6
一夜が明けた。そして迎える土曜日、ポリクリ発表会の当日である。
冬の弱い陽光が降る午前10時、がらんと静まり返る大学の図書館で一人の男が自習に勤しんでいた。今日も頭にポマードたっぷりのクラス委員・北里である。彼はまるで何かを振り払うかのように、歯を食いしばって机上の問題集に向かっていた。
「ああいたいた、ホックリーくん!」
場違いな明るい声を背中に受けてペンが止まる。頬を緩めて振り返ると、美唄がピョコンと本棚の陰から姿を見せた。
「遠藤さんか。ダメだよ、今は俺しかいないけど図書館で大きな声出しちゃ」
「勉強の邪魔してごめんね」
小走りにそばまで来た彼女に、北里は怪訝な顔で尋ねる。
「…何か用かな?」
「あのね、一つだけお願いがあるの」
口元は笑っていたが彼女の瞳は真剣だった。
「今日のポリクリ発表会なんだけどさ、発表の順番、あたしたちの班を一番最後にしてくれないかな?ほら、ホックリーくんってそういう調整やってるでしょ」
「え、順番を?でももうプログラムは学務課に渡してあるからなあ。一体どうして?」
「ちょこっと長引いちゃうかもしれないから」
「でも時間オーバーすると減点になるよ」
「わかった、気を付けるね。だけどお願い!どうしても最後がいいの」
両手を合わせておがむ美唄に、北里は困った顔で視線を逸らす。
「そう言われてもなあ…」
暗に告げられる答えはノー。相手がいくらアイドル級の可愛さでも、それでほいほい言うことを聞いていては大学との調整役は務まらない。しばし無言の空気が流れる。
美唄は頭を上げ、意を決したようにポケットから一枚の写真を取り出した。横目でそれを見た彼の顔色が変わる。
「お願い、協力してほしいの」
7
同日午後、ポリクリ発表会の幕が切られた。前回と同じく会場は教育棟4階の階段教室、最前列には各科の教授陣が顔を揃え、その後ろに白衣姿の同級生たちが着席。落とされた照明の中、これまた前回同様に発表者以外の学生は試験勉強の内職に励んでいる。
「以上が、僕たち17班が脳神経外科で経験した症例から学んだことです。ご清聴ありがとうございました」
「はい、ありがとうございました。ではここから質疑応答に移ります。どなたか質問はありますか?」
司会進行は本日も学務課の喜多村。棒読みの発表に続き、予定調和の質問者が挙手、待ってましたと用意された回答が返されていく。そんな儀式がくり返されて数時間、いよいよ最後の班の順番が巡ってくる。
「では14班のみなさん、お願いします」
席を立った五人…同村、美唄、井沢、長、そして向島は、無言のまま正面の教壇に上がった。
「ではお願いします」
「あの、喜多村さんすいません。もう一つ発表に必要なものがあるので準備して構いませんか?」
同村が小声で尋ねた。
「え?では早くしてください」
そこで「ほいきた」と井沢と長が動き、教室の隅に置かれた大きなダンボール箱をえっさほいさと運んでくる。そんな様子に同級生たちもちらほら内職の手を止め始めた。
「何です?診察練習用のマネキンですか?」
「いいえ、もっと重要なものです」
答えながら同村がその箱を開くと、中から白衣姿のまりかが現れた。彼女はそのまま壇上に立つ。場違いなマジックショーにざわめき始める会場、六人は黙って頷き合うと、まるで何かの授賞式のように横一列に整列した。ちょうど教授陣と相対する形である。
「ちょっと、どういうことですか」
喜多村が駆け寄るが、同村は間髪入れずに切り出した。
「発表を始める前にみなさんにお願いがあります。どうか六人全員でこの場に参加させてください。現在秋月さんは事情で謹慎となっていますが…僕たちはこの一年、この六人で実習を回ったんです。どうか班員全員でポリクリの発表させてください」
揃って背筋を正すと、六人は同時に「お願いします」と頭を下げた。
「ちょっと君たち、勝手なことはやめなさい」
喜多村が慌てた様子で叱責するが、彼らは頭を下げたまま動こうとしない。
「どうか、お願いします」
くり返す同村。会場のざわめきがどよめきに変わっていく。
「そんなことは認められません。言ったでしょう、君たち学生は大学の決めたルールに従いなさいと」
「…待ってください、喜多村さん」
教授陣の真ん中に座る人物がそっと口を開いた。それは満を持しての再登場。耳鼻咽喉科の長にして、学生たちの命運を握る学生部長…閻魔こと瀬山教授その人である。感情のない静かな声が放たれた瞬間、ミュートボタンを押したかのように会場のどよめきは立ち消えた。
「頭を上げてください」
その声はさらに壇上の六人に告げた。応じる14班メンバー。教授はその顔を順にじっくり見る…誰も視線を逸らさない。
「彼らも考えがあってのことのようですし、別に病棟に上がるわけではないですから…どうでしょう?秋月先生も参加されてよろしいのではありませんかね。いかがでしょう先生方」
教授陣の何人かが頷き、何人かは無反応。少なくとも明らかな異議を申し立てる者はいない。瀬山はそれを確認してから「そのままどうぞ」と同村に促した。
「ありがとうございます」
六人はまた合わせて一礼。喜多村は不愉快そうに脇に引っ込む。
「よし、戦闘配置」
小声で同村が合図して彼らは壇上に散る。まずスクリーン右に同村が立ち、その隣に向島がノートパソコンを操作する形で座る。残る四人はスクリーン左側に待機。一体何が始まるんだ…と、同級生たちがまたざわめきを強めてくる中、向島が素早くパソコンの設定を終えて「OKだ同村くん、しっかりね」とウインクした。深く頷いて同村はマイクを手にする。
「それでは始めます」
彼の宣言と同時に向島がパソコンのキーを叩く。スクリーンに太く大きな文字で演題が映し出された。
「予定を変更しまして、14班の発表テーマは、『この一年で感じた医学部教育の問題点とその改善案』です」
さあ…ぶちかましてやれ、開戦だ!
*
「まず基本的なことを押さえましょう。ここはすずらん医科大学、そこで学ぶ僕たちは医学生です」
こいつら何を考えてんだ…そんな不穏な空気の中、同村が平然と話し始める。スクリーンには『大学とは?学生とは?』と表示される。
「言葉の定義を確認します。小学校から高校までは、そこで学ぶ者を『生徒』と呼びます。一方、大学で学ぶ物は『学生』と呼ばれます。生徒と学生、この違いは何でしょうか?
実は、高校までの勉強と大学での勉強は大きく違います。高校までは教科書に書かれた正解を頭に入れることがまず第一…それをするのが生徒です。でも大学からは違う、何が正解かを自分で考えなくてはいけない」
一年前まで無口で特定の友人としか会話も交わさなかった男が、今は壇上に立ち謎の演説をしている…同級生たちにとっては、この構図だけでもかなりのインパクトだったに違いない。「あいつの声を初めて聞いたぞ」、「こんなキャラだったのか」と囁き合う者までいる始末。
「教科書に載っているから正解とは限らない、論文に書いてあるから正解とは限らない。何が正解かを見極める力を養いながら、自分で学問を探求する場所…それが大学であり、それをする者こそが学生なのです。すずらん医大も当然大学であり、そこで学ぶ僕たちは…先ほど喜多村さんもおっしゃいましたが、もちろん学生のはずです。にもかかわらず…」
スクリーンには『医学部の現状』と表示。
「自分で学問を探求する場所とはお世辞にも言いがたい。大学から提示される正解をひたすら受け入れるだけ…これでは学生ではなく生徒です。しかも勉強の動機は医者になることであり、学問への探求心ではない」
スクリーンにはさらに『医大は大学ではない』の文字が加わる。
「医大は大学ではなく、実質的に医者養成の専門学校である…もっといえば国家試験の予備校である。これはよく言われていることですよね?仮にも大学がこれでよいのでしょうか?」
そこで同村は教室内をぐるりと見回した。
「例えばこの発表会だって…何人の学生が真剣にやっていますか?形だけの発表と質疑応答をして、あとはみんな聞かずに試験勉強。これが大学ですか?これが学問の探求ですか?これが学生のあるべき姿ですか?」
慌てて教科書や問題集を隠す音。教授陣の何人かが振り返った。そして会場からは当然冷たい視線が注がれる。…おいおい同村、君はさらに敵を増やすつもりか?
「まあそれも、来月の進級試験のことを考えれば仕方ないですよね。誰だって留年はしたくない。でもそもそも…どうして今年度の進級が試験で決まってしまうのでしょう。5年生はポリクリの一年だったのに、これでは実習よりも問題集を頑張れってことになりませんか?」
一息ついてさらに彼は続ける。
「学問の探求ができない以上、確かに学生の勉学意慾を維持するには進級を狭めて危機感をあおるしかない。しかしその結果何が起こっているかわかりますか?それは…人間性の喪失です」
「おい、君!」
耐えかねた喜多村が割り込もうとしたが、瀬山が無言の目でそれを制する。閻魔は無表情のまま、同村に「続けて」とだけ告げた。
「はい。人間を育てるという意味では…ここは最悪の環境です。ひいてはそのことが医者を育てるという点でも悪影響を及ぼしています」
いつしか会場はまた静まり返っている。喜多村だけではない、同級生たちも呆気に取られていた。何たる愚考、何たる無謀…錚々たる教授陣を相手に、ただの医学生が医学部の在り方を説いているのだ。身の程知らずもはなはだしい。
それでも同村は続ける。彼は言った…ただでさえ世間知らずが多いのにこの環境では自分で考える力を失ってしまうと。留年しない秘訣は大多数と同じ勉強をすること、失敗しない秘訣はみんなと同じであること…そればかりが身について、個性や人間性がどんどん削がれていくと。入学以降ずっと感じてきた違和感を、葛藤を、戸惑いを…彼は言葉に変えて紡いでいく。
この暴挙ともとれる訴えがかろうじてでもこの場に許容されたのは、その語りが礼節を守り、あまりに流暢だったからだろう。感情任せの暴言ではなく、それは考え抜かれ何度も練り直され研ぎ澄まされた言葉たちだった。
「先生方はご存じですか?進級のために裏でどんなに汚いことが起きているかを。特定の人間にしか試験情報を伝えなかったり、試験資料を隠したり盗んだり…人を救わなくちゃいけない医者が、こんな貧しい心になってよいのでしょうか?
レポートもそうです。みんな同じ形式、同じ絞殺で同じ結論。先生方は採点していておかしいとお感じになられませんでしたか?これだけの人数がいて、十人十色の考察がないのは異常だと思われませんでしたか?千差万別の患者に対応していくはずの医者が、こんな偏った思考回路になってよいのでしょうか?」
疑問は医学生たちに、そしてかつて医学生だった教授たちに投げかけられる。同村がまたぐるりと会場を見回した。
「どうしてこんなおかしなことになっているのでしょうか。一体何が原因なんでしょうか?みなさんはおわかりになりますか?」
誰も何も返さない。
「僕たちは気付きました。ここには…病気が蔓延しているんです。僕たちはみんな病気に冒されている!」
重たい声が室内に響いた。会場が僅かにざわめく。教授陣の何人かも顔を見合わせている。もはや内職や居眠りをしている学生など一人もいない。
「僕たちはこの病気を医学部シンドロームと名付けました」
大真面目な口調とセリフのアンバランスがおかしかったのか、ざわめきの中にいくつかの笑いが混じった。向島がパソコンを操作し、スクリーンにはその世紀の奇病の名称がでかでかと表示、書き添えられた『*WHO非公認疾患』の文字にまた少し会場の笑いが多くなる。教授陣の中には面白がっている者もいれば不愉快そうな者もいたが、瀬山は変わらずこけしのように表情のないままだった。
同村がマイクを下ろしてちらりと井沢を見る。彼は不安そうに腕時計を確認、隣で長も「大丈夫かな」と漏らしたが…その次の瞬間、入り口のドアがノックされた。
「失礼致します」
堂々と入って来たのは精神科の比賀講師だった。続いて産婦人科の鮫島、耳鼻咽喉科の清水、緩和ケア科の幕羽、救命救急センターの藤原、神経内科の原田…などなど、さすがに全ての科というわけではなかったが、この一年でポリクリの学生指導に当たった医師たち十名弱が白衣をまとって姿を現したのだ。それを見て井沢はそっと胸を撫で下ろす。
「突然申し訳ありません」
闖入者に困惑の視線が集まる中、一礼してから代表で比賀が説明した。
「学生が実習中に新しい病気を発見したと聞きまして。本当だとしたらとんでもないことですから、彼らを指導した者として確認しないわけにはいきません。それでこうやってお邪魔することにしました。無論、我々は傍聴するだけで一切口を挟みませんし、存在は無視していただいて結構です。
ただもしこれが学生の悪ふざけなら…容赦もしません」
そのひどく落ち着いた冷たい声に会場の学生たちは静まる。他の指導医たちも、にこりともせず黙って頷く…みんな同じ考えということだろう。教授陣も特に何の咎めも返さなかった。
「続けます」
壇上の同村が再びマイクを上げて言う。会場の視線の矛先も彼に戻る。指導医たちは静かに移動して立ったまま奥の壁際に並んだ。
「それでは医学部シンドロームとはどのような病気なのか…」
スクリーンには『事例検討』。
「ここからは実際に罹患した患者の事例から考察していきます」
8
「最初の事例はDさん、23歳男性です」
同村が始めた。スクリーンにはDさんの経歴が表示される。医学関連の学会では、このように患者の生活歴と共に症状経過を紹介するのが通例である。
「多くの文芸作品に触れて人間というものに興味を抱いたこの患者は、高校3年生の時、純粋に…いや単純に、医学を学んでみたいと考え進路に医学部を選択しました。しかし実際に目にした医学部は医者になることを前提とした場所であり、自由に医学を学ぶ場所ではありませんでした。医者になる覚悟なんてしていなかったこの患者は、居心地の悪さを感じながら、それでも結局周囲に流されながら…医学生を続けてきました。
その結果、5年生になった今も将来医者になるかどうかを迷い続けています」
まあDさんの正体については…ここまでこの物語を読んでくださった方には言うまでもないだろう。
「みなさんいかがですか?医学部に入った後で、自分は医者に向いていない科もしれない、このまま医者になって大丈夫だろうかと不安を感じた方はおられませんか?一人もいないはずはない、きっとたくさんおられたはずです。ではどうしてそこで人生の路線変更を考えないのでしょうか?別の道に進む人が誰もいないのでしょうか?
Dさんはそれ以外の道がないからだと思いました。医学部に入ったらもう医者への一本道しかない。この25メートルプールに飛び込んでしまったら、溺れかけても向こう岸まで泳ぎ切る以外にプールから上がる方法はないんだと。
でも…冷静に考えればそんなことはありません。プールサイドからひょいと陸に上がればいい。医学生にはどうしてそれが思い付けないのか?実はこれが医学部シンドロームの症状だったんです。Dさんも知らないうちに罹患していた。この病気は人生を一本道だと思い込ませ、医者以外の道を見えなくさせてしまうのです」
同村は自嘲的にふっと笑う。
「この事例から考察できることは、医学部シンドロームは医学部という環境にいる者なら誰でも発病するリスクがあるということです。文学部生が必ず文学者になるわけじゃない。司法試験を受けない法学部生だってたくさんいる。医者以外の道を進む医学生がいてもいいんです。むしろいるのが自然です。
医学部シンドロームを治療すれば、きっとプールの授業も嫌いじゃなくなるでしょう」
会場はまた無言。そこで同村は壇上を横切ると、井沢にマイクをバトンタッチした。小さく頷くと、爽やか青年は一歩前に出る。スクリーンの画面も切り替わる。
「二つ目はIさんの事例です。同じく23歳の男性です」
彼は物怖じせずに話し始めた。同村も安心したように元の位置に戻る。
「患者は両親が医者、祖父母も医者、従兄弟も叔父さんも叔母さんも…とにかく身内が医者だらけでした。しかも家は代々病院をやっていたため、将来は自分も父親の後を継ぐのだと子供の頃から当たり前のように考え、何の迷いも疑問もなく医学部に来ました。それが幸福だと信じていました。
おそらく入学する前から医学部シンドロームにかかっていたんでしょう…それもかなり重症な。なのに患者本人はそのことに全く自覚がなかった。それが最近になってようやく病識が少し持ててきました。そしてそれは…激しい苦痛でした」
井沢は真顔になる。
「まるで薬物依存症の患者が薬を抜く時の離脱症状です。医学部の麻酔が解けて、本当にこれが自分の幸福だったんだろうか…一度疑うと止まらなくなりました。確かに自分で生きてきたはずの人生なのに、何もない空っぽのような気がして…。こんなことなら一生病気に気付かない方がよかったなんて思ったりもしました。
それでも今は、気付くことができてよかったと思っています。痛みを伴いましたが、自分に欠けている物がたくさんあるとわかってよかった。どんな病気の治療も、まず認めることから始まるんですから」
彼は微笑み、同村に目配せした。
「この事例から考察したことは、やはり早い段階でこの病気を自覚する方がよいということです。本当は大けがしてるのにそのことに気付けないなんて、こんなに危険なことはありません。医学部シンドロームは心に麻酔をかける病気なんです。
でもどんなに鈍感でもいつか必ず痛みに気付く。みなさん、何十年も後になって病気がわかった時のことを想像してください。早期発見と早期治療、これが医療の大原則です」
言いきって井沢はふっと目を閉じる。そして息を吐いて目を拓くが、同級生たちも教授陣も眉一つ動かさず静観していた。室内が暗いので奥に立つ指導医たちの表情まではわからない。彼はくるりと背を向けると次の者にマイクを差し出した。
「Cさんは33歳の男性です」
受け取った長が登壇する。
「サラリーマン家庭に育ったこの患者は、高校時代まで不真面目な人生を送り、卒業後も進学も就職もせずブラブラしていましたが、一念発起して28歳で医学部に入りました。動機は両親への恩返し…それと罪滅ぼしです。早く医者になりたいと考えて5年生にまでなった彼ですが、医者になることの意味を簡単に考え過ぎていたと…今、恥じています」
マイクを握る手に力を込める。
「これも医学部シンドロームでした。医者になればオールクリア、これまでのことも全部チャラになると思い込んでいました。でもそんな簡単なはずない。
俺が…失礼、私がこの事例から考察したことは、結局は自分次第なんだということです。医学部シンドロームは、自分の問題を誤魔化す病気なんです」
言い終えると彼は晴れやかな顔で天井を仰ぐ。もしかしたら祖父の微笑みが浮かんだのかもしれない。振り返ると、目が合った井沢も優しく頷いた。
続いてマイクは美唄の手に渡る。彼女はこくんと頷くと、無言のままゆっくり正面に出た。潤んだ瞳がまっすぐに会場を見つめる。落とされた照明の中では、彼女の目には漆黒の闇しか映らないのかもしれない。マイクが静かに口元へ運ばれていく。
「Eさんは…」
臆病な語り口だった。
「Eさんは24歳の女性で…強くてたくましいお父さんのことが幼い頃から大好きでした。でもお父さんは変わってしまって…精神病院に入りました。どうしてそんなことになったのか…お父さんを理解したいという動機で、この患者は医学部に来ました。しかし残念ながら彼女にもまた…」
そこで言葉が止まった。同村は美唄の横顔を見つめる。打ち合わせの段階で、無理に自分の病気の話はしなくてもいいと伝えたのだが…彼女自身がそれを言わなければ意味がないと押し切った。
流れる沈黙。同村だけではない、井沢も、長も、まりかも、向島も…彼女の震える小さな背中に視線を注いでいる。不安と、労りと、精いっぱいの応援を込めて。みんなに見守られながら、やがて彼女の唇がそっと動く。
「ワン、ツー、スリー…」
そう囁くと美唄は肩の力を抜いた。目を閉じて腹式呼吸。そして次の瞬間、彼女はマイクを高く持つと、ライブのステージに立った時のように勇ましくその目を開いた。
「彼女にもまた、将来視力を失うかもしれないという病気がありました」
澄んだ声が光の矢となって暗い闇へ放たれる。
「こんな欠陥のある自分はお医者さんになる資格はないと、彼女は思いました。五体満足じゃないとお医者さんはしてはいけないんだって…。だから目のことがバレたらここにいられなくなる、それが怖くて彼女はずっと大学に病気を隠していました。
でもよくよく考えたら、お医者さんは必ず五体満足なんて…そんなの有り得ない。ここにいるみなさんもそうですよね、病気や事故が一生ないなんて…誰にもわからない」
彼女の勇気の旋律がどんどん勢いを増していく。
「変ですよね、勉強して病気の発症率をちゃんと知ってるのに、自分には起こらない、起こっちゃいけないって非科学的な不敗神話をみんな信じてる。ここでも医学部シンドロームの症状が出てたんです」
美唄の瞳が輝く。
「お医者さんは五体満足じゃなくてもできるかもしれない。Eさんはその可能性に気付いた時、強く思いました…自分の病気を学びたい、どうすると良くなるのか、どうすると悪くなるのか、どんな治療や研究があるのか、自分は将来どうなってしまうのか…。
この事例から考察したことは、医学部シンドロームを抜け出せば必ず道はあるってことです。いつか…いつか、どんな形でも誰かの役に立ちたい。その気持ちがあるかぎり、もしもお医者さんになれなかったとしても、彼女は…彼女は…ここに来たことをけして後悔しません。絶対です!」
100パーセントの笑顔が咲き誇る。熱唱を終えたようにマイクを口元から離すと、歌姫は嬉しそうに一礼し、仲間たちを見た。彼らも誇らしい笑みで彼女を讃える。音楽部先輩は「立派だぞ」と曇りのない瞳で囁くと、力強くパソコンのキーを叩いた。
画面がまた切り替わり、スクリーンには『医学部シンドロームの診断基準』と表示される。続いて以下の項目が映し出された。
診断基準:
症状① 医者以外の道が見えなくなる。だから向いていないと思っても路線変更できない。
症状② 麻酔効果で医者になることへの迷いや疑いを感じなくなる。だから麻酔が切れ始めると激しい痛みに襲われる。
症状③ 医者になれば全ての問題がクリアになると勘違いしている。だから自分の問題を解決しようとしない。
症状④ 医者は完全な存在でなければならないと思い込んでいる。だから不完全な自分を受け入れられない。
*上記の症状のうち、3つ以上が存在すれば医学部シンドロームと診断できる。
…一体彼らが何を行なっているのか、みなさんにはおわかりだろうか。癌の患者がそれを開示して支え合うように、依存症の患者が自ら克服の方法を考え学び合うように、彼らは今、医学部シンドロームという難病にかかった患者として、同時にそれを解明し治療しようとする医者として、前代未聞の学会発表を叫んでいるのだ。
しばし無言の注目がスクリーンに注がれる。同級生たちは、指導医たちは、教授陣は…どんな気持ちで見つめているのか。14班が投じたいつ砕けるともしれない小さな可能性の原石は、転がって転がって…一体どこに着地しようとしているのか。
*
同村とアイコンタクトで 向島が次の事例患者の経歴をスクリーンに表示する。そしてついにマイクは彼女の手へと届けられる。美唄からしっかりそれを受け取ると、才女は毅然と前に進み出た。
「最期の事例です」
まりかである。ぎゅっと全身に力を込めると、彼女は落ち着いた声で始めた。そのメガネの奥の瞳にためらいは塵一つも混じらない。
「患者はAさん、23歳の女性です。高校の時に友人が難病を患い、彼女は何もできない自分の無力さを痛感しました。だから医学部に来ました。そして勉学以外の物を全て遠ざけ、ひたすら勉強することに集中してきました」
いつも教室の最前列で授業を受け続けた四年連続の特待生は、今仲間たちに支えられながら最大級の告白に臨んでいる。
「でも5年生になり、実際に病を抱えた人たちと触れ合った時、勉強だけでは何もできないことを思い知りました。もっともっと、色々な知識も経験も必要だとわかりました。
そしてある時、彼女は身体が不自由になった友人を病棟から連れ出しました。少しでも幸福な時間を作ってあげたかった…それは勉強ばかりしてきた馬鹿な医学生の挑戦でした」
そっと目を伏せる。
「でも…結果は失敗でした。友人に怪我を負わせ、精神的にも追い詰めることとなりました。
今彼女は改めて自分の浅はかさを感じています。どうすればよかったのか、これからどうすればいいのか、考えても考えても答えは…出ません。どんなに教科書をめくっても、どんなに論文を検索しても…どこにも答えがないんです」
班長はそう言うと一礼し、同村にマイクを戻した。黙って頷きを返すと、再び彼が前に出る。
「僕たちは最後の事例を全員で考察しました。そしてそのヒントは、ここまでに発表した他の事例の中にありました。
そう、医学生は誰もが悩みを抱えている。迷いを感じている。Aさんだけが特別じゃない。これはAさんだけの問題じゃない。そうだ、Aさんの苦しみもきっと医学部シンドロームの症状に違いない」
熱弁が勢いを増していく。
「Aさんを苦しめていた症状は何でしょうか?それは…失敗してはいけない、そう思い込んでいたことです。
何かを為せば失敗することもあるのは当たり前です。なのに医学生は失敗してはいけないと思い込んでいる…思い込まされているんです!」
スクリーンが先ほどの診断基準の画面に戻り、以下の一文が追加される。
症状⑤ 失敗は許されないと思い込んでいる。だから極端にそれを恐れ、それを憎んでしまう。
*この症状に限り、1つ存在した時点で医学部シンドロームの診断とする。
「これこそが医学部シンドロームの中核症状だと気付きました!原発巣はここにある!
失敗してはいけないと思い込んでいるから、これまでの事例で考察した四つの症状も出てくるんです!」
さらに画面が切り替わり、スクリーンには『治療法の模索』の文字。
「では医学部シンドロームを治療するにはどうすればよいのか。14班は一つの結論に達しました」
同村がさらに一歩前に出る。
「それは…『挑戦』です。それこそが今僕たちに一番欠けている物であり、一番しなくてはならないことだと気が付きました。これでこの病気は打ち破れる」
スクリーンにも『挑戦』の赤文字が画面いっぱいに大きく表示される。
「医学部は自由に学問を探求できる環境にはありません。しかし、今回Aさんが一つの挑戦をしてくれたことで僕たちは色々なことを学びました。教科書にも論文にもない答えを必死に探して考えました。そう、医学の探求ができたんです。
医学生に必要なのは挑戦です!それをせずに医師免許を取るのはあまりに危険だと…僕たちは考えます」
彼は仲間たちを見る。
「Iさんはきっとこれから挑戦することで、失った物を取り戻していけるでしょう。Cさんもきっと挑戦することで、医者になることの意味を考え直せる」
井沢と長が拳を握って見せた。
「そしてEさんも…」
大きな黒い二つの瞳と目が合う。
「きっと、きっと、挑戦を続けることで…必ず…誰かの役に立てる」
美唄はうっすら涙を浮かべて微笑む。同村は頷くと、また教授陣に向き直る。
「Dさんも挑戦せずに、ただ悩んでいたからダメだった。人のせいや環境のせいにするしかなかった。ちゃんと挑戦すれば、自分の道を必ず見つけられる。医者になるのかならないのか…胸を張って決断できる!」
高らかな宣誓。しかし瀬山も、左右の教授たちも何も反応しない。同村はまりかを見た。「Aさんは挑戦しました。確かに今回の結果は失敗でした。しかしそこから多くのことを学べば、失敗はけして無駄ではない。僕たちは彼女の挑戦を…支持します」
そこで向島も腰を上げた。六人は再び一列に並ぶ。
「先生方、これが僕たちの結論です。どうか医学生に…挑戦することを許してください。挑戦が医学部シンドロームの唯一の治療法です!」
全員で頭を下げる。そして顔を上げると、同村は「以上です」と締めくくった。
…これが彼の作戦。感情論ではなく教育論で勝負する。医学生の立場や責任から逃れられないというなら、それを逆手にとる。まりかの行為も医学生としての挑戦。それが失敗だったことも認めた上で、それこそが今医学生にとって最も必要なものだと訴える。学生と教授が一堂に会するこの場所で。
数日前の北里の言葉もヒントになった。学務課から出てきた彼を捕まえて協力を要請した時、彼は学年全体のことや学業に関することでなければ動くのは難しいと断わった。だったらそうすればいい。これはもはやまりか個人の問題ではない。ここにいる医学生全員の、学業に関わる要望なのだ!医学部シンドロームと名付けたのも、これが医学の探求であることを強調するためだった。
この病気に苦悩しているのは自分だけではない。14班の仲間だけではない。きっとみんながそうなんだ。湿った枝一本一本には火が着かなくても、まとめてなら燃え上がらせることができるかもしれない…、同村はその可能性に賭けたのだ。
さあどうだ、はたしてうまく着火するか?
9
室内には真夜中のような静寂が続いている。挑戦を許してほしいと嘆願した同村の言葉を最後に、会場の誰もが石のように固まっている。
「発表は…終わりですね?」
不機嫌な声が沈黙を破った。喜多村だ。唇を歪めた彼は腰を上げ、やらやれといかにも迷惑そうに司会進行を再開した。
「はいはい、それではみなさんは席に戻ってくださ…」
「ちょっと待ってください」
一つの声がそれを止めた。瀬山である。
「発表の後は…質疑応答ですよね。質問してもよろしいですか?」
同村は「もちろんです」と答える。対する喜多村は苦々しげにまた着席。
「興味深い発表でした。確かに医学部は大学でありながら、学生が学問を探求する場としては不十分です。まさにみなさんのおっしゃるとおりでしょう。その環境が生み出す病として、医学部シンドロームという発想もユニークです。
では一つ質問ですが、大学が今後どう変わってほしいという具体的なアイデアはありますか?」
「同村くん、マイク貸して」
瀬山の質問に答えたのは美唄だった。
「そうですね。お医者さんになりたい人じゃなくても、医学を学びたい人ならみんな学べるような場所だったらいいなと思います。自分自身が病気を抱えた人、自分の大切な人が病気を抱えた人、そんな人たちが医学を学ぼうとするのって…おかしくないと思います」
「なるほど。大学は本来、年齢や性別を問わず、学びたい人が通う学校ですからね。しかし現実には先ほど同村先生がおっしゃったように、医学部は医者養成の専門学校になっていますね」
「そうですよ、瀬山教授」
バリトンボイスがそう返す。出どころは精神科の吉川教授だ。
「ですから入学試験でも純粋な学業成績だけではなく、将来病院に貢献してくれそうな人材を合格させようとする…そういう心理が大学に働いてしまうんでしょう。そういえば何年か前、どこぞの大学でそんな不正入試の問題がありましたなあ」
心を和ませる達人は教授陣にほのかな笑いを生み出してくれた。瀬山の声も幾分穏やかなニュアンスを帯びる。
「そうですね。しかも先ほどの発表でもあったように、医学部は途中で進路を変更するのが難しい。明らかに不適格な学生でも医者を目指すしかない…これでは医学界の未来にも悪影響です。それは私も問題だとかねてから思っていました」
「君たちは…」
さらに別の教授が発言する。緩和ケア科の小俣、病院に新しい風をいくつも吹き込んだ革命家である。
「君たちは医者というものを批判的に捉えている、少なくともあまり立派だとは思っていないように感じるんだが…その点はどうですか?」
「美唄ちゃん、マイク」
今度は井沢が回答する。
「僕も昔は医者は立派だと思ってました。医者は立派な仕事、だから医者になれば立派になれるんだと。でもそれは違うと気付きました。
…医者が立派なわけではなく、大切なのは医者をやっている自分が立派かどうかです」
井沢は言い切った。確かに最も価値観が変わったのは彼かもしれない。もしも一年前の彼が今会場にいたとしたら、きっと鼻で笑っていただろう。
「よくわかりました」
小俣は少しだけ微笑む。続いて再び吉川が口を開いた。
「いやあ…こんな新鮮な発表は初めてですよ。堪能させていただきました。せっかくだから一つ教えてください。みなさんが結論としておっしゃった挑戦の大切さですが…それは結果が失敗の場合も大切だということでしたね。その辺りをもう一度詳しく聞きたいのですが」
「井沢、俺にマイク」
続いて長が答える。
「むしろ成功よりも失敗の方が必要だと思うんです。私自身がそうでしたが、自分の人生を失敗した失敗したっていつも考えてました。でもポリクリを通して、失敗だと思っていた経験が、自分にとってどれだけ強みになっていたかがわかったんです」
同級生より十年も出遅れた浪人生のボス。しかしその豊富な人生経験で培われた包容力は、何度も14班の危機を救ってくれた。
「先ほどの事例でも言いましたが、若い頃にばかばっかりやってたから、もう失敗しちゃいけないって私は躍起になってました。医学部に入ればこれまでの失敗を取り戻せると思い込んでました。それが自分の首を絞めていたんです。失敗は無駄じゃない、必ず役に立ちます。だから恐れることはないんです。
…あ、事例は私じゃなくてCさんでしたね、すいません」
長がペコリと頭を下げてまた小さな笑いが起きる。
「しかしねえ、医療では失敗は許されんよ」
とある外科の教授が言った。そんなやりとりを喜多村はハラハラしながら見ている。
「だからこそではないでしょうか」
マイクを受け取って迎え撃つのは我らが同村。
「失敗が許されない仕事だからこそ、学生のうちにちゃんと失敗しておくべきです。挑戦して、失敗して、そこから学んで…。学生のうちから失敗しない練習をする必要はありません」
「よく言ったぞ若僧!」
痛快なエールが跳ぶ。眼科の三玉教授だ。彼は続いてお得意のガハハ笑いを披露する。まさか昼間からお酒を召していらっしゃるわけではないだろうが…しかしそのおかげで室内の緊張が穏やかに緩んでいく。
「僕からも一つ」
ひょいと隅に座っていた九十九里浜療養センターの粕谷センター長が挙手。遠い所からはるばるご苦労様です。
「人間は失敗するのが当たり前でしょう。失敗禁止だったら医者はロボットになるしかないですよ。不完全な人間という生き物を癒せるのは、やっぱり不完全な人間だと思いますがね。うちの病院のスタッフなんてみんな不完全ですよ、もちろん僕を筆頭に」
大学病院ではなく、長年地域の療養病院を担当している医師だからこその言葉だった。その朗らかさを受けて教授陣の何人かが自然に頷く。「確かに」、「それもそうか」、「私らが学生の頃は…」などなど、そんな雑談もちらほら。会場の学生たちもそれに合わせて小声で意見を交わし始めている。いつしか壇上の六人に向けられる目も随分あたたかいものとなり、場は賑わいを見せていた。
「秋月先生にお訊きしたいのですが」
そこで再び瀬山の言葉。まりかは「はい」と硬い面持ちで返し、同村からマイクを受け取る。
「先ほどあなたが挙げられた事例…患者を怪我させてしまった医学生のAさんのことですが、大学としては彼女には相応の処分が必要と考えています」
*
戦況は一変した。室内を緊張が貫き、和みかけた空気は一瞬にして凍り付いてしまう。
躊躇なくミサイルを撃ち込んだ瀬山は、さらに「それについてあなたはどう思いますか?」と追撃した。
まりかはマイクを手にしたまま固まっている。学生部長の無言の圧力は同村たちからも余裕を奪っていく。好意的になってきていた会場の同級生たちも、反射的に彼らから目を逸らす。
長は思わず部屋の奥に立つ指導医の一人、清水を見た。やはり暗くて表情はわからなかったが、愛すべき柔道部の先輩はまた片眉を吊り上げてびびっているのがそのシルエットから想像できた。
順調に進軍してきた六隻の船団、しかしここにきて漂流の危機に瀕してしまう。
「まりかちゃん…」
美唄が不安な目を向ける。まりかはゆっくりとマイクを上げ、結んでいた唇を解いた。
「今回のことは…勉強の知識しかない医学生の、浅はかな行動だったと思います。今にして思えば、見えていないこと、考えが及んでいないことがいくつもありました」
瀬山は目を細める。
「ただ浅はかではありますが…けして軽はずみではありませんでした。あの時の彼女にはどれだけ考えても…想像しても…あの答えしかなかったと思います」
まりかはマイクに両手を添えて続ける。
「真剣な答えでした。真剣な…挑戦でした。結果は失敗でしたが、この経験から学んだことをAさんは一生忘れません。必ず今後に活かしていきます。ですから…」
言葉を詰まらせる。処分についてどう思うか、という問いの核心部分についてはまだ答え切れていない。瀬山は何も言わず彼女を見つめている。同村もつらそうに眉根を寄せて奥歯を噛みしめている。
無言と緊張の対峙が続いた。会場の何人かが時々ぐっと息を呑む音だけが聞こえている。
「ごめんなさい!」
突然一人の男が声を破裂させて沈黙を破った。向島だった。両膝と両手を床につき、彼は深々と瀬山に頭を下げたのだ。
「本当に申し訳ありませんでした!」
問題児の鬼気迫る行動に多くの者がたじろいだ。14班メンバーも驚きの顔…どうやらこれは計画にはなかったらしい。
「僕は医学部にいながら、勉学よりも自分の興味を優先して音楽ばかりやっていました。でもそれは…間違った姿でした。僕には大学の在り方を批判する資格はありません」
アウトローの懺悔。彼はそんな不真面目な自分ではなく、真剣に医学に向き合った結果失敗した学生が処分を受けるのはおかしいと主張した。
「もしAさんが留年になるのなら、僕は退学処分にでもならないとおかしいんです」
「君たちがこんな発表をしているのは彼女を救うためですか?」
瀬山が刃を返して更なる核心へ切り込んでくる。防御だけでは止められない、その問いには同村が抗する。もうマイクは必要なかった。
「いいえ。僕たち医学生全員のためです。医学生の…挑戦と失敗の権利を勝ち取るために戦っています」
「そうです!」
井沢と長も加勢。美唄も大きく頷いて全身で同意を示す。仲間たちの援護射撃を背に、まりかも奮い立つ。
「先生、私は医師になりたい…今回のことで前よりも強くそう思いました。そしてそのためにこれからも真剣に挑戦をしていく覚悟です。それさえお伝えできたら…どんな処分でもお受け致します」
それが答えだった。
学生部長はそっと目を閉じる。周囲の教授たちもお互いに目で伺いを立てている。向島も床から立ち上がって壁の時計を一瞥…発表時間はとうにリミットを過ぎていた。
…議論は出尽くしたようだ。さて、彼らの叫びは届くのか?
10
「最後に、一つよろしいですか?」
やがて瀬山が目を空けて言った。
「確かに君たちの発表は素晴らしかったです。私たちの質問にも全て正面から答えていましたし、医学部や医学生を批判しても、医学そのものには純粋な敬意を感じました。正直なところ、これだけの情熱を学生が持っているとは思いませんでした。非常に有意義な質疑応答でしたよ。
私だって馬鹿じゃない、これまでの班の質疑応答が全て小芝居であることくらい…わかっていましたよ。わかっていたのに…どうして指摘しなかったんですかね。私もかかっているのかもしれませんね…医学部シンドロームに」
閻魔は初めてそっと微笑んだ。
「医学生は挑戦と失敗をするべきだという提案も斬新でした。説得力のある論法で、そのとおりだと唸らされましたよ。ですがね…」
また笑みを消して彼は続ける。
「医療の世界はそんなに甘いものではありません。きっとこの発表も君たちの挑戦だったのでしょうが…所詮は仲間意識に支えられたファンタジーのように感じます。これで本当に医学部が、医学生が変わると思いますか?」
六人は言葉を失う。閻魔もまた黙って見つめる。静まったままの会場。そして喜多村はもうどうしていいかわからず青い顔でおたおたしていた。
このままでは勝てない…同村はそう直感する。このままではダメだ、でもきっと惜しいところまで来ている。もう一押し、あと一押し、自分たちを証明する何か、根拠になる何かがあれば!
時間はもう残っていない。同村は必死に思考を巡らせる。
ヒントはあるはずだ。一年前、この教室に集ってから今日に至るまでのポリクリの日々の中のどこかに、必ずヒントはあるはずだ!最初から思い出せ!
焦りに比例して不安が胸の中で膨張していく。彼は思わず愛しい人を見た。美唄は祈るように胸の前で手を組んでいる。その白衣の胸に揺れている物は…。
あれだ!
同村の心が叫んだ。
「お答えします」
全てを宿した胸を張る。もう無口ではない男は、しっかり息を吸って腹から声を出した。
「先生方…これを見てください」
自分の白衣の胸からネームプレートを外しそれを掲げる。
「僕たちのネームプレートには、まだ何の肩書きも書かれていません。そこは空欄になっています。まさに医学生は医者ではない、でも部外者でもないという中途半端な存在です」
そう、それは一年前、ポリクリを始める前の説明会で白衣と共に配布された顔写真入りのネームプレート。本来は医師や看護師と職種が書かれるべき場所が空欄になっている、学生特有の代物。最初に受け取ったあの日、同村がこの教室でずっと見つめていたアイテムだ。
「僕たちはみんな、この中途半端なネームプレートをしています」
会場の同級生たちも思わず自分の胸に手をやった。
「でもこの中途半端が…僕たちの存在価値なんです。まだ真っ白な空欄だからこそ、僕たちはそこを埋めていかなければならない。そのために挑戦する権利がある…いや義務があるんだ。だから必ず…変わってみせます!だってまだ何も書かれていないんだから、何も決められていないんだから。大学がそれをこのネームプレートで認めている!」
ただのヤケクソだったかもしれない。それでも同村は言い切った。そして…。
…パチパチパチパチ!
会場から一つの拍手が上がった。その主は…北里だ。彼は教授陣の後ろから大きく手を叩いている。魅せられたように無心に手を打つクラス委員…その姿に周囲も驚いている。
…パチパチパチパチ!
また別方向から拍手が飛ぶ。見ると山田がはにかんで手を叩いていた。目が合った同村は心からの感謝で微笑む。続いて井沢の仲間のサッカー部員、長がつるんでいる浪人生グループも拍手。教授陣も思わず後ろを振り返り始めた。
さらには部屋のずっと奥…誰かが威勢よく頭の上で手を叩いている。長にはすぐわかった。
「アニキ、サンキューです」
人情味の名医である。彼に続いて鮫島や幕羽、藤原たちも拍手をしてくれている。あの比賀さえ、そっぽを向きながらも賛同してくれているらしい。
するとどうだろう、会場のあちこちから拍手の音が上がり始めるではないか。三玉教授もガハハと笑いながらそれに参加したことで、教授陣にもその火は燃え広がっていく。小俣も納得したように頷きながらゆっくり手を撃ち、吉川も「ブラボー」と歓声、粕谷も微笑んで応じてくれている。
向島がそっと教室の照明を点けた。明るくなる室内、そこには拍手するたくさんの学生たちの姿。ある者は嬉しそうに、ある者は頷き合いながら、ある者は力強く、そしてある者は自信なさげに恐る恐る…それでも全員が手を叩いていた。そう、満場一致である。着火成功だ!
瀬山はそんな光景にしばし目をやる。
どうですか、学生部長?どうですか!
*
瀬山は音もなく腰を上げ、壇上に歩み出た。そして怒涛の拍手喝采が徐々におさまっていく中、まりかからマイクを借りて会場に向き直る。
「驚きましたよ…みなさん」
拍手が止み、会場の学生たちも、壇上の六人もその言葉の先に集中する。
「色々と考えましたが…」
緊迫の数秒、そして閻魔はついに宣言した。
「この戦いはみなさんの勝ちです。Aさんの処分は見直しましょう」
再び歓声と共に巻き起こる大きな拍手。美唄は「やったあ!」と飛び上がり、同村は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。井沢と長もガッツポーズ。いつしかパソコン前の座席に戻っていた向島も、満足そうに最後の操作をしてノートパソコンを閉じる。スクリーンには、部屋が明るくなってうっすらとしか見えないが、『大勝利、医学部大好き!』と大きく表示されていた。
呆然としているまりかに、瀬山はマイクを通さず話しかける。
「秋月先生、今回の挑戦を考察し、神経内科のレポートとして提出してください。書式も形式も、あなたが自分で決めていただいて結構。模範回答はいりません。何よりも自分の考察をしっかり書いてください。最終的にはその内容を見て判断します」
「ありがとうございます」
はっとして彼女は礼を言う。
「いえ、その方が留年させるよりも学びが多いと判断しただけです。実は神経内科の原田先生から一つの書類を提出されましてね。今回のことは神経内科医を目指す上での必要な課題であったと、そう指導医として判断していると書いてありました。あなたの学びのために患者さんにも協力してもらったのだと…明石くんの署名も入っていました」
まりかは驚く。そして部屋の奥に立つ指導医の姿を見た。目が合うと、拍手しながら原田はそっと頷いてくれた。
「正直どういう意味なのかわからなかったのですが、みなさんの発表を聞いてようやく腑に落ちましたよ。謹慎ももうよいでしょう。秋月先生、ポリクリにも来週から復帰してください」
閻魔は天使の微笑みでそう伝えると、そのまま席に戻っていった。何度も「ありがとうございます」と頭を下げる彼女を美唄が抱きしめる。同村もそんな二人を見てようやく頬を緩め、外したネームプレート…中途半端の勲章を付け直した。
拍手はまだ鳴り止まない。時間もかなりオーバーしているので、ようやくお呼びのかかった喜多村がマイクを握った。
「以上で14班の発表は終わりです。これで全ての班の発表が終わりましたので…」
閉会の司会進行…まあ彼の言葉など誰も聞いちゃいなかったが。すいませんねえ、損な役回りばかりで。読者のみなさん、けして悪い人ではないんですよ、多分。
こうして、一時間足らずの戦争は終戦を迎えた。戦利品はたったひとつの留年の撤回、ただそれだけ。だが挑戦することを禁じられた医学部という国で、彼らの起こした反乱の意味はけして小さくない。そう、これは聖戦ではない。これはただの挑戦。だからこそ価値があるのだ。
この時医学生の心に宿った未完成な火種がいつか激しく燃え上がり、医療の未来を照らす炎の一端になることを信じようではないか。
だって教授陣も笑顔で手を叩いている。指導医たちもそうしている。もしかしたら彼らも待っていたのかもしれない。火種を抑えつけながらも、いつかそれを跳ね返してくれるような、そんな激しい情熱を持った医学生の登場を!
11
週明け、さっそくのレポート提出により秋月まりかの留年は正式に撤回された。彼女はもちろんだが、それ以上に喜んだのは14班の仲間たち、そしてまりかの後輩・明石である。
戦争の前夜、同村は自分たちがこれからしようとしていることを彼に伝えた。それを聞いた明石はすぐに原田医師に相談、そして瀬山教授に例の書類を提出するに至ったのである。この行動は同村の想定にはなかったが、結果的には勝利に大きな一矢を報いた。さすがはアーチェリーの天才といったところか。
明石はもう泣いていない。また毎日リハビリに励んでいる。まりかが人を助けることの難しさを学んだように、彼もまた助けてもらうことの難しさを学んだのだ。
医療は一方通行ではない。これは学び合い、感謝し合い、迷惑もかけ合う営み。医者も患者も共に成長していかねばならない、挑戦と失敗をくり返しながら。
まりかは今回のレポートの共同研究者として、そこにアカシアの名を記した。そして絞殺の最後には、同村顔負けのこんな一文を書き添えたという。
…『どんなに的を絞っても、確実に望む未来を射ぬく方法はない。それでもこの運命の矢の軌道について私はもっと学びたい』。
*
そんなこんなで晴れて班長が復活した14班だが、喜んでばかりもいられない。あと少し、ポリクリの日々は残っているのだ。彼らはこの一年で得た知識を総動員するように、そして一緒にいられる終わりの幸福を噛みしめるように、最後の実習を過ごした。
もうそこには大きな事件もトラブルもなかったが、ただ六人全員がいた。今だから学べること、今だから気付けることが溢れていた。外来で、病棟で、オペ室で、教授回診で、クルズスで、口頭試問で、そして学生ロビーで…彼らは医学生としての喜びを存分に味わったのである。
12
2月末の金曜日、14班はついに最後の科の実習を終えた。昨年4月から連れ立った長い旅もこれで終着。その夜彼らは久しぶりにキーヤンカレーに集った。
「じゃあ、いっただきまーす!」
店中に響く大声を放ったのはもちろん美唄。すっかり慣れ親しんだ味、それでもやっぱりおいしいカレーを頬張りながら、みんなでこの一年を振り返っていく。思い出の導き手ももちろん美唄である。
色々あった一年。楽しかったことも悲しかったことも、うまくいったこともいかなかったことも、なんとかなったこともどうしようもなかったことも…やはり全ては学んだことであった。医学生としても、一人の人間としても、彼らそれぞれの心は一年前とはまるで違う様相を呈している。そしてそれはこれから先もまだまだ変わりゆけるということだ。世間知らずの私大医学生だって、そう捨てたもんじゃない…って、こりゃ失敬。
「でも、発表会の作戦は本当にうまくいってよかったなあ。十中八九ダメだと思ってた」」
やがて思い出巡りは先日の戦いにまでたどり付く。そう言った長に同村が「そうですね」と返した。まりかも「本当にみんな…ありがとう」と改めてお礼。
「何言ってんの秋月さん。俺たちのための戦いでもあったんだから気にしないで」
と、井沢が水を飲む。スプーン片手に美唄も頷く。
「そうそう。でも本番はドキドキだったね。同村くんなんかすっごく足が震えてたから大丈夫かなとか思っちゃった」
「気が付いてたんだね、遠藤さん」
最後の最後でようやく活躍した主人公が照れる。彼は同級生たちを説得できるよう、そして教授陣の質問にちゃんと切り返せるように、何度も原稿を書き直しながら徹夜で練習を重ねた。それはゲティスバーグ演説のリンカーン大統領さながら、まさに一世一代の大舞台であった。まあ随分とスケールは異なるが、それでも無口な男にとってはもう一生分くらい話したのかもしれない…今後の反動が心配である。
「みんなが拍手で賛同してくれてよかったよな。結局はあれがないとどうしようもなかったから」
カレーをたいらげた長が腕を組んで言う。そう、同村の作戦の要は同級生たちを巻き込めるかにかかっていた。どんな論理も六人だけで叫んでは説得力がない。それを教授陣に響かせるには、医学生が一丸となるしかなかったのだ。
「信じて…よかったです」
これが同村の賭けの真髄だった。ノート東南事件で医学生に絶望していた彼だったが、もう一度だけその良心に託してみたくなったのだ。
「悩んでるのは…おかしいと思ってるのはきっと自分だけじゃない。誰かがそれを訴えればきっとみんな共感してくれると思ったんです」
満足そうな同村に井沢が頷く。
「そうだな。俺も…あの拍手で安心したよ。いや、戦いに勝てるからとかじゃなくて、みんないい奴だったんだなって」
美唄もうんうんと笑顔。
「まあできればMJさんの人生も発表してほしかったですけど」
「僕は医学部シンドロームより音楽熱中症にかかってるから」
と、得意げなミュージシャン。
「それにパソコンの操作もしなくちゃいけなかったしね。ぶっつけ本番だから難しかった。特に最後の拍手のタイミングとか」
なんと拍手の一部は彼が流した効果音だったのだ。
「すっごくリアルでしたよ。MJさん、やっぱり天才!」
「角度を計算して、教室のあちこちに小型スピーカーを仕掛けておいたからね。本物の拍手との音量バランスが心配だったけど、これも経験の賜物だよ」
ライブ慣れした音楽部コンビがいてくれたことも、今回の勝利に大きく寄与した。ステージに立つ時、どの程度練習をして、どの程度でリハーサルを切り上げて、いかに本番で最高のポテンシャルを発揮するか…その指導はボーカリストの美唄が担当した。
「でも向島さん、効果音を使ったのは最初だけですよね」
「そのとおりだ同村くん。だんだん本物の拍手が増えていったから、満場一致になってからは効果音は消してたよ。これも君の読みどおり」
みんな心では共感してくれてもなかなかそれを言えないだろう、でも拍手が増えていけばきっとやってくれる…同村はそう踏んでいた。みんなと同じなら安心する、という医学生の習性を利用したのだ。無事彼が擦ったマッチの火は全員に燃え広がった。
「ところで向島さん、秋月さんにダンボール箱に入ってもらう必要はあったんですか?教室の外から登場してもよかったんじゃ…」
素朴な疑問を井沢が尋ねる。
「あれは最初のツカミだよ。お客さんの意識をこっちに向けるための演出」
「箱に入ったまりかちゃん、すっごく可愛かったよ」
「やめてよ美唄ちゃん。まあ私としては、箱の中で他の班の発表も聞けたからよかったけど」
「真面目過ぎだろ班長!」
長のツッコミにみんな笑う。お腹お抱えたまま美唄が言った。
「そうそう、指導医の先生たちに来てもらうアイデアもバッチリだったね」
実はあれも計画の一部。同村が鮫島を、長が清水を、向島が幕羽を…といった具合に親しい指導医に声を掛けた。もちろん必ず拍手してほしいなんて藪蛇な頼み方はせず、ただ自分たちの実習の発表を聞いてほしいとだけお願いして。学生と教授の中間に立つ彼らがもし着火してくれれば、火は燃え広がりやすい…これも同村の読みだった。
「まさか比賀先生まで来てくれるなんてな。精神科の実習の時も、あの人は現実主義でドライな感じだったから」
同村がしみじみと言う。
「でもあの人がいてくれたおかげで、指導医の先生たちの存在感がすごく強まったと思う。さすが井沢だよ」
「いやいや文芸部の大先生には及びませんぜ」
顔の広さはピカイチの彼が指導医たちの召喚に大いに貢献したのは言うまでもない。ちなみに比賀についてはかなりの裏ワザを使ったと井沢は暴露した。
「え?え?どうやったの?教えて教えて」
「しょうがない、美唄ちゃんの頼みとあらば教えてしんぜよう」
爽やか青年は解説する。精神科を回った時に彼が企画した外来受付嬢との合コン。そこで出会った口は悪いが患者への愛と正義に溢れた美人医療事務員。比賀が彼女にモーションをかけているという話を思い出したのだ。
「確か鎌田さんだっけ。そうか、あの人から比賀先生にお願いしてもらったんだな」
長がポンと手を打つ。
「そういうことっす。あの人、俺らに偉くなって医療のシステムを変えろって言ってたじゃないですか。だから革命起こすって言ったら絶対協力してくれると思って。連絡先も残してましたし…ね、合コンだって役に立つでしょ?」
同村も感心する。
「そんなトリックがあったのか…っていうか、やっぱり合コンだったんだな。あの時は食事会とか社会交流とかって力説してたくせに」
「うるさい。お前は来なかっただろ、美唄ちゃんが大好きだからとか言って」
「そんなこと言うか!」
同村が赤くなりまたみんなが笑う。続いてまりかも井沢に尋ねた。
「でも大丈夫なの?その鎌田さんって人、協力してくれたせいで比賀先生とデートすることになっちゃったんじゃないかしら」
「俺も気になってあの後電話かけて訊いてみたんだ。そしたらさ、言ってたよ…するわけねーだろバーカって」
爆笑が起る。比賀先生、せっかく再登場してもらったのにこんなオチでごめんなさい。
「色々な策は講じたけど…」
一頻り笑いが終わってから向島が言った。
「やっぱり一番は、ホックリーくんの拍手に感謝だよね。クラス委員が先陣を切ってくれたからみんなが続いたんだ。さすがに最初から効果音の拍手じゃバレちゃうから」
「あいつも意外にいい奴だな、これなら将来お役人になっても安心だ」
井沢も同意してナプキンで口の周りを拭く。すると美唄がクスクスと笑った。「どうしたの、美唄ちゃん?」とまりかが小首をかしげる。
「なーんでもないよ、みんないい人ってこと!」
実はここにもちょっとしたトリックがある。まあ知っているのは彼女だけなのだが。
ポリクリ発表会当日の午前、美唄は図書館で自習している北里を訪ねた。そして発表の順番を最後に調整してほしいとお願いした。渋った彼に美唄が見せたのは一枚の写真。
「あたし、卒業アルバム委員だから、普段からパシャパシャ撮ってるんだけどね…こんなのがあったんだ」
撮影した写真をルーペで丁寧に確認していた時、彼女はそこにノート盗難事件の犯人が写っていることに気付いたのだ。まりかのノートをコピーしてその仕分け作業を同村や長といつものソファでやっていたあの時も、彼女はデジカメを構えていた。その一枚の片隅に写り込んでいたのは…ノートが入った紙袋を持って学生ロビーを出ていく北里の姿だったのだ。
「…ごめん」
彼は素直に謝る。そして次の瞬間、その瞳から突然涙がこぼれ出た。
「お、俺、最低なんだ」
ダムが決壊したように懺悔の言葉が溢れだす。
「俺…どんなに勉強頑張っても、ずっと秋月さんに勝てなかった。クラス委員もやって、大学に気に入られても、それでも特待生になれなかった。だ、だからどうやって勉強してるのか、ついノートを除いてみたくなって…」
おえつ混じりに話しながら、彼の体は椅子から床にずり落ちる。
「でも、でも、持って行った後で気付いた…これは泥棒だって。自分は何をやってるんだろうって…。
おかしいだろ?そんなの普通盗む前に気付くことだよな。頭がおかしいんだよ、きっと。本当に何も考えずに持っていったんだ。ああ最低だ、最低だ…こんな俺に医者になる資格なんて…」
泣きじゃくりながら拳で自分の頭を殴り始める北里。
「やめて、あたしはそのことを責めに来たんじゃないのよ」
美唄がそっと肩に手を置く。拳は止まり、そのままだらんと床に落ちた。
「俺は…最低だよ。素直に秋月さんにちょっとノート見せてって頼めばよかったのに…どうしてもそれができなかった。プライドが許さなかった」
「…わかるよ、みんなそうだもん」
「実際にノートを見てみたら…すごかった。敗北を感じた。悔しくて、情けなくて、怖くて…ノートを返すこともできなくなった。
ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい…」
子供の用にしゃくり上げるクラス委員に、美唄は優しく言葉を続ける。
「よかった…ホックリーくんがそういう人で。いつもみんなのために大学と交渉してくれてるもんね、優しい人だって信じてた。ねえ泣かないで。
勉強ばっかしてたらさ、頭が変になっちゃうこともある、魔が差すことだってあるよ。ホックリーくんはおかしくない」
彼女は自分のハンカチを渡し、床にうずくまる彼を立ち上がらせる。
「今日はね、お願いに来たの。今まりかちゃんが大変なことになってるの、ホックリーくんも知ってるよね。あたしたち、何とかしたいって思ってるの。だからもしまりかちゃんにごめんねって思うんだったら…協力してほしいな」
ハンカチで涙を拭いながら頷く北里。ここにもまた、医学部シンドロームに苦しむ患者がいたのだ。
「協力…するよ。14班の発表は最後になるように学務課に伝えておく。ああ、こんな罪滅ぼししかできないなんて…もうダメだな、俺」
「大丈夫、涙が出るんなら大丈夫だよ。フフフ、これはキザな小説家さんの受け売りなんだけどね。いつもありがとう。あたしたちの発表、楽しみにしてて」
美唄はそれだけ言うと、写真をビリビリに破ってゴミ箱に捨てる。そして「じゃあ後でね」と手を振りながらその場を去った。
悪魔の脅迫?…いや、それは彼にとって女神の救済だったに違いない。彼はあの時、本心から六人に拍手を贈ったのだから。
医学生は悩んでいる。そりゃあクラス委員だって悩んでいるさ。ちゃんと着火したその良心と、美唄ちゃんの愛に免じて、これも不問と致しましょう。
*
やがて食後のコーヒーが運ばれてくる。その香りの中、しばし六人は無言でカップを口に運んだ。大盛りカレーでお腹はいっぱい、そしてそれ以上に想い出と感情で胸がいっぱい。
忙しかったけど充実した日々、そしてもう二度とこのメンバーで過ごすことのない時間。懐かしさと寂しさ、そして何よりの愛しさが込み上げてくる。
「みなさん、来週には進級試験があります」
まりかがそっと口を開く。「班長からの最後の連絡です」と彼女は試験の時間割や流れを丁寧に説明した。「了解です」とみんないつものように答える。
「無事に進級したら、実習で使ったネームプレートも学務課に返さなくちゃいけません」
こうやって一つずつ終わっていくポリクリの日々。続いて長が言う。
「ええと、副班長からは特に連絡はありませんが…一言だけ。みんな試験頑張れよ!」
これにも「了解です」が返された。
卒業試験対策医院の向島と国家試験対策医院の井沢、この二人の仕事は6年生になってからだ。14班が解散しても試験情報はちゃんとみんなに回すと彼らは約束した。
「MJさん大丈夫ですか?卒業試験サボらないでくださいよ」
「まだそれを言うか」
美唄がおどけてその場にまた小さな笑いが起きる。井沢も「お願いしますぜ」と敬愛を込めてアウトローに告げた。続いて同村が発言。
「進級試験対策医院からですが…試験の日程はさっき秋月さんが言ったとおりです。試験資料はもうみんなに配ってありますが、何か新しい情報がきたらすぐメールで回しますので。試験当日まで職務を全うするのでよろしくお願いします」
「お前はもうしっかり役目を果たしたよ」
井沢がそう言って肩を組む。確かに、教授陣とやり合って一人の留年を覆すなんて…これ以上の進級対策はない。同村も珍しく気取って「仕事をしただけさ」と返した。
「震えてたくせに、なにカッコつけてんの」
美唄に小突かれまたまた笑いが起きる。
「痛いよ遠藤さん、冗談だって」
「同村くん、試験頑張ってよ?これで同村くんが留年しちゃったらわけわかんないよ」
再び爆笑。美唄のとびっきりの笑顔がそこにある。やがて全員のコーヒーがなくなった頃、まりかが告げた。
「ではみなさん、これで14班のポリクリは終わり…」
「あ、ちょっと待ってまりかちゃん!」
思い出したようにハイテンション娘が挙手。
「ごめんね、忘れるところだった。卒業アルバム医院からです。パンパカパーン!来月、試験の結果発表の日に実はもう一つ重大なイベントがあります」
それが14班としての本当に最後の最後の活動。彼女の説明を聞き、みんな了解を示す。
「じゃあそれにちゃんと参加するためにも、試験頑張らないとな」
長が頷き、井沢も「そうっすね」と意気込む。同村も「楽しみだなあ」と微笑んだ。頼むからちゃんと進級してくれよ、主人公!
「じゃあせっかくだから、その日も学生ロビー集合にしようか。白衣着て、時刻は…」
まりかも嬉しそうに段取りする。そして向島はまた虚空を見つめていた。
「じゃあ全員で試験を突破して、必ずみんなで集まろうね!エイエイオー!エイエイオーイエー!」
閉店間際の静かな店内に底抜けに明るい声が響く。みんなが「シーッ」と指を立てる…こんなことももうすぐおしまいだね。
「じゃあまりかちゃん、さっきあたしが邪魔しちゃったから、最後のお言葉をお願いします」
「え?もう美唄ちゃんったら…。ええと、ではみなさん、これにて14班のポリクリは終わりです。無事全ての科を回り終えました。本当に…お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
全員で声を合せ、ささやかな拍手が上がった。班長は満足そうに一年間愛用した手帳を閉じる。
こうして、14班最大の戦いは終わったのである。
願わくばぜひとも一緒に6年生になってくだされ!
3月、春休み編にて完結!