第一章② ~ムーン~

「少しは落ち着かれましたか?」
取調室の机の体面で憔悴する男に私はそう声を掛けた。彼は泣き腫らした目で「はい」と顔を上げたが、ちょっとでも刺激すればすぐにまたその瞳から涙が溢れてしまいそうだ。言葉をどう継いだものかわからず、こちらもまた黙ってしまう。

私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

現在捜査に当たっているのは、今朝雑木林で発見された若い女性の絞殺体。雑木林といっても公園の一角であり、地面に仰向けに倒れた被害者はすみれ色のスカーフで頚部を絞められて絶命していた。服のコーディネート、ヘアカラーやヘアスタイル、メイク、スキンケア、アクセサリー、ネイルアート…いずれを見ても美容やファッションへの意識が高い人物だったことが伺える。きっと生前は愛らしくて華やかな魅力をまとった女性だったのだろう。なのに…その華奢な体は夜通しの豪雨に打たれて氷のように冷たくなっていた。
私がカイカン警部の下についてもう何年も経つ。これまで幾度となく殺人事件の現場に立ってきたが、捜査には慣れてもこの無念さに慣れることはない。自分と同世代の女性の命が理不尽な暴力によって奪われたという事実は、警察官としても一個人としても、哀れみと憤りを禁じ得ないものだった。
その凄惨な現場の情景は脳裏に焼きついている。遺体の近くには彼女の物と思われるハンドバッグが中身をぶちまけられた状態で捨てられていた。財布は持ち去られており、スマートフォンのバッテリーも切れていたが、手帳や名刺はそのままだったので彼女の身元はすぐにわかった。名前は釈凛子(しゃく・りんこ)、26歳、仕事は医療事務。夜中に公園を通った際に強盗に襲われたというのが現時点では最も疑わしい線だった。
現場の公園は住宅街の中にあり、日中は子供たちだけでなく若いカップルから老夫婦まで多くの市民が行き交う場所。ただ夜ともなればさすがに出入りする者は少なく、しかも夕べのような大雨ならまず皆無。遺体が朝まで発見されなかったのも無理はない。
発見したのは雨上りの朝の散歩を楽しんでいた熟年夫婦。公園のすぐ近くにある『ニュー・カタラクト』というマンションの住人。被害者女性のこともエントランスで何度か見掛けたことがあり、エレベーターが一緒になった際には言葉を交わした経験もあったという。もちろん夫婦は遺体の顔をまじまじと見たわけではないが、その黄緑色のコートと紺色のニット帽には見覚え我あり、自分たちの知っている女性だとピンと来たらしい。そのため110番通報の時点ですでに「同じマンションに住む女性が…」と口にしている。通報を受けて捜査を割り振られた私が現場に到着したのが午前8時過ぎだった。
遺体のポケットの中に部屋の鍵もあり、被害者は間違いなく『ニュー・カタラクト』の704号室の住人・釈凛子であることが確認された。それを聞いた熟年夫婦はまるで自分たちの娘を失ったかのように嘆きの涙を流したのである。

「お辛いですよね」
我に返った私は目の前の男にようやくそう搾り出す。「ええ」と頷いた彼の名は土井悟(どい・さとる)、35歳、製薬会社勤務。そして殺害された釈凛子の婚約者。まだ捜査は始まったばかりなのに彼がすでに警察署の取調室にいるのは、こちらが探し出す前に自ら飛び込んできたからだ。
土井は三日前から出張で大阪へ赴いており、今朝の新幹線で戻ってきた。スーツ姿のまま東京駅から彼女のマンションへ直行したが、何度インターホンを鳴らしても応答はなく電話もつながらない。どうしたものかと一度表へ出たところで公園に人だかりができていることに気付き、無性に嫌な予感を覚えて野次馬たちに何があったのかを確認、すると若い女性の遺体が発見されたというではないか。居ても立ってもいられなくなった彼は停車する警察車両の間をぬって園内へ突入、現場保存のテープの前で制服警官に制止されるに至った。
雑木林で現場検証をしていた私は、その警官に呼ばれて彼に対応。彼は「若い女性が亡くなっているのは本当ですか?知り合い加茂しれないんです!」と必死にくり返した。とはいえ、まだ何者かもわからない人物を現場に近付けるわけにもいかなかったのでどうしたものかとあぐねていると、そこに「やあムーン」と警部が臨場。私の上司はいつもそうやって遅れて現場にやってくるのだ。
事情を耳打ちすると、警部は彼に「あなたが気になさっている女性のお名前を教えていただけますか?」と尋ねた。その口からは「凛子です、釈凛子です!」とまさにその名前が出たため、警部は私に事情を伺うように命じた。
そして私がその場で聴取している間に警部も雑木林の現場を検証。そのうちに警部の許可が出て私が彼を連れて行く。さすがに惨状をそのまま見せるわけにはいかなかったので、警部は搬出用のストレッチャーに乗った遺体の肩から上だけを布をめくって彼に示した。
次の瞬間、雑木林に住む鳥たちが一斉に飛び立つほどの絶叫が響く。彼女にすがりつこうとする彼を私が抑え、警部は「お察しします」と一礼して遺体をそのまま運び出させた。最愛の存在を失った男はその場に膝から崩れ落ち、慟哭に心を潰されながらしばらく言葉にならない声を発し続けた。私はそんな彼を車に乗せてここまで連れてきたのである。
「…取り乱してすいませんでした」
嗄れた声で土井が言った。私はゆっくり首を振る。
「いいえ…当然のことです。それほど釈さんのことを愛していらっしゃったんですね」
そんな言葉で労いながら、同時に彼から情報を引き出そうとしている自分に私は嫌悪を覚える。これが刑事の務めとはいえ…いや、それでいいんだ、私は捜査で彼に関わっているのだ。同情して涙を流すのは私の役目じゃない…なんて、そもそもそんな能力を持ち合わせてもいないくせに。
「愛していました…」
彼はそんな私の胸中など知る由もなくぼんやり答える。被害者の婚約者…捜査上避けては通れない人物。場合によっては容疑者にもなり得る。私はそっと気を引き締めた。
「今日は釈さんと会う約束をされていたんですか?」
「はい。俺が出張から帰ったらそのまま迎えに行って、一緒にランチして、その後で…買い物へ行こうって約束してました」
「昨夜も連絡を取られましたか?」
「いえ、大阪の仕事仲間と飲みに行ってましたから。俺も彼女もあんまりこと細かくメールとか電話をし合うのが好きじゃないんで。でも…そうですね、俺が連絡してれば凛子は…こんなことにならなかったのかもしれませんね」
唇を噛む土井。彼の自責の念が膨らんでしまう前に私は話題を転換した。
「釈さんとのおつき合いは長いんですか?」
「いえ…凛子は私が出入りしている病院の受付で働いています。初めて会ったのは二年前なんですが、お恥ずかしながら一目惚れでしたよ。そこから少しずつ声を掛けて、話をするようになって…」
思い出に癒されたのか、少しだけ彼の目元が緩む。
「こんなに一人の女性に夢中になったのは初めてですよ。まるで中坊の頃にアイドルの握手会に行った時みたいに…いやそれ以上かな、それくらい凛子に心を奪われたんです」
「すぐに交際が始まったんですか?」
「いえいえ、それが結構苦難の道のりで…。彼女は俺の誘いになかなか応じてくれませんでした。もしかしたら彼氏とか好きな奴とかがいたのかもしれません。それに俺にも先に清算しなきゃならない女性関係がありましたから。
あ、でも二股とかはしてませんよ。俺はまず自分のことにきっちりケリをつけて、それから凛子に猛アタックしたんです。最初はうまくかわされてましたけどはっきり拒絶もされないんで脈ありかなとか思ったりして…懲りずにアタックを続けました。そうしたら半年前くらいから、二人で食事とか行けるようになって、そのうちに…」
先の言葉を彼は濁した。深い仲になった、というのを暗に示したのかもしれない。
「俺としてはもう凛子が運命だって思うくらいに惚れ込んでましたから、交際してからの日は浅いですけど、先月プロポーズしたんです。そしたら凛子も…頷いてくれて…。だから今日も二人で…」
言葉が止まる。俯いた彼の瞳から数滴の雫が膝に落ちた。
苦難を乗り越えての恋愛成就、恋人と別れてでも選んだ真実の愛…。私の心はそんな彼の話に羨望よりも軽蔑に近い感情を抱いてしまう。やっぱり私は人としてどこか壊れているのだろう。まあいい、そんなことより彼から語られた重要な証言に注目せねば。
もし釈凛子にもともと恋人がいて、彼女から別れを切り出されたとしたら…殺人の動機になりうる。あるいは土井が清算したという過去の女性関係、その中に彼女の存在を知った者がいたとすれば…それもまた殺人の動機になりうる。できれば土井に過去の恋人の名前を訊きたいところだが…さすがに今は間が悪いか。
すすり泣く彼を見ながら言葉を探していると、取調室のドアがノックされた。
「失礼しますよ」
低い声が入ってくる。ボロボロのコートにハット、長い前髪が右目を隠した異様極まりない男…私の上司・カイカン警部であった。

 その後、警部も土井にいくつかの質問をしたが特に新たな情報は出てこなかった。彼が釈凛子と交際するために別れたという恋人についても確認されたが、「相手に迷惑がかかるので…」と土井は口を割らなかった。警部も言及はせず、「ご協力ありがとうございます」と聴取を終え、疲れ切っているだろう彼を解放したのである。

「土井さん…大丈夫ですかね?」
「そうだね…」
私の運転する車の助手席で警部が答えた。
「かなりショックを受けてるみたいだからね。あ、それとも君が言いたいのは容疑者かもしれない彼を帰してよかったのかってこと?」
「どちらかというとそっちです」
「君らしいね。確かに婚約者なら被害者との間にもめ事があってもおかしくない。でも土井さんが今朝まで大阪にいたことは、出張先の仕事仲間やホテルの従業員からも確認が取れてる」
そうなのだ。釈凛子の死亡推定時刻は、現場の検死によると昨日の午後5時から午前0時。もちろん司法解剖でもっと狭まる可能性はあるが、土井悟には現時点でも鉄壁のアリバイが成立している。
「大阪から東京へ瞬間移動するトリックがあるのかもしれないけど、まずはそれよりも被害者の足取りを整理してみようよ。釈さんが昨日職場を退勤したのが…」
「午後4時です。電話で勤務先の病院に確認しました。通常は5時上がりだそうですが、昨日は一時間早く上がられたと。急にそうしたわけではなく、早退の申請は前もってされていたと上司がおっしゃっていました」
「何か予定があったんだね」
「でしょうね。ただ予定の内容までは上司も知らないそうです」
そこで警部が不気味に笑う。
「フフフ…そりゃあ上司が部下のプライベートを隅々まで知っているわけないさ。部下だって全てを上司に見せるわけがない」
なによその言い方。ああそうですよ、私だってあなたにプライベートな話はしない。それが当たり前だし…あえて伝えるほどのことも…特にないし。
「いいかいムーン?釈さんのプライベートを尋ねるなら上司よりも同僚だ」
「では、予定どおり行きますね」
「よろしく!」
警部が元気に答える。私は彼女が勤めていた病院へハンドルを切った。

 警部の読みは正しかった。釈凛子と一緒に医療事務をやっていた伊豆という同僚女性が彼女のことを詳しく把握、土井から猛アタックされていたこと、彼に惹かれながらも気持ちに応えるべきか迷っていたことなども相談を受けていたという。
「でもまさか釈ちゃんが…」
伊豆は突然の悲報に強く胸を痛めていた。
「つかぬことをお伺いしますが、釈さんが土井さんの猛アタックを受けてもすぐには応じなかったのは…どうしてでしょう?」
相手が落ち着くのを待って警部が尋ねた。しかし右手で目頭を押さえたまま伊豆はその問いには無言を返した。
「もちろん恋愛に慎重な方もおられます。警察として知りたいのは…釈さんには別に好きな相手がいたのかどうかということです」
「…わかりません」
ようやく口が開かれる。
「あたしも尋ねたことはあります。けどいつもはぐらかされちゃって…。あんな可愛い子がずっとフリーなのも変だから、多分彼氏がいるんじゃないかなって思ってはいました。でも…どうだろう、やっぱり…わかりませんね。何度か一緒にごはんくらいは行きましたけど、心の奥底は見せない子でしたから」
「そうですか。ちなみに土井さんにももともと恋人がいたという話はお聞きになったことがありますか?」
伊豆はそれも知らないと答えた。
「わかりました。では…釈さんが誰かに恨まれていたというようなことはあるでしょうか?」
「そんな…すっごくいい子ですよ。気配りもできるし、優しいし、ドクターからの評判も良かったです。刑事さん、釈ちゃんは通り魔に偶然襲われたんじゃないんですか?」
「まだ何とも言えません」
そう答えて一呼吸置くと、警部は一番重要な質問を投げた。
「釈さんが昨日一時間早く退勤した理由をご存じですか?」
「はい。いえあの、はっきり聞いたわけじゃないんですけど、多分…ネイルサロンだと思います」
「ネイル…」
警部の低い声が呟く。きっと私と同じ映像が頭に浮かんでいるのだろう。雑木林で発見された彼女の指にはネイルアートがほどこされていた。確か、右手の親指と人差し指、それと左手の薬指と小指だったか、それぞれの爪の上に薔薇の花の造形が乗っていた。
「釈ちゃんはネイルアートが好きなんです。病院の受付嬢は患者さんに元気を出してもらうために指先も華やかじゃないといけないなんて言って。まあおばちゃんナースにはそれを良く思わない人もいましたけど、患者さんたちには好評でした。お釣りを渡す時にそれ可愛いですねなんて言われたりして。
そういえば、ネイルサロンのパンフレットをあたしにくれたりもしましたね。よかったら行ってみてって」
「あなたも行かれたんですか?」
「いえいえ。地味なあたしなんかには無理なオシャレですから」
寂しそうに微笑む伊豆。釈凛子という女性は同性から見ても眩しい存在だったのかもしれない。
「釈ちゃん、月末には必ずネイルサロンに行ってましたよ。最近は早退の次の日は必ず一日休みを取ってたから…きっと土井さんに会ってたんじゃないかな」
確かに彼女は今日も休みを取っていた。こんな悲劇に見舞われなければ、出張から戻ってきた土井に新しいネイルアートをお披露目して、一緒にデートを楽しむ予定だったに違いない。
「昨日はどんなご様子でした?」
「普段と変わらなかったと思いますけど…。でもそういえば少し元気ない感じもしたかな。ネイルサロンに行く時はいつももっと楽しそうで…」
哀しみが込み上げたのか、伊豆はまた目頭を押さえた。その指を見て、私は思わず自分の指の爪に視線を送る。ネイルアート…私もこれまでそんなファッションにかぶれたことはない。でも釈凛子は…きっとこよなくそんな女の楽しみを愛していたのだろう。
「ご協力ありがとうございました。絶対無駄にはしませんので」
その言葉で警部は聴取をしめくくった。
「お願いしますね。釈ちゃんを殺した犯人を…捕まえてください」
「もちろんです。ところで伊豆さん」
警部が優しく言う。
「釈さんからもらったネイルサロンのパンフレット…まだお持ちですか?」

 病院の駐車場で再び車に乗り込もうとしたところで私のスマートフォンが鳴った。鑑識課からの報告であり、被害者のハンドバッグの中に雨水が溜まっていたとのことだった。雨が降っていたのでそれ自体はおかしなことではないのだが、あのハンドバッグの開け閉めは財布のガマ口のような構造になっていて、閉まった状態では絶対に水は入らないという。そして…発見された時は口が閉まっていたというのだ。
「犯人がバッグの口を閉めたのか、投げ捨てた拍子に閉まったのかはわかりませんが、いずれにせよ犯人がバッグを開けて中をあさった時にはもう雨が激しく降っていた…ということですね」
私がそう報告を終えると警部は車のドアに掛けた右手を止めた。そして人差し指を立てると長い前髪にクルクル巻き付け始める。考え事をする時の癖だ。
「何か…引っ掛かりますか?」
「ムーン、現場には化粧品や手帳の他に被害者の折り畳み傘も落ちていたね」
警部の指の動きが止まる。私は「はい」と頷いた。
「あの傘は折り畳まれたままだった。きっとバッグの中に入っていて、犯人が他の物をぶちまけた時に一緒にそこに落ちたんだ。だとすると…おかしくないかい?」
ようやく私もピンとくる。
「はい、おかしいですね。傘が折り畳まれてバッグに入っていたのなら、被害者は傘を差していなかったことになります。つまり彼女が襲われた時、まだ雨は降っていなかった」
警部が立てていた指をパチンと鳴らす。
「そう。さっきの鑑識の報告と矛盾するんだよ。彼女が殺害された時刻と、犯人が彼女のバッグをあさった時刻は違うことになる。ムーン、急いで気象庁に確認してくれ」
「夕べ東京に雨が降り始めた時刻ですね、少々お待ちください」
私は手にしていたスマートフォンでそのまま問い合わせた。間もなく返事が来て私はお礼を言って通話を終える。
「降雨開始時刻は午後5時50分だそうです。最初は小雨で、午後9時過ぎから豪雨になり、止んだのは午前4時半でした」
「ありがとうムーン。バッグの中に雨水が溜まっていたってことは、犯人がバッグをあさったのは小雨じゃなくて豪雨の中だったと考えられる。つまり午後9時以降ってことになるね」
「はい。そして折り畳み傘を使用していなかったことから、被害者が襲われたのは午後5時50分より前と考えられます。いくら小雨でも濡れながら歩いていたとは思えませんから」
「…矛盾してるね」
警部が再び人差し指を立てる。
「そうですね。まさか…殺人犯と財布を奪った泥棒は別なのでしょうか?彼女はまだ雨が降る前に殺害された。そして後からきた人物が雨の中でバッグから財布を盗んだ…」
「いや、被害者はスカーフで首を絞められていたんだよ。誰がどう見ても殺人事件だ。そんな遺体から財布を盗む泥棒がいると思うかい?下手すれば殺人犯にされちゃうかもしれないのに」
確かにリスクが高過ぎる。ということは…どういうことになるのだろうか。私は思ったままを口にしてみた。
「犯人が彼女を殺害した時点ではまだ雨は降っていなかった、そして数時間その場で待機して、豪雨になってからバッグをあさった…ということですかね」
自分で言っていても無理がある。人を殺した犯人が無意味に長時間現場にとどまるわけがない。
「あるいは」
そこで警部が語調を強める。
「殺害現場はあの公園じゃないのかもしれない。被害者は傘を差す必要のない屋内で殺害され、豪雨の中で公園に運ばれて遺棄された。そして犯人は強盗の仕業に見せかけるためにそこでバッグを拓いて中の物をぶちまけたんだ。それならストーリーはつながる」
私は戦慄した。しかし…警部の推理は辻褄が合っている。
「遺体が運ばれたかどうかの証明は、司法解剖に期待するしかないね。でも長時間雨を浴びてたからなあ…どうかなあ」
警部は独り言のようにぼやくと、人差し指を下ろして車のドアを開けた。私も運転席に乗り込みながら考える。直腸温度・筋肉の硬直・死斑…それらは遺体の検案における重要な手掛かり。しかし激しい雨を浴びていたとなると、それらの所見は必ずしも通常どおりの発現ではなくなる。もしかしたら犯人もそれを見越してあの場所に遺体を運んだのかもしれない。もちろん法医学は偉大な学問、そんな犯人の目論みを打ち破ってくれるかもしれない。警部の言葉どおり、ここは監察医の先生方の手腕に期待するしかない。
「では警部、次はネイルサロンに向かいますね」
「…了解」
変人上司はシートベルトをしながら静かに答えた。先ほどまでと雰囲気が変わっている。そう、ただ足取りを追うためだけの聞き込みではなくなった。もしも被害者が屋内で殺害されたとすると…そのネイルサロンも候補になるのだ。
私はエンジンを掛ける。そして伊豆から預かったパンフレットでもう一度住所を確認してから慎重にアクセルを踏み込んだ。

 釈凛子がひいきにしていたネイルサロンの名前は『カルナック』。パンフレットによれば鳥海李音(とりうみ・りね)という女性ネイリストが一人でやっているらしい。住宅街を少し外れたビルの6階に店を構えていた。
専用の駐車場に車を停め、警部と私はそのビルに足を踏み入れる。色々なテナントが入っているようで、1階にはコンビニ、2階から3階には学習塾やパソコン教室、4階から5階には商事や会計事務所などのオフィスがあった。
エレベーターで6階まで行き廊下を進む。このフロアは閑散としていて、入っているのは歯科医院、後は角を曲がって一番奥にあるネイルサロンだけだった。
「ここだね」
立ち止まって警部が言う。時刻は午後5時前。奇しくも昨日被害者が来店したはずの頃合いだ。もちろん彼女がネイルサロンを去った後に別の場所で殺害された可能性も大いにある。しかしもしかしたら…この店こそが殺害現場かもしれない。そうなれば当然犯人はこの店唯一のネイリストということになる。
「入るよ、しっかり店内を観察するように」
その指示に私は頷く。そして次の瞬間、ドアを押しながら警部の声は中へ投げられた。
「失礼します」