第二章(2) ~ムーン~

 午後10時を回る。江里口は宣言どおり警備員室の蒲郡を訪ね、4階廊下の防犯カメラの映像を見せてもらっていた。戸塚は当直室の現場検証へ戻ったが、私はそのまま江里口に同行。今パソコンのディスプレイに映っているのは現在の4階廊下の様子だ。
「これなら当直室に出入りする人間が一目瞭然ですね。隣の給湯室のドアまで写ってる。では蒲郡さん、今日の午後5時の映像を出してください」
「お安い御用です」
 初老の警備員は慣れた手付きでパソコンを操作、間もなくディスプレイには午後5時の映像が映し出された。
「少々早送りできますか?」
「了解しました」
 私も画面に注目。すると午後5時15分に一人の男の姿が映った。
「ストップ、止めてください。これは土橋先生ですね?」
「間違いありませんな。当直室に向かわれているところです」
「ではまた通常の速度で再生してください」
 画面の中の土橋が歩き出す。まず給湯室に入ると右手に1本の缶コーヒーを持って出てきた。そして当直室の鍵を開けるとそのまま中へと消えていく。心なしかその足取りは軽く見える。扉の向こうに自らの死が待ち受けていることなど知る由もないように。
「当直室の内線電話の受話器がはずれたのが5時17分。つまりこの直後か…」
 独り言のように呟いてから江里口は「また早送りをお願いします」と指示した。しばらく誰もいない廊下が映される。そして午後6時、恩田玲子とトレイを持った大門由香利が現れた。ここからまた通常速度で再生。
 玲子がドアをノックしたりドアノブを回したり、何度か電話を掛けたりし、やがては合鍵を使って中に入る。廊下の由香利がトレイを落とし、廊下を走り去っていく。カメラの角度的に室内の玲子の様子までは見えない。間もなくナース服姿の夏川久美が由香利に連れられてくる。そして二人もそのまま当直室へと消えた。
「遺体発見の流れは三人の証言と一致していますね、ムーンさん」
「はい」
 同意を返す。その後はまた早送りをしたが、救急隊や警察が到着する様子が写っているだけだった。
「よくわかりました」
 江里口が言う。
「土橋先生は当直室に入ってから遺体で発見されるまで一歩も外へ出ていません。そしてその間、他の誰も当直室に出入りしていません。ただ…」
 再び人差し指で下唇を撫でる。これがこの人の考え事をする時の癖なのかもしれない。うちの警部なら、長い前髪をクルクル人差し指に巻き付けているところだ。
「何か気になりますか、刑事さん」
 蒲郡が尋ねる。
「いえ。では、遺体発見前の映像を見せていただけますか」
「わかりました。前というのはいつ頃でしょう」
「とりあえず…そうですね、土橋先生がいらっしゃった午後5時から巻き戻しで再生してください」
 また指示に従う蒲郡。するとすぐに一人の女性事務員の姿が画面に映った。午後4時40分、彼女は慌てた様子で給湯室に入ると、十五分ほどでまた廊下を去っていく。
「この方は誰ですか?」
「ああ、総務の松野ちゃんですよ」
「総務課ということは…恩田さんの部下ですね。彼女はどうして給湯室に…そうか、冷蔵庫の飲み物を補充しに行ったのか。蒲郡さん、松野さんとはどんな方ですか?」
「どんなと言われましても…おとなしい感じの娘さんですよ。優しい子でね、空いた時間に病棟の患者さんたちの話し相手にもなってあげてるんです。まあ時々それで恩田さんから雷を落とされてますが。あの課長さんはおっかないですからな」
「そうですか。ではさらに映像を巻き戻してもらってよろしいですか? 土橋先生より前に誰かが当直室に入っていないかを確認したいんです」
「そういうことでしたら…」
 答えようとした蒲郡だったが、言葉を中断してカウンターの窓口の方に意識を向ける。夜間通用口の近くで車が停まる音がしたのだ。
「タクシーみたいです。誰かいらっしゃったんですかね、ちょっと見てきます」
 警備員は席を立つと窓口に行き小窓を引いた。間もなく自動ドアが開いて一人の女が駆け込んでくる。年齢は40歳前後、神妙な面持ちだった。
「失礼ですが、入院患者様のご家族の方ですか?」
 蒲郡が尋ねると彼女は一瞬固まり、そして押し殺した声で答えた。
「いえ、私は…土橋幸一の家内です」

 再び4階のカンファレンスルームを借りての聴取。土橋幸一の妻・若菜(わかな)は謹んでそれに応じてくれた。
「奥さんすいません、ご主人の遺体はもう運び出してしまいました。今頃は監察医務院だと思いますがそちらに向かわれますか?」
「はい、この後で。それより教えてください、あの人に何があったんです? 大学の同僚の先生から、ここで当直中に亡くなったと連絡を受けまして」
「そうなんです。あの、奥さん、ご自宅には警察からも電話したのですがずっとお留守でした。どちらにいらしたんですか?」
「子供を連れて実家に帰っておりました」
「そうでしたか。ご主人の職場にはこちらからご連絡したんです。どうにかあなたに連絡を取ってくださったんでしょう」
 話題を逸らされて彼女は少し苛立ちを見せる。
「そんなことよりも、刑事さん、主人はどうして亡くなったんです?」
「それがですね…」
 江里口は穏やかに言葉を続ける。当直室で中毒死したこと、自殺と他殺の両面から捜査していることを噛み砕いて説明した。
「教えてください。彼には何か悩まれているようなご様子はありませんでしたか?」
 妻は目を伏せる。
「例えば…女性関係などいかがでしょう」
 直球の質問だった。重たい沈黙が降りてくる。私も黙って答えを待った。
「あいつは」
 やがて若菜が吐き捨てるように言った。
「あいつは…あの人は夫としては最低の部類です。結婚前もそうですが、結婚した後もあの人の女癖は変わりませんでした。医者で、お金もあって、一見優しい物腰だから女の方から近付いていくんでしょうけど。まあ私も引っ掛かった一人ですから偉そうなことは言えません。言えませんが…」
 そこで語気が強まる。
「子供のことを思うといた溜まれなくて。だからあの人にもう他の女とつき合うのはやめてほしいと言ったんです。やめないなら離婚すると。そうしたら反省してここ一年はおとなしくしてるようでしたけど…やっぱりああいうのは治らないんでしょうね。最近また遊んでたみたいです」
「どうしてそのことがわかったんですか?」
「昨日、自宅に電話が掛かってきたんです。甘い女の声で、第一声に『幸一さーん、次はいつ会える?』ってね。どなたですかって返したら慌てて切れましたよ。きっと浮気相手が間違えて自宅の番号に掛けてきたんでしょうね」
 肩をすくめると妻は自嘲の笑みを浮かべた。
「もう腹も立ちませんでした。あきれというか、あきらめというか…。だから今朝あの人が仕事に行った後、テーブルの上に記入済みの離婚届を置いて家を出たんです」
「それでご実家にいらっしゃったんですね。お察しします」
「いいえ、私に男を見る目がなかっただけです。結婚した時は周りからもうらやましがられて、私も調子に乗ってました。本当に…幸せって何でしょうね。
 あ、ごめんなさい、自分の話ばかり。主人のことでしたわね。あの人は…悩んでいるような素振りはありませんでしたよ」
「浮気をしておられたんなら、それが悩みになりませんか?」
「なりませんね。罪悪感とか良識とか、そういうのがある人ならこんなに何度も浮気したりしませんよ。ましてやそのことで悩んで自殺するなんて…100パーセント有り得ません。あるとしたらむしろ…」
 そして彼女は顔を上げ、軽蔑の瞳で続けた。
「女に恨まれて殺される方だと思います」

 その後、若菜は土橋の遺体が眠る監察医務院へと向かうこととなった。江里口と私は夜間通用口まで彼女を見送る。離婚届を突きつけたはずの夫の遺体を引き取りにいく妻…今彼女はどんな気持ちでいるのだろう。タクシーに乗り込む横顔を見ながら私はそんなことを考えていた。
 タクシーが走り去る。するとカウンターの小窓が開いて蒲郡が顔を出した。
「ご苦労様です刑事さん。防犯カメラの映像、見ておきましたよ」
「助かります」
 江里口がカウンターに身を寄せる。
「それで…いかがでした? 日中、どなたか当直室に出入りしていましたか?」
「いいえ。朝、当直の先生がお帰りになって恩田さんが部屋の掃除をされた後は、夕方に土橋先生がいらっしゃるまで誰も怪しい人は侵入していません」
「そうですか、捜査協力ありがとうございます」
 江里口に合わせて私も一礼。すると彼はロビーの方へと歩き出す。
「ムーンさん、一息つきましょう」
 暗い廊下に二人の足音が響く。間もなく自動販売機に到着、断わったが彼は「いいですから、遠慮せず」と私に飲み物を買ってくれようとする。仕方ないので彼と同じ烏龍茶のペットボトルをお願いした。さすがに今缶コーヒーを飲む気にはなれない。
「どうぞ」
「ご馳走様です」
 会釈して受け取る。彼が腰を下ろしたので私も斜め向かいのソファに座った。照明は落とされ、自動販売機の明かりとブーンという機械音だけが小さなカフェスペースを占有している。まるで海底に停泊する潜水艦の中にいるようだ。私たちはしばらく無言でペットボトルを口に運んだ。
「いかがですか?」
 ふいに彼が尋ねた。
「僕のミットの捜査を見て…どんな感想ですか」
「とても…」
 少し言葉に迷ってから私は続けた。
「とても合理的で、効率的だと思いました。無駄がないと申しますか、現場検証も事情聴取もきびきび進んでいく感じで」
「彼とは違いますか?」
 彼というのはうちの警部のことだろう。私は苦笑いを浮かべた。
「そうですね。警部は意味不明な言動が多いですし、突然おしゃぶり昆布を口にくわえたり、動きが固まったり、事情聴取でもすぐに無駄話に脱線しますし。江里口警視と比べたら…スムーズではありませんね」
「それでも君は彼の所にいたいんですか?」
 江里口の顔から笑みが消える。半身に自動販売機の明かりを浴びながら、その瞳はじっと私の目を見つめていた。
「それならなおさら、僕のミットに来たいと思いませんか?」
「それは…」
 また言葉が止まってしまう。自分自身明確な答えが見つからなかった。確かに警部の下にいるのはストレスが大きい。あまりの変人ぶりにイライラすることだってある。だけど…。
「警部はあんな人ですけど、ちゃんと事件を解決されますから」
「それは警察官なら当然ですよ」
 ムキになったように江里口はすぐに切り返した。
「医者が病気を治せるように、警察官が事件を解決できるのは当然です。特に僕も彼も捜査一課、それが専門なんですから」
「まあ…そうですね」
 悪寒を感じた。彼の綺麗な瞳がわずかに濁っている。この人は…まるで警部に恨みでもあるかのようだ。ペットボトルを握る手にも力が入って血管が浮かんでいる。
「僕はね、警察は正義の仕事だと思っています」
 今度は独白の様に言葉が続く。
「犯罪者から善良な市民を守る社会正義の仕事だと思っています。だから誠実に真剣に働きたい。なのにあいつは…あんな格好で事件現場に出て、我流の捜査法で動き回る。カイカンとかいう変な名前を名乗って、君にまでムーンと名乗らせる。僕はそういうふざけた態度が許せないんですよ。昔からずっと」
 私は何も返せなかった。
「あいつの存在は真剣に職務に当たっている警察官全員に対する冒涜です」
 張り詰めた静寂。自動販売機がブーンと大きく唸る。
 確かに…警部の存在はふざけているように見えるのかもしれない。実際に警部もふざけているような言動を見せる。でもあの人は…あの人は…何だろう。うまく説明できないが、江里口が批判しているようなふざけているだけの人間ではない。あのボロボロのコートとハットの中にいる人物は、きっと何らかの意味と理由を持ってこの仕事を続けているのだ。根拠はない。根拠はないがそう思う。それとも私は…ただ単にあのわけのわからない上司を部下として庇いたいだけなのだろうか。
「ごめん」
 私が黙ったままでいると突然江里口が優しい声で言った。見るともうその瞳には何の濁りもない。彼は一気にペットボトルを飲み干して立ち上がる。普段なら上司が立てば私も必ず立つ。なのに今は何故か腰が上がらなかった。
「ごめんね、ちょっと言い過ぎました。許してください」
 彼は真摯に頭を下げる。そしてペットボトルを丁寧にゴミ箱に捨てた。
「ここから先の捜査は、鑑識と司法解剖の結果が出てからになるでしょう。できれば今夜中に君の目の前で解決したかったですが。君は明日も自分の仕事がある。もうお帰りください」
「よろしいんですか?」
「今日は無理を聞いてくれてありがとう。では、お気を付けて」
 こちらの返事を待たずに彼は暗い廊下を去っていく。その背中はどこか寂しげだった。

 私はそのままソファでしばらく烏龍茶を飲んだ。そして遅い時刻だったので少し迷ったが、電話を掛けると警部はすぐに出てくれた。いつもの調子で低い声に迎えられる。
「やあムーン、社会見学はどうだい?」
「はい、いい刺激になりました。今夜はもう帰っていいと言われましたので一応警部にもご報告を。残念ながらまだ事件は解決していませんが」
「そう…でもまあエリーなら大丈夫だろう」
「またそんな呼び方をして、江里口警視に怒られますよ」
「フフフ、ごめんごめん。でも彼が優秀なのは本当さ」
「事件のあらましをご報告しますか?」
「いいよいいよ、彼が担当してるのに横から口を挟むのはよくない。あ、でも君は気が済むまでそっちの捜査に参加していいから。せっかくのチャンスだし、今の所こっちのミットに事件の割り振りはなさそうだから」
 そこで警部の近くでピピピという音がした。
「おっと、タイマーが鳴った。実は今、ちょうど夜食のカップラーメンにお湯を注いでたところでね。私の研究では3分ぴったりより2分40秒の方がおいしい気がするんだ。そして今夜はあえて2分20秒で食べてみようかなって。おっと、話している間にもう2分30秒経っちゃった。じゃあねムーン、お疲れ様!」
 一方的に通話は切れる。
 私の上司は…やっぱりただのふざけた奴なのかもしれない。

 新しい朝が来た。東京は今日も快晴だ。一応警部からも許可されたので私は警視庁ではなく柊ホスピタルへと出勤した。午前7時、ちょうど引き継ぎを終えて退勤する蒲郡と出くわす。
「夕べの女刑事さん、おはようございます。私は一度上がらせていただきますよ」
「長時間のご勤務、お疲れ様でした。江里口警視はまだ院内におられますか?」
「帰られてはいないはずですが…そうだそうだ、もしお会いになったらこれを渡しておいてくださいますか。夕べはコロッと忘れていて」
 初老の警備員は自分の名刺を差し出した。
「もし何かございましたらいつでも電話くださいとお伝えください。では」
 あくびしながら去っていく彼の背中に私は一礼。院内に入り、さてどうしようかと思っているとちょうど戸塚が廊下の向こうから姿を見せた。
「おはようございますムーンさん、また来てくださったんですか?」
「ええ、その、捜査がどうなったか気になりまして」
「そうですか。警視は4階のカンファレンスルームにいらっしゃいますよ。ちょうど俺も行くところだったんで一緒に行きましょう」
 昨日と同じシャツ、無精髭も目立っているのできっとここで徹夜だったのだろう。疲れているはずなのに、それでも戸塚は爽やかな笑顔だった。

「警視、入ります」
 戸塚がノックして入ると彼はいくつかの書類を長机の上に広げていた。私の存在に気付くと笑顔を向けてくれる。
「ムーンさん、来てくれたんですね。よかった、ちゃんと君に事件解決を見せてあげられそうですよ」
「何か進展があられたんですか?」
「ええ。まずはお座りください」
 促されて私は体面の椅子に腰を下ろす。それを見届けてから彼の説明が始まった。
「司法解剖の結果、土橋幸一の死因は青酸系化合物による中毒死と断定されました。死亡推定時刻は昨日の午後5時から5時班の間、やはり当直室に入ってすぐ亡くなったようです。
 続いて服毒経路についてですが、確かに室内に落ちていた缶コーヒーから同じ毒物の成分が検出されました。ただし、コーヒーそのものに含有されていたわけではなく、缶の飲み口に付着していたんです」
「それはつまり…」
 思わず私は質問を挟む。
「飲む時に口が触れる部分に毒が塗られていたということですか?」
「ご名答です。毒物反応が出たのは飲み口だけです」
 頭の中で考える。缶に穴を空けて中に毒を注入するのは難しい。缶コーヒーに毒を仕込むなら飲み口に塗るのが一番自然なやり方だ。
「いいですかムーンさん、あの缶コーヒーは彼自身が給湯室の冷蔵庫から適当に1本持って来た物です。戸塚くん、冷蔵庫の残りの缶コーヒーから毒物反応は出たんだっけ?」
 若い垂れ目の刑事はきっぱりと首を振る。
「いいえ。冷蔵庫には19本の缶コーヒーが残ってましたけど、どれからも反応は全く出ませんでした。念のためお茶やミネラルウォーターのペットボトルも全て調べました。20本ずつ入ってましたけど、こっちも反応はなしです」
 江里口は満足そうに頷いた。
「どうやら飲み物は全て20本ずつ入っていたようです。ということはですよ、あらかじめ1本の缶コーヒーにだけ誰かが毒を塗っておいて、たまたま土橋幸一がその1本を引き当てたのでしょうか。いやいや、いくらなんでもそんな偶然は考えられません。60分の1の可能性に賭けた犯行なんてのはナンセンスです。仮に彼が缶コーヒーを飲むことを犯人が知っていたとしても、それでも20分の1です。勝算がないですよ。
 戸塚くん、当直室に落ちていた缶コーヒーと、冷蔵庫に残っていた19本の缶コーヒーに何か違いがありましたか?」
「ありません。全く同じ銘柄で、毒が塗られた1本にだけ何か目印が付いているということもなかったです」
「ムーンさん、君も一緒に防犯カメラを見ましたよね。遺体が発見されてから警察が到着するまで誰も給湯室に出入りしていません。つまり、あらかじめ20本全てに毒を塗っておいて、事件の後で拭き取ったということもないわけです」
 彼が言葉を止め、少年のような瞳でこちらを伺う。
「20分の1の可能性に賭けた殺人ではないとすると」
 私は考えながら答える。
「やはりこれは土橋先生の自殺ということでしょうか」
「それも違うんです。戸塚くん、説明を」
「はい。実は土橋幸一の友人と連絡がつきまして。彼は当直に来る直前、友人に電話をしてたんですよ。週末の飲み会に参加すると。ね? 自殺を考えている人間の行動とは思えません」
 相変わらず彼はメモを見ずに答える。それはさておき、これで自殺の線は消えた。だが他殺だとすればどうやって毒の缶コーヒーを取らせたのかが大きな謎だ。悩む私に江里口が告げた。
「実はまだご報告がありまして。先ほど鑑識にもう一度当直室の中の毒物反応を調べてもらったんですよ。隅から隅まで念入りに。すると一か所だけ微量の反応が出たんです。反応が出たのは、デスクの上にあったノートパソコンの電源ボタンでした」
 そういえば当直室を見せてもらった時、あのパソコンは電源が入っていた。ということはまさか…!
「やっぱり君は優秀です。察しがいいですね。僕もそう思ってすぐ監察医務院に確認しました。すると、遺体の右手の人差し指からもごくわずかですが同じ毒物の反応が出ました」
 となると決定的だ。犯人が被害者に毒を盛った方法は一つしか考えられない。
 そう、毒は缶コーヒーに塗られていたのではなく…。

 午前7時半。出金してきた一人の女性職員に戸塚が声を掛けて再びカンファレンスルームでの聴取が始まった。彼女の名前は松野可奈(まつの・かな)、総務課に所属する20歳の事務員。
「土橋先生の件はご存じですか?」
 そう尋ねた江里口に彼女は怯えた様子で頷く。
「しょ、職場の連絡網で知りました。当直室でな、亡くなられたって。でも刑事さん、あたし、犯人じゃありませんよ」
「いえいえ、あなたを疑っているわけではありません」
 彼は少しだけ笑む。
「ただ少々教えていただきたいんです。昨日の夕方、4階の防犯カメラに給湯室に入るあなたの姿が写っていました。5時の少し前です。あれは何をされに行かれたんですか?」
「あれは…先生方のお飲物の補充です。冷蔵庫を確認して、減っている物を補充するんです。他には流し台の掃除を少し」
「飲み物はお茶とミネラルウォーターのペットボトル、そして缶コーヒーですね。それぞれ20本ずつになるように補充していたんじゃないですか?」
「は、はい、そうです。そうするように言われてますので」
 彼女はかなり緊張している。その仕草はまるで職員室に呼び出されたあどけない少女のようだ。
「補充はいつもあの時間にされているんですか?」
「えっと、いつもはもうちょっと早くて4時過ぎくらいに…。昨日はあたし、別の対応に追われてて、それで恩田さんに叱られて」
「恩田さん、課長の恩田玲子さんですね」
「はい。特に土橋先生は必ず缶コーヒーを飲まれるからしっかり補充しておいてって言われました」
「それであなたはどうされました?」
「どうって…急いで給湯室に行きました。お茶も、ミネラルウォーターも、缶コーヒーも全部20本ずつになるように、足りない分を何本かずつ補充しました」
「補充する飲み物はどこから持って来るんですか?」
「流し台の下の棚に箱で入ってます。そこから取って冷蔵庫に入れるんです」
「そうですか、ありがとうございます」
 満足そうに頷いて江里口の質問が止まる。彼女も小さく息を吐いた。
「あの、もうよろしいですか? 事務室へ行きたいんですけど」
「では最後にもう一つ教えてください。そんなに不安そうな顔をなさらないで、落ち着いて答えてください」
 彼がアイコンタクトすると、後ろに控えていた戸塚が一歩前に出た。
「恩田さんと土橋先生のご関係について、何か気付かれたことはありませんか? 些細なことでも結構です。松野さん、部下として恩田さんのそばにいて何か感じたことは」
「どういう…意味ですか?」
 彼女の問いに戸塚は無言の頷きだけを返した。
「特に何も…ありません」
 事務員は視線を逸らしてそう答える。何かを言おうとしてやめたニュアンスを私は感じ取った。
「もう行ってもいいですか? 仕事が始まります。遅れたらまた恩田さんに怒鳴られちゃいます」
「ええ、お引止めしてすいません」
 答えたのは江里口。彼女はそそくさと席を立ちドアへ向かった…が、一度ノブに掛けた手を下ろす。そしてゆっくり振り返った。
「どうかされました?」
 と、戸塚。
「あの、あたしから聞いたって言わないでくれますか?」
 二つの黒い瞳には不安の色が浮かんでいる。江里口が「約束します」と答えると、そこに決意の色が加わった。彼女は小さく息を吸って続ける。
「実はあたし、何ヶ月か前に頼まれて恩田さんのパソコンを修理したことがあったんです。その時に…見るつもりはなかったんですけど、変な隠しファイルがあって、何だろうと思って開いたら…」
 一瞬の躊躇。しかし告白は進んだ。
「恩田さんと土橋先生が二人で写ってる写真でした。なんか旅行中の写真で、どう見ても恋人同士みたいだったんであたしはすぐにファイルを閉じました。あの、あたしが知ってるのはそれだけです」
「勇気ある証言をありがとうございます」
 江里口は椅子を立って軽く一礼。戸塚と私もそれに倣う。彼女は気まずそうにそのまま部屋を出ていった。その足音が遠ざかってから江里口が言う。
「これで…動機もはっきりしましたね。土橋幸一は恩田玲子と不倫をしていたんです。妻の証言とも一致します。間違って彼の自宅に電話を掛けてしまったのは恩田玲子でしょう。そして彼を毒殺できたのも…」
 戸塚が上司に向き直った。
「そろそろ彼女も出勤しているはずです。ここに連れてきますか?」
「お願いします」
 さっそうと出て行く戸塚。江里口は私を見て伺うように言った。その瞳は朝日を浴びる湖のように輝いている。
「これから…事件の解決をお見せします。その後で君の返事を伺いますね、僕のミットに来てくれるかどうかを」
 私は黙る。彼はさらに付け加えた。
「良い返事を期待していますよ」