第二章 ケーキ

「うわあ!」
声を上げたのはあたしでも潤一くんでもなく、その男自身だった。前を歩いていたはずのあたしたちが待ち構えていたので面食らったらしい。
「お、お二人さんどうして立ち止まってるんです?」
低くてよく通る声がそう尋ねる。一瞬呆気にとられたが、あたしはすぐに切り返した。
「それはこっちのセリフです。あなた、どういうつもりですか、人のことをつけ回したりして」
「そうだ、オッサン、あんた何者だ?このストーカーめ!」
潤一くんも加勢してくれる。すると男は「みなさん落ち着いて」とくり返し、一息ついてから言った。
「私は、けして変質者ではありません」
これほど説得力のない主張がこの世にあるだろうか。
「本当です。私は警視庁の刑事で…カイカンといいます」
え?刑事?嘘…でも確かにその言葉遣いはしっかりしている。しかし…その風貌はどう見てもおかしい。ボロボロのコートを着込み、長い前髪が右目を隠している。それにカイカンってどんな名前よ。
「私があなたを付け回していたのはあなたに伺いたいことがあったから、それだけです。もしまだ疑われるようでしたら、この場で110番して確認して頂いても構いませんよ。私の所属は捜査一課です」
一瞬本当にそうしようかと思ったが、ここまで堂々とされるとさすがに躊躇する。隣を見ると、「刑事さんでしたか、びっくりさせないでくださいよ」と潤一くんも威勢を弱めて笑顔を見せたので、あたしもひとまずそれに乗っかる。カイカンもほっと一息。
「では、今少しだけお話よろしいですか?」
「じゃあ帆織さん、あとは刑事さんに送ってもらってね。捜査の話なら僕は聞かない方がいいだろうし。では刑事さん、お願いしますね」
そこで潤一くんは去る。警察が怖いなんて本当に子どもみたいな彼。ちょっと薄情な気もしたけど気を遣ってくれたのかもしれない。あたしは深呼吸してから口を開く。
「それで、お話というのは…」
「はい、突然すいません。実は今月頭の土曜日の話なのですが…あ、その前にお名前をお伺いしてよろしいですか?」
「内藤…帆織です」
「では内藤さん、その土曜日ですが、地下鉄で私に会ったのを憶えておられますか?」
「え?」
もちろん記憶はない。こんなインパクトのある人物に出会ったらそうそう忘れはしないはずだけど。
「憶えておられませんか?まあそれも無理はありません。かなりお酒に酔ってらっしゃったようでしたから。確か由実さんというお連れの女性がいらっしゃいましたね。二人で地下鉄に乗っておられて、由実さんが先に降りた」
確かにその日は由実と飲みに行った日だ。
「実は私、同じ車両に乗っていたんですよ。由実さんはあなたに、ちゃんと五つ先の駅で降りるように何度も言っておられました。あなたも了解と答えていましたが、いかんせん酔ってらっしゃいました。そこで案の定、由実さんが降りて間もなくあなたは眠ってしまいました。
五つ先の駅に近付いても全く目覚める気配がなかったので仕方なく私が声をかけたんです、ご記憶ありませんか?」
話を聞いているうちにボンヤリ思い出してくる。そうだ、この低音で妙な説得力のある声…地下鉄の中で起こされたあの時の声だ。
「あたし…あなたに起こされて…」
「そうです。もうすぐ降りる駅ですよとお伝えしたらあなたは目をさまし、今度は私を見て突然大笑いを始めました」
そうだそうだ。目の前にボロボロのハットをかぶった変な髪形の奴がいたから、あたしはなんだかおかしくなって…。
「思い出しました。あたし、刑事さんの帽子をひったくって…」
「そうです、自分でかぶってそのまま地下鉄を降りちゃったんです。私も追いかけようとしたんですが、靴が脱げてしまって、履き直してるうちにドアが閉まってしまったんです」
全てが繋がった。日曜日の朝、脱ぎ散らかされた服に混じって落ちてたあのハットはこのカイカンの物だったんだ。記憶が戻ると同時に、とてつもない恥ずかしさが押し寄せる。酒癖が悪いにもほどがある。これじゃあこっちが変質者だ。人様の帽子を奪って行ってしまうなんて。あたしはそこで頭を下げた。
「本当に失礼致しました。ごめんなさい、すっかり忘れてました」
「こちらこそ、親切で声をかけたつもりが変なことになってすいません。内藤さん、頭を上げてください」
「それで刑事さんは…あたしを逮捕しに来たんですね。窃盗罪…いえ、強盗罪ですか?」
顔を上げて恐る恐る尋ねる。するとカイカンはクスッと笑った。
「いえいえ、まあ酔った上でのことですし、大目に見ますよ。私があなたをつけ回していたのは逮捕するためではありません。ただ単純にあのハットを返してほしいからです」
そういえばどこにやっただろう。部屋のどこかに置いたんだっけ?それとも捨てちゃった?
そんなあたしの表情を読んでカイカンは不安そうな顔になる。
「まさか…捨ててしまわれましたか?」
「ちょっと待ってください、よく憶えていなくて…。でも翌朝に部屋で見た記憶はありますから、部屋までかぶって帰ったことは間違いありません。多分捨ててはないと思います」
そう言いながらも自信は全くなかった。
「今夜中に探してみます。それでもし見つからなかったら弁償します」
「弁償までして頂かなくても大丈夫です。では…申し訳ありませんが、お部屋の捜索をよろしくお願いします」
今度はカイカンが頭を下げる。それにしてもこの人は…あのボロボロのハットのためにあたしを捜し回ってたのか。
ストーカーの正体がわかったのはよかったけど、まさか警察官だったなんて…あたしは密かに脱力した。

 カイカンはアパートの前まで送ってくれた。ハットについては、明日の午後2時に待ち合わせて返却する段取りとなった。
「わかりました、ではあのレストランで待ってますね。先日あなたが先ほどの男性と食事されていたお店」
「お願いします。あの時、電信柱の陰から見てたのも刑事さんだったんですね」
「フフフ、ようやくあなたを見つけて声をかけるタイミングを計ってたんですが…なんだかとっても二人で盛り上がってらっしゃったので…。いやあ、本当に楽しそうでした」
そんなふうに言われると悪い気はしない。
「それで邪魔しちゃ申し訳ないので、日を改めることにしたんです。でも結局今夜、デートのお邪魔をしちゃってごめんなさい」
「そんなこと…こちらこそ気を遣わせてしまってすいません」
「ではもしハットが見つかったら持ってきてくださいね」
そう言うと刑事は踵を返し、くたびれたコートの後ろ姿は夜の闇へと消えた。
まったく…なん打かなあ。でもこれは自分の蒔いた種、ちゃんと責任を取らなきゃ。

 部屋に戻って一息つく。かくして夜を徹しての捜索が始まった。
なかなか見つからなくてもうあきらめかけた頃、幸いにしてそのハットは積み上げていたゴミ袋の後ろから発見された。どうやら無意識にゴミ袋の上に放り投げたのが後ろに落ちてしまったらしい。
これはこれでよし。でも部屋中をひっくり返したせいであたしは別の厄介ごとを見つけてしまったらしい。もっと重大でもっとおぞましい…。

仕事部屋の本棚の影に、それは仕掛けられていたのだ。

「はい、これですよね、刑事さん?」
翌日の日曜日、あたしは紙袋に包んだハットを手渡しにレストランへ行った。カイカンはここで昼食を食べたらしく、食後のコーヒーを楽しんでいた。格好は相変わらずボロボロのコートで、カレーがなかなかおいしかったと笑っていた。あたしもコーヒーとケーキのセットを注文して体面に腰を下ろす。
「ああ、これですこれです、本当にありがとうございました」
刑事は嬉しそうな顔でそのボロボロのハットを取り出すと、今度は愛おしそうに優しく撫でていた。しばしそれを見守ってからあたしは尋ねる。
「見つかってよかったです。そんなに大切な物なんですか?失礼ですけどあまり高価な物には…」
「もちろん他の人にとっては何の価値もないでしょうけどね、まあ色々思い出がある品なんです。フフフ、こうやってお店で受け取ると、まるで怪しい取り引きみたいですね。私はお金の詰まったアタッシュケースをあなたにお渡ししないと」
「そんな大切な物を持っていっちゃってすいません」
また頭を下げかけたけど、注文が運ばれてきたので顔を上げた。
「おいしそうなケーキじゃないですか。フフフ、小さなツリーも刺さってますね。クリスマスですか。どうぞ召し上がってください」
上機嫌のカイカン。あたしは「はい」とだけ答えコーヒーに口をつける。そしてしばらく無言でケーキにフォークを入れた。どうしよう…あのことを言うべきかどうか心は迷っていた。
「どうか…されましたか?」
沈黙に不自然さを感じたのか、カイカンはハットをテーブルに置いてこちらを見た。
「失礼ですが…かなりお疲れのようですね。私がこのハットを探させたせいで寝不足になられたのならお詫びします」
「いえ、そうじゃないんです…」
唇の間からようやく言葉が出る。そんなあたしをカイカンの目が見つめる。不思議だ…その前髪に隠されていない左目はとても澄んでいる。外見の異様さのせいか、余計にそれが際立つ。
「刑事さん…」
賭けてみようかこの人に。地下鉄で一瞬会っただけのあたしを、見事に捜し当てたこの刑事に。
「あの…一つご相談してもいいですか?」
「…何でしょう?」
低い声が優しく響く。少し座り直してからカイカンは言った。
「どうぞ。何でもおっしゃってください」

 あたしは12月に入ってから感じていた異変について話した。誰かに見られている、つけられている、留守の部屋に侵入されている…そんな妙な感覚があったことを。カイカンは時々頷きながらずっと黙って聞いてくれた。
「まあ、つけ回してたのは刑事さんだったんでそこは安心したんですけど…」
「いいえ」
そこでカイカンは右手の人差し指を立てる。
「私があなたをつけ回したのは、二回だけです。この店であなたがお食事されていた夜と、実際にあなたと会って話した昨夜。それ以外の日はあなたに近付いてもいませんし、もちろん日中も監視したりしていません。私にも仕事がありますから」
やっぱり…。心のどこかではわかっていた気がする。あたしが感じていた恐怖の正体は…この人ではないことを。
「それ以外の日でも視線を感じたり、後ろをついてくる足音を聞いたことがあります。確かです」
「となると私ではない別の誰かがいる…しかもその人物はお部屋に侵入しているかもしれないんですね?あなたが留守の時間に」
あたしは黙って頷くと、震える手でハンカチに包んだその機器を取り出した。
「本棚の陰で見つけました。間違いなくあたしが買った物ではありません」
「ちょっと失礼します」
カイカンは慎重にハンカチを開き、その小さな物体に顔を寄せた。
「一見ただのマグネットのようですが…小さな穴が空いています。おそらく…レンズでしょう」
背中と首筋を冷たい手が撫で上げる感覚。あたしは再び声を失った。誰かが…あたしの部屋にカメラを仕掛けていたのだ。
「さっそく警察で分析しますね。ご安心ください、私の部下は女性です。録画の内容は彼女に確認してもらいますから」
「あ、ありがとうございます」
気丈に答えたつもりだったが内心の動揺は滲み出てしまったのだろう、カイカンは心配そうに「内藤さん…大丈夫ですか?」と尋ねた。そして「ほら、甘い物をどうぞ」とケーキを勧めてくれる。あたしが一切れ口に運ぶと、刑事は優しく頷いた。
「しかし…こんな物まで仕掛けられていたとなると、部屋に誰かが侵入していたというのはもはや間違いないでしょう。アパートのお部屋は何号室ですか?」
「…307号室です」
答える声が震える。
「3階ですね。普段窓を施錠せずに出掛けることはありますか?それと隣室と繋がっているベランダはありますか?」
どちらも答えはノーだった。あたしは首を振る。
「となると、窓からの侵入は考えにくいですね。残るは玄関…しかし出入りするには鍵が必要です。合鍵を持っている人は誰ですか?」
「実家の両親と…大家さん…」
「他には?」
「あとは…達郎」
その名前がこぼれると、刑事は身を乗り出した。
「達郎さんというのは、昨日一緒におられた彼ですか?」
また黙って首を振る。そしてあたしは説明した。遠距離恋愛で最近は連絡も取れない彼のこと、そしてそんな彼がいるのに潤一くんに惹かれてしまっていたこと。
「潤一くんとは本当に運命みたいに気が合って…話してると楽しくて…。ダメですね、だからバチが当たったのかもしれません。最低な女です…あたしは」
低い声は何も返さなかった。見るとカイカンは立てた右手の人差し指をクルクル長い前髪に巻き付けている。そしてさらにコートのポケットから取り出した黒い物体を口にくわえた。
…え?何?タバコ…じゃないし、ひょっとしておしゃぶり昆布?
再び沈黙が場を包む。あたしは少しずつケーキに口をつけた。…苦い。こんなに甘いのに…とても苦い。半分くらい食べたところで刑事の指が止まった。
「とにかく、このカメラを調べますね。あと達郎さんにも事情を伺ってみます。詳しい素姓を教えて頂けますか?」
あたしは達郎の現住所や勤務先、さらに自分の電話番号を伝え、「よろしくお願いします」ともう一度深く頭を下げた。カイカンは証拠の品をハンカチにくるんでポケットにしまう。そして昆布をタバコのように指に挟み、そっとカップを口に運んだ。
あたしもコーヒーを一口飲んで窓の外を見る。12月の弱い日差しが午後の街を頼りなく染めていた。

「あれ、帆織さん?」
呼ばれて振り返ると潤一くんだった。彼は店員に「知り合いです」と告げてこちらに来る。
「来てたんですね。僕もコーヒーでも飲もうかと思って来たんです。昨日の刑事さんもこんにちは。あ、まだ事情聴取の最中でしたか」
「いえいえ、こんな場所で事情聴取はしませんよ。ちょっとお話をしていただけです。私の用事はもう済みましたから」
「そうですか…」
気を遣ってくれたのか、カイカンは何も伝えなかった。彼はやや不満そうだったけど、またあどけない笑顔であたしに言った。
「だったらドライブにでも行く?車で来てるんだ、僕」
「うん、行こう…かな」
そうだ、悩んでばかりいてもしょうがない。気分転換しなきゃ。あたしはコーヒーを飲み干す。ケーキは少し残っちゃったけど…もういいや。マフラーを首に巻いて席を離れる。
「それじゃあ刑事さん、失礼します」
「帆織さん、待って、忘れ物だよ」
そこで潤一くんがテーブルの上のハットを手に取った。
「あ、それ、刑事さんのなの」
「え、そうなの?アハハ、こりゃすいません」
恥ずかしそうにハットを返す潤一くん。カイカンは「いえいえ」と微笑む。
「それでは失礼します」
照れ隠ししている彼も可愛い。意外とうっかりさんなのかも。

 二人で駐車場に出る。窓から店内を見ると、カイカンは右手の人差し指を立てた姿勢のまま固まっていた。まるで石みたいにピクリとも動かない…と思ったら、今度は急に動き出してくわえていた昆布を一気に呑み込んでしまう。そしてどこかに慌てて電話をかけている。…不思議な人だ。
「どこ行きます?」
潤一くんに言われて逸れていた気を戻す。
「そうね…っていうかまた敬語になってるよ」
「あ、ごめんごめん」
冷たい木枯らしが吹く。あたしは目を細めた。

 潤一くんの車はゆっくり街を流した。映画とか音楽とか相変わらず趣味は重なる部分が多かったけど、どこか盛り上がらない会話が続いた。ごめんね、それはあたしのせいだ。あたしの心が…楽しめていない。
空が薄い夕焼けに染まり始めた頃、スマフォが鳴った。「刑事さんからかもしれないから」とあたしは助手席でそれに出る。
「もしもし」
「警視庁のカイカンです。内藤さんですね。実は一つお伝えしなくてはいけないことがありまして…今大丈夫ですか?」
顔を見ずに聞くと、カイカンの低い声はますます重みがある。あたしは「どうぞ」と答えた。
「あなたの部屋から見つかった例の物ですが、やはり小型のカメラでした。内臓バッテリーのもつ時間を考えても、今月に入ってから仕掛けられたのでしょう」
スマフォを握る手に嫌な汗が滲む。
「そこであなたの部屋を調べさせて頂きたいと思いまして…」
「もちろん、構いません。あたしも立ち会った方がよいですよね?」
「ええ、というよりも実はもう私の部下と鑑識さんに部屋まで行ってもらったんです。すいません、あなたには電話で許可をもらう予定で。早い方がよいかと思いましてね。そうしたら…」
刑事は少し言い淀んでから続ける。
「どうも室内から人の気配がしたんです。あなたはドライブ中のはずだからおかしいと思いまして、それで私の部下はインターホンを鳴らしてみました。すると呆気なく玄関のドアが開いて中から出てきたんです」
「人が…いたんですか?あたしの部屋に」
侵入者の存在を覚悟していたとはいえ、それは驚愕だった。数秒置いてから低い声は告げる。
「ええ…いらっしゃいました。達郎さんでした。彼は無断侵入を認めています」
目の前が真っ暗になる。達郎が…。
あたしの様子を察してか、潤一くんはゆっくり車を路肩に停めた。
「…もしもし、内藤さん?大丈夫ですか?」
遠くで低い声が言う。あたしは意識を振り絞って返す。
「あ、は、はい大丈夫です。あの…達郎は逮捕されたんですか?」
全身が震える。熱いような冷たいような、肌が混乱している。隣で潤一くんが「大丈夫?」と声をかける。そして電話の向こうでカイカンは言った。
「犯人を逮捕するためには、あなたにも来てもらう必要があります」