第一章 キャロル

「内藤課長補佐のご意見はいかがかな?」
月曜日。本社ビル上層階の会議室で軍議に臨むのは経営戦略部の面々。そう、あたしは悪名高きこの部署の課長補佐。気付けばこんな所まで来てしまっている。背筋を張ってあたしは答えた。
「みなさんの考えに賛成です。今は新しい市場に攻め込むよりも、現在の市場でのマーケティングを強化するのが得策でしょう。その上で来年度の市場拡大に臨むべきです」
いくつかの顔が無言で頷く。
「よし、となると10月の会議でも議題に挙がったように、現在業績の振るわない支社については年度内の整理が必要だな」
「それもやむを得ないと思います」
こんなセリフがあっさり言えるようになってもうどのくらい経つだろう。全国に百近い支社を持つこの巨大な帝国に入ってもう六年。経営戦略部に引き抜かれこの本社ビルの幹部フロアに出入りするようになってもうすぐ二年。
「では、今月の会議はここまで。次回は年明けの月曜日になります。内藤課長補佐、また議事録の作成をお願いしますよ。君の記録は内容がわかりやすいと社長も褒めてらした」
「…ありがとうございます、頑張ります」
「よし、忘年会ではうまい酒を飲みましょう。ではみなさん、解散!」
部長の言葉で散会となる。あたしはお愛想と一礼をかまして会議室を出た。少し行った所で立ち止まり、ちらりとスマフォをチェックする。新しいメールはなし。
ハア…。廊下の窓からは澱んだ東京の街が見下ろせる。12月の喧騒もこの高さには届かない。あたしが溜め息吐いたって誰もそれに気付くことはない。
まったく…返事くらいしてよ、達郎。

 思えば入社した頃は楽しかった。忙しい会社だったけどその分同期の絆は強くなった。みんなで残業して、終わったら飲みに行って、休日も仲間の家に集まってパーティして、そのまま雑魚寝して…。旅行なんかも行ったっけ。忘年会の出し物ではみんなでイカの格好で踊ったっけ。懐かしいなあ。
あたしと達郎は同期の中で一番最初に誕生したカップルだった。あたしがすぐに仕事を憶えて会社の期待以上の成果を上げ、スマイルとお酌で上層部にも気に入られたのに対し、達郎は仕事も接待も器用にこなせるタイプじゃなかった。だけどその分優しくてズルのできない真面目な人で、あたしは自分の中の冷酷さをいつも嫌悪していたから彼のそんなあたたかさが好きだった。「俺、この仕事に向いてないのかなあ」なんて落ち込んでる達郎を、いつも「達郎は達郎のままでいいんだよ」と励ましていた。
だけど会社はそんなに甘くない。あたしが同期の出世頭として経営部に配属されどんどん重要な席に呼ばれるようになったのと反比例、達郎は営業部のお荷物としてだんだん追いやられていった。
それでも仕事は仕事、恋愛は恋愛。あたしは異性から好まれる容姿を持っていることを自覚しているし時にはそれを利用もする。でもあくまでビジネスの範囲内。重役から暗に愛人関係を求められた時もけして一線を越えなかった。だってあたしは達郎の彼女なんだから。
でも今から思えば、そんなあたしの振る舞いが余計に彼の組織での居場所を奪ったのかもしれない。去年の春の人事であたしは異例の若さで経営戦略部に引き抜かれ、達郎は地方の支社へ異動となった。旅立つ時の彼の悲しそうな顔は忘れることができない。彼は一緒に来てほしいとは言わなかった。たとえ言ったとしてもあたしは応じなかっただろうし、彼もそれはわかっていたんだと思う。
そういえば彼の送別会が同期の仲間で集まった最後だったなあ。あれ以降は忘年会とかで顔を合せても、ちょっと挨拶するくらい。まああたしがお偉いさん方のいるテーブルに座ってるんだから無理もないけど。
でもあたしには達郎がいる。同期のみんなとは疎遠になっても、あたしたちは恋人同士。だから彼が上京したりあたしが行ったりして、しばらくは毎月のように会っていた。でも一年もすると徐々にそれも少なくなって、次第に電話とメールだけのやりとりになった。
そして決定的だったのはあれだ。10月の戦略会議での決議事項…業績の振るわない支社は整理する…彼のいる支社は残念ながらその候補の一つだった。経営戦略部の人間としてあたしは彼にそのことを通達せねばならず、あくまで仕事として彼に電話した。彼は黙って聞いていたが、居たたまれなくなったあたしは電話の最後だけ敬語を外して「頑張ってね」と伝えた。それが良くなかったのかもしれない。彼のプライドを傷つけたのかもしれない。仕事は仕事、恋愛は恋愛。その境界線をあたしが破ってしまったんだ。
それ以降彼はプライベートな連絡には一切応じなくなった。あたしから時々一方的なメールを送るだけの日々…そんなこんなでもう12月。
…自然消滅、そんな単語が頭を過る。あたしの仕事は腹立たしいほど順調だけど、恋愛のキャンドルは風前の灯。なのに取り乱すこともなく日々を送れる自分が悲しい。
それでも一応モヤモヤはしてたから、一昨日は大学時代の友人の由実を飲みに誘って愚痴を聞いてもらった。彼女のアドバイスに従い、達郎には『クリスマスどうする?』と軽い感じでメールを送ってみた。
だけどやっぱり返信はなし。彼のことを考えていると彼からの電話が鳴る…そんな恋愛初期の魔法はどこへ消えてしまったんだろう。

…そんなことを頭の片隅で考えながら、あたしは議事録を完成させると、プリントアウトして部長に提出に行く。そしてデスクに戻ると再びパソコンに向かい、次は各支社の先月の収益をデータベースに入力し対昨年度の増減率を計算する作業。変わらず安定を維持している支社、右肩上がりの勢力的な支社、それとは逆に低迷をたどっている支社…。
ふとあたしの指が止まる。彼の支社は…残念ながら11月分も芳しくなかった。このままじゃ本当に春には…。
少しだけ胸が痛んだけど、その収益を入力する。やっぱりあたしは冷酷だ。

 余裕を持って業務を終え机上の整理をしていると、オフィスの時計が終業時刻を告げた。課長に許可をもらって退勤する。何かあれば夜を徹して対策を講じねばならない部署だ、早く帰れる日は帰ってエネルギーを温存しておいた方がいい。
会社を出て込み合う地下鉄に運ばれ、いつもの液で降りる。これまたいつものコンビニに立ち寄ると、店内は装飾もBGMもクリスマス一色。あたしはサラダとチキンライスを買って店を出る。そしてアパートへの帰路をキャリアウーマンは一人淋しく歩くのだった。

部屋に帰ってスマフォを見るがやっぱり彼からのメールはなし。ああもう、いっそ新しい恋でもしようかな。そんな都合よくロマンスが落ちてるわけないけど。

 やはりエネルギーを温存しておいてよかった。次の日から急に仕事は忙しくなった。お国へ提出していた報告書類の記載に不備があったのだ。達郎からの連絡は相変わらずなかったけどそんなの構っていられない。指定された期限内に修正して再提出しなければ大変なことになる。社長の一喝と密命を受けた経営戦略部の面々は、毎晩終電近くまで身を粉にする日々が続いた。
…そんなさなかでのこと。
あたしは小さな異変を感じていた。誰かに見られているような、つけられているような妙な緊張。それだけではない、部屋の様子にも違和感を覚えた。はっきりとは言えないけど、自分以外の誰かがそこにいたような気配。もしかしたらと机の引き出しの中を確認すると、予備の鍵はちゃんとあった。となるとこの部屋に出入りできるのは、実家の両親と大家さんを除けば達郎しかいない。
まさか…と思ったけど、彼が連絡もなく来るのはおかしい。それに彼ならつけ回したりせずに声をかけてくるはずだ。気のせい、きっと気のせいよ。あたしは自分にそう言い聞かせた。やっぱり疲れ過ぎはよくない、もう若くないんだから…と自分で思ってまた空しくなる。

 それは突然のことだった。忙しさもようやく落ち着き始めた日の帰り道、あたしは声をかけられた。
「あ、あの、あのすいません、これ、落とされませんでした?」
地下鉄駅から地上に出た所で振り返ると、一人の青年が立っていた。服装がカジュアルで男性にしては小柄なせいもあるが、そのあどけなさを多く含んだ容姿は少年と言われても信じてしまいそうだった。彼の手には一冊のビジネス手帳。
「え?」
「いや、その、怪しい者ではありません。この手帳がエスカレーターであなたのポケットから落ちたように見えたので…」
必死に説明する仕草がなんか可愛い。確認すると手帳がない。確かにそれはあたしの物だった。受け取りながらお礼を言う。
「すいません、助かりました」
「いえいえ、よかったです」
彼は途端にほっとしたような、それでいて嬉しそうな顔になり、「今時手帳なんて珍しいから、きっと大事な物だと思ったんです」と続けた。
「ええ。今はみんなタブレットとかスマフォですもんね。でもあたしはペンで書く方が好きで…。なんだか心がこもるっていうか…」
初対面の人に何を言ってんだ、あたしは。すると彼は「僕もなんですよ」と内ポケットから自分の手帳をちょいと覗かせた。
「お仕事の帰りですか?もう夜も遅いので気を付けてくださいね」
青年は優しく微笑む。あたしは年甲斐もなくキュンとときめく。何か言葉を続けようとしたけど、彼は「それじゃあ」とあっさり去ってしまった。
バカ、何を期待してんのよ。彼はどう見てもあたしより年下。何か起こるわけないじゃない!
自分に苦笑いしながらあたしはアパートへの裏通りを歩いた。すると…またあの違和感。誰かに見られているような…。いや、そんなわけない。ロマンスの予感は一気に冷めて背筋が冷たくなってくる。
気のせいだと思い込もうとした。だけど、どうやら視線だけではないらしい。夜道に響くあたしのヒールの音に混じって、もう一つ別の足音が確かに存在している。そんな…。
思い切って足を止める。すると、確かに一つ余計に音が聞こえた。誰かが…あたしの後ろをついてきている。
ストーカー?どうする?走る?
ふとそこで浮かぶ一つの可能性。まさか…達郎?
あたしは意を決して振り返った。すると…そこには誰もおらず、外灯がアスファルトを照らしているだけだった。
あたしは猛ダッシュでアパートの外階段を3階まで駆け上がると、部屋に飛び込み玄関を施錠する。もちろんチェーンロックもしっかり掛けた。
…ナーバスになってる?働き過ぎ?

 やっぱりあたしはどうかしていたらしい。お国への書類も無事仕上がって残業なしで退勤できるようになると、つけ狙われているようなあの感覚は薄れていった。きっと過労で敏感になっていたんだろう。だから存在しないストーカーに怯えたり、起こりっこないロマンスを予感しちゃったりしたんだ。
12月も半ばに差し掛かったけど、達郎からの連絡は未だになし。一度だけ業務がてら彼のいる支社に電話しても、彼は外勤中で不在だった。今までそんなこと一度もなかったのに…運にまで見放されたか。
帰り道、重い足取りでいつものコンビニに立ち寄る。そして牛乳に伸ばしたあたしの手が同じく伸ばされた別の手に触れた。
「あ、すいません」
「いや、こちらこそ…」
お互い顔を見合わせる。すると…。
「あ、ど、どうもこんにちは」
そこにはあのあどけない笑顔。そう、手帳を拾ってくれた青年だった。
「あ、この前はその…どうもごめんなさい」
なんだかとっても緊張してるみたい。うふふ、やっぱり可愛い。
「先日は手帳をありがとうございました…っていうか、どうしてあなたが謝ってるんですか」
「あ、そうですよね、アハハ。そういえば今日はお早いんですね。あ、これどうぞ」
彼は牛乳を手渡してくれる。年上の余裕を見せなくちゃいけないのに、受け取る手が震えた。久しぶりだ、こんなにドキドキする気持ちは。頬が紅潮しているのが自分でもわかった。
ようやく忙しい日々を脱した解放感のせいか、達郎に無視され続けている苛立ちのせいか、それとも店内に流れるクリスマスキャロルのせいか…あたしはさらにどうかしてしまったらしい。愛想と冷酷が売りの美人キャリアウーマンは、計算もかけ引きも何もなく無謀な賭けに出てしまう。
「あの、あの、この後もしお時間あれば…お食事でもいかがですか?この前のお礼がしたいので」
彼は一瞬固まった後、あたふたする挙動を少ししてから、やがて口元を綻ばせて返した。
「もちろん、ぼ、僕でよければ。とっても嬉しいです」
あたしの二十代最後のクリスマスが変わろうとしていた。

 こんなことって本当にあるんだな。二人でレストランの窓際咳でディナーをしながら会話を始めると、まるで神様が応援してくれてるみたいにどんどん花が咲いていく。たとえば好きな映画とか音楽とか、びっくりするくらい趣味が合った。
彼は名前を潤一といった。年齢はあたしより四つ下、画家を夢見る美大の大学院生で、一応就職活動もしながら、子供たちに教える絵画教室のバイトもしているそうだ。そのためによくこの辺りにも来ているらしい。
まだ出会ったばかりなのに、デザートを注文する頃にはあたしたちは「潤一くん」「帆織さん」と呼び合っていた。
「帆織さんって珍しいお名前ですよね」
「あたしの父親が映画のダイ・ハードが大好きでね、主人公のマクレーン刑事の奥さんがホーリーって名前なんだけど、それをもじってあたしに付けたんだって。まったく、それを一生背負っていく娘の気持ちも考えてほしいわ」
「アハハ、でも素敵な名前じゃないですか。ダイ・ハードか…僕も好きだなあ、クリスマス映画なのにアクション映画ってのがまたいいですよね」
「まあね。あたしも映画自体は好きで、一応DVDも揃え得てはあるんだけどさ」
そこでしばしマクレーン刑事の活劇について語らう。潤一くんはあたしに話を合わせてくれたわけじゃなく、本当にあの映画が好きらしい。また小さな奇跡を感じてしまう。こんなに饒舌に話したのはいつ以来だろう。
「こんなに楽しい晩御飯は初めてですよ」
「あたしも楽しい。あ、別に敬語じゃなくてもいいから…っていうか、タメ口の方が嬉しいかも」
…何を言ってんだアラサー女。
「わかりました…じゃなくて、わかったよ、帆織さん」
ドギマギする彼。こっちも嬉しいやら照れくさいやらで窓に視線を逸らす…と、店の外の電信柱に人影が見えた。
…え?
全身が凍りつきそうになった瞬間、その何者かは消えた。あたしの様子に気付いて潤一くんも窓の外を見る。しかしもうそこには誰もいない。
「どうかしたの?」
顔を戻して彼が問う。「何でもないよ」とえくぼを作ってあたしはコーヒーに口をつけた。

…気のせい?いや、確かに誰かがいた。あたしを…見てた。

 あたしが頼む前に、彼の方から家まで送ると言ってくれた。二人でアパートへの夜道を歩く。
「ごめんね、遠回りさせちゃって」
「いいですよ。おごってもらったんですからこれくらいしますよ」
「ありがとう…っていうかまた敬語!」
「あ、ごめんなさい…じゃなくて、ごめん」
思わず二人で笑う。まったくもう…彼の純粋さに先ほどの恐怖感が洗い流されていくようだ。
もう少し進んだ所で「あの、帆織さん…」と潤一くんが立ち止まる。自動販売機の光で少し明るくなった道の一角、あたしも足を止めた。彼を見ると、もじもじしながら何かを言い出そうとしている。あたしは期待しながらあえて沈黙作戦。
「あの、帆織さん…」
運命のドアが静かに開き始める感覚。
「もしよかったらその、また…会わない?」
達郎への罪悪感がなかったわけじゃない。でもその時のあたしは躊躇なく「うん」と答えてしまう。
「じゃあ映画にでも行こう、次は僕がおごるよ」
「ありがとう」
そこで今更ながら連絡先を交換すると、彼は黙ってあたしを見た。胸がまたドキドキする。
見つめ合う数秒。すると彼は優しく微笑んで「それじゃ、おやすみ」と去っていった。
「おやすみ…」
いささか拍子抜けしながら、でもその紳士的で臆病な態度にときめきながら、あたしは潤一くんの後ろ姿を見つめる。見えなくなってから踵を返し、キャリアウーマンはアパートへの帰路をスキップするのであった。

 次の土曜日、二人で映画を楽しんでお寿司屋さんのカウンターに並ぶ。ビールで乾杯してまた会話に花が咲く。酔っぱらって醜態をさらさないようにしなきゃ、あたしはセーブしながらジョッキを口に運んだ。
「もっと思いっきり飲んでいいよ。酔っぱらったら僕が担いで部屋まで運ぶから」
「え~?あたし結構重たいよ」
「これでも高校ではラグビーやってたんだ。3階くらいなら楽勝で帆織さんを運べるよ」
「本当に?でもあたし、そんなに酔ったりしませんよーだ」
こんな可愛い口調を使うのも何年ぶりだろう。
「その編み込みの髪も可愛いね。手間かけてオシャレして来てくれるとこっちも嬉しい」
「そんなに褒めても何も出ないよ」
実際には朝寝坊して飛び起きて、慌てて仕度して来たんだけど。寝ぐせを直してる時間がなかったから編み込みでごまかしただけ。まあこれも怪我の功名ってことで。朝寝坊したのは…今日が楽しみ過ぎてなかなか寝付けなかったから。
少しだけほろ酔いになって店を出る。そして近くのバーで二次会。潤一くんはあたしの愚痴も不満も全部優しく頷いて聞いてくれた。だからついついたくさん話しちゃう。そして彼の純粋な目を見ていると、やっぱり胸の奥が痛んだ。
アルコールの力も少し借りて、あたしは全部正直に伝えることにした。遠距離恋愛でメールを無視されてる彼氏がいること、それに最近誰かにつけ狙われてる気がすること。そしてそして、今日はとっても楽しかったこと。

 手を繋いでバーを出る。そのまま二人であたしのアパートへ向かってゆっくり歩く。しばらくお互い言葉はなかったけど、潤一くんがそっと口を開いた。
「僕も…不思議なんです。まだ出会ったばかりなのにこんな気持ちになるなんて」
心臓が爆発しそう。夜風は冷たいのに全身が火照ってくる。
「帆織さん、ゆっくりでいいです。彼氏のこと、ちゃんと決着するまで僕は待ってます」
「…ありがと」
「でもできれば、クリスマスまでには答えが出てほしいかな」
「…うん」
どうしてそんなに嬉しいことばかり言ってくれるの?思わず握る手に力がこもる。あたしだって…クリスマスまで待てない。
またしばしの沈黙。今度はあたしから口火を切る。
「それにしても…誰があたしをストーキングしてるのかな。まさか彼氏じゃないとは思うんだけど」
「帆織さんの隠れファンかも。なんかいっぱいいそうだ」
少しおどけて言う彼。あたしも笑って答える。
「隠れファンは何人いても意味ないのよ。ファンなら隠れないでくれって感じ」
その瞬間、あたしは気付いた。まただ…また足音がする。あたしと潤一くんの他にもう一人、誰かが後ろをついてきてる。
「潤一くん…」
「どうしたの?」
あたしは目だけで後ろを示す。彼は一瞬の動揺を見せたけど、すぐに僅かに頷くとあたしを引き寄せ、「曲がり角で待ち伏せよう」と耳打ちした。
二人で角を曲がる。そして歩き続けているように足音だけさせながらその場で待機した。元来た道には確かに誰かが歩いてくる。
…怖い。でも確かめなきゃ。それに潤一くんもいてくれるし大丈夫。もしストーカーだったら通報すればいいし、もし達郎だったら…この場で別れを告げてやる。
あと3メートル、2メートル…。足音が近付いてくる。潤一くんがさらに手をぎゅっとしてくれる。
あと1メートル…。次の瞬間、一人の男が角を曲がって姿を現した。