でこの美人をもっと美しくしてみせる!