第二章 難読

 私が朗読を終えるまで警部はずっと黙って聞いていた。右手の人差し指を立て、長い前髪をクルクルそこに巻き付ける癖も相変わらずだ。
「…以上です」
そう言ってノートを閉じると、警部は指の動きを止めた。
「ねえムーン、日記に出てくる北雲駅ってのは?」
当然の質問だった。すでにビンさんから依頼されて所在は調べてある。その名前に一致する駅は日本に一つだけあった。北海道、札幌と旭川の中間からやや札幌寄りの内陸に位置するローカル駅だ。
「北海道…」
警部はそう呟き、少し考えてから言葉を続ける。
「となれば日記の主人公の少年は北雲駅周辺に住んでるんだろうね。しかも明日一人で東京の叔母さんの所へ遊びに行くと書いてある。となればこの日記が書かれた7月9日の翌日の7月10日に少年は飛行機に乗ったはずだ」
警部の語りがテンポアップしてくる。これはそのまま頭脳の回転速度を示しているに違いない。
「明日朝寝坊しないように、と書いてあるから飛行機は午前中の便だろう。しかも子供が一人で乗るわけだから優先搭乗を利用した可能性が高い。新千歳-羽田間は国内でも最も便数が多い区間だけど、7月10日はまだ夏休みじゃないし、その日の午前中に一人で優先搭乗した少年という条件で乗客名簿を調べれば…絞り込めるんじゃないかな?」
優先搭乗とは妊婦や幼い子供、身体の不自由な方などが乗務員に付き添ってもらい一般の乗客よりも先に機内へ案内してもらうサービスだ。その情報は到着先の空港にも申し送りされるので、調べれば記録は残っている可能性が高い。確かに警部の推理は妥当だった。しかし…。
「すいません警部。実はその調査はすでにしたんです」
昨日日記を読んだビンさんと私は同様の推理を展開してすぐに航空会社に問い合わせた。その結果7月10日午後までの乗客名簿を調べても、少年一人が飛行機に乗ったという記録はどこにもなかったのだ。そのことを聞いた警部は「そう…」と残念そうに答える。
「でもおかしいよね。日記のノートは羽田空港で発見されたんだから少年は確かに飛行機で来たはずだ。それなのに乗客名簿にないなんて…。北雲駅の最寄空港は新千歳なんでしょ?」
「はい。念のため北海道にある他の空港からの便もチェックしてみましたが、少年の記録はありませんでした」
「う~ん、おかしいなあ…」
「実は警部、おかしいのはそれだけではないんです」

 私は一息ついてから続けた。
「実は今日ビンさんは現地へ行って調査してるんですが…」
「現地って羽田空港かい?」
私は黙って首を振る。すると状況を察した警部の口元が綻んだ。
「フフ、フフフ…じゃあビンさんは北海道の北雲駅へ行ってるの?」
私が頷くと警部はさらに声を上げて笑う。
「ハハハ、それで朝から見かけなかったのか。まったくもう…自由人だなあ」
私からすればこの上司にしてこの部下あり、あなただってまったく人のことは言えない自由人のド変人。
一頻り笑った後、警部が改めて尋ねた。
「それで、ビンさんから何か連絡あったの?」
「はい。写真のコピーを持って駅周辺の交番などを当たったそうですが、誰も写っている女性を知ってる人はいなかったそうです」
女性の正体がわかっていないのでこの情報はさほど驚くところではない。問題なのはこの次だ。
「それと、ビンさんが実際に確認した北雲駅周辺の様子と日記に書かれていることが全く一致しないそうです」
そこで私はまたノートを開くと文面を引用しながら説明した。
「例えば日記には駐車場の横の道路は一車線と書かれていますが、ビンさんが確認したらどう見ても二車線なんだそうです。もちろん最近拡張工事が行なわれたわけではありません」
警部は黙り込みまた人差し指に前髪を巻き付ける。
「他にもあります。日記に出てくるアキナーマートというのは北海道にあるコンビニチェーンの名前で、確かに駅の近くにも一つあるそうです。ただとても近くなんです。ビンさんは駐車場から歩いて五分もかかりませんでした。日記では二十分と書いてますが、少年が車に乗ってからアキナーマートに着くまでそんなにかかるはずがないんです」
「その町には他にもアキナーマートがあるんじゃないの?」
警部は尋ねたが残念ながらこれも否定される。すでにビンさんによってその町のアキナーマートは駅前の一店舗だけだと確認されているのだ。それを聞いた警部は黙ってしまう。言葉が続かないのを待ってから、私は自分の疑問を口にしてみた。
「実はよくわからない記述があるんです。ここです、『前の窓や横の窓、後ろの窓をガンガンとかガリガリたたかれてちょっとこわかった』…。これは一体何のことを言っているんでしょうか?
少年が車に乗った後、父親がエアコンをつけてますから父親も乗車したんでしょう。その後、前や横、後ろの窓を叩いているのは何者なんでしょうか?ガンガン、ガリガリなんて普通じゃないですよね。動物、あるいは…まさか車上荒らしとかでしょうか?」
警部が指の動きを止めて言う。
「…わからない。そもそも走行中の車の窓を叩ける人なんているかな?それとも少年が車の中で日記を書いているわけだから、車はしばらく発進せずに駐車場にいたのか…だとしたらそれは何故?」
自問自答する警部に私は伝える。
「日記には少年が恐怖で涙を流している記述があります。やはり窓を叩いたのは何か恐ろしいものではないでしょうか?」
この言葉を最後に室内には沈黙が訪れた。それと同時にしばし忘れかけていた暑さが戻ってくる。
しかし…謎だ。日記にはしっかり北雲駅と書いてある。この地名は他にはない。それなのに駅周辺の地理が日記と一致していない。さらに明日東京へ一人で飛行機で行くと書いてあるのに、乗客名簿に少年の姿はない。
…これはどういうことだ?
車の窓を叩く謎の存在のことも考え合わせると…まさかこの日記は全て嘘?いや、嘘と言うより夢の内容や空想を書いた日記なのかもしれない。だとすれば日時も知名も全て当てにならなくなる。
「…何かわかりそうですか?」
数分の後、沈黙を払うため私はそう言った。しかし変人上司は何も答えない。再び人差し指をクルクル回しながら前髪を弄んでいる。もしかしたら…普段の事件捜査よりも難解な謎を持ち込んでしまったのかもしれない。
私は改めて写真を見た。
ねえ、あなたは一体誰?日記の中に出てくるお母さん?でも小学生の子を持つ母親にしてはさすがに若過ぎるか。
気付けば壁の時計は2時半を回っていた。ビンさんは7時の便で東京へ戻ると言っていたから夕方には北雲駅を発たなくてはいけない。もしこの少年がその町に住んでいるのなら接触のタイムリミットは近い。
窓から照り付ける陽光がジリジリと余計に焦りを加速させる。ああもう、せめて名前がわかればなあ。そうすれば交番や市役所で調べてもらえるのに!

「あー全然わからん!」
警部がそう言って立ち上がった。そして「少し休憩」と言いながら冷蔵庫から缶コーヒーを取り出す。私もまたぬるいアイスティーに口をつけた。
…仕方ないか。これ以上捜しようがない。それに…本当に大切な物なら持ち主から空港に問い合わせがあるはずだ。それがなかったということは…。
そう思いながら私はまた写真を見た。そんなはずはないのだが、少し彼女が悲しげな顔をしたような気がしてしまう。その視線を避けるように写真を挟んでノートを閉じた。
警部を見ると、コートのポケットから好物のおしゃぶり昆布を取り出してそれを口にくわえている。そしてテレビの電源を入れた。
「何かニュースをやってるかな」
そう言いながらチャンネルを回していると画面にアニメが映る。小学生の名探偵が事件を解決する人気アニメ…あまり詳しくない私でもそのキャラクターには見覚えがあった。そして予想どおり、警部の指はそこでチャンネルを固定する。
「夏休特番でやってるんだね。これは劇場版の第二作だ」
ワンシーン見ただけでわかってしまう…この人の趣味は計り知れない。私もしばらくその画面に目をやる。途中からなのでストーリーがよくわからないが、主人公の少年含め何人かがレストランのワインセラーを訪れるシーンだった。
「この日記を書いた少年も今頃このアニメを見てるかもしれませんね」
私が呟く。警部はおそらくもう何度も見ているはずのアニメに集中していて答えない。画面の中では、ヒロインの女の子がワインセラーが涼しいと発言し、ソムリエが暖か過ぎるくらいだと返していた。瞬きもせずそれを見つめる警部。
…あれ?どうやら単にアニメに見入っているのではないらしい。手にした缶コーヒーにも口を付けず、警部の動きは完全に固まっている。これはまさか…。
「そうか!」
次の瞬間警部が叫ぶ。まさかまさか…!
「わかったぞムーン!」
嬉しそうにテレビを切るとこちらに向き直って低い声が言う。
「少年の日記の謎が解けたよ」
なんでよ!ついさっきまで全然わからんって言ってたじゃん!ふざけるな!
…いやいや待て待て、落ち着くんだ私。突拍子もなくひらめいて電光石火で事件を解決するこの人の姿を何度も見てきたじゃないか。今更驚くことはない。でも…やっぱりムカつくなあ。
私は込み上げる憤りをいさめながら尋ねた。
「警部、どういうことでしょうか」
「いいかいムーン、どうして日記の内容と現実が全く噛み合わないのかを考えてごらん。それは私たちが大きな勘違いをしているからなんだ。それに気付いた時、全てが繋がった」
「それじゃあ少年の居場所も…」
「うん、特定できるはずだ」
そう言うと警部はくわえていた昆布を一気に呑み込んでコーヒーを流し込んだ。

…いや、昆布とコーヒーは合わんだろ。