第三章 プレゼント

 潤一くんにお願いしてそのまま警視庁まで送ってもらう。指定された駐車スペースで降りると、一人の女性が迎えてくれた。年齢はあたしと同じくらいかな、茶色がかった肩までの髪をセンターで分け、切れ長の瞳が印象的な美人だ。
「内藤帆織さんですね。カイカン警部からお話は伺っております。私は部下のムーンといいます」
カイカンは警部だったのか。でももっと驚いたのはこの女刑事…あたしも外見にはそれなりに自信があったつもりだけど、これは別格だ。はっきりいって綺麗過ぎる。あのボロボロのコートの刑事の部下がこの女優みたいな人?一体どういう取り合わせなの?それにカイカンとかムーンとかって名前は一体何なの?
これから深刻な話をしなくてはいけないのに、あたしの心はちょっと横道に逸れてしまった。
「では、お部屋にご案内します。お連れの方もどうぞ」
女刑事はそう言うと歩き出した。

 あたしと潤一くんは窓のない小さな部屋に通される。部屋の中央には四角い机、その椅子の一つにカイカンがあのハットを着用して座っている。てっきりドラマみたいにガラスの仕切りがあってその向こうに達郎がいるのかと思ったけど、そうじゃないみたい。
「どうぞ、内藤さん、そちらにお掛けください」
示された対面の席に腰を下ろす。「僕はどうすればいいですか?」と尋ねた潤一くんには、女刑事が「ではこちらへ」と壁際の椅子を勧めた。
「さて、始めましょうか」
カイカンの低い声が室内にじんわり響く。あたしは息を呑んだ。
「内藤さん、あなたは12月に入ってずっと誰かに見られている、つけ狙われているような感覚を抱いていらっしゃいましたね。しかも部屋に侵入されている気配まであった…随分恐ろしい日々を過ごされたでしょう。
今からそのことについてご説明します。どうか落ち着いて聞いてください」
そこで刑事はまた右手の人差し指を立てる。
「実はこの事件には複数の人間が関わっていました。その一人は何を隠そう、私です。ご存じのように、あなたに声をかけるためにつけ回しました。それがあなたの疑心暗鬼を増幅させてしまったことは本当にごめんなさい。
しかし私があなたをつけ回したのは、前にも説明したように二回だけです。もちろんお部屋に入ったりもしていません。侵入していたのは別の人物…」
「それが達郎ですね。自分の恋人がストーカーになるなんて正直ショックです」
そう言って目を伏せたあたしに、刑事は穏やかに告げた。
「いいえ。確かに達郎さんはあなたの部屋に無断で入りましたが、それは今日だけのことです。ちゃんと確認しました。彼には鉄板みたいなアリバイがあって、とてもこっそり上京してストーキングしている暇はありませんでした」
「そんな、じゃあ…」
「もう一人いたのです」
カイカンは立てていた指を静かに横に倒した。その指先は彼に向けられている。
「それはあなたですね、潤一さん」
部屋の照明の下限だったのか、その瞬間カイカンの前髪の奥で右目が光った様な気がした。

 緊張が走る。潤一くんは数秒無言で固まった後、すぐにおどけた口調で切り返した。
「え?僕?やだなあ刑事さん、一体何をおっしゃってるんですか?」
「内藤さんをつけ回し、部屋に無断侵入していたのはあなただと言っています。もちろん冗談ではありません」
「そんなわけないでしょ、怒りますよ?」
彼の表情から笑みが消える。やりとりを見守りながらあたしは放心していた。潤一くんが…?正直わけがわからない。気持ちが全く追いつかない。今の今まで微塵もそんなふうに考えたことはなかったんだから。
「どうしてそうなるんですか。僕がストーカー?帆織さんの部屋に忍び込んだ?じゃあ訊きますが、一体どうやって入るんです?」
「合鍵を使用したんです」
「僕は最近帆織さんと知り合って、ごはんや映画に一緒に行くようになったばかりです。それだけの関係です。部屋の合鍵なんてもらってません。ねえ、帆織さん」
彼に同意を求められてあたしははっとする。そうだ、気をしっかり持たなきゃ!いつもの冷酷なあたしはどうした。冷静に、理詰めで物事を判断するんだ。
「刑事さん、潤一くんの言うとおりです。あたしは渡していません。自分用の鍵だってちゃんと肌身離さず鞄に入れてます」
「予備の鍵がありませんか?」
カイカンは平然と答える。
「それはもちろんありますけど…それだって部屋の机の引き出しの中です」
「それです」
と、そこでパチンと指が鳴らされる。
「潤一さんは、その予備の鍵をこっそり持ち出して合鍵を造っていたのです」
「だから、部屋に入ったことのない彼が予備の鍵を持ち出せるわけないでしょ!」
思わずムキになってしまう。潤一くんもその勢いに乗って主張した。
「そうですよ、僕に予備の鍵を持ち出すチャンスなんかない」
「いいえ…一度だけありました。フフフ、ゆっくり思い出してみてください内藤さん。今月頭の土曜日のことを…。そう、私と地下鉄で会ったあの夜のことを」
由実と飲みに行った…あまり思い出したくないけど…酔っ払い過ぎた醜態の夜だ。
「あなたはお友達とお酒を飲み酔ってしまった。なんとか千鳥足で家にたどり着いたあなたはどうされました?」
「…そのまま寝室に直行しましたけど」
そう、衣類をどんどん脱ぎ捨てながらベッドに突入したのは間違いない。
「かなり酔っていらっしゃいましたからね。となるとおそらくあなたはその時に玄関の鍵を掛け忘れたのでしょう。そしてそのまま爆睡…彼が侵入したのはその後です」
カイカンの左目が潤一くんを見る。
「あなたは酔って歩く彼女を見かけて後をつけた。そのまま部屋まで尾行し、彼女が玄関の鍵を掛け忘れたことも確認した。彼女が寝静まった頃合いを見て、あなたは室内に侵入した…」
「嘘だ!」
彼が叫ぶ。あたしも「刑事さん、次の日の朝、ちゃんと玄関の鍵は掛かっていましたよ」と擁護する。
「チェーンロックも掛かっていましたか?」
いや…チェーンロックは外れていた。あたしが言葉を止めると低い声はさらに続ける。
「であれば簡単な話です。あなたが寝ている間に侵入した潤一さんは、引き出しの中の予備の鍵を見つけそれを持って部屋を出た…もちろんその鍵で玄関を施錠してね。そして合鍵を造り、後日あなたが仕事で留守の日中に侵入し引き出しに戻した」
そんな…。
「つまりあなたが彼と初対面の時、彼の方はすでにあなたのことを知っていたんです。随分気が合ったそうですが、残念ながらそれも運命などではありません。部屋に侵入していた彼なら、あなたの趣味や好みを把握して話を合わせることが簡単にできたのです」
「違う、違う違う!帆織さんとは偶然知り合ったんだ。彼女が落とした手帳を僕が拾って…」
「そんなのいくらでも演出できる。満員電車の中で手帳を抜き取っておいて、後から声をかければいい」
「勝手なことを言うな!」
潤一くんが絶叫して立ち上がる。そばに控えていた女刑事が、彼の両肩を押さえて壁に押しやった。
「落ち着きなさい」
「こいつが、いい加減なことばっかり言って僕を責めるのが悪いんだ。僕は何も悪くないのに。僕が夜道で帆織さんを見かけてそのまま部屋まで尾行した?デタラメもいいとこ、そんな証拠がどこにあるの?」
それは怒声というより虚勢。彼は親や教師に問い詰められている子供の用に、内心の動揺をわめいて誤魔化していた。カイカンが音もなく立ち上がり、女刑事の肩越に彼の正面に立つ。そしてハットを脱いで右手に掲げた。
「証拠は…これです。今日レストランでお会いした時、あなたはテーブルに置かれたこのハットを彼女の物だと勘違いしましたね?」
「それが何だよ」
「私も後から気付いたんですが、この勘違いはとても異様なことなんですよ。
よろしいですか?あの時テーブルにいたのは私と内藤さんの二人。このボロボロのハットの持ち主が、ボロボロのコートを着た私と小奇麗な彼女のどちらなのか…誰でもわかることです。一目瞭然で間違えようがない。
なのにあなたは勘違いした。何故か?それは実際にこのハットをかぶっている彼女を目にしたことがあるからです」
もがいていた彼の勢いが止まる。
「あの土曜日、内藤さんは地下鉄で私からこのハットを奪いました。そしてかぶって家に帰った。つまり何が言いたいかといいますと、この間に彼女を見た人間しか、彼女のハットだと勘違いすることはできないんです」
確かにそうだ。たった一つの何気ない勘違いだけど、理詰めで考えるとそうなる。潤一くんは…あの夜のあたしを見ていたんだ。
「そんな…知らない知らない知らない」
彼は頭を抱えて首を左右に振り始める。
「知らないったら知らないよ。そんなの証拠になるもんか。アハハハ、引っ掛からないぞ、そうだ、引っ掛からないぞ。そうだそうだ、そんなに言うなら身体検査でもしてください。合鍵なんて持ってないから、アハハハハ」
今度は笑い出す潤一くん。あたしは痛々しくて胸が絞め付けられた。
「百歩譲って合鍵を造らなかったとしても、部屋に侵入することはできます。窓から入ればいい」
カイカンが言う。すると彼はさらに声を上げて笑った。
「アハハハ、窓だって?何を言ってるのさ。僕はダイ・ハードの刑事じゃないよ。どうやって3階の窓から入るのさ、アハハハ…」
空虚な笑い声だけが室内に散る。それが止むのを待ってから、カイカンがそっと憐れみを含んだ声を放つ。
「どうしてご存じなんです?…彼女の部屋が3階だと」
潤一くんの表情が凍り、室内から全ての音が消えた。
そうか…あたし、彼に一言も言ってない…部屋番号のことなんて。
「潤一くん…お寿司屋さんでも言ってたよね。あたしが酔っぱらっても3階まで担いで運べるって…。ねえ、どうして知ってたの?あたしが3階に住んでるって…ねえどうして?一度もあたしのアパートに来たことないはずだよね?
お願い、潤一くん…もう本当のこと言って」
そう投げかけると、彼は壁にもたれたままずるずると床に座り込んだ。そして両手を目に当てて泣きじゃくり始める。
「う、うわあ、うわああん。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
あれだけ魅力的だった彼のあどけなさ、純粋さ…。確かに彼は少年だった。子供の心のまま体は大人になってしまった、悲しい少年だったのだ。

 おもちゃ屋の床でだだをこねているような潤一くんを、女刑事が無理矢理立たせて連行して行った。ドアが閉まってカイカンと二人になる室内。あたしはもう…なんだかどうでもよくなっていた。何が悲しくて何が悔しくて、何が嬉しくて何が愛しいのかもうわけがわかんない。
「…こんな形になってしまってすいません」
カイカンが静かに口を開く。
「潤一さんが怪しいと気付いた時、あなたと一緒にドライブに行ってらっしゃることを思いだして迷ったんです。下手にあなたに真相を伝えたら、潤一さんが気付いて万が一にも車でそのままあなたを連れて逃げてしまうかもしれない。逆上してあなたに危害を加えるかもしれない…。
そのためあなたにも彼にも悟られないように、安全にここまで来てもらうことにしたんです。驚かせてしまいましたね」
「いえ…」
あたしは力なく返す。
「バカだったんです、あたし。若い男の子に好意を持たれてるなんて勘違いして…舞い上がって…本当に…バカ」
「誰だってそんなものでしょう」
優しい声でカイカンが言う。あたしは思い出して尋ねた。
「あの、達郎は今…」
「別室で待機してもらっています。彼が今日こっそりあなたの部屋に入っていたのは事実ですからね。まあ交際中の相手ですから住居侵入を問えるかはあなた次第でしょうけど」
「達郎はどうしてあたしの部屋に?」
「フフフ…きっとそれは今日お帰りになればわかりますよ。一つ提案ですが、明日また警視庁に来て頂けませんか。達郎さんも、合わせる顔がないから今日はここに泊まるとおっしゃっていました。
それに…これは私の部下の意見なのですが、おそらく今夜は男性とは話したくないだろうからと…」
あの女刑事が…。やっぱり女心は女にしかわかんないよね。あたしはほとんど会話もしていない彼女に胸の中でそっと手を合わせた。

 変人上司と美人刑事のコンビは、これから潤一くんの取り調べをした上で専門の部署に引き継ぎするらしい。あたしは一人で帰れますと伝えたが、疲れてるだろうからと交通課の婦人警官があたしをアパートまで送ってくれた。この婦人警官はあの女刑事の友人だそうで、「あなたも美人だから大変でしょう」「ほんとに男って馬鹿よね」と明るく話しながら車中を盛り上げてくれた。

 アパートの部屋に帰り着くと、あたしは鍵とチェーンロックをしっかり掛けた。そして寝室へ直行する。もう何も考えずに眠り込んでしまいたかった。
ドアを開けて電気を灯す。すると枕元には大きな薔薇の花束が置いてあった。
一瞬思考が停止したが、すぐに理解して駆け寄る。花束には小さなカードが添えられていた。
『いつも頑張ってる帆織へ。
ずっと連絡しなくてごめん。でもやっと決意ができたんだ。クリスマス・イブは必ず二人で過ごそう。 達郎』
目の奥から熱い涙が滲んでくる。
「バカ…こんなサプライズ仕掛けようとするから警察に勘違いされちゃうんじゃない。いっつもいっつもどんくさいんだから…」
花束の中央には一際大きな薔薇が一輪飛び出していた。そしてそのトゲには小さな銀のリングが引っ掛けられている。

まったく…人生は計り知れない。
なんでも気が合う運命の相手だと思った男がストーカーのこともあれば、すれ違いばかりで潮時だと思った男が運命の相手のことだってあるんだから。
思わず安堵。ようやく…戦争は終わった。