第3話 幹細胞のように (血液内科)

さてさて、季節は春から夏に変わった6月最初の土曜日。この日すずらん医科大学はちょっとした賑わいを見せていた。といってもそれは南新宿の病院ではなく、1・2年生が通う東新宿キャンパスの方だ。その体育館の出口にはゆうに100人を超える人だかりができている。花束を抱えた者、カメラを構えた者、プレゼントの箱を大事そうに持っている者などなど、まるでアイドルコンサートの出待ちだが、それもあながち間違ってはいない。
時刻は午前11時を回る。体育館から出てきたのはナース服に身を包んだ若き女性陣。そう、先ほどまで中で行なわれていたイベントこそ『戴帽式』、看護学生が病棟実習に出る証としてナースキャップを授与される儀式である。続々と青空の下に出てくる嬉しさと恥ずかしさを讃えた笑顔たち。それを迎えるのが部活の仲間たちだ。すずらん医大そのものは医学部のみの単科大学だが、東新宿キャンパスには三年制の看護専門学校も併設しているため、医学生・看護学生が一緒に所属する部活も多い。迎えられた彼女たちは抱えきれないほどの花束やプレゼントを手渡され、記念撮影に引っ張りだこ…と、この日限りのアイドル気分を味わえる。
そろそろ全ての看護学生が表に出たようだ。人だかりはいくつものグループに分散し、あちらこちらでそれぞれの盛り上がりを見せている。では我らが14班の面々はといいますと…いたいた、休日返上でちゃんとお祝いに駆けつけている。
例えば胴上げで本当に白衣の天使を宙に舞わせているのは柔道部、そこには長の姿がある。その向こうにはポーズを変えて何枚も記念撮影をしている音楽部、カメラマンはもちろん美唄。おっと、その隣でアコーディオンを抱えた向島がBGMを奏でている…ポリクリはサボってもここには来るんですね。
あとは…いたいた、人だかりの端っこ、木陰で小さな花束を渡しているのが総勢五名の文芸部。迎える白衣の天使もわずか一名、同村含めどう見ても地味な仲間たちに控えめな拍手を贈られている。プレゼントの品もどうやら本らしい。これはこれでよいでしょう。
そして人だかりの中心、恒例のお姫様抱っこで白衣の天使と記念撮影おしているのは、最大の部員数を誇るサッカー部。マネージャーの数も最多のため天使の数もダントツだ。井沢も次々と彼女たちを抱きかかえながら、爽やかな笑顔を見せている。…青春ですなあ。
そのうちに文芸部は早々に解散したが、サッカー部の盛り上がりはまだまだ終わりそうもない。同村は帰り際に立ち止まり、遠目に井沢の姿を見ていた。井沢の笑顔とは対照的に、そこには時折見せる訝しそうな表情が浮かんでいる。
まあ弱小同好会と超がつくメジャーサークル、その差は明らかだが…同村の感慨はどうもそういうことではないらしい。考え込むのが得意なこの男、今度は一体何にモヤモヤしているのやら。

…ではでは、そんなことを念頭に置きつつ今月の物語です。

 時は流れて6月第3週。ポリクリも三ヶ月目となり、彼らもすっかりこの生活に慣れている。良くも悪くも手の抜き所がわかってきた感じだろうか。その身なりもケーシーと呼ばれる半袖の白衣に変わり、病院内での立ち振る舞いも板に付いてきた。
今週14版が回るのは血液内科。一般にはあまり耳馴染みがないかもしれないが、大雑把にいえば、貧血や白血病に代表される血液の疾患を扱う内科である。ちなみに貧血と低血圧がごっちゃになっている人も多いが、貧血は血液の中のヘモグロビンという酸素を運ぶために必要な物質の不足。低血圧は血液が血管を流れる際の圧力の不足なので、こちらは循環器内科の専門となる。

そんな初日の月曜日。実習を終え、彼らは学生ロビーのいつものソファで一休みしていた。時刻は午後6時、他の班もちらほら同じように寛いでいる。
「いやあ、結構疲れたな。あ~あ」
気持ち良さそうに長が背伸びした。
「そうですね。でも、血液内科は時間は長いけどレポートは割と楽だって先輩が言ってましたよ」
缶コーヒーを飲みながら答える井沢。続いてまりかが手帳を開く。
「病棟実習が少ない分、クルズスが多いみたいね。明日は朝9時から、15階のカンファレンスルームで河野先生のクルズス。だから8時45分に集合にしましょう」
「了解です、班長さん。それじゃあお疲れ様」
そう言うと向島は一人立ち上がり、ロッカールームに向かった。彼は相変わらずポリクリをサボりがちである。今日のように出席していたとしても、こんなふうにさっさと一人で帰ってしまう。
「あ、もう!MJさ~ん!」
美唄は不服そうに呼びかけるが、先輩は振り返ることなく姿を消す。彼女が見い出した『14班が仲良くなる可能性』も、あのゲームセンターの夜をピークに停留状態。別に仲が悪いわけではないのだが…彼女が臨むパーティもいまだ実現されずにいる。
まあ珍しい話でもない。仲良し度合いは班によって様々。頻繁に飲み会や勉強会を企画し、旅行まで一緒に行ってしまう班もある一方で、ビジネスライクに病棟でだけ行動を共にし、それ以外は学生ロビーでさえ一切交流しない班もある。いわゆるハズレ班では、それこそ周囲から見ても痛々しいほどバラバラなこともあるのだ。その意味では、14班の仲良し度合いは平均的…いや、苦痛がないだけむしろ恵まれているのかもしれない。う~ん、美唄が高望みなのかな?
現状の14班でパーティ開催が実現しない主な理由としては、春は勧誘活動やゴールデンウイークでタイミングを逸したこと、向島がいたりいなかったりすること、そして美唄以外にそれを切望している班員がいないことなどだろう。
さらにいうなら、それほどあからさまではないものの、同村と井沢の間の溝を班員たちが無意識に感じ取り始めているのも一因かもしれない。溝といっても確執や因縁があるわけではない。ただ二人には、行動原理というか信念というか、根本的な部分でずれがある。それはこの三ヶ月で本人たちも薄々気付き始めていることだった。
「また向島さんは音楽か。…ったく、俺たちはどうせ医者になるのに、あんなに音楽ゴリゴリやってどうすんだ?進級も大丈夫なのかよ」
井沢が向島の消えた方向を見ながら口にした。
「まあまあ井沢くん、MJさんはあれで幸せなんだから」
美唄が笑顔でたしなめる。同村は隣で井沢の様子をまた訝しげに見ていた。
「別にいいけどさ…、俺なんか留年したら絶対生きていけないけどね」
「それは留年した人たちに死ねって言ってるのか?」
同村が問う。
「いや、別に…そういうわけじゃないけどよ」
井沢はバツが悪そうに飲み干すと、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。他の者も言葉を止める。
…このように、時々空気が淀む場面が14班にはある。それは、少しだけ耳障りな同村と井沢の不協和音。
「まあうちの大学は確かに留年が多いからな、俺も毎年怖いよ」
「そうですよ、多過ぎですよね、アハハ」
長と美唄が場を取り繕う。その後も少しだけ談笑して解散となったが、同村と井沢が言葉を交わすことはなかった。

「ごめん、さっきは…」
帰りの地下鉄、吊り革を握った同村はそう切り出した。
「え、何のこと?」
美唄が隣で首を傾げる。
「井沢の言葉に、イラッときちゃってつい…」
「あ、うん」
頷く美唄。読者のみなさん、断わっておきますがこの二人、まだデキていませんから。
「井沢が悪い奴じゃないのはわかってる。わかってるんだけど、時々どうしてもカチンときちゃうんだ」
内向的でだんまりが定番のこの男、それが自分の本音を美唄には話せる。何故だろう。
「ごめん。せっかく遠藤さんや長さんが班を盛り上げようとしてくれてるのに」
「そんなの、気にしないでよ。確かに井沢くんって、時々…上から目線っていうか、ちょっと無神経なこと言うよね。MJさんのことも本人がいなくなったら文句言うし。まああれはMJさんが悪いのか」
彼女はそこでクスッと笑う。
「でも…井沢くんっていい人だと思うな。すっごく顔が広いし、ポリクリでも先生によく気に入られてるし…」
「…そうだね」
「それだけじゃなくてさ、みんなで決めたことは絶対守るし、頼んだこともばっちりやってくれる。遅刻も絶対しないし、いつも穏やかで感情的にもならない。すっごく真面目で…余裕、そう、余裕があるんだよ」
大きな黒い瞳でじっと見つめられ、同村は思わず視線を逸らした。
「それに同村くんってさ、普段あんまり思ってること言わないじゃない?だからさっきみたいにちゃんと言うのっていいと思うな」
「そう…かな」
「そうだよ」
「遠藤さんって、本当に人をよく見てるね」
「え?」
びっくりしたような彼女に同村は視線を戻して続ける。
「人の行動もそうだけど…なんか人の心をよく見てるっていうか」
「…そう?フフフ、すっごく嬉しいかも」
下を向いてそっと微笑む。それは、いつもの笑顔100パーセントとは違う微笑み方だった。しかし同村がそれに気付く前に彼女はすぐに顔を上げる。
「ありがとう同村くん。大丈夫、14班は大丈夫だよ。そりゃ仲良くしたいけどさ、それは表面的にじゃなくて、それこそ心からだもん。時間かかったっていいじゃない。これからこれから、ね?」
美唄はガッツポーズ。続いてエイエイオーも発動しそうだったが、車内放送がそれを遮り、地下鉄はそのまま同村の降りる駅へと滑り込んだ。くり返しますが、二人はデキておりませんので当然ここで下車するのは彼一人です。

 駅からの帰り道、同村は考えていた。
自分は何にイラついているのだろう。確かに井沢には何も責められる所はない。友達も多いし、去年まで交流のなかった俺にも親しく話しかけてくれた。余裕があるからできる優しさなのかもしれないが、その優しさは医者に必要な物だ。自分に余裕がない状態では、人に何かを施すなんてできない。それに井沢は学業好成績、それでいて部活やプライベートも疎かにしない。そのバランス感覚、エネルギー配分とスケジューリングの能力も、きっと忙しい医者という仕事に必要な物だ。
…なら、このイライラは何故だ?
同村にはその答えがわかっていた。入学して以来、ずっと考え続けている『個性を持たない医学生』…その典型が彼・井沢大輝なのだ。
医学部のシステムに何の疑問も抱かず、全てそのまま受け入れる。大多数から外れることを何より恐れ、みんなと足並みを揃えていれば安心する。自分の恵まれた家庭環境も、自分が医者になることも当たり前。逸脱した金銭感覚にも、自分が世間知らずの苦労知らずであることにも気付かず、医学生という優越感だけが肥大している。そんな無個性人間、思考停止人間、操り人形…!
もちろん、実際に井沢がそうだと断定できるほど彼と語り合ったことなどない。よく知りもせずに人を判断するのはおこがましい。自分が人を批判できるほど優れているわけでもない。勝手に膨らませたイメージを彼に投影してはいけない…同村にはそれもわかっていた。それでも時として、井沢の言動が彼の耐えられない部分に触れるのだ。
これまでの井沢の言葉が頭の中で反響する。

…「看護婦のくせに」
なんだよ、くせにって!お前は何様だ?自分の家が代々医者で、自分もその流れで医学部に来ただけのくせに!
…「留年したら生きていけない」
留年した同級生たちは、そんなに恥ずかしいのか?生きる価値がないっていうのか?自分が順調に進級してるから言えるんだろうが!
…「俺たちはどうせ医者になるんだから」
どうせってなんだ?たいした人生の選択もしてこなかったくせに、何がどうせだ!それともお前は医者になる運命で生まれてきたっていうのか?

同村の表情がどんどん険しくなる。まあまあ、あんまり考え過ぎるのは精神衛生上よくないよ。ほらほら、美唄ちゃんのことでも考えてさ、穏やかになりなさいな。健全じゃないぞ!

結局その日は眠りにつくまで、イライラ顔の主人公であった。

 翌日火曜日、14班は15階のカンファレンスルームでクルズスを受けていた。担当する河野はいかにも学者といった雰囲気の男性医師。細い指で教科書をめくりながら、物静かに語りを続けている。
「よろしいですか?血液の疾患はたくさんありますが、大切なのは分類です。赤血球の病気なのか、白血球の病気なのか、それとも血小板や凝固因子の病気なのか。そしてそれは何が原因で起こっているのかを整理してください。4年生の講義でもやりましたね?
例えば貧血は赤血球の病気ですが、貧血にも色々な種類があって、ヘモグロビンの原料である鉄分が足りないのか、足りていてもうまく使えていないのか。足りないとしたら、食事で摂取できていないのか、摂取していても出血で出ていってしまっているのか。出血だとしたらどこからの出血か…上部消化管か、下部消化管か、あるいは過多の月経か。それによって検査も治療法も変わってくるわけです」
室内には河野の声とページがめくられる音だけが響く。
「ではもう一度基本を押さえておきましょう。21ページの表は何度も見たことがありますね?」
学生たちは急いでそのページを開く。そこには一つの細胞から樹形図のように枝分かれしていき、やがて役割の違う別々の細胞に成長していく過程が描かれている。
「このように、赤血球も白血球も血小板も…すべては同じ造血幹細胞から分化します。幹細胞の持つ二つの特徴的な能力は憶えていますか?」
「自己再生能と分化能です」
目が合った井沢が答える。
「そうですね。これは大切だから絶対忘れないように。簡単にいえば、自己再生能とは何度でも再生できる能力、分化能とは色々な細胞に分化できる能力です」
ものすごいスピードでノートを取るまりか。その他の班員も各自教科書にマーカーでラインを引いている。ただし、向島だけは爆睡中。
「造血幹細胞は様々な因子の影響を受け、再生をくり返しながら、赤血球になるグループ、白血球になるグループ、血小板になるグループなどに分かれていくわけです。…ここまでで何か質問はありますか?」
みんなペンを止める。数秒おいて美唄が挙手した。
「先生、iPS細胞の話もこれと関係しますか?」
「よく勉強してますね。そう、iPS細胞は人工多能性幹細胞のことですから、まさに同じお話です。iPS細胞は人工的に造られた幹細胞、これをうまく分化誘導して色々な臓器の細胞に成長させることができれば、多くの難病に治療の可能性が出てきます。最近注目されている再生医療というものですね。私たちの分野だと、輸血に頼らなくてもiPS細胞から多量の血小板が造れるかもしれないと話題になってます」
「そうなんですか…」
美唄が興味深そうに頷く。
「他にも、神経内科の疾患、眼科の疾患など、多くの分野での応用が期待されています」
「神経や筋肉の変性疾患でも、治療できるようになるということですか?」
続いてまりかが質問。
「もちろんです。実用までにはまだ時間がかかるでしょうし、当然倫理的な問題も解決しなくてはなりませんが。でも、いつかきっと実現しますよ。白血病だって今や治せる時代なんですから、みなさんが私くらいの年齢になる頃にはもっと…」
そこで河野のPHSが鳴った。院内では医療機器への影響を考慮し、PHSの電話がスタッフに支給されている。
「はい、河野です。あ、わかりました…。では至急血液検査を出してください」
電話を切ると、河野は「ちょっとごめんなさい」と足早に部屋を出ていった。大学病院の医師は診療の合間に学生の相手をしている。急用で呼ばれれば中座することもしばしば。14班にとってももちろん初めてのことではなかった。
「遠藤さん、再生医療に興味あるの?」
学生だけになった部屋で同村が尋ねた。
「ちょこっとだけね。なんかこれからの医療かなって…。まりかちゃんも質問してたけど、興味あるの?」
「いや、これまで治せなかった難病が治せるなんてすごいなあって…」
「うんうん、そうだよね」
美唄を中心にしばし談笑が続いた。しかし三十分が経過しても河野は戻ってこない。徐々に話題も減っていく。
「先生遅いね。急患かなあ」
待ちぼうけの中、美唄が席を立ち、午前の陽光が差し込む窓辺に寄った。
「あ、キーヤンカレーが見える!あそこのカレーってメチャクチャおいしいんだって。ほらほら、まりかちゃん!」
呼ばれたまりかも教科書を置いて立ち上がる。
「へえ…そうなんだ」
「本当においしいらしいよ!今度みんなで行こうよ」
「ここから見えるんだな、キーヤンカレー。俺も一回行ったけどあれは感動するな」
と、長も女子二人のもとへ。それに続いて井沢も腰を上げる。
「俺も何度か先輩におごってもらいました。実は常連客だけの裏メニューもあるの知ってます?」
「え、そうなの?教えて井沢くん!」
「しょうがないなあ、では美唄ちゃんにだけ特別に教えてしんぜよう」
そんな彼の姿を同村はまたまた訝しげに見る。そして、窓辺の会話がどんなに盛り上がっていようと、彼は爆睡中の向島の隣に座り続けるのだった。
…意固地だねえ。

 翌日水曜日、教授回診。ドラマや映画でご存じの方も多いだろう、教授を筆頭とした大名行列が病棟を闊歩する例のあれだ。入院患者にはもちろんそれぞれに担当医がいるが、週に一回教授が全ての患者の現状を把握するためにこの儀式は執り行われる。ぞろぞろ医師や看護師が教授の後をついて歩く姿は、まさしく権威的。最新鋭の医療技術を有する大学病院、何故か白黒映画の頃と同じこの旧態依然の伝統が未だに受け継がれていたりする。
そんな中、ポリクリ生の指定席はもちろん大名行列の最後尾。14班の五人…誰がサボっているかはお察しください…も黙々とついて歩いていた。この位置では、教授の診察の様子などほとんど見えない。正直あまり勉強にはならないが、まあこれもまたポリクリの醍醐味。将来の職場体験だと思えばそれなりの意味はある。立ちっぱなしや歩きっぱなしはもう慣れっこだし、それに先頭にいる教授は学生の何十倍も大変なのだから文句が言えようはずもない。
白い大名行列は一部屋ずつ病室を訪ねていく。もちろん広い病室ばかりではない。小さな病室やベッドが一つしかない個室の場合は行列の先頭しか収まらず、溢れた者は廊下で立ちんぼ。
ある病室では、医局員と井沢が入ったところで部屋は満員となり、残りの学生四人は廊下に閉め出される形となった。井沢はふと振り返り、自分だけ飛び込んでしまったことに気付くと、おずおずと廊下に戻ってきた。そしてそんな姿にまたイラッとしてしまうのが同村。彼は井沢の代わりに病室へ飛び込んだ。
二人の様子に長と美唄が思わずアイコンタクト…「またこのパターンだな」「そうですね」ってところだろう。

…いかがですみなさん?同村と井沢の、些細だけど決定的な価値観の違いがおわかりですか?

 教授回診の後、午前の実習は終了と告知される。久しぶりにゆっくり昼休憩がもらえたので、彼らは病院食堂に向かった。20階のフロアの一部を占拠する巨大な食堂。利用できるのは病院スタッフと学生だけなので客の大半は白衣姿。一見コスプレカフェのようでもあるが、もちろんときめきの要素は一切なし。何人かで談笑している者もいれば、一人黙々とスプーンを口に運ぶ者、肩を落としてコーヒーの湯気を見つめている者もいれば、さあ食べようというところでPHSに呼び出され泣く泣く飛び出していく者…医療従事者の昼食風景はそれだけでも一見の価値があった。
彼らはちょうど六人掛けのテーブルが空いていたためそこを陣取ると、本来なら向島がいるはずの空席に荷物を置き、各自のランチを取りに行った。その最中も、井沢は多くの先輩医師や看護師から声をかけられ、その顔の広さを証明していた。
「パンパカパーン!」
全員が着席したところで、ハイテンション娘が口でファンファーレを放った。幸い周囲もそれなりに騒がしかったので大きくは目立たない。
「ではではここで、14班クイズでーす!」
「お、何打それ」
長が箸を割りながら反応する。続いてまりかも尋ねた。
「遠藤さん、また何か思いついたの?」
「もう、まりかちゃん、あたしのことは美唄でいいってば。一緒に冒険してる仲間なんだからさ」
ポリクリが冒険、というのも不思議な表現だ。病院では剖検することはあっても冒険することは基本的にございません。
「う、う~ん。わかった。じゃあ…美唄ちゃん」
「やったー!」
ついに才女の牙城が崩れる。少し恥ずかしそうなまりかに美唄は底抜けに嬉しそうな笑顔を向けた。二人しかいない女の子同士、仲が良いのは結構なこと。同村くんと井沢くんも見習いたまえ。
「それでねまりかちゃん、実はこの前すっごいことを発見しちゃってさ!…さあ、ここで問題です。14班のみんなが集まると、さてどうなるでしょう?」
「え、どういう意味?」
と、井沢。同村もカレーを口に運びながら言う。
「みんなが集まったらって…毎日集まってるじゃない。まあ向島さんは時々いないけど」
「みんなが一つになると何が起こるかって感じかな?まりかちゃん、わかる?」
「…何だろう?クイズとか苦手なの」
「わからないな…頭の固いおじさんはお手上げだよ」
長が早々に白旗。同村も目を閉じて考える。
「メンバーの頭文字だと…あ、い、え、ち、ど、む…並び換えて…う~ん、わからないな」
「あ、同村くん、ちょっとおしいかも!」
「え?う~ん…」
しばし食事を止めてのシンキングタイム。しかしこの漠然とし過ぎたクイズに秩序をもたらす神は降臨しない。
「全然わかんないよ、美唄ちゃん」
井沢も匙を投げる。いや、実際にはちゃんとスプーンは握っているけども。
「みんな降参?しょうがないなあ…」
得意げな出題者はにんまりと全員の顔を確認する。
「なら、答えは宿題でーす!」
「おお、気になる!今教えてよ」
「ダメですよ長さん、フフフ。…そうだ、いつか14班でパーティしましょうね!その時みんな揃ったら、そこで正解を発表します!」
美唄…君は究極のエンターテイナーだ。まあこのノリが時に疎まれてしまうのだが、ここにいる仲間たちは許容してくれている。むしろ、これまで同級生との語らいがほとんどなかった同村やまりかからすれば、彼女の無差別な明るさは感謝にも値する。
「う~ん、悔しいな」
井沢が頭をかく。
「それ、教授の口頭試問に出たらどうしよう」
まりかも冗談を言うようになった。そう、少なくともここでは『特待生』のレッテルを意識しなくてすむ。これまで常に最前列で授業を受けながらその背中に感じてきた冷たい視線。「すごいね」という言葉の裏にある「なにそんなに勉強ばっかやってんの」という軽蔑。もちろん医学部で毎年特待生というのは容易ではない。彼女も誇りに思っているし、彼女には彼女の勉強したい理由がある。それでも、偏った見方をされるのはやはり良い気はしなかった。その悩みがここにはないのだ。何しろ、特待生?それがどうしたってくらいの個性派揃いですから。彼女は居心地の良さを感じ始めている。自然と口数が増えるのも、「美唄ちゃん」と呼べたのもその証拠に違いない。
「このままじゃ悔しいから、今度は俺がクイズを出すよ」
同村が言った。彼もまた、4年生までの彼だったらけしてこんな言動はとらなかっただろう。
「お、同村もか。みんなすごいな。でも文学クイズは勘弁してくれよ」
長がおどける。この三ヶ月で少しずつそれぞれの距離が縮まりつつあるのは間違いない。美唄も「出して出して!」と笑顔100パーセントで大はしゃぎ。
「ではいきます。この14班の中で、逆立ちして淡路に行ったのは誰でしょう?」
「あ、逆立ちってことは、きっと逆から読むのね」
「さすが班長!」
同村は指をパチンと鳴らす。
「淡路…じわあ?淡路って言えば淡路島だから、…ましじわあ?あれ?あれれ?」
楽しそうに悩む美唄。「逆にしても誰の名前にもならないぞ」と井沢が口を尖らせ、長も「おいおいまた宿題かよ」と頭を抱えた。しかしここでまりかに勝利の女神が憑依。
「あ、わかった!答えは井沢くんね」
「え、俺?」
「そう、君だよ」
意外そうな顔の井沢に同村は微笑む。この二人…けして常時仲が悪いわけではない。14班においては唯一同い年の男同士、最も気兼ねない関係ともいえる。時に生じる不協和音も、距離が縮まったからこそなのかもしれない。
「井沢はローマ字でIZAWA、それを逆から読むとAWAZI…淡路」
井沢は目を閉じて上を向く。頭の中でローマ字を浮かべているようだ。
「本当だ、すっごい!」
美唄は実際に手帳を取り出し書いて確認している。ここまで喜んでもらえると、出題者冥利に尽きますね。
「へえ、ローマ字で逆から読めるなんて珍しいな」
長も感心しながら伸びかけのうどんをすする。
「そうでもないですよ、結構たくさん例はあります。例えば、このローマ字にして逆さ読みって方法で変換すると、『犬』は『ウニ』、『嘘』は『オス』になります。人の名前なら…『悦子』が『オクテ』、『赤野』が『お腹』とか。あとこの前地下鉄に乗ってて気付いたんですけど、『赤坂』は逆からでも『赤坂』…」
「わあ、魔法みたい!」
美唄が拍手。
「お前はローマ字研究家か?」
井沢が興味深そうに尋ねる。
「いや、そうじゃなくて…推理小説の暗号とかでよくあるんだよ。自分で書く時のために普段からアイデア探してるんだ。あ、だから秋月さんの『まりか』なら『アキラM』になる、とかね。使えそうなネタだろ?」
「へえ…」
呟く井沢。美唄が身を乗り出す。
「同村くん、また新しい小説書いてるの?」
「ああ、うん。でもポリクリのレポートで忙しいから、毎日二時間くらいかな」
彼は執筆の話だと子供のように嬉しそうな顔をする。
「そうなんだ、頑張ってるね」
「別に…ただ、好きだからさ。そういう君は家で何やってるの?」
「へへへ、実は最近ちょこっとずつギターを練習してるの。MJさんにお古もらったんだよね。ギター弾きながら歌えたらいいなと思ってさ。
じゃあ…長さんはお休みの時何してるんですか?」
「俺?俺は…そうだな、バイクのメンテナンスかな」
「なるほどなるほど。じゃあまりかちゃんは?」
「う~ん、…テレビゲームかな」
「お、意外!」
と、同村が合いの手。
「シューティングゲームとか結構好きなの。あとは…やっぱ勉強かな」
「さっすがまりかちゃん!それじゃ、井沢くんは?」
「お、俺は…」
美唄の興味津々な瞳に見つめられ、爽やか青年は戸惑った。もちろんお姫様抱っこもお手の物の井沢、けして彼女の可愛さにドギマギしたわけではない。
「俺は…テレビでドラマ見たりとか…あ、あとそう、サッカーの試合見たりとか」
「そっかあ、サッカー部だもんね、フンフン」
美唄は何かを納得したように大袈裟に頷く。そこでまりかが腕時計を見た。
「美唄ちゃん、お話もいいけど早く食べないと、次遅れちゃうよ」
「あ、本当だ。了解です、アキラM班長!」
笑いが起こる。ポリクリは日によっては昼休憩なしで食事もできない。たまにはこんなふうにゆっくりランチもよいものです。

 同日夜、井沢は西新宿にある老舗のフレンチレストランにいた。一日の予約は二組まで、一組の人数は十人までというとんでもない店。それでも経営が成り立っているということは…コース一人前のお値段はお察しください。彼が大病院の御曹司とはいえ、さすがに普段からこんな星が並ぶ店で夕食を楽しんでいるわけではない。本日は船医として働く叔父が数年ぶりに帰国したために催されたお食事会。上品な内装の洋間に白いテーブルクロスの大きなテーブル、それを程よく正装した親族が囲んでいる。
「大輝くんも立派になったね。今何年生だっけ?」
光るグラスで白ワインを揺らしながら本日の主役が言った。
「5年生でポリクリ回ってます。叔父さんもお元気そうですね」
「いや、ありがとう。ポリクリか…懐かしいなあ。どこの科を回ってるんだい?」
「今週は血液内科です」
「そうか。僕らの頃はそこまで内科が細分化されてなかった気がするなあ。実際にクランケを受け持ったりするのかい?」
「ちょっとお兄さん」
その質問には隣に座る井沢の父親が答えた。発声も姿勢も良い自信に満ちた人物。
「クランケなんて言っちゃ若者に笑われますよ。今はカルテだってちゃんと日本語で書くのが当たり前、僕らの頃みたいに無理してドイツ語を使わなくていいんです」
「すまんすまん、何せほとんど海の上にいるんでな、帰国する度に浦島太郎だ。そうか、日本語で書いていいのか。昔のカルテなんて蛇がのたくったような横文字ばかりで全然読めんかったからなあ」
その場にほのかな笑いが起こる。井沢も合わせて笑う。一口飲むと、また叔父の口から世界各国で見た文化の違い、医療の違い、船上の珍事件などが語られていく。品の良い笑いが絶え間なく漂うが、もちろん14班の昼食のように暴走したりはしゃいだりする者はいない。ふとそんな物足りなさを感じつつ、井沢も微笑みを保ち続けた。
ちなみに恐るべきことだが、このテーブルを囲む男女十人のうち、彼以外の全員が医師免許を有している。ある者は某病院の院長、ある者はその婦人や子息、またある者は某大学の理事、さらにある者は名刺を一度見ただけでは憶え切れない長い肩書のどこぞのセンター長。
気品に溢れる談笑の中、タキシードのギャルソンたちはそつなく料理を運び、皿を下げ、空いたグラスにワインを注いだ。中には皿の真ん中にビデオテープのツメほどの大きさしかない謎の料理もあったが、余裕に満ちた者たちはそれを美味しそうに口に運んでいた。
「それにしても、立派な後継ぎがいらっしゃってうらやましいですわ」
着物の婦人が、ナプキンを上品に口元に当てながら言った。
「ハハハ、何をおっしゃる。まだまだ免許もないただの学生です。それに僕もまだまだ現役ですからな、当分院長の椅子は譲りませんよ」
父親に背中を叩かれながら井沢はペコリと会釈。また笑いが生まれる。
「そんなご謙遜を。うちの娘なんて職場の看護師と結婚しちゃいまして、大学にも残らずのんびり町のクリニックで働いてるんですから、いい気なもんですわ。これじゃあ孫の顔もいつ見られるか」
「いいじゃありませんか。うちのせがれなんて、研究ばかりで滅多に顔も見せません」
「そういえば今度大学の同期が地元で県知事になりましてな。公立病院の機能を充実させたいと言うんで相談に乗ってるんですが…」
「南アメリカを回った時に見た病院のシステムがとても印象的でしたわ。ただ見習おうにも、日本人のメンタリティでは合わない部分があって…」
「若い医者はすぐに金持ちになりたいとか言う。しかし月にいくら稼いだら金持ちなんですかな?真の金持ちとは金だけじゃなく…」
「もっと医療にも独占禁止法の解釈を持ちこむべきなんです。日本の医療費がどこで消費されてるかご存じですか?うまく誤魔化されていますがね、実質は…」
医療、政治、経済、国際、人生論…と何やら高尚な話題が続く。適度に相槌を打ちながら、井沢はそっと腹部に手を当てた。
…腹減った、キーヤンカレーが食いてえ。
胸の内で呟くがもちろんおくびにも出さない。二十代の若者にとって、ビデオテープのツメではお腹は膨らまない。デザートのプリンにスプーンをつけながら、帰りにコンビニに寄ろうと決める井沢であった。

 その頃同村は、一人趣味の執筆にふけっていた。昼食の時に美唄に応援されたこともあってかいつも以上に筆が進む。本来は明日仮提出するレポートの作成をしなくてはいけないのだが、もう一章だけ、きりがいい箇所まで、と言い訳しながらすでに四時間近くパソコンに向かっている。…と、そこで部屋の電話が鳴った。
「もしもし。あ、父さん」
「遅くに悪いね。いや特に用事があるわけじゃないんだけど…どうしてるかと思って。どうだい、病院実習は?ポリポリとかいったっけ」
「ポリクリだよ父さん。うん…まあまあかな」
饒舌な父親に寡黙な息子。楽しそうな声に対して同村はお得意の相槌マシーンと化していた。
「まあ体だけには気を付けてね。昔から医者の不養生っていうから」
「まだ医者じゃないって」
「そうだった、父さんちょっと気が早かったな。ハハハ、じゃあおやすみ」
御機嫌な声が去る。同村は受話器を置くと、パソコンの前に戻った。そして小説のファイルを閉じると、ようやくレポートに取り掛かるのであった。

 翌日木曜日、15階カンファレンスルーム。六人は午前中に仮提出したレポートの評価を受けていた。担当は河野医師。
「基本的にはみなさんよく書けていました。特に井沢先生、よく質問に来ただけあって、大変きれいにまとまっています。明日までにもう少し文献を調べて書いてみてください」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
受け取りながら井沢は頭を下げる。その顔は完全にポリクリモード。昨夜は食事会があることを計算に入れ、事前にレポートを仕上げておいた技量はさすがの一言。
「あと、君、同村先生」
河野は少し神妙な顔で彼を見た。
「君は…何でしょうね、文章力があり過ぎるっていいますか、表現が豊か過ぎるっていいますか…」
同村は少し嬉しそうに「はい」と答える。
「いや、誉めているわけではありません。小説家になるわけじゃないんですから、すごい才能だとは思いますが、これはレポートです。感想のコーナーも…勝手に作ってるようですが、別に求めてないものをここまでたくさん書かなくても」
呆れ顔でレポートを手渡され、愚かな挑戦者は肩を落とすしかなかった。

 実習から解放された頃にはもう午後8時を回っていた。夜の学生ロビーに他の班の姿はない。
「遅くなりましたね。明日、直したレポートを提出して血液内科は終了です」
ソファに座ってまりかがいった。美唄も「了解です!」と相変わらずの疲れ知らずでピョンと着席。男性陣も続いて腰を下ろす。
「それにしても、相変わらずレポート挑戦してるな同村」
長が励ますが主人公は未だ消沈。
「まあまあ同村くん、河野先生はあんまり喜んでなかったけどさ…いいじゃない。時々すっごく誉めてくれる先生もいるんだし。あたしも毎回同村くんの感想コーナー読ませてもらうの楽しみだし、ね?ほら、エイエイオー!」
美唄からも小さなエールが贈られる。
「どうして形式どおりに書かないんだよ。先輩からもらった資料、渡しただろ?」
井沢が尋ねた。同村は数秒考えてから答える。
「なんていうか、それじゃダメっていうか…。この大学にいるとすごく感じるんだ。人と違うことをする勇気を忘れちゃいけないって」
まりかが小さく「そう…」と呟く。
「俺は、それを勇気とは思わないけどな」
井沢は手厳しい。また空気が淀みかけるが、長が「まあ人それぞれだからな」と和ませたところで、ふいに井沢の携帯電話が鳴る。もちろん院内では電源を切っているのだが、病院を出ると彼はすかさず電源を入れるようにしているらしい。
「ちょっとごめん。あ、もしもし?」
話しながら学生ロビーを出ていく。相手はサッカー部の仲間のようだ。
「あ、そうだそうだ。MJさん、ギター教えてくださいよ。どうやったら上達します?」
「ん?どの辺りを知りたいの?」
音楽部先輩は眠そうな瞳で美唄を見る。
「ええと、コードチェンジとかです」
「そんなの…本を見て押さえ方を憶えるしかないよ」
「え~?コツとかないんですか」
「そうだな…指の動きを必要最小限にすることかな。指をバタバタさせずに、そのままでいい指は指板から離さない。例えばCメジャーからAマイナーに行く時は人差し指と中指は共通だから動かさない」
得意げになる様子もなく答える。すると後輩は何やらイメージトレーニングを始めたようなので、代わって同村が会話を続けた。
「向島さんって、キーボード担当じゃなかったでしたっけ」
「あ、色々やるんだよ、僕。ドラムの時もあればベースの時もあるし、ボーカルも時々ね。一応自分ではピアニストのつもりなんだけど」
長が「すごいっすね」と驚くと、向島は今度は少し誇らしげに瞳を閉じた。
「MJさんはオリジナルの曲もたくさん作ってるのよ。全部の楽器を自分で演奏して、録音して、編集して…すっごくすごいんだから」
と、美唄。イメージトレーニングは終わったらしい。
「へえ、今度俺にも聴かせてくださいよ」
同村が身を乗り出しかけた時、井沢が戻ってきた。長が「おう、お疲れ」と彼を迎える。
「いや~友達が消化器外科回った時、オペ室の看護婦と仲良くなったらしくて、今日飲み会やってるんですよ」
「へえ、そりゃすごいな」
まりかは興味なさそうに手帳を開き、明日の予定に視線を落とした。
「さっすがサッカー部さん!モテモテね」
「そんなんじゃないよ、美唄ちゃん。まあ盛り上がってたら俺も行こうかと思ったんだけど…別にそうでもなさそうだから行くのやめようかなって」
長が「ありゃ、もったいない」と笑う。
「別にいいですよ。オペ看って、マスクで顔隠れてるから美人揃いに見えるけど、実際はそうでもないですから。それに盛り上がってもないのに、途中から行って看護婦なんかに金出すのも馬鹿らしいし…」
そこで井沢はあくびをしながら大きく伸びをする。
「看護婦なんか…?」
同村が重たくリピートした。こ、これは、まずいムードだ。徐々に強まる地響きのように、同村の身体が震え始める。
「ふざけんなよ!」
次の瞬間、彼は怒鳴って立ち上がった。それはまるで数百年眠っていた休火山の大噴火。無口な男の豹変にみんな驚いて彼を見る。
「お前、何様だよ!いつもいつも…そんな肩書きで人を判断しやがって!」
「何だと!」
井沢も声を荒げて立ちあがった。ま、まずいまずい!
「看護婦なんかとか…なんでそんなことが平気で言えるんだよ!サッカー部には看護学校の子だっていっぱいマネージャーやってるじゃないか。そんな、そんなふうに思ってるんなら…どうして笑顔で仲良くするんだよ!」
井沢は口をつぐんで瞳を逸らす。
「肩書きだけで言ったら、お前なんかただのレールに乗って生きてるだけの、世間知らずのボンボンだろうが!いつもいつも何なんだよ、お前は!俺たちはどうせ医者になるとか言いやがって、何だよ、どうせって?なに偉そうにあきらめてんだよ!お前は人に言われて医者になるのか?嫌々勉強してんのか?自分で…自分で、決めろよ!」
「どういう…意味だ?」
井沢は視線を戻し、静かに尋ねた。長はいつでも割って入るつもりで身構え、美唄は黙ったままうつむいている。まりかと向島は揃って虚空を仰いでいる。
「お前は…いつも周りを見て動いてる!いつも大多数の方に入ろうとしてる!過半数が立ち上がるまでお前は座ってるし、過半数が座ったままなら立ち上がらない!…お前の、お前自身の考えはどこにあるんだよ!なあ、お前が正しいと思ってることは何なんだ?お前の意志はどこにあるんだ?
さっきの飲み会の電話だってそうだろ、盛り上がってなかったら行かないのかよ!どうしていつもアタリの方を選ぼうとするんだよ!ハズレがそんなに悪いのかよ!」
「ふざけんな!」
今度は井沢が怒声を放つ。
「勝手に人を判断すんな!お前はどれだけ考えてるっていうんだよ!お前だって現役で私立の医大にいる世間知らずだろうが!何がみんなと違うことをする勇気だよ、ただ人付き合いが下手なだけなのに、自分は人と違うってカッコつけてるだけだろ。
勝手なレポート書いて、大学を批判してりゃ考えてることになんのかよ?そんなのただの天邪鬼だ!お前こそ、みんなと違うようにするってことばかり意識して、結局周りに左右されてんだよ!」
今度は同村が唇を噛んで瞳を逸らす。
「何が感想コーナーだよ。結局自分の我儘を通してるだけだろ?そんなの誰も望んでねえんだよ!自己満足なんだよ!
いいか、病院は組織なんだ。医療はチームでやるんだよ。みんなと違うことしたいんだろ、だったらこんな所にいられちゃ迷惑だ。大学やめろよ。医学部はおかしいって叫んで出ていけよ。どうせ誰も応援しないだろうけどよ」
「わかった、そうしてやるよ!」
「もうやめて!」
最後の言葉を遮るように美唄が叫んだ。争う二人は揃って黙る。
…ついに割ってしまった。これまでそっとそっと運んできたガラス細工を。
立ちつくす二人。静寂が降りてくる。普段意識しない自動販売機のうなり声だけが無機質に聞こえている。

…パン!

まりかが大きな音で手帳を閉じた。
「ではみなさん、明日は8時にここに集合です。レポートの手直しを忘れずに。はい、お疲れ様でした」
彼女はさっさと腰を上げ足早に歩き出す。それに続くように、みんな無言のまま学生ロビーを出て行った…ただ一人、同村だけを残して。
彼は、出て行く美唄のかすかな泣き声を聞いたような気がした。

 それから二時間。同村はまだ孤独な学生ロビーに座っている。彼は考え続けていた。何度も何度も、井沢の言葉を頭の中でくり返しながら…。
井沢が言ったことは…当たっているのかもしれない。
俺は自分を証明したくてあいつを否定しようとしていただけなのかもしれない。医学部の在り方を批判しても、独自のレポートを書いても、結局それはただそれだけ…何の結果も出せていない。何も、変えられていない。そんな自分自身に…一番イラついていたのかもしれない。
…最低だ、俺は。
堰を切ったように感情を吐き出して空っぽになった心。そこに後悔と自己嫌悪がじんわり染み出してくる。彼は打ちのめされたボクサーの如く、ただその場に脱力していた。
何となく携帯電話の電源を入れてみる。誰からの着信もない。大きく息を吐く。そしてポケットに戻そうとしたところで、その手の中の物体は振動した。力なくその画面を見る…長だった。
「…もしもし」
「おう同村、もしかしてまだ学ロビかな?」
長の声はいつものように明るい。
「はい。あの、さっきは、すいませんでした」
「いいってことよ。若いなあ、うらやましいよ。昔は俺もよく夕焼けの河原で殴り合ったもんさ…ってそれは冗談だけど。でもお互い言いたいこと言って、色々気付いたんじゃないか?ずっとグズグズくすぶってるより、一度ドカンと爆発させた方がスカッとするさ。
大丈夫だって、俺、こんな話が出来るのってすごいと思うよ。本当に相手のことがどうでもよかったら、あんな喧嘩にはならないもんな」
「…ありがとうございます」
「確かに井沢は、同村の言うような所がある。でもな、あいつみたいな奴がいてくれないとみんな困る。医者がブラック・ジャックやパッチ・アダムスだらけだったら、大学病院は崩壊だ、ハハハ」
「そう…ですね、ハハ」
同村も無理に笑う。
「それにな、前に井沢と話したことあるんだけど、あいつ、両親だけじゃなくて叔父さんも叔母さんも従兄弟も…親戚が医者だらけらしいんだ。しかも親父さんは明治から続く産婦人科病院の院長。あいつも将来その病院を継がなくちゃいけないんだって。自慢話みたいに言ってたけど、俺にはちょっと哀しそうに見えたな。
そんな環境にずっといたら…洗脳とまでは言わないけど、あいつが医学部に進んだのも、まあ無理もない話じゃないかな。それを否定しちゃ…酷だよ」
「…はい」
「そうそう。それに4月のポリクリで聞いただろ?産婦人科医はずっと病院の近くにいなくちゃいけない。井沢も子供の頃から家族で旅行なんかしたことないって言ってた。たまに日帰りで出掛けても、親父さんだけ呼ばれて途中で帰っちゃったりしてな。
金持ちで世間知らずな所もあるけど…だからって、井沢が楽だけして生きてきたわけじゃない。苦労を知らないわけじゃないと俺は思う」
同村の父は自営業。思えば、朝食も昼食も夕食も、いつも一緒だった。年に一度は家族旅行もしたし、よく二人で映画や本屋に出掛けたりもした。それが当たり前だった。
「俺さ…」
長の声が僅かに沈む。
「ずっと好き勝手やってる時間が長かったじゃないか。親に苦労かけっぱなしでな…未だにスネかじりで、申しわけないんだよ。だから…親の期待にちゃんと応えて生きてる井沢が、俺は立派だなって思うんだよ」
「そうですね…」
同村は素直に頷く。彼もまた親に対して罪悪感を抱いていた。
自分が医学部に受かった時の父の言葉…「人生で一番嬉しいよ」。それは消えないナイフとなって胸の奥に今も痛みを与え続けている。同村からすれば、もっと喜んでほしかったこと、もっと褒めてほしかったことは他にたくさんあった。でも、同村が小説を投稿して佳作になった時よりも、仲間と同人誌を発刊した時よりも、父親は息子の医学部合格を喜んだのだ。
…父さんは俺が医者になるのを楽しみにしてる。毎年高い学費を出してくれている。それなのに俺は…。ごめん、父さん。
「ハハハ、な~んてな、キャラじゃないか。今夜はおセンチおじさんでした」
おどけた長の声で同村は我に返る。
「まあ話はそんなとこ。じゃあ同村、気を付けて帰れよ」
「はい、ありがとうございました」
照れ笑いの長に心からの感謝を伝える。
「ホイホイ、また明日な」
電話は陽気に切れた。
同村はしばらくそのまま文明の利器を握り締めていた。

グッジョブ、副班長!さすがは年の功!…ってこりゃ失敬。

 井沢は自室でパソコンに向かっていた。新宿で3LDKのマンション、一人で暮らすにはあまりにも広い。黙々とレポートの直しをしながら彼も考えていた。同村の言葉が頭から離れない。
…痛い所を突かれた。それがまずは正直な思い。
自分でもわかっていた。俺は調子に乗っていた。留年した同級生、看護師…もともと見下してなんかいなかった。そんな話に合わせてるうちに…癖になってしまったんだ。
俺の言動は全部受け売り。俺自身の意見とか考えとか…そんなものは皆無。
俺には、実習をサボって音楽に明け暮れる向島さんも、5年生になってギターを始める美唄ちゃんも、この忙しいさなか小説を書く同村も…理解できない。
みんながそんなことをする理由はただ一つ…『好きだから』、それだけだ。好きだから、どんな状況でもそれをやるし、それを面倒臭いとも思わない。損得なんて関係ない。
俺には…そこまで好きなものがない。休みの日があっても、何をしようか考えてしまう。だから、昨日の昼食の会話の時、正直みんながうらやましかった。好きなものを堂々と答えることが出来るみんなが。サッカー部だって、この大学で一番盛り上がってるというから入った。この大学の勝ち組になれると言われて…。
俺はいつから医者になろうと思っていたんだろう。物心ついた頃からそう思っていたような気がする。小学校・中学校・高校…自分は医者になることを前提に過ごしていた。白紙の未来などなく、いつもはっきり将来は描かれていた。だから、何かに純粋に夢中になったことなんて…なかったのかもしれない。
俺はそのことを考えないようにしていた。今までの人生、取り返しのつかない過ちだと思いたくなかった。自分で動かなければ手に入らない幸せが世界にはたくさんあって、自分はそのチャンスを全部見過ごしてきたなんて…考えたくない!

小学校の時、将来の夢を書く宿題ではお医者さんと書いて両親を喜ばせた。そう書けば喜ぶことを俺は知っていたし、俺も喜ばせるのが嬉しかった。放課後はみんなが遊びに行くのに参加せず塾に通った。塾のテストに比べたら小学校のテストなんてお遊びの例題レベルで、当然俺はいつも100点。こんなテストで低い点数しか取れない同級生をどこかできっと馬鹿にしていた。
そして中高一貫の進学校へ。気付けば受験し、気付けば合格し、気付けば入学手続きがされていた。同級生が目指すのはみんな一流と呼ばれる大学ばかり。学園祭より、修学旅行より、何より受験のための勉強に重きが置かれたカリキュラム。そして俺はそれをこなし、現役で医学部に進学した…。
20歳の頃だったか、久しぶりに同窓会で小学校時代の仲間と会った。みんな小学校を卒業した後も同じ中学に進み、高校に進み、たくさんの思い出を共有していた。もう就職して働いている奴もいれば、早々に家業を継いで若き店主になってる奴までいた。役者とか作家とかの夢を追いかけてる奴もいて、それが当たり前で、そんなお互いを励まし合いながら同じ町内で暮らしていた。中学から一人遠方の私立へ行った俺には…もうそこに居場所はなかった。それでも、それでも俺はみんなよりすごい道を進んでるんだと自分に言い聞かせていた。

でも…医者になるのが俺の夢だったか?
もちろん、夢を追えば幸せな人生だなんて思わない。夢だけでは生きていけない。夢が叶う人なんてほとんどいやしない。
でも、俺は…夢が見つけられなかった?違う、夢を探してもこなかった。
全てが当たり前過ぎたのだ。塾に行くのも当たり前、成績が良いのも当たり前、大学へ行くのも当たり前、医学部を選ぶのも当たり前、そのまま医者になるのも当たり前…。
「くそっ!」
心の底から叫ぶ。いつしかパソコンを打つ手は止まっていた。
畜生、このレポートだって、俺は先生から気に入られるように書いている。先輩からもらった情報で、評価された人のを真似て書いている。この大学に入ってからずっとそう、いつしかそれも癖になってしまった。
俺は、みんなと違ってしまうのが何より怖いくせに、どこかでみんなを出し抜こうとしている。みんなに内緒で河野先生に質問に行ったりもした。
…最低だ、俺は。
同村は自分の思うようなレポートを書いて、よく怒られてもいるが、逆にすごく誉められている時もある。俺とは違い、ありのままの自分で先生に気に入られている。
俺は間違っていたのか?俺は空っぽの人間なのか?俺の人生を生きているのは、一体誰なんだ?
クソ、クソ、同村の言うとおりだよ!
そこで井沢は、キーボードにIZAWAと打った。
「井沢…淡路、か」
誰よりもこの名前を見てきたのに、俺はこんなこと、考え付きもしなかった。こんなクイズができるなんて…。きっと俺の知らない幸せがたくさんあるんだろうな。見過ごしてきた人生の楽しみがたくさんあったんだろうな。劣等感というものをここまで感じたのは初めてだ。
なあ井沢大輝、お前は、医者になるために生まれてきたのか?最初からそのことが決まっていたのか?どうしようもなかったのか?
ふいに部屋の電話が鳴る。彼は椅子に座ったまま手を伸ばした。
「はい、あ…母さん」
「もしもし大輝、夕べはお疲れ様。叔父さんも喜んでらしてよかったわね。
今少し大丈夫?あのね、今度の日曜、こっちに帰って来れるかしら。父さんのお世話になった先生が春に教授を退官されてね、そのお祝いにホームパーティするの。色々な先生が来られるから、大輝も顔を出しておいた方がいいって父さんが…」
「ああ、わかった、帰るよ」
「どうしたの大輝、元気ないわね」
「母さん、あのさ…」
言いかけた言葉を飲み込んで、井沢は「そんなことないよ」と無理に微笑む。相手に見えるはずもないのに…これも彼の悲しい癖。
「ちょっと疲れてるだけ。それじゃ母さん、ポリクリのレポートがあるから」
受話器を置くと、机に向き直る。そして大きく息を吐く。

…その時、パソコンの横に広げた教科書が目に入る。河野医師がクルズスで説明していた、造血幹細胞の分化の図だ。
「幹細胞…」
思わずそう呟く。そしてその図から瞳が逸らせない。
井沢の頭の中で、何かが繋がろうとしていた。
似てる…この図、人間の人生にそっくりだ。
最初は何にでもなれる幹細胞、それが色々な因子の影響を受け、いつしか道が分かれ、あるものは赤血球に、あるものは白血球に、あるものは血小板に…。
そうだ、そうだよ…!
「ハ、ハハハハ…」
この部屋に住んで五年、初めて彼は一人で大笑いした。心の中で何かが繋がり、何かがふっ切れた。
…そうだよ。自己再生能と分化能が肝細胞の二大特徴。人間だって幹細胞からできてるんだ。親父の病院でみたたくさんの赤ちゃんはみんなそうだ。運命なんか決まっちゃいない。俺だって、医者にしかなれないと決まって生まれたわけじゃない。最初は、幹細胞だったんだ。そうだ、そうだよ…。まだ、分化は終わっちゃいない。まだ俺は再生できる。人生が一本道だなんて…何を思い込んでいたんだ、俺は!
「ハ、ハハハハ…!」
爽やか青年は、彼に似合わない下品な顔で、ひたすら笑い続けるのだった。

どうやら同村だけではなかったようだ。彼の胸にもまた、毎日少しずつ少しずつ積もるモヤモヤがあったのだ。そして今、それを撒き散らすように彼は高らかに笑っている。
そうだよ、井沢くん。君だけじゃない。君たちはまだまだ、無限の可能性を秘めている。そうでなくてはこの物語も困ります。

 午後10時を過ぎ、同村はようやく病院の敷地を出た。するとそこで「やあこんばんは」と声をかけられた。
「あ、鮫島先生。お疲れ様です」
産婦人科でお世話になった指導医だ。私服姿だが、どうやら病院の敷地に戻ってきたところらしい。
「お久しぶりです。まだお仕事ですか?」
「夜中に生まれそうな妊婦がいてね、急いで飯だけ食ってきたんだ。そっちこそこんな遅くまでポリクリかい?」
「いえ、勝手に残ってただけで…」
「そうかい。そうそう、君のレポート、僕も読んだよ。志田先生に見せられてね」
「は、はい…勝手な内容ですいません」
「何を言ってんの、あんなふうにいろんなこと考えて実習に臨んでくれていると思うとこっちも指導し甲斐があるよ」
鮫島は大きく笑う。白衣姿ではないせいか、病棟で会った時よりどこか気安い。
「ありゃ、なんか元気ないな。今はどこ回ってるの?」
「血液内科です」
「じゃあひょっとして河野先生に怒られたか?あの人は融通がきかないからな、ハハハ」
「あの、チーム医療で足並みを揃えない人がいたら…やっぱり迷惑ですよね」
同村は思わず尋ねた。
「そりゃまあね。でもチームメイトがみんな同じ個性がいいってわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「当り前さ。色んな人がいるから色んな患者に対処できるんだ。俺みたいな能天気もいれば、河野先生みたいな堅物もいる。それぞれの個性があるから得意技も違う。それでこそのチーム医療さ。血液内科で勉強したろ?血中には色々な血球があって、それぞれの役割があって、それで人間の命は保たれてる。それと同じだよ」
鮫島は全てを察したように同村の肩をポンと叩く。
「君が将来、病院の中でどんな役割を担うのか…楽しみにしているよ。だから遠慮せずレポート書け、そしてどんどん怒られろ。刺激がないと成長しないぞ!」
そう言うと鮫島は笑いながら去っていった。
一礼すると、同村はそのまま大通りに出て歩道橋を上る。夜の新宿、彼の下には何台もの車が列をなす。足を止めてしばしその光景に心を預けた。
左車線には車の赤いテールライトがいくつも流れていき、右車線には黄色いヘッドライトがいくつも流れてくる。
「まるで…赤血球と白血球だ」
思わず呟く。心の底から不思議な元気が湧いてくる。
「それぞれに役割がある…か、そうだよな。よし、帰ってレポートまとめるぞ。感想コーナーももちろん書くぞ、書きまくるぞ、うおお~!」
誰にでもなく宣言し、愚かな男は駆け出した。

この大都会にはいくつもの血球が泳いでいる。それぞれの個性とそれぞれの役割を担って。みんな違うからこの社会は回っている。そう、医者になるつもりがなく医学部にいる突然変異の細胞にも…きっと存在する意味があるのだ。そして忘れてはならない。それらはみな同じものから生まれたのだということを。

 翌朝金曜日、14班は六人ばっちり学生ロビーに集合した。
同村の第一声は、「昨日はごめん、井沢」。井沢も「いや、俺も言い過ぎた、ごめんな」と笑った。
「井沢、今度レポートのデータのまとめ方、教えてくれよ。どうも数値を整理するの苦手でさあ」
「いいぜ。じゃあ代わりに俺に面白い推理小説教えてくんない?」
そんな二人のやりとりを見ながら、美唄と長はアイコンタクトで微笑む。そして美唄はこっそり仲直り記念のツーショット写真をデジカメに収めた。
「みなさんレポートできてますね。では、行きましょう」
まりかが歩き出す。みんなもそれに続く。
「ところで感想コーナーはまた書いたのか?」
井沢が尋ねる。同村は力を込めて「もちろん」と返した。
「やるなあ。でも、昨日俺も幹細胞の図で面白い発見したんだ」
「実は俺も、昨日歩道橋で思い付いたことがある」
「じゃあ、今日もお昼はみんなでクイズ大会ね!」
美唄も会話に飛び込んだ。音楽部先輩も優しい瞳でそれを見ている。
「よーし、今日も元気に頑張ろう!エイエイオー!エイエイオーイエー!」
彼女の調子はずれのエールが今朝はなんだか心地良い。

まあ何はともあれ、一応めでたしめでたし…かな?
これからも頑張ってくれたまえ、幹細胞諸君!

7月、耳鼻咽喉科編に続く!