第一章 朗読

 …バタン。
「いやあ、暑い暑い」
勢いよくドアが開いて低い声が入ってきた。そう、私の上司のカイカン警部である。
「お疲れ様です警部。どこまでお昼ご飯に行ってらしたんですか?」
「やあムーン、いつものカレー屋だよ。暑い夏には激辛カレーに限るからね。でもその道中が暑いのなんのって」
そう言いながら警部は部屋の隅のソファに腰を下ろす。その風貌はいつもどおりのボロボロのコートにハット、正直真夏にこの格好で暑いなんて口にする資格はない。だがそんなことを今更指摘する気は起こらない。このミットに配属されてもう随分経つ。この人の意味不明な言動にいちいちツッコミを入れていたらこっちの身がもたない。
「エアコンの温度、もう少し下げますか?」
一応そう言った私に警部は「大丈夫」と返した。
「それよりさっきから何を読んでるんだい?」
「あ、このノートですか。実はですね…」
話題がちょうどよい方向へ転換した。私は手にしたノートを示しながらこれがこの部屋に流れ着いたいきさつを説明する。
ノートはB5サイズ。小学生が使う、動物の写真が表紙に印刷された学習ノートだ。持ち主はこれを日記帳として使っていたようで、表紙の余白に黒マジックで大きく『日記⑧』と記されている。しかし残念ながら肝心な持ち主の名前はない。
このノートはちょうど一ヶ月前、7月12日に羽田空港の待合室で発見された。ソファと壁の間に落ちていたのだ。おそらくそこに座った時に置き忘れた物なのだろう、待合室の模様替えでソファを動かしたことでたまたま出てきたのだ。遺失物…つまり忘れ物あるいは落とし物として空港事務局に保管されたのだが、特に持ち主からの問い合わせも入らず、結局保管期限の一ヶ月を経過し昨日警視庁の遺失物保管室へ送られてきた。まあ空港に限らず電車やバスの車内、駅における遺失物も全て同様の流れで送られてくるからこれ自体は珍しいことではないのだが。このノートにとって保管室が終着駅とならず私の手元へと路線変更されたのにはある老刑事の気まぐれが大きく作用している。
「フフフ…ビンさんらしいね」
話を聞きながら警部は笑った。
そう、このノートに注目したのは警部や私にとっての上司、このミットの長でもあるビン警視だ。もちろんビンというのもニックネーム。私たちは親しみを込めてビンさんと呼んでいる。
ビンさんはあまり現場に出ない。ミットに捜査の割り振りがきてもそれを警部や私に指示するのみ。いつもこの部屋の自分のデスクで私たちの提出した報告書を読んだり、古い事件の捜査資料に目を通したりしている。また部屋にいない時は未解決事件の関係者を訪ねたり、証拠品や遺失物の保管室を回ったりしているらしい。このノートもそんな謎の散歩の中ビンさんの目に留まったわけだ。
「それで昨日、ビンさんがこのノートを保管室から預かってきちゃったんですよ。持ち主を捜してみるってことで」
私がそう言ったところで警部は「ナルホド」と独特のイントネーションで頷いた。警部は昨日オフだったからこのことを知らなくても無理はない。
「本当は午前中にお伝えできたらよかったんですが、私もバタバタしていたもので…すいません」
「いやいやそれは構わないよ。にしても持ち主の現れない落とし物なんて他にもたくさんあるだろうに、ビンさんはどうしてそのノートにこだわったのかな?」
「それはですね…」
私はノートの最後のページを開いて見せる。そこにあるのは一枚の写真。写っているのは一人の女性の腰から上の姿。緑の草原と青い空を背景に、少しはにかみながら幸せそうな微笑みを浮かべている。年齢は…20歳前後といったところか。半袖のTシャツとジーンズ姿から見て、季節は春から夏。服装やメイクを考えてもかしこまった写真ではない。友達や恋人、あるいは家族が撮影した日常のスナップだろう。
なんてことないどこにでもある写真だ。世間に溢れ返った携帯電話の中にはこんなものいくらでも入っているだろう。しかし…ビンさんはこの写真に引かれた。その気持ちは私にも少しわかる。気軽にいくらでも撮影できる時代だからこそ、あえて印刷されて大切にノートに挟まれたこの一枚には…何か特別な想いが込められている気がしてしまう。
「ナルホド…」
警部はもう一度そう頷いた。
「ビンさんの話では、この写真はおそらくデジカメではなくフィルムのカメラで撮影されたものだろうということです。デジカメにしては輪郭が柔らか過ぎるっておっしゃってました。この女性のファッションから見ても少し昔の写真なのかもしれませんね…」
私が言い終わらないうちに警部はソファから立ち上がるとノートからその写真を手に取った。
「確かに不思議な写真だね。どこにでもありそうなのに…とても大切な物みたい」
警部は黙って被写体の彼女を見つめた。長い前髪に隠されていない左目からじっと視線を注ぎ込んでいる。彼女が誰に向かって、どんな喜びで微笑んでいるのか…いくつもの事件の謎を解いてきた警部でもさすがに写真の中の世界には届かない。やがてノートにそれを戻しながら低い声が言った。
「それで、何か持ち主の手掛かりはないの?」
「はい…ノートには名前など書かれていませんし」
「日記帳みたいだけど、内容から何かわからないのかい?」
「それがですね…」
私は説明を再開した。

 ノートに書かれている日記は実はたったの一日分。表紙の『日記⑧』から考えても、七冊目を書き終えてちょうど八冊目が始まったところだったのだろう。文字の字体や文章力、使用されている漢字などを考えると持ち主はおそらく小学校の中学年から高学年。一人称が『僕』なので男の子だ。
しかし…これだけの情報で少年を特定するのは雲を掴むような話だ。私がそう伝えると警部は壁際に戻ってソファに沈み込んだ。
「う~ん…発見されたのは羽田空港の待合室、となれば日本中の人が行き交ってる場所だもんなあ。それにいつ置き忘れられたのかもわからない」
「警部、それについては少しだけ手掛かりがあるんです、この一日分の日記に」
「…というと?」
「この日記、字があまり綺麗ではないのでちょっと読み難いんですが、書かれている日付は今年の7月9日なんです。つまりノートが発見された三日前です。文中には地名も出てきます」
警部はそこで少し笑った。
「なんだ、手掛かりあるんじゃない」
「そうなんですが…そうとも言えなくて」
曖昧な私の返事に警部は怪訝な顔…といっても長い前髪のせいでその表情ははっきりしないが。
「まあとりあえずその日記を読んで聞かせてよ」
そう言う上司に私は今更の質問をする。
「あの警部、よろしいんですか?お仕事は…。もうじきお昼休みも終わりますが」
「これも仕事のうちだよ。今日は特に捜査の割り振りもきてないしね。それにこれはビンさんが持ってきた話なんだから、部下としては従わないと」
まあ予想どおりの返答だった。
「それにしてもムーン、張本人のビンさんはどこにいるの?今朝から見かけてないけど」
「それもこの日記を読めばわかりますよ。では…朗読しますね。日付は先ほども申したように今年の7月9日です。
え~、今日はお父さんと買い物に行きました…」
字の汚さゆえ時々詰まりながらではあったが、私は何度も読み返したその文章を警部に声で伝えていく。読み上げている途中、少し懐かしいような感覚があった。
…何だろう、この感じ?さっき一人で読んでた時には何も思わなかったのに。

***

 今日はお父さんと買い物に行きました。明日からの旅行に持っていくカバンを買ってもらいました。とてもうれしかったです。電車で帰る途中、僕はずっとカバンを抱っこしてました。
北雲駅に到着します。ホームにおりたらお父さんが今日はあったかいねと言いました。僕が明日電車はおくれないかなあと言ったら、お父さんはだいじょうぶと答えました。
二人でちゅうしゃ場まで歩きます。うちの赤い車はかくれていたけど僕が見つけました。僕が乗ったらお父さんはエアコンをつけてくれました。その後、前の窓や横の窓、後ろの窓をガンガンとかガリガリたたかれてちょっとこわかった。僕のほっぺに一すじのしずくが流れます。

家に帰る前、今日もお父さんはアキナーマートによってくれるかな。アイスクリームを買ってくれるかな。アキナーマートに着くまで20分くらいあるから、今のうちに書こうと思って日記を書いてます。
駅前の道路には車がたくさん走ってます。みんな急いでいるけど、一車線だからおいこせないね。
明日はひこうきとぶかなあ。一人で乗るのは初めてだからちょっとドキドキする。でも空港まではお父さんがいっしょだし、東京にはおばさんが待っててくれるから安心。気をつけて行ってくるね、お母さん。朝ねぼうしないように今日は早くねなくちゃね。

***