第一章① ~鳥海李音~

 さて…これからどうしよう。リラックスチェアーの上で動かなくなった彼女を前に私は思考を巡らせていた。裏切りは最大の罪だ。手を掛けたことは何も後悔していない。だが…もう少し時と場合を選んでもよかったかもしれない。首を絞めている時は頭に血が上っていたが、この状況を処理するのはかなり難儀だ。
落ち着け、まずは冷静にならないと。彼女のために沸かしていたコーヒーをカップに注ぐと私は一口飲む。苦い風味と共にカフェインが神経に沁み渡るのをイメージする。
ふっと息を吐いて壁の時計を見た。午後5時半、夜はこれから更けていく。ここは歓楽街ではないがそれでも人通りはしばらく絶えない。遺体を運び出すには深夜まで待つ方がよいだろう。ただ小柄な彼女とはいえ、女の私の力では担いでいくのは難しい。何か道具が必要だ。
運ぶための道具…そうだ、あれがある。去年彼女とエジプト旅行に行った際に使った大きなキャリーケース。一緒に荷造りをした時に私がふざけて「凛子ちゃんならこれに入っちゃいそうね」なんて言ったら、本当に実演してくれた。だから彼女があれに納まるのは間違いない。しかも都合の良いことにあれは今この店にある。エジプト土産でたくさん買った小物を店内に並べるためにキャリーケースごとここに持って来て、そのまま奥の部屋に置いていたはずだ。
いいぞ、私はツイてる。あれを使おう。あれを押して駐車場の私の車まで行くことは造作もない。
運搬方法は決まった。じゃあ次は…運搬先だ。どこへ運ぶ?彼女のマンションか?部屋まで運んで強盗にでも襲われたように偽装するか?
いやさすがにそれはリスクが高い。深夜でも他の住人と廊下で出くわす可能性は拭えないし、高級そうなマンションだったからエントランスには防犯カメラだってあるだろう。となると…。
コーヒーをもう一口飲んで黙考する。いい案が出ない、きっと脳に糖分が足りていないのだ。私は彼女のために用意していたチーズケーキも持ってくる。そしてフォークを口に運んでいると窓からパラパラという音…雨だ。今朝の天気予報を思い出す。確か今夜は激しい豪雨になるのではなかったか。窓を開けて手を伸ばすと雨粒がいくつも手のひらを打つ。
これは好都合だ。キャリーケースのタイヤの跡や足跡といった不自然な痕跡は雨が洗い流してくれる。だとすると…あそこがいい。彼女のマンションの近くにあった公園。その一角が雑木林のようになっていた。深夜は誰もいないだろうし大雨の中ならなおさらだ。あそこに遺体を転がして金品を抜き取っておけば、帰り道に公園を横切った彼女が強盗に襲われたように見えるんじゃないか?
よし、これでいけそうだ。あとは…私への嫌疑をどうかわすか。明日の朝、彼女が遺体で発見されれば警察は当然前夜の足取りを追うだろう。彼女がこのネイルサロンに通っていたこと、午後5時から予約を入れていたことは突き止めるに違いない。刑事にそのことを確認されたらどう答えるべきだろうか。
来なかったことにしてしまおうか。彼女は予約をキャンセルして店には来なかったと。いやいや待て、それはまずい。彼女が誰かにネイルサロンへ行くことを話していたとしたら矛盾してしまうし、ここに来る途中に目撃されている可能性もある。そうだ、このビルの中の防犯カメラにだって写っているかもしれない。そうなると…やっぱり彼女は予定どおり来店して施術を受けて帰宅したとした方がよさそうだ。
またケーキを一口。そこで私は妙案を思い付く。私が彼女になりすまし、店から帰る姿を誰かに目撃させればいい。そうすれば私と別れた後で殺害されたことが確定的になり、私が疑われる可能性はなくなる。
いいぞいいぞ、やっぱり私はツイてる。よし…これでいこう。となればそろそろネイルアートの施術を始めなければ。私は空になったカップとお皿を片付けると、リラックスチェアーに座る彼女を見た。その顔は多少苦悶しているもののまだ十分に美しさを讃えている。
「まずは先月のアートをはずしますね」
いつものように私は語り掛けた。
「それからまた新しいアートをしますので、ゆっくりお寛いでお過ごしください」
そう、普段どおりにやればいい。音楽を流して、アロマを炊いて、雨が振り込まない程度に窓を少し開けて…この癒しの空間と時間の中で最高の芸術を施すのだ。私はプロだ。プロのネイリストだ。だから問題なくやれるはず…例えお客様が死者であっても。

 よし…完璧!彼女の右手の親指と人差し指の爪に白い薔薇、左手の薬指と小指の爪に赤い薔薇を綺麗に咲かせることができた。
「終わりましたよ。仕上がりはいかがでしょう」
いつもならここで無邪気な笑顔が最高の報酬として私に与えられるのだが、もちろん今夜はない。光を失ったその瞳は空ろに虚空を見つめている。ようやく少し胸が痛んだ。ごめんね、と言いそうになる唇をきつく結んで壁の時計を見るともう7時半。
「では記念写真を撮りますね」
棚の上のデジカメを持ってくる。そしてリラックスチェアーの横にキャスター付きの台を移動し、その上に彼女の手を乗せた。
レンズを向けると不安になる。指がぐったりしているのが写真から伝わってしまうだろうか。警察に不自然に思われるかもしれない。ならいっそ撮影はしない方が…とも思ったが、いつもしていることをしないのも逆に不自然だ。
よし、それなら思いっきりはしゃいだ写真にしてしまえ。そう、二人で仲良くワイワイキャッキャと撮影したような写真だ。
私は彼女の指にいくつかのポーズをとらせてそれを撮影していく。カメラの画面で確認したが…問題なし。とても事切れた人間の手には見えない。むしろいつもより躍動感があって生き生きしているくらいだ。これで彼女が楽しくネイルアートを受けた証拠としては十分だろう。
デジカメを棚に戻すとお次は…そうそう、お会計だ。なんだか調子がついてきた。私は彼女の財布を失敬して精算も済ませる。ちゃんとレジを撃ってレシートまで発行、それを財布に忍ばせて彼女のハンドバッグに戻した。
ではいよいよ…変身しますか。私はハンガーに掛かった彼女のコートに袖を通す。そしてそのポケットに入っていたニット帽をかぶり、薄く色の入ったサングラスをかける。そして…あまり良い気持ちはしないが仕方ない、彼女の首からスカーフをはずしてそれも装着する。
受付の姿見で全身を確認。身長も体重も彼女の方が小さいがスタイルはそれほど違わない。髪も同じようなブラウンでショート。口紅の色も似たようなピンク。もちろん知り合いがまじまじと見れば別人なのは一目瞭然だろうが、他人が遠めに見る分には十分誤魔化せるだろう。それに彼女が珍しい黄緑色のコートと紺色のニット帽を愛用してくれていたのも助かった。客観的には顔の細かい造詣よりもこのカラーコーディネートの方が印象に残るはずだ。
大丈夫、問題ない。それにどこかでワクワクしている自分もいる。そう、私は彼女で彼女が私、私たちはやっぱり一心同体!
時刻は午後7時55分。彼女のバッグを手にし、念のため靴も彼女の物を履くと、私は帰る客を装って自分の店を出た。そして記憶している限りの彼女の挙動を再現しながら廊下を歩いていく。
私のネイルサロン『カルナック』はビルの6階にテナントを借りている。以前は同じフロアに雑貨やスポーツ用品の店舗も入っていたが、不景気のあおりか今は全て撤退。唯一残っているのは歯科医院だけだ。これまでも何度か前を通ったが、確か診療時刻は午後8時半まで、この時刻も仕事帰りのサラリーマンなどが通院していたはず。
薄暗い廊下を曲がると歯科医院の照明で辺りが照らされている。歯を削るドリルの音だけが響く静寂、そこに浮かび上がる『砂辺デンタルクリニック』の電光看板は少し不気味だった。そのまま前を通ると、スーツ姿の男性患者の処置をしている老年歯科医が院内からガラス越しに一瞬こちらを見る。私は視界の隅でそれを捉えながらそのまま通り過ぎる。彼もまたすぐに視線を手元に戻し処置を続行した。
しめしめ、いい感じだ。これでもし警察が聞き込みをしても、黄緑色のコートの女性は午後8時頃確かにネイルサロンから帰っていったとあの先生が証言してくれるだろう。
ビル内の防犯カメラの位置は防犯研修の時に管理会社から聞いて知っている。カメラに録画されてしまうと細かく分析されて彼女じゃないことがばれてしまうかもしれない。私はカメラのないルートを選んでそのまま階段で1階まで降り、カメラのない出入り口から外へ出た。雨はまだ弱い。
このビルは午後9時には全ての出入り口にシャッターが降ろされ客は誰も出入りできなくなる。ただ残業する者のために、ここにテナントを持つスタッフには夜間通用口の鍵が与えられている。私は速足でぐるりとビルの外を半周すると、その夜間通用口から再び中へ。そして従業員専用エレベーターで6階まで戻り、今度は歯科医院の前を通らないルートで自分の店に帰り着いた。
「よし、バッチリ」
彼女の衣類を脱ぎ再びリラックスチェアーへ向かう。そこには変わらずかつて生き物だった彼女が座っていた。そっと手でまぶたを閉じてあげると安らかな寝顔にも見えてくる。オブジェとしてこのままここに飾っておきたいくらいだけど…そうもいかないね。
そこでふと鼻をかすめる悪臭。あらあら、困った子ね。

 警備員の最初の夜間巡回は午後10時。予想どおりの時刻に店の入口のドアがノックされた。
「鳥海さん、今日も残業ですか?」
安藤という馴染みのおじさんが顔を出す。とびっきりの笑顔でそれに応える私。
「こんばんは、安藤さん。そうなんですよ、新しいネイルのデザインが思い付いちゃって、その研究中なんです。完成したら奥様にぜひいかがですか?」
「いえいえ、うちの古女房にネイルアートなんてハイカラなもんは似合いませんよ。マニキュアだってもう何年も塗ってやしませんから」
「またそんなことをおっしゃって…」
彼の口振りから愛妻家なのは嫌でも伝わってくる。左手の薬指のリングもそう、もう何十年もそこにはまっているのは間違いない。それに引き替え私は…。
「じゃあ、あんまりご無理なさらないように。外は大雨ですから帰る時は気を付けてください」
「はい、ありがとうございまーす!」
たわいもない言葉が交わされる。目の前の女が殺人犯であることも、ほんの少し前にここで凶行に及んだことも、さらにはその遺体が奥の部屋のキャリーケースに隠されていることも知らずに、警備員は笑顔のまま店を出ていった。

 深夜0時を回った。窓も閉めたし後片付けも問題なし。キャリーケースを引きながら店を出ると私は鍵を掛けた。ガチャリという音が静寂の廊下に響く。警備員の次の巡回は午前1時、今なら廊下で鉢合わせる可能性もない。私は息を殺して従業員専用エレベーターに乗った。
1階のボタンを押すと古い箱はガタンと音がして動き出す。細かい振動が続く。ボタンの上には『定員3名』の文字…今このエレベーターには実際には2名が乗っていると考えると妙な気分だった。
チン、と音がしてドアが開く。その瞬間、私は叫びそうになった。そこには暗闇を背景に安藤が立っていたのだ。相手も目を丸くしている。
「あれ鳥海さん、今お帰りですか?」
「え、ええ。安藤さんこそ…巡回ですか?」
こわばる顔で私はなんとかそう取り繕った。
「いえいえ。2階の学習塾にスマートフォンを忘れた生徒さんがいて、どうしても確認してほしいって親御さんから電話が入ったんですよ。さすがにもう先生たちも残ってないんで僕が見に来たんです」
彼は見つかった青いスマートフォンを見せた。
「そうですか。見つかって…よかったですね」
無理に笑顔を作ったが声が震えているのがわかる。確かによく見るとここはまだ2階だった。
「この歳になると横着してすぐエレベーターを使ってしまうんですよ。じゃあ失礼しますね」
乗り込んでくる安藤に私はスペースを作る。定員三名になってしまったが…よかった、ブザーは鳴らない。そりゃそうか、あれは大人の男の体重を想定している定員だ。ドアが閉まりそっと胸を撫で下ろしたところに安藤が言う。
「なんだか大きなお荷物ですね」
心臓が飛び出るかと思った。彼の視線は私の持つキャリーケースに注がれている。
「ええ、ちょっと」
不自然な間の後でかろうじてそう答えたところで1階に到着、ドアが開いた。
「じゃあ安藤さん、お疲れ様です」
「外は大雨ですよ。その荷物、運ぶの手伝いましょうか」
優しさしかないはずの警備員の顔に私は悪魔を見てしまう。落ち着け、いつもの営業スマイルはどうした!
「大丈夫です!早くスマートフォンが見つかったことを連絡してあげてください。それに…もうおじいちゃんなんだから無理しちゃダメ、雨に濡れて風邪引いちゃったら大変よ」
女の武器の茶目っ気を発動。安藤は「こりゃまいったなあ、じゃあお気を付けて」と警備員質の方へ歩いていった。足音が消えてから私は大きく息を吐く。
ああびっくりした。でもこれでビビッてどうする、本番はこれからよ!

 気合いを入れ直して夜間通用口から外へ出る。目の前には雨が百万本のシャワーのように降り注いでいた。私はその中を駐車場まで一気に駆け抜けると車の後部座席にキャリーケースを押し込み、運転席に飛び込んだ。真冬なら本当に風邪を引くところだ。ハンカチで簡単に濡れた身体を拭うと私はイグニッションキーを回す。
目指すは彼女のマンション、その近くの公園。大丈夫、焦らず安全運転で行けばいい。
アクセルを踏んで車道に出る。フロントガラスを雨が滝のように流れていく。ワイパーを使ってもほんの気休め、すれ違う車のヘッドライトも、通り過ぎる店のネオンも、まるで街が水没したように滲んでいる。通行人など誰も見掛けない。道も空いていたおかげで三十分弱で目的地に到着した。
公園の脇に停車して辺りを伺う。常夜灯が照らす園内に人の気配はない。雨も変わらず強く降り注いでいる。私は意を決した。後部座席からキャリーケースを引っ張りだすと園内へそれを引きながら突っ走る。
雑木林まで来ると適当な位置でケースを拓いて彼女を転がした。できるだけケースに詰め込まれていたことがばれないような体制をとらせる。そしてハンドバッグの口を拓いて財布を抜き取る。他に入っているのは…化粧品、生理用品、スマートフォン、手帳、名刺、折り畳み傘…どれも貴重な品ではない。強盗に見せかけるなら財布だけ奪えば十分だろう。
激しい雨が前髪から滴って目を開けているのもつらいくらいだ。私は財布以外のバッグの中身をその場にぶちまける。よくよく考えたら財布はどうせ奪うんだから店のレシートを忍ばせる意味なんてなかったな。まあいい、ネイリストとしてはベテランでも殺人犯としてはビギナーだ。それくらいのミスは許容しよう。
最後にバッグを近くに投げ捨てると私は立ち去り際にもう一度だけ彼女を見た。雨が降りしきる闇夜の林に横たわる唯一無二の女。

…バイバイ、凛子ちゃん。