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夏真っ盛りである。新宿は、天からの直射光と地からの反射光のダブルパンチでまるで砂漠。車が横切れば熱い空気が舞い上がり、目を細めれば渇いた高層ビルが陽炎の中に揺らめいている。こんな季節には都会の喧騒を離れ、青い海と白い砂浜でひと夏の甘いアバンチュールを…とはいかないのが哀しきポリクリ生。他の学年と異なり、5年生に夏休みはない。変わらず教育棟から病院へ通う日々が続いている。
我らが14班はといえば、未だパーティ開催には至らないものの、実習においてはかなり仲が良い感じ。むしろ今の彼らにアルコールは無用かもしれない。学生ロビーで、食堂で、実習の合間のカンファレンスルームで…、十分会話に花を咲かせていた。
まあ向島は相変わらずいたりいなかったりするのだが、いる時はみんなに溶け込めていた。もともと彼も人と触れ合うのが好きなのだろう。冗談を言っておどけたり、音楽の蘊蓄を語ったり、時には気前良くジュースをおごってくれることもあった。同村と美唄以外のメンバーも、いつしかそんな愛すべき先輩を受け入れつつあった。確かにサボりも多いが、六人が揃わないと成立しない場面にはちゃんと出席してくれていた。それに、たまには同期生ならではの話題で盛り上がりたい時もある。そんな気遣いがどこまで彼にあったかはわからないが、向島の不在も時に同期五人の親睦に役立っていた。
そんな8月第2週の月曜日。学生ロビーに集合していつものように教育棟を出ると、押し寄せる熱気にいきなり体力と水分を奪われそうになる。
「今日も朝から暑いなあ」
額の汗を拭いながら長が言う。隣の井沢も「そうっすね」と太陽を仰ぐ。同村とまりかは黙々と歩みを進め、最後尾で向島は大あくび。
「ほらほらみんな、暑いけどファイト、エイエイオー!エイエイオーイエー!」
そして先頭の美唄は笑顔100パーセントで拳を振り上げている。彼女はソーラーエネルギーを充電できる体質なのだろうか。
うだるような猛暑日。しかし火のような季節の片隅に、凍えている人間もいることを彼らはこれから学ばなくてはならない。今週回るのは緩和ケア科。産婦人科が命を迎え入れる医療だとすれば、逆に送り出す医療である。
*
実習はなんと初日から教授回診であった。ただしここでのそれは、これまでに見てきたような大名行列ではなかった。担当医が教授にそれぞれ患者を説明することに変わりはないが、最初から最後まで医局員全員が一斉に付き従うことはない。この科では、担当の患者の診察の時だけ担当医が同席する、という進化したシステムがとられていた。つまり最初から最後まで回診するのは教授と見学の学生のみ。皇帝陛下と下級兵士の珍道中である。
さて18階の病棟、六人は教授の後ろに連なっている。教授の名は小俣、50歳手前のまだ若い男性医師。黒髪をオールバックでビッチリ固めたダンディズムに、理知と意欲を漂わせている。本学出身者でない彼が消化器内科の教授として招かれたのは五年前。彼が起こした改革はもちろん教授回診のシステム変更だけではない。カンファレンスの効率化、カルテ記載の明確化、他科との連携強化、スタッフの勉強会や研修の充実、過労防止のための勤務体制の見直し、患者や家族への積極的な情報発信などなど、新しい風をどんどん吹かせた。そして最も大きな改革がこの緩和ケア科の立ち上げである。
従来の大学病院の使命は、その最新鋭の設備と技術によって、町の病院では対処できない困難な病気を治療すること。よって積極的な治療が行なえない患者は入院対象ではなくなる。緩和ケアは治療不能の患者を少しでも苦痛の少ない最期に導く医療であるから、本来は大学病院の範疇ではなかった。しかし小俣はそれは古い考え方だと奮起し、まずは消化器内科の一部門として緩和ケア病棟を立ち上げた。次第に学内外からその実績は評価され、正式に一つの科として独立したのが二年前。小俣は消化器内科の教授を辞して自らその新たな課の教授となったのである。ベッド数や医局員数はまだ少ないが、すずらん医大で最も勢いのある科といってもよいだろう。その噂は同村たち学生の耳にも届いていた。
小俣の回診の足取りはとても力強い。気品と自信に満ちていて、次々と患者を回っていくその姿はまさに圧巻。六人は教授の邪魔にならぬよう、そしてその言葉を聞き逃さぬよう、必死に食らいついていく。自然と人を奮い立たせるこのオーラが、数々の改革を成し遂げた小俣のすごさなのだろう。
また患者たちの現状を見れば、とても不真面目な態度でなど実習に臨めるはずもない。ある男性は教授が入室するやいなや「治してください」と懇願した。ある女性は「せめて子供が成人するまで生きたい」と涙した。骨腫瘍のために片腕を失った者、大腸癌のために食事が摂れず痩せ細った者、薬の副作用で免疫力が下がり皮膚感染を起こした者…目を背けたくなる姿もたくさんあったが、まりかを筆頭に14班は全員正面から向き合った。中にはとても学生に会える精神状態ではない患者も当然いる。病室の外で待つことも多かったが、誰も無駄口を叩くことはなかった。
「次の病室の田倉さんは家族性膵臓癌の末期です」
小声で説明するのは学生指導の幕羽、落ち着いた雰囲気を持つ男性医師だ。彼はその患者の担当医でもあるらしい。
「余命は半年、本人にも告知済です」
「家族性ということは…遺伝ですか?」
まりかが尋ねる。
「癌家系って聞いたことありますよね。他の癌と比べても膵臓癌は特にその傾向が強いんです。親・兄弟・子供に一人患者がいればリスクは4倍、二人いれば6倍、もし三人いれば30倍にもなります。田倉さんもお母さんを膵臓癌で亡くされています」
学生たちは絶句する。教授は無言で頷くと、ノックしてその個室に入った。他の者も静かに従う。
「こんにちは田倉さん、ご気分はいかがですか」
「あ、おはようございます」
ベッドで半身を起こした患者・田倉明日香は26歳の女性…まだ若い。自分たちとほとんど変わらないことに六人はまず驚いた。癌の末期、と聞いて少なからずの年配を想像していたのだ。しかし若いからこそ進行が速いこともある、それが癌という病。
病室の窓には厚いカーテンが引かれ、室内は午前中だというのにやや薄暗い。微かに消毒液の香りがし、テーブルに置かれたCDラジカセからは淡いピアノ曲が流れている。
「すいません小俣先生、ちょっとウトウトしちゃってました。気分は…大丈夫です」
明日香は力ない笑顔でそう付け加えた。
「いえ、構いませんよ。体の調子はどうですか?」
「そんなに…変わりはありません。左手が…またちょっと動かしづらくなった気がしますけど」
「そうですか。痛みはいかがです?」
「特に…大丈夫です」
明日香は遅いテンポで答える。薬の副作用で髪が抜けてしまったのか、頭に赤いニットの帽子をかぶっていた。少しこけた頬は透き通るように白く、小柄で華奢な身体は白い室内に埋もれてしまいそうなほど儚い。そんな彼女を六人はただ黙って見つめていた。
何も…言えるわけがない。
「今のところ、疼痛は先週と同じ量のオピオイドでコントロールできています」
カルテを示しながら幕羽が報告した。教授は頷くと視線を彼女に戻し、「お薬もこのままでよさそうですね」と伝える。数秒を挟んで、「わかりました」と彼女は小さく返答した。そしてその場には沈黙が通り過ぎる。
…涼しさを同村は感じた。悲しい涼しさを。一枚ガラスを隔てた向こうには、真夏の太陽が溢れるほど降り注いでいるというのに。
「それではまた、お大事に」
小俣が言った。明日香は「はい、ありがとうございました」と頭を下げる。部屋を出ていく教授に幕羽根が続き、その後学生も礼をして退室した。
六人は廊下でお互いの表情を確認すると、無言で頷き合う。可愛そう、つらいね、でもどうしようもないんだ、今は何も語るな…そんなアイコンタクトだった。
すぐにまた次の患者の説明が始まり、教授は次の病室へと歩き出す。同村たちも続いたが…向島だけは明日香の病室の前に立ち止まったままだ。壁のネームプレートを確認しているらしい。
「どうしたんですか?向島さん、行きますよ」
気付いた同村が小声で呼ぶ。
「いや…なんでもない」
歯切れ悪く返すと、彼は足早にみんなに追いついた。
*
回診の後、午前の実習から解放された彼らは学生ロビーでコンビニ弁当を食べていた。正直そんなに食が進む心境ではない。しかしショックで喉を通らないようでは医師の仕事は務まらない。先の実習で彼らもそれを学んでいる。
「でも…あの患者さん、言葉は悪いかもしれないですけど、結構平然としてましたね」
と、井沢。話題はやはり田倉明日香のことだった。
「そうだな。俺がもしあと半年の命だったら…もっと荒れて無茶苦茶やってるかもな」
長が答える。同村も箸を止めた。
「達観…ですかね。いや、諦観っていう方が近いかもしれません。俺たちと同じくらいの年齢なのに…人生って様々だなっていうか、なんかうまく言えないですけど」
「でも、安易に不幸とか思っちゃいけないのよね」
まりかも口を開く。
「あれがあの人の人生なんだから、周りの人間が勝手にそれを評価しちゃいけない。私はああやって笑顔で診察に応じる田倉さん…立派だって思ったわ」
「そうか…そうだね」
同村は弱く頷いた。井沢が彼の肩をポンと叩いて言う。
「本当に、人間いつどうなるかわからないよな。長さんもバイク通学気をつけてくださいよ。絶対安全運転で」
「ありがとな。わかってる、暴走族はもうやめた…って何言わせるんだ」
「じゃあついでにタバコもやめましょう」
「それは勘弁、いや、わかってんだけどさ」
小さな笑いが生まれる。それが止んでから、ふいに美唄が呟いた。
「でも…運命って…あるのかもしれないね」
まるで独り言のような口ぶり。
「生き方は変えられても…運命は変えられないのかも」
今日の彼女は妙に哲学的だ。同村は意外だった。いつもの美唄なら、希望や奇跡、そして大好きな『可能性』という言葉を使って、明るい未来を信じようとすると思ったからだ。確かに今日出会った患者たちは過酷な現実の前に立たされている。しかし運命という言葉でそれを受け入れようとする姿勢は…何か彼女のキャラクターに合わない気がした。
同村は黙ったまま彼女を見つめる。ところでこの二人、毎日同じ地下鉄で帰っているのに一向に進展しない。その気がないのか、度胸がないのか、それこそ運命の赤い糸がないのか…。う~ん、作者ながらに気になるところ。ねえ同村くん、その辺りどうなのよ?
「アハハ、なんかわかんなくなっちゃった」
急に美唄が笑顔を見せた。同村もとりあえずそっと微笑む。
「でも、あたしも田倉さんみたいに強くなれたらな」
「強い、ねえ…」
後ろのソファから声がした。弁当を早々にたいらげて横になっていた向島だ。彼はむっくり体を起こして言葉を続けた。
「僕にはそんなに強く見えなかったな。病室でかかってたピアノ曲、知ってる?」
誰も答えない。
「あれはリストの『孤独の中の神の祝福』。たまたまかもしれないけど…」
向島の音楽蘊蓄はいつものことだが、今回はどこか様相が違う。和みかけた雰囲気がまた少したじろぐ。
「あと半年の命の中、どんな気持ちで聴いていたんだろう…あの人は」
そう言いながら立ち上がると、彼はそのまま出口に向かって歩き始めた。
「向島さん、午後は2時からクルズスです!」
「MJさん、どこ行っちゃうんですか?」
女子二人の呼び掛けには反応せず、アウトローは学生ロビーを出ていった。
*
18階ナースステーション、向島はカルテを読んでいた。ポリクリ生にはレポート作成などの都合上、診療記録に触れる権利が与えられている。もちろん、コピーをとったり、その内容を口外することは厳禁だが。
彼は静かにそのカルテ…そう、田倉明日香の記録に目を通していた。読み終えて棚に戻すと、今度は病棟へと歩き出す。彼女の病室の方角だ。そんな彼の後ろ姿に、通りかかった幕羽は少し不安そうな視線を注いでいた。
*
「すいません、失礼します」
軽くノックしてから向島は彼女の病室に入った。窓はやはりカーテンで閉ざされ、室内は薄暗い。明日香は回診の時と同じく、何をするでもなく半身を起こしてベッドにいた。また小さくピアノ曲が流れている。彼女の視線を受け、向島は会釈した。
「どうも、学生の向島です。今朝、小俣教授と一緒に回診に来ました」
「あ、どうも…。何か?」
明日香は弱く返した。そ野瞳には…特に何の感情も表れていない。
「少しお話、よろしいですか?」
「え、ええ…」
多少の戸惑いを見せながらも、彼女は闖入者に椅子を勧めた。そして今朝のような力ない笑顔になる。
「お昼ごはんは食べられましたか?」
「はい…一応。あ、お話するのなら音楽止めましょうね」
明日香はリモコンに左手を伸ばすが、掴んだ途端に床に落としてしまう。
「いいですよ、そのままで」
代わりにそれを拾い、手渡しながら向島が言う。
「僕もピアノは好きですから…あなたと一緒で」
「え?」
彼女は驚いて向島を見る。椅子に座った彼と、ちょうど目線の高さが合った。
「あなたのピアノコンサート、よく行きました。僕も目黒区なもんで」
「あ…」
「よく文化ホールでやられてたでしょう?テレビにも何度か。本当にすごい演奏で…僕は悔しかったです」
「ありがとうございます」
あまり嬉しくなさそうに…いや、むしろ迷惑そうに明日香は答えた。
「僕も子供の頃からピアノやってまして、まあ親に無理矢理習わされたんですけどね。今でも頑張ってますが…あなたにはまるで及びません」
意に介さずといったふうに向島は話を続ける。彼女はそっと壁の方に目を逸らした。そして数秒を挟んでから「私はもう…忘れました」と答えた。
会話が止まる。回診の時もそうだった。彼女とのやりとりはゼンマイの切れかかったオルゴールのよう。向島もしばし流れる音楽に耳を委ねた。
「…これはドビュッシーですね。僕はやっぱりベタですが、『アラベスク』が好きかなあ。あ、『子供の領分』も楽しい組曲ですよね」
黙ったままの彼女に、向島は少しだけ身を乗り出す。
「もう…弾かないんですか?」
ゆっくり振り返った明日香の瞳には怒りの色が満ちている。
「…嫌味ですか?回診の時にも言ったでしょう、私の左手はもう満足に動かないんです!それに私はもう…」
「戦争や事故で負傷した人のために、片手弾き用のピアノ楽譜もたくさん出版されてますよ。それにあなたほどの才能があれば、どんな曲も自分で片手用に編曲できるでしょう」
「ふざけないで!そんな中途半端なこと…」
「中途半端ですか?今みたいに、本当は弾きたいのにあきらめてしまう方がずっと中途半端だと思いますけど」
「私はもう弾きたくないのよ!」
「それならどうしてピアノの曲を流してるんですか?音楽は聴くのもいいけど、弾くのはもっと面白いとあなただって知ってるはずです」
明日香は唇を噛むと、少し大きな声を出したせいか肩で息をした。
…また沈黙。流れるピアノは少し旋律を波立たせた。
「こんな体で、どんな演奏ができるっていうのよ」
「どんな演奏だっていいじゃないですか。昔のようにコンサートとはいかなくても、ここで弾いたっていいじゃないですか。大ホールで演奏するプロだろうと、家で弾いてるアマチュアだろうと、音楽を愛する人はみんなミュージシャンです。
僕も実はMJKって名前で活動してるんです。曲を作って応募もしてるんですけど、なかなか芽が出ません。医学も嫌いじゃないけど、出来れば音楽で仕事をしたいんです」
「あなたのことなんかどうでもいいわ」
「つまり僕が言いたいのは、あなたほど音楽が大好きな人が、このままでいるのはもったいないってことです」
明日香はまた壁の方を向く。室内には穏やかな旋律が流れる。ふと、向島は床頭台に置かれたノートに気付いた。
「これは…作詞ノートって書いてありますね。あなたの物ですか?」
「不真面目な学生さんのために教えてあげるわ。入院してから書き始めたのよ…悪い?」
そっぽを向いたまま答える明日香。
「よくあるでしょ?難病の人が涙々の手記を残すってやつ。この際だから、私も書いてやろうかなって」
「拝見してもいいですか?」
「ご勝手に。子供の日記よりひどいから、あなたのお勉強の役には立たないでしょうけど」
「では失礼します」
男はしばらく黙ってページをめくった。女はノートに見入っている彼を盗み見る。そこには年甲斐もなく無防備にワクワクしている顔。彼女は呆れる。
「素敵なフレーズがいっぱいじゃないですか」
「そうかしら。でも…もうやめたの。なんだか書くの馬鹿らしくなって」
「どうしてです?」
「だって意味ないじゃない、そんなの書いたって。そうよ、あなたはまたピアノ弾けっておっしゃるけど、そんなことして何か意味ある?この病室で未練がましくピアノ弾いて、何の意味があるのよ!誰が聴くわけでも、誰に求められてるわけでもないのに!」
「意味…」
向島はページをめくる指を止め、彼女を見た。再び二人の目線が合う。
「意味がない…ですか?」
「そうよ、意味ないわよ!」
「僕はたとえ半身不随になっても、音楽をやめないと思いますけど」
「そんなの、そんなの…あなたが健康だから言えるのよ!もう…もう、出てって、出てってください。
私はあと半年で…死ぬの。静かに過ごしたいの。もうほっといて、そっとしておいて。お願いだからもう…出てってください」
向島はさらに何か言おうと口を開いたが…それをやめる。ノートを床頭台に戻して腰を上げた。
「お邪魔しました」
それだけ告げると、彼は病室を出ていった。
明日香はしばらく閉められたドアを睨んでいたが、そのうちに布団を顔までかぶって横になった。流れるピアノの旋律がまた激しいものに変わる。
「うるさいな!もうほっといてよ!」
布団の中で叫んだ。
*
向島が廊下を曲がると幕羽が立っていた。会釈して通り過ぎようとした彼を呼び止める。
「待ってください向島先生。お昼休みなのに、病棟で勉強ですか?」
「…ええ、まあ」
「君たち学生は患者さんと話すことを許可されています。ですが、ここは緩和ケア病棟、末期の患者さんがたくさんいます。いつも以上に慎重にやってくださいよ」
「…はい」
「田倉さんとは…どんなお話をしてたんですか?」
指導医は目を細めた。
「いえ、たいしたことではないです」
「先ほどカルテを読まれていましたね。ならおわかりと思いますが、彼女の病状はシビアです。これからもっと痛みも増え、身体の自由も効かなくなってくるでしょう」
向島はちらりと彼女の病室の方を見た。
「彼女は君と同じくらいの年齢ですが…それで興味を持たれたのですか?」
「別にそういうわけではありません」
「余命を告知したのは三ヶ月前です。彼女は常に自分と闘っています。どうしてもっと早く検査しなかったんだろう、どうしてこっちの治療を選んでしまったんだろう…末期の患者さんはそんな自責の念に苛まれるんです。そういう患者さんと話をするのも君たちにとっては大切な勉強ですが…軽はずみにはしないでください。
緩和ケアは外科の手術と同じくらい繊細です。言葉一つ、表情一つ間違えると重大な過失が起ります」
「どういう意味ですか?」
「好奇心や同情で彼女に関わろうとしているのなら…いやもし彼女を救いたいと思って接しているのだとしても、それは危険な行為です。知識のない人間が癌患者をケアした場合、八割以上が有害になっているというデータもあります。可哀そうな同世代の人間を見て、救いたいと思うのはわかりますが…」
「彼女は可哀そうですか?」
そこで向島は瞳に僅かな敵意を浮かべた。「え?」と一瞬意味がわからない幕羽。
「先生、救うなんてことをそんなに簡単に考えてはいません。それに救われたかどうかは患者が判断することであって、医者が押し付けるものではないでしょう」
「生意気なことを言うのはやめなさい」
指導医は僅かに語調を強める。
「彼女の気持ちがわかったつもりですか?どんなに君が頭が良くても、同じ立場にならない限り苦しみを理解することはできない」
「わかっています」
向島はあっさり認めた。
「でも…あの人の音楽を愛する気持ちは、理解できるつもりです」
無礼の限りを尽くした学生は、最後に「失礼します」と一礼してその場を去っていった。後ろ姿を幕羽はじっと睨んでいた。
彼は考える。普通、指導医に何か言われれば学生なんてものはすぐに従う…たとえそれが理不尽な指示であってもだ。社会人になったって、それが出来なければ組織の中ではやっていけない…特にこの大学病院では。
あの向島という学生の噂は聞いている。サボりの常習で一度留年もしている。しかし成績はたいした努力もなしにさほど悪くない…つまり、頭は切れる。先ほどの患者の救いがうんぬんの話題だって、普段から考えていなければあんな切り替え氏ができるわけはない。
「フフフ…」
幕羽は怒りの瞳のまま口元を綻ばせる。
あんな学生が、この私立医大にもいるのか。あんなに自分の考えだけで動ける人間が。批判される度胸がない人間に、孤立する覚悟がない人間に、新しいものなど生み出せない。小俣教授だって、学生時代はかなりの問題児だったという噂だ。
「フフフ…、ハ、ハハハ」
小さく声を出して笑う。もはや幕羽の顔に怒りはなかった。はたして変人か超人か…遠ざかっていく学生の背中に、指導医は懐かしい息吹を感じていた。
*
病院玄関で向島は同村たち五人と出くわした。
「よかったMJさん、先に来てたんですね。でも方向が逆、今からクルズスですよ」
美唄が笑う。
「うん、ああ、僕は…帰る。しばらく休む」
音楽部先輩は立ち止まることなくそう返す。
「え、マジですか?」
驚く長。しかし彼はもうそれには答えず、そのままどんどん去っていく。携帯電話を耳に当ててスタジオの予約をしているようだ。
「また音楽かしら?」
まりかが呟く。隣で井沢も久しぶりの呆れ顔。そして遠くなった向島の背中を、同村は憧れの眼差しで見つめていた…コラコラ。
「ああもう、MJさ~ん!」
美唄の声も届かない。これを最後に、向島は彼らの前から姿を消すことになる。
2
火曜日午前。カンファレンスルームでは小俣教授自らによるクルズスが行なわれていた。テーマはサイコオンコロジー。あまり聞き馴染みのない言葉かもしれないが、日本語では『精神腫瘍学』、つまり癌を患った患者の心をケアする医学。14班五人にとっても初耳の学問だった。
「健康にはいくつかの種類がある。まずはもちろん体の健康、心の健康、そしてもう一つ、社会的な健康だ。癌を患うといずれの健康も損なわれる」
小俣は学生相手でも手を抜くことなく、学会さながらの情熱で語る。自然とまた五人の背筋も質される。
「質問や疑問がある時はすぐ言いなさい。わからないまま話を聞いても意味がない」
「先生、よろしいですか」
まりかがさっそく手を挙げた。
「社会的な健康とは、具体的にどのようなことをいうのでしょうか」
「人との繋がり、家庭や職場における役割、そして経済面…それらの充実だ。つまり家族や友人がいて、仕事があって、生活費にも困っていない人は社会的にも健康だといえる。
癌を患うと、どうしてもその人自身よりも癌の方が前に出てしまう。『癌のAさん』なんて言われてしまう。まるでAさんイコール癌みたいに。その結果、今までどおりの人間関係が保てず孤独に陥る。仕事を失うと社会での役割も失う、収入もなくなる、医療費もかかって経済的にも追い詰められる」
「緩和ケア科では、心の健康や社会的な健康もケアするんですか?」
今度は井沢が尋ねた。
「無論だ。だから癌患者のケアには僕のような内科医だけでは不十分。心のケアには精神科医や心理士が不可欠。さらに看護師、薬剤師、栄養士、社会福祉士…様々な専門スタッフが必要なんだ。君たちは精神科はもう回ったかい?」
「いいえ、来月の予定です」
まりかが答える。
「そうか。実は精神科の吉川教授にもよく協力してもらってるんだ。癌を告知された患者の半数がうつ状態に陥るからね。癌と闘う気力まで失って、治せる癌まで治せなくなってしまう。心のケアはそれくらい重要だ。
サイコオンコロジーの学会では、壇上で発表しているのは医者だけじゃない。お寺の和尚、宗教家、哲学者、死生学者、臨床道化師と呼ばれる患者を楽しませるエンターテイメントの専門家…。心を支えるには色々な人が必要なんだ」
そこから小俣はこれまで自分が出会ってきた患者たちのエピソードをいくつか語った。癌を受け入れ安らかな最期を迎えた者、絶対に死ぬわけにはいかないと闘い続けた者、絶望して自ら死期を早めた者…。学生たちは誰も意識を逸らすことなくその話に聞き入った。「ところで、患者の心を支える専門家は他にもう一人いる。誰だと思うかな?」
各自持てる知識を総動員して頭の中で考える。だがまりかでさえ答えは出ない。
「どうかな、君」
同村が指名される。彼は口ごもったが、教授の「患者の心が一番わかっている人だ」のヒントにひらめきを得た。
「患者さん自身ですか」
「ご名答、そのとおりだ。患者たちの苦しみを聞いた時、僕たち医者が口癖のように言ってしまう『わかりますよ』って言葉、あれは大嘘だ。癌を患った人の気持ちは同じ経験をしている人にしかわからない。医療スタッフからではどうやっても届かない言葉も、仲間の患者からなら届くことがある。そこで、患者同士が支え合う場を提供してあげることが重要になるんだ。
同じ苦労や悲しみを抱える者が集う会、いわゆる自助グループというものだ。これも精神科で詳しく学ぶと思うけど、アルコール依存症患者の会などが有名だね。最近は癌治療でもこの手法が取り入れられている。この病院でも、月に一回、喫茶室を借りて『ささえあいの会』という名前で癌当事者の集いをやってる。僕も参加してるんだが、とても素敵な会だよ」
「どんな話をするんですか?」
美唄が質問。
「特に決まりはない。これまでのこと、これからのこと、苦しいこと、楽しいこと、家族への思い…。何よりもお互い素直に語れることが自助グループでは大切なんだ」
「そこに参加している人が…その、亡くなることもあるんですか?」
ためらいがちに長が訊く。小俣は黙って頷いた。
「会を卒業する時は亡くなる時。翌月から空席が一つ増えることになる」
五人は無意識にみんなで囲んだ机の一つの空席を見た。そう、そこは本来向島が座っているはずの席。昨日の宣言どおり、彼は今日現れなかった。
「実はちょうど明日、その会があるんだ。もし参加してみたいなら言ってくれ。さすがに全員とはいかないが…二人くらいなら受け入れる」
そこで教授は学生を見回した。
「僕は患者からたくさん教わった。命はとても短く、そして美しいものだと。君たちも命を無駄にしないように。いつ終わりを告げられても、死ぬために生まれたんだなんて思わないような生き方をしてください。大切な人たちがそばにいるうちに…」
その言葉がクルズスのまとめだった。五人はまた向島の空席を見る。せつない気持ちになったのは同村だけではなかった。
3
水曜日。本日も向島は不在。午前中は幕羽による薬物治療についてのクルズスだった。そして午後はその知識を用いて、カルテを見ながら実際にどのように薬が投与されているかを学習する。まずは病棟のカルテをチェック、続いて外来のカルテへ。患者の中には自宅で療養している者もいる。外来の空き部屋をあてがわれた五人は、そこでカルテと処方箋の山に向き合っていた。
「抗癌剤と鎮痛剤だけじゃなくて、睡眠薬とか安定剤も結構使われるんだね。あれ?アカシアのため薬を中止って書いてある。アカシアって木じゃないよね。何だっけ?」
美唄が隣のまりかに訊く。いつもすぐに返答してくれる才女が一瞬固まった。
「…まりかちゃん?」
「あ、ごめん、ポカンとしちゃった。美唄ちゃん、それアカシジアじゃない?」
「え?ん~とね、ア・カ・シ・ジ・ア…本当だ、あたしこそごめん。ちゃんと見なきゃね。アカシジアって…」
「足がムズムズしてじっとしていられない症状だよ。薬の副作用でよく起きるんだ。俺の見てるカルテにも書いてあった」
井沢が代わりに答える。まりかも「日本語だと正座不能症」と付け加えた。
「みんなありがとう。よし、アカシアじゃなくてアカシジア…忘れないぞ!」
美唄がガッツポーズしたところでドアがノックされた。
「どうです、薬の使い方、わかりましたか?」
入って来たのは幕羽。彼は各人のまとめている内容を手早くチェックすると、またすぐにドア口に戻る。そのまま出ていきかけたが…振り返って確認した。
「向島先生は…お休みですか?」
固まる五人。幕羽は小さく「きつく言い過ぎたかな…」と漏らした。その意味がわからず同村が尋ねようとした時、廊下から一人の婦人が声をかけてきた。
「あら幕羽先生、こんにちは。先日は娘がお世話になりまして」
「あ、こりゃどうも。ご無沙汰してます。今日はどうされたんですか?」
「娘が退院したのに来ちゃってごめんなさいね。ほら、うちの娘、ここの売店の蒸しパンが好きだったじゃないですか。だから買ってきてあげようと思いましてね」
「それは結構ですね」
少しだけ会話してから、夫人は「お忙しいのにすいませんでした」と明るく去っていった。その手には確かに売店で買ったらしい袋が提げられていた。
「前に入院してた患者さんのお母さんですか?」
美唄が質問すると、幕羽はドアを後ろ手に閉めてから答えた。
「そうです。あの方の娘さんも末期の癌で…先月亡くなられました。まだ30歳でした」
室内の空気が凍る。かろうじて井沢が「そ、それって…」と搾り出した。
「珍しいことではありません。大切な人が癌になった時、ご家族は大きなショックを受けます。告知を聞いた後に頭が真っ白になって、気付けば屋上に上っていたというご家族もいました。あるいは今の方のように、ご本人が亡くなったのにそれを受け入れられないご家族もいます。亡くなった後にその人の声を聞いたり、姿を見たり…けして珍しいことではありません」
「そういえば俺もじいちゃんが死んだ時…あったなあ」
長が頷いた。
「よろしいですか?私たちは、ご本人だけでなく、ご家族もケアしなくてはいけません。実際に家族のための専門外来、あるいは遺族外来をやっている病院もあります」
そこで指導医のPHSが鳴る。短い通話をしてから彼は言った。
「教授からです。もうすぐ『ささえあいの会』が始まるので、参加する学生は喫茶室に来てほしいとのことです」
*
名乗りを上げたのは同村とまりかだった。喫茶室の一角を間仕切りして作られた空間に大きなテーブル、それを四人の患者、小俣、そして学生二人の計七名が囲む。患者は性別も世代も様々、通院している者もいれば入院している者もいる。共通しているのはただ一つ、末期の癌で余命が幾ばくもないことだけ。
「では、8月のささえあいの会です」
全員にコーヒーとクッキーが配られたところで、小俣が始めた。
「今日は最初にみなさんにお伝えしなければならないことがあります。先月までそちらの席にいらっしゃった安川さんですが、先週旅立たれました」
同村とまりかの顔に緊張が走ったが、患者たちは驚くほど穏やかだった。
「そうですか、そろそろかもって自分でおっしゃってましたもんね」
「一足先に向こうに行って、おいしい店を探しておくってね。今頃見つけてるかな」
「一人で先に食べちゃってるんじゃないですか。安川さん、食いしん坊ですからね。この中だと僕が次に行きそうだから、見つけてとっちめておきますよ」
「お手柔らかに。そうだ、向こうでもみんなが揃ったら、またこの会が開けますね。あ、でも先生はゆっくり来てくださっていいですからね」
優しい談笑。小俣も「お気遣いいただいて」と笑う。
その後は一人ずつの自己紹介。名前と年齢だけでなく、自分の病名や宣告された余命も赤裸々に語られた。そしてクルズスで小俣が言っていたとおり、素直な言葉が紡がれていく。もちろん時には悲しみや絶望も過る。それでも笑顔は絶やされることなく灯され続ける。誰かの言葉を誰かが拾い、頷き、共感し、微笑んで…まさに支え合いであった。
ある者が言った。
「私は…この病気になって学んだことがたくさんあります。そして素晴らしい人たちにもたくさん出会えました。人生は短くなっちゃったけど…濃密な毎日です」
「素敵な人ってのは僕のことかな?」
そう別の者がおどけ、「あなたは違います」とツッコミが入る。そしてまた笑いが起る。同村とまりかも最初はぎこちなかったが、少しずつ自然に微笑みを浮かべられた。
*
一時間半ほどで閉会。患者たちは挨拶を交わしてそれぞれの帰路へ。しかし誰も「またね」とは口にしなかった。四人が去ったテーブルで小俣が尋ねる。
「…参加してみてどうだった?」
「みなさん、すごい人たちだなって思いました。あんなふうに明るく話せて、お互いを思いやって…」
まりかが答えた。
「そう。僕もいつも尊敬してる。そして思い知るんだ、病気の専門家は医者じゃない、患者なんだってね。同村先生はどう思った?」
「はい。このささえあいの会…」
無口な男は慎重に言葉を続ける。
「まるで電車みたいだなって感じました。同じ車両にたまたま乗り合わせた人たちが語らって一緒に楽しい時間を過ごす。でも、やがてはそれぞれの駅でみんな降りていく…」
「面白い比喩をするね」
「す、すいません」
思わず謝る彼に、小俣は首を振った。
「いや、いい。そういうのが大切だ。癌の切除や痛みの除去には医学、つまり科学的な理系のセンスが必要だが、緩和ケアはそれだけでは不十分だ。死を宣告された患者にどう関わるか、これは医学書じゃ歯が立たない。君のような心理的な文系のセンスも必要になる」
教授は椅子から立つ。学生たちも腰を上げた。
「この会もね、最初は誰も会話なんかしなかった。ののしり合ったり喧嘩にもなった。そもそも誘っても参加してくれる人の方が少ない。それでもなんとか続けているうちに徐々に定着して今みたいな雰囲気になったんだ。
目を見張ったよ。参加した患者たちはどんどん人間力を高めていく。心の力と言い換えてもいい、死と隣合わせで生きるにはその力をつけるしかない。そして僕たちスタッフも、それを高めなくてはいけない…もっと、もっとだ」
「…はい」
二人は静かに、しかししっかりと頷いた。
*
「同村くんってすごいね」
本日の実習はこれにて終了。喫茶室からの帰り道、まりかがふいに言った。
「え、どういうこと?」
「前に同村くんが井沢くんと喧嘩した時に言ってたこと…人と違うことをする勇気を忘れちゃいけない、この大学にいるとどんどんそれを失くしちゃうって話。あれって、さっきの小俣教授の人間力の話と同じだと思うの。勉強だけして学力を高めても、患者さんへの接し方なんてわからない。私…人間力全然ないなあって」
「そんな、秋月さんは滅茶苦茶人間力高いよ。いつもみんなをまとめてくれて、いつも冷静沈着で…。俺なんか、口先ばっかで何もできない」
「そうかしら。同村くんは人間力あると思うな。だって…」
そこでまりかは悪戯っぽく笑う。
「そうじゃなかったら、あんなふうに待っててくれないと思うよ」
促されて同村もそちらを見る。教育棟の入り口には美唄が立っていた。こちらに気付くと、ピョンピョン飛び跳ねて手を振っている。
「あれはむしろ…遠藤さんの人間力がすご過ぎるんだよ」
「フフフ、そうかもね」
余命を告知し、闘病に寄り添い、最期を看取り、遺された家族を支える…。学生にとってはヘビーな科の実習であるが、どうやら14班も知らず知らずにお互いを支え合っているらしい。有難いことです。
*
帰りの地下鉄。混み合う車内で患者の個人情報は口にできないため、同村はささえあいの会について自分が感じたことだけを手短に話した。美唄は大きな黒い瞳で彼を見ながら、何度も強く頷きながら聞いて居た。
「そっか。また今度詳しく教えてね。実はあたしも参加しようかなと思ったんだけど…やっぱり勇気が出なくて」
「君にもそういう時があるんだね」
「何よそれ、いつも能天気だと思ってんでしょ。あたしだって怖じ気づくことくらいあるよ」
「あ、ごめんごめん。いや、そうじゃなくてさ、春にライブ見た時に遠藤さんってすごいなって思ったんだよ。俺なんかあんな人前で歌う…どころか話すことだってできないから」
美唄はまたクスッと笑う。
「あたしだって実は緊張してるのよ。歌詞間違えないようにとか、ステージから落っこちないようにとか…。まあMJさんは多分緊張なしで本当に楽しんでるけどね」
「向島さん…どうしちゃったんだろうな。明日は来てくれるかな」
「…わかんない」
二人は黙って車窓に流れる闇を見る。
同村は思った。たまたま乗り合わせた車両、しばらく一緒に過ごしていずれまたそれぞれの駅で降りていく…それはこのポリクリ班も同じだ。六人乗りのこの電車の終着駅は来年3月。でももしかしたら、それまでの間に誰かが降りてしまうこともあるのかもしれない。小俣教授も言っていた…命は短い、そしていつ終わりを告げられるかわからない。
隣の美唄を見る。自分はいつまで一緒に同じ電車に乗っていられるのだろう…ふいにそんな思いが込み上げた。
「もうすぐ同村くんが降りる駅だね」
美唄が口にした。いつもと同じセリフなのに、今日はやけに寂しく響く言葉だった。
*
その夜、田倉明日香は夕食を拒んだ。日中に幕羽から告げられた検査結果は好ましいものではなく、左手もますます動かないように感じた。「そろそろどうかな?」とささえあいの会にも誘われたが、とてもそんな気にはなれなかった。
一人の病室、ベッドに横になったまま彼女は両腕を天井に向けて掲げる。そして虚空の鍵盤を弾くように十本の指を動かすが…痛みに顔をしかめてすぐにパタンと腕を下ろした。
「もう…いい…よね」
誰かに対してそう言うと、彼女は潤んだ瞳を閉じた。
4
木曜日。14班はついに美唄の念願であった店・キーヤンカレーを訪れた。緩和ケア科の実習は学生にとってあまり拘束時間が長くなく、昼休憩もゆっくり取れる。そのことが初日に渡された予定表でわかってから、かねてより話題に出ていたこの店での昼食が企画されたのだ。実は火曜日・水曜日にもチャンスはあったのだが、できれば六人全員でという美唄の希望もあって今日まで引き延ばされた。そう、向島は結局今日も来ていない。連絡もつかない。これ以上引き延ばせば次のチャンスがいつになるかわからないため、食事会は本日五人で決行された。
病院から徒歩八分、南新宿のビル街をわずかに外れた裏路地にその店はあった。もともと一人のおっちゃんが屋台で始めたのが人気を呼び、ついに店を構えるに至ったという実力派のカレー屋。数年前から徐々に噂を呼び、いくつかのマスコミでも取り上げられたことで、今は毎日新宿のビジネスマンやオフィスレディ、若者たちで賑わっている。すずらん医大の学生の中にも確実にファンは増えつつあった。
「あ、ここだここだ!みんな、見つけたよ~!ほら、カレーの香り」
まるでグルメ番組のアイドルレポーター、真っ先に店に駆け寄ったのはもちろん美唄。「わかったわかった」と呼びかける長は、差し詰め小さな娘お連れてきたお父さん。
「いらっしゃい!」
頭にバンダナを巻いた店員の威勢のよい声に出迎えられる。昼食のピークタイムを過ぎていたおかげで、全員同じテーブルに着くことができた。
「ふ~ん、こういう内装なんだね」
まりかが興味深そうに見回す。茶色を基調としたログハウス風の造りにハワイの民芸品が飾られている。流れる音楽もハワイアン限定かと思えば、時にJポップや有名洋楽も入り混じっており、店長のこだわりを感じさせた。
「なんか落ち着く感じでいいな」
同村も感心する。思えば彼やまりかが同級生と昼食のために外出するなんて去年まで考えられなかったことだ。4年生まで同村は山田とコンビニのパンをかじり、まりかは一人持参した弁当を教室で食べるのが当たり前だった。ところが今は話題の店で同じテーブルを囲んでいる…よかったね、二人とも!これが青春だ!
「わあどれもおいしそう!どれにしよっかな~」
メニューを見ながら美唄のハイテンションは止まらない。
「まあ午後のクルズスは3時からだから、ゆっくり決めなよ美唄ちゃん」
井沢が笑う。そしてキーヤンカレー経験者として、みんなにお勧めのカレーやトッピングをレクチャーした。
その後各自の注文が行なわれ、無事五人分のカレーが運ばれてきて一口食べての美唄の第一声は…やっぱり…。
「おいしい!ほっぺた落ちそう!」
内容は店を誉めているのだが、その声のボリュームからさすがに営業妨害になりそうだ。ボーカリストは腹式呼吸の使いどころを完全に間違えている。みんなにブレーキをかけられるのもこれまたいつものご愛敬。読者のみなさん、美唄を嫌いにならないでね、こういう子なんです。
まあそんなこんなで各人カレーを堪能しつつ、同期生トークを楽しむ幸福な時間が過ぎていった。
*
全員の皿が下げられ、食後のアイスコーヒーが運ばれた頃、少し落ち着いた美唄が言う。
「ああおいしかった、お腹ポンポコ。…MJさんも一緒に来れたらよかったのに」
「でもさすがに向島さん…今回はやばくねえか?」
井沢がカップに口をつけながら返した。長も顔をしかめる。
「確かに初日しか来てないからな…それも早退だし」
「でもMJさん、なんか…今回はいつものサボりと違う気がするの。なんとなくだけど…」
「俺もそう思う」
同村も美唄に同意した。ここまでの連続欠席は今までなかったし、月曜日の最後の姿が何かを思い立っていたように感じられたからだ。
「まさか…流浪の旅にでも出たのかな」
同村の想像に、美唄が「ありそうで怖い」と一口飲む。まりかも取り出した手帳を見ながら指摘する。
「…明日は幕羽先生の口頭試問とミニテストだから、さすがに来ないとまずいと思うわ」
「一応、あたしメールしておくけど…」
美唄はそう言って木造の天井を見上げた。さてさて、君の先輩は…雲隠れしてどこで何をやっているのか。
「それにしても…ポリクリももう半分近く終わったんだな」
早々にコーヒーを飲み干した長が話題を転換した。井沢も「もう五ヶ月目ですもんね」と相槌。
「この一年で将来どうするか考えようと思ったんだけど…なかなか決まらないもんだな」
「そんなに焦らなくても大丈夫じゃないですか?」
まりかも手帳をしまって加わる。
「ホラ私たちって、オールラウンド研修ですから。まずは何科に入局するかじゃなくてどこの病院で研修するかを考えないと…」
『オールラウンド研修』とは、近年導入された新制度。医学生は医師免許取得後、どこかの科に入局する前に全ての科を一通り研修することが義務付けられたのである。それによってあらゆる科に精通したドクターが誕生するのなら素晴らしい、と読者のみなさんは思われるかもしれないが…現実には様々な問題もはらんでいる。
「オールラウンドか、本当に面倒臭いのが始まったよな」
井沢が小さく舌打ちする。
「実際に研修して回ってる先輩に聞いたら、なんかポリクリに毛が生えた程度だってさ」
「う~ん、まだ始まったばかりの制度だからな。指導する側もどうしていいかよくわかんないんだろう。俺らがやる頃にはもう少し充実してるといいけど。こういうのってお上が勝手に開始して、現場は準備不足なんだよな」
長も自論を述べていく。
「それに指導医だって、将来自分の力になってくれるわけでもない研修医に本気で教える気にはならないだろ。せっかく教えて使えるようになっても、すぐまた次の科に回っていっちまうんだから」
「確かにそうですよね…」
と、同村。将来医者になることを決めかねているこの男にとってはいささか難儀な話題だ。続いてまりかが発言する。
「もちろん全部の科の基礎を学ぶのは無駄にはならないと思いますけど…、自分のやりたい科をしっかり決めてる人は、すぐそこに飛び込んだっていいと思います。やる気がある人なら、必要に応じて自分で他の科の研修を申し込むでしょうし。別に義務にしなくても、昔のお医者さんはそうだったんですから」
長が腕組みをした。
「まったくだな。こういうのって現場の意見も聞かずに勝手に決まっちまう。円周率が一時期3になったのと一緒だな。変えてみたけど、やっぱり都合悪かったからすぐ戻しますってなったじゃないか」
「俺たちは、その過渡期に就職だから…損ですよね」
井沢が悔しそうにカップを空けた。
「結局先輩に聞いても、学務課に聞いても、とりあえず決まったからやるしかないとしか言われませんもん。こんなわかんねえことだらけの状況で、研修する病院を選べったってなあ…。俺たちは国の実験台じゃねえっての。人の人生を何だと思ってんだ」
「私も色々調べたんだけど…誰もちゃんと説明してくれる人いなくて。卒業したらすぐ自分のやりたい科に行けると思ってたから…ちょっと残念」
井沢が「秋月さんのやりたい科って?」と興味を示した。
「一応…神経内科」
少し照れて答える彼女に、長は「さすがだな、あんなに難しい分野を」と感心。
「でもそれも…オールラウンドのせいで当分先になっちゃいました」
「結局国が決めたから、とりあえず従うしかないのか」
同村が憤怒を覗かせて言う。…そう、それはまるで学校が決めたことなら足並み揃えて従うしかない医学生と同じ。医学部教育で彼の最も嫌う部分だ。
「でも医師免許は国からもらう国家資格だから、制度がおかしいからって国に逆らえるドクターなんて…いないよな」
それもまた卒業資格を学校に握られている医学生と同じ。もし免許没収も省みず国に立ち向かえるドクターがいたとしたら…それこそ本当のアウトローだ。そういえば14班のアウトローはどうしたんだろう…、とそこでまた同村は向島を思い出す。こんな時こそ彼の意見が聞いてみたかった。
*
その後も全員のコーヒーがなくなるまで新制度について話し合ったが…議論は踊る、されど進まず、結局はストレス発散の愚痴大会に終始した。
「ねえ、美唄ちゃん?」
長がいつになく無口な彼女に気付く。
「あ、ごめんなさい、お腹いっぱいで眠たくなっちゃいました。でもあたしも…オールラウンドは早くなくなってほしいです」
思い出したようにニコッと笑う美唄。
「よかった、同村の無口がうつったのかと思って心配したよ」
井沢がおどける。「どういう意味だ」と赤い顔で怒る主人公にみんなが笑う。
「アハハ。じゃあそろそろ時間だね。あ~おいしかった、満足満足」
立ちあがって背伸びする。そして「お会計はあちらでーす!」と元気にみんなを促す彼女はいつもの笑顔100パーセント。それを見て同村も安心したように微笑み、そんな彼の様子を残りの班員たちは暖かく見守るのであった。
「ごちそうさまでーす!」
美唄に倣いバンダナの転院に声をかけながら五人は店を出た。後半は思わぬ話題に発展したが、14班初めての外食は楽しさの中で終了した。
満腹を抱えての帰り道、五人は改めて天に聳え立つすずらん医大病院を仰いだ。そして思い出す…この巨大な白い建物の片隅、18階の一室に、あと半年の命を生きる若い女性がいることを。
誰もそのことを口にはしなかった。ただそれぞれの心に浮かぶ、生きることへの問い掛け。そこで実感する…自らが恵まれていることを。おいしいカレーを食べて、あーだこーだと愚痴を言って、将来どうするかを考えて…。
今自分は紛れもなく生きている。これからも生きていくつもりでいる。
そして改めて思う。この命は一つしかない、この人生は一度しかないのだと。今回があまり振るわなかったからまた次回に期待…とはいかないのだ。
午後からの実習。五人はキーヤンカレーがもたらす強烈な眠気にも打ち勝ち、いつも以上の真剣さを見せた。
*
同日午後4時、実習から解放された五人は学生ロビーのいつものソファにいた。もしかしたらとの期待もあったが、やはり向島が遅れて現れることはなかった。五人で明日の口頭試問とミニテストの対策を終えると、長が大きくあくびをする。
「ふぁーあ、眠い。あのカレーは睡眠薬でも入ってんのかな」
「本当にそうですね、それにお腹も全然空かないし…今日は晩ご飯いらないかも」
まりかも珍しく小さくあくび。井沢も「俺も今日は早く寝よう」と伸びをした。
「どう、遠藤さん。向島さんからの返信あった?」
何度も携帯電話を確認している彼女に同村が訊く。
「…ううん。一応今みんなで話した勉強の情報はメールしておくけど」
美唄は小さく溜め息。そして全員の顔を見て言った。
「みんなごめんね。でもMJさんは悪い人じゃないの…」
「わかってるって」
そう真っ先に返したのは井沢だった。
「俺も最初は不真面目な人なんだと思って正直ムカついてたけど…今はあの情熱はすごいなって思ってるよ。あれだけ好きなことがあるなんてうらやましいぜ」
「そうだよ、結構私にも気を遣ってくれるのわかるし」
まりかも微笑む。長も隣で頷く。
「そうそう。それにあの人、笑う時本当に嬉しそうな顔するんだよ。あれがかわいくてさ、俺もあの人と話すの好き。だから美唄ちゃんが気にすることないって」
「そうだよ遠藤さん。俺も思うんだ、あの人はきっといつか大学病院に奇跡を起こすなって。そしたら俺たちも仲間として伝説に残るかも」
同村も力強く言う。まあ今のところ起こしているのは奇跡ではなくトラブルだが。
「そっか…そうだね、フフフ。みんなありがとう」
美唄も笑う。どこにいるのか向島、君はとてもよい後輩たちに囲まれているみたいだぞ。
帰り支度をして腰を上げる五人。みんなの言葉を聞いてテンションの上がった美唄が宣伝を始めた。
「ジャジャジャーン、お知らせでーす。実はMJさんには公式ホームページがあります。『MJウェブ ロケットエンジン』ってサイト、よかったら見てあげてくださーい!」
全員が声を揃えて答える。
「いや、さすがにそこまでは」
5
同日午後9時。面会時間もとうに終わり消灯された院内は、昼間の混雑が嘘のように静まりかえっている。18階、夜勤者の足音がどこまでも響く病棟、非常灯とナースステーションの光だけがかろうじて闇を払っている。そんな夜に紛れて田倉明日香の病室を訪ねてきた者がいた。それはもちろんあの男…。
「こんばんは」
男はボサボサ頭に緑色のジャンパーをまとい、その目を充血させている。何日も布団にも風呂にも入っていない感じだ。警備員に見つかれば間違いなくお縄だろう。
「あら…こんな時間まで実習ですか」
悲鳴を上げられても文句の言えない状況であったが…明日香は冷めた声で返し、読んでいた文庫本をそっと伏せた。昼間から薄暗かった室内は、夜の侵入を許してさらに闇を深めている。影をまとった彼女の白い姿だけが儚く浮かび上がっていた。
「何の御用かしら。できれば…お引き取りいただきたいんですけど」
「すいません、少しだけ…」
向島は不快そうな彼女の表情もなんのその、ズカズカと入り込む。そして「夜は音楽は聴かないんですか?」と尋ねた。確かにテーブルのラジカセは沈黙している。
「もう聴くのやめました。あなたがこの前来てから」
明日香はまたそっぽを向く。
「そうですか…でも、ぜひこれだけは聴いてほしくて」
向島はポケットから一枚のCDを取り出す。そして勝手にそれをラジカセにセットした。相変わらずの無遠慮さに溜息を吐きながら、明日香は「何ですか?」と投げやりに尋ねた。
「まあまあ、とりあえず聴いてみてください」
向島は右手の人差し指を立て、そっと自分の唇に当てる。キュルキュルとCDが回り始め…数秒の後、静かなピアノの音が流れ出した。ミディアムテンポの、まるで伺いを立てるかのような優しくて臆病な旋律。
「知らない曲ね」
彼女はぶっきらぼうに言ったが、闖入者は黙ったままだ。続いて歌が始まった。どうやら先ほどまでは曲の前奏だったらしい。純粋な少年のような声が、日本語の歌詞を歌い上げる。
「すいません、ヘタクソなボーカルで」
向島が照れくさそうに笑った。明日香が「これ、あなたなの?」と振り向く。
「ええまあ…歌は下手ですが、注目してほしいのは歌詞です」
二人は言葉を止め、その歌声に集中する。やがてワンコーラスが終わり間奏に入った。
「これって…」
「そう、あなたがノートに書いていた『末端音楽段』という歌詞です。これが一番気に入ったんで、曲をつけてみました。本当は他の楽器も入れたかったんですが、時間がなくてピアノだけです」
「曲をつけたの?あなたが?でも、いつ歌詞をコピーしたの?」
「月曜日にここでノートを見せてもらった時ですよ。僕、歌詞ならばすぐに憶えられるんです…教科書はダメですけど」
片目を閉じてみせる向島。う~ん…天才。
「で…これがどうしたんですか?」
一瞬相手のペースに引き込まれかけたが、彼女はまた冷たくそう突き放した。
「勝手に詞を盗んで、曲を作って、聴かせて…それが何です?これが実習なんですか?」
「実習ではないんですが…」
向島はポケットから今度は数枚の紙を取り出した。
「この曲をインターネットで流してみたんですよ。自分のホームページとか、あと色々な知り合いの伝手を頼って…。そうしたら、何通か感想のメールが来ましてね。プリントアウトしてきました」
「え…」
戸惑う明日香に構わず向島は「読んでみましょう」と話を進める。
「まず一人目。…すごく優しい曲ですね。控えめな歌詞なのになんだか力強くて、ちょっと元気でました。二人目。…聴きました!悲しみの旋律も優しさにアレンジしてって歌詞が大好きです!」
向島はまるでDJのように、優しいピアノをBGMに丁寧に読み上げていく。
「三人目。…穏やかな絶望は希望を奏でられる、という歌詞の意味を考えさせられます。絶望の中にいる人間が希望を叫んだ時、すごい説得力が生まれる気がします」
そこでアウトロー医学生はそっと視線をベッド上のピアニストに向ける。いつしか彼女の瞳には涙が滲んでいた。
「四人目。…私も音楽が大好きなんで作者の気持ちがよくわかります。続いて五人目。…夢を見るってやっぱり大事なことなんだと思いました。でもちゃんと人の痛みも見ようとするこの作者はすごいと思います。嘘っぽくないメッセージがよかったです。六人目…」
涙がベッドに落ちる。その後も数人のメールを紹介して向島は彼女に言った。
「だいたいこんな感じです。僕の歌に対する感想は全然ないんですけどね。まあいいや」
苦笑いして紙を手渡す。力なく彼女は受け取った。
「どうですか?数は少ないですけど、…あなたの歌詞に共鳴してくれた人がいたんですよ。もちろんあなたの名前や現状は公開してません。音楽だけで勝負してます」
「そんなの…そんなの…」
明日香は震える声で言い、紙を両手でクシャッと握り込む。
「確かに、たったこれだけのことです…今は。でももしかしたら、あなたの歌詞で元気になった誰かがまた他の誰かを元気にするかもしれない。またその誰かが他の誰かを幸せにするかもしれない…そんなふうに考えたら、素敵だって思いませんか?もちろん、医者のように目の前で誰かが元気になるのを見ることはできませんけど。もしかしたら自分の歌詞が、メロディが、演奏が…世界のどこかで誰かの心に響いているのかもしれない。そんな魔法を信じられるのが…ミュージシャンの醍醐味ですよね?」
明日香は右手で両目を覆う。そして部屋に流れるピアノ、そこに歌われる歌詞を聴く。自分が生み出した言葉が、今は自分を生かそうと語りかけてくる。彼女はやがてゆっくりとその手を離し、涙の向こうに向島を見た。暗い室内、その姿はボヤけている。
「僕も…昔あなたの演奏を見て、音楽の魅力に気付かされました。今では、それが僕の人生の全てです。芽が出るかどうかわかりませんが…何があっても僕は音楽をやめられないでしょうし、それで…幸せです」
歌が終わり、演奏も終盤に入る。朝日の中、葉に残った夜露がそっとこぼれ堕ちるように…優しく澄んだ音でピアノは止まる。曲が終了した。
彼が一歩歩み寄ったことで明日香にはようやく向島の顔が見える。
「…どうですか?あなたの生きる意味は…ありませんか?」
そこには、彼の…美唄顔負けのとびっきりの笑顔があった。
「ワアアアーン!」
その瞬間明日香は泣いた。まるで子供のように、ためらいない大声で泣きじゃくった。
「生きたい、生きたい、死にたくないよ!ワアアアア…」
ずっと抑え込んでいた感情が破裂したのか。病室に響くその荒れ狂う心の旋律を、向島は黙って受け止めていた。もしここが緩和ケア病棟でなかったら、その声を聞きつけて看護師が飛び込んできたに違いない。
*
一頻り泣き叫んだ後、やがて明日香は沈黙する。室内には、全ての音が鳴りやんだコンサートホールのような静寂が訪れる。そして一礼を終えた指揮者のように、彼女はゆっくり顔を上げた。
「ありがとう、向島先生…。じゃなくて、ミュージシャンMJKかな?」
「いえいえ」
向島は笑顔で首を横に振った。もしかしたらこれは、彼なりの恩返しだったのかもしれない。人生を豊かなものにしてくれた彼女への…。ステージの上の音楽家は刹那のうちに消えていく。その時の演奏、その時の感動、その時の輝きは…CDやDVDをもってしても保管することはできない。ただ一つ閉じ込めることができる場所があるとすれば、それは心の中しかない。
誰の心にも忘れられないコンサートの、忘れられないスターがいる。あの日ピアノをやめたがっていた向島少年の心に、ステージの上の明日香は永遠に刻まれたのだ。
「僕の方こそ…ありがとうございました」
向島は頭を下げた。明日香は少し首を傾げる。
「私は何も…」
「いえ、あなたは教えてくれました。幸せとはどういうことかを」
向島はそっと笑顔を消す。
「色々な価値観があります。例えば僕の周りでも、留年したとか進級したとかそんなことで騒いでます。世の中でもそうですよね。勝ち組だとか負け組だとか、金持ちだとか貧しいだとか…」
そこで彼は明日香を見ながら「健康だとか病気だとか」と続けた。彼女は黙ってその言葉を受け取る。
「色んな価値観がありますけど、でも、幸せかどうかを決めるのはもっと単純なことです」
「…それは、何ですか?」
明日香は心からそう尋ねた。
「…自分の好きなことがあるかどうかです。昔、あなたの演奏を見た時に思いました。好きなことを見つけた人間が一番幸せで…一番強いんだと。たとえ全てを奪われたとしても、好きだという情熱だけは誰にも奪えませんから」
向島はまた笑顔を見せた。
「だから僕は…あなたが不幸だとは思っていません」
「そうか…な」
明日香も少し笑顔になる。それは教授回診で見せた誤魔化しの微笑みではない。本当に久しぶりに…彼女の心が笑ったのだ。
そう、読者のみなさんもMJKのライブを一度観ればきっとわかっていただける。ステージの上の彼は楽器と戯れながら完全に我を忘れている。ただ好きなことに夢中になっている。そもそも生きる意味なんて考えもしていない…きっとそれを幸せと呼ぶのだ。
「変ですね、これはあなたから教わったことなのに。この情熱はあなたから燃え移ったんですよ?」
そう向島がおどけてみせる。明日香はそこでもう一度「ありがとう」と言った。そしてかつての自分の情熱が向島を介してまた自分に着火するのを確かに感じた。短い線香花火かもしれない…それでもまだ燃える力は残っている。
「向島さん、これからも頑張って音楽続けてね。いつか…いつか、私が死んじゃった後も」
「ええもちろん。申し訳ないですけど、絶対やめません」
それを聞いて明日香はさらに微笑んだ。そしてからかうように言う。
「でも、ボーカルはもうちょっと練習した方がいいかも?」
「あちゃ、やっぱりそこかな」
「フフフ…」
夜中の南新宿、その大病院の一室…そこには音楽に魅了された二人の人間の幸せな空間があった。
…誤解のないように。この時点での向島はただの音楽オタクのド変人です。今後も彼は数々の問題行動で病院や大学に波乱を呼ぶ。彼がようやく自分のスタイルを見つけ、ミュージシャンとお医者シャンを絶妙なバランスで両立させていくのは…まだまだ遠い遠い未来です。
あれ?この物語ってこういうテイストだったっけ?
6
一夜明けて金曜日、口頭試問とミニテストが予定どおり行なわれた。全てが終わった後、カンファレンスルームにて幕羽医師が各人の成績を発表する。
「秋月先生97点、井沢先生88点、長先生82点、遠藤先生80点、同村先生75点…ここまでは全員合格です。よく頑張りましたね。残るは向島先生…」
指導医は厳しい顔になって三日ぶりに現れた問題児を見る。他の五人も不安そうな視線を向島に集めた。
「点数は…62点、ギリギリ合格です。ですが、君は欠席が多過ぎます。ポリクリは臨床実習ですから、テストだけ合格しても単位はあげられません」
「はい…わかってます」
「ですから…」
室内に緊張が走る。すると幕羽は急に全員を見回してから続けた。
「みなさん、緩和ケアで一番大切なのは、患者さんとご家族に希望を灯してあげることです。クルズスでも言ったように、癌治療の現実はまだまだ厳しいです。薬の開発には時間がかかりますし、例え海外に薬があっても日本で使うにはいくつものハードルがあります。そんな中で患者さんが治療を投げ出さないためには…小さくても何か希望が必ず必要です。
どうやって希望を見つけてあげるか、教授も私もいつも頭を悩ませています。ですから向島先生、あなたにも一つだけ希望をあげましょう」
向島は背筋を正す。
「来週のお盆の休診日、君は休みを返上してうちの科の実習をしてください。それも欠席したら本当に単位はあげません」
「はい、わかりました!」
「おっとそうそう、明日の土曜日も来てもらいましょうか」
指導医は穏やかな顔になった。
「いやあ、実は田倉さんが病室で弾けるキーボードを買ってほしいそうなんですが、私にはどこで買えばいいのか、どんな種類があるのか、セッティングとかもさっぱりわかりません。だから、君に全部やってもらいます。そのつもりで。
他のみなさんはもちろんゆっくり休んでくださいね。お疲れ様でした」
幕羽は向島の肩をポンと叩き、耳元で「君が灯した希望なんだからね」と囁いてから部屋を出ていった。…いいとこあるじゃん!
彼の足音が遠ざかると、何とか首が繋がった仲間への祝福が寄せられる。
「よかったですね、MJさん!はい、生還記念に一枚」
笑顔100パーセントの音楽部後輩がデジカメでパシャリ。
「三日間もどこに行ってたんですか」
文芸部もそっと微笑む。
「お帰りなさい。では罰として今度全員にキーヤンカレーをおごってもらいます」
才女がそう言い、浪人生のボスも「出た、班長命令!」と手を叩く。
「え~勘弁してよ。睡眠不足でもうフラフラなんだから」
「これに懲りて、サボり癖は直してくださいね。でもよかったです。向島さんが離脱して、次の科から五人で実習なんて淋しいっすよ」
爽やか青年も笑った。
まあ何にせよ、よかったよかった。これにて緩和ケア科は無事終了です…失礼、向島以外は。
幸せな先輩よ、ちゃんとみんなに感謝してカレーくらいおごらなくちゃいけません。アウトロー三昧しても、こうやって受け入れてくれてるんだから。
それに…実は感謝するのはそれだけではないのです。昨日美唄がみんなに向島のホームページを宣伝した。その場では誰も興味を示さなかったが、実は後で全員チェックしていた。そしてそこであの曲を聴いたのだ。
そう、届いたメールのうち、五通は14班の仲間たちからだったのだ。もちろん示し合わせたわけではないし、匿名なので向島は気付いていない。お互いメールしたことも話さないから誰も知らない。だからこの小さな偶然がどんな意味を持っていたかを彼らは知る由もない。
これも一種のチームワーク…なのかな?
どうしてみんな向島のホームページを見る気になったのか。そこで聴いた曲に感想を送る気になったのか。まあこれこそが明日香や向島の信じてやまない、音楽の魔法なのだろう。彼らはあの時確かに導かれたのだ…希望の旋律に。
*
どういう心境の変化か、これ以降向島はポリクリをサボらなくなった。その代わり実習中に突然行方不明になることは多くなったが。そんな時は大抵、明日香の病室で彼はキーボードを弾いている。まあ、あまりにノリノリ大音量で演奏するものだから…何度も看護師から大目玉を食らうのだが。
読者のみなさん、もしあなたの通う病院で場違いな音色を聞いたら…それはMJKかもしれませんよ?
ではでは今月の物語も、これにてカーテンコールです。最後に、この曲の歌詞を掲載しておきましょう。
末端音楽団
(作詞:ASUKA 作曲:MJK)
チューニングの甘いフォークギターと
バケツを裏返しただけのドラムと
おもちゃのピアノ 壊れかけのハーモニカ
それだけで十分に音楽団
いるといないとじゃ何かが違う
どんな楽器でもいいから君もこいよ
そりゃどう見ても名曲じゃないけれども
世界中ここにしかない音だ
夢を見ようよ できることなら
肩書きも気まずさも演奏すれば問題なし
君が好きだよ どんな時でも
あきらめたくなかった意味はあったんじゃないか?
自分の調子がいい時には
小さなSOSが聴こえなくなる
ワンフレーズが誰かを傷つけてる
切れそうな細い弦を張り詰めて
人を見ようよ できることから
悲しみの旋律も優しさにアレンジして
君のリズムも 僕のメロディも
ヘタクソでもいいから最後までやりきるぜ!
世界中にいる音楽を愛する仲間たちの
末端で僕らも音を出し続けよう
誰かを想いながら
夢を見ようよ できることなら
穏やかな絶望は希望を奏でられる
君が好きだよ どんな時でも
あきらめたくなかった意味はあったんじゃないか?
僕ら末端音楽団
9月、精神科編に続く!