あとがき

 ここに書くのは、ある意味で『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』という本の真のあとがきである。この文章を、今回の書籍執筆のパートナーに捧ぐ。

 現在暮らしている北海道の住まいには、大学時代を過ごした東京の部屋からそのまま持ってきた家具も少なくない。仕事部屋の椅子もそうなのだが、実はこの椅子こそが書籍を共に上梓したパートナーに他ならない。

 出会いは二十五年前、大学進学に合わせて購入した。当初は学生寮、その後一人暮らしを始めてからも勉強机には常にこの椅子があり、学生時代の勉強はずっとこの椅子に座って行なっていた。北海道での就職が決まり、共に北上してからも、自宅でデスクワークや勉強をする時はもちろん、ライフワークである音楽や文芸の創作をする時もそう、いつもこの椅子に座っていた。思えば長いつき合いである。

 実はここ数年、椅子の背もたれの具合がどうも悪くなっていた。どんなにネジやボルトをしめ直しても背中にフィットせず、ガタガタ揺れるばかり。そして2024年の7月、部屋の床に木屑がたくさん落ちているのを発見。どこから降ってきたのかと思って探していると、それがこの椅子の背もたれからであった。内部の木が割れてそのかけらが隙間からポロポロ落ちていたのだ。
 そして、大丈夫かなと背もたれを持った瞬間、バキッと鈍い音がして背もたれは完全に割れて床に崩れ落ちてしまった。正直驚いた。まさかここまで傷んでいたなんて。昨日の夜までここに座ってパソコンを打っていたのが嘘のよう。そう、この椅子はとっくに限界を超えていたのだ。床に散らばった木片を集めながら、ずっと負担をかけていたことに今更ながら僕は気付いた。

 その後もしばらく背もたれ部分のない状態でこの椅子に座った。油断するとつい癖で後ろによっかかりそうになってしまう。そしてギシギシ軋むこの椅子に腰掛けながら、新しい椅子を購入することを僕は決意した。
 我が家には壊れた家具や時代遅れの家電がたくさんある。それは目が不自由になっても働いている自分自身の姿を重ねて、一部の機能が使えなくなったからといってお役御免にするのはせつないという思いがあるからだ。だからできればこの椅子も…と当初は思っていたのだが、背もたれを失っても働かされているその姿がだんだん痛々しくなってきた。お役御免ではなく、役割を果たしての引退も大切なのではないかと。背もたれがないことで僕も腰を傷め、椅子も限界を超えて僕を支えているのだとしたら、それはけっして良いパートナー関係ではない。
 僕は彼に花道を贈ることにした。そして最後の共同作業として、今回の書籍の執筆を行なったのだ。

 お盆休み、朝から晩までずっと椅子に座って執筆に没頭した。まだ人生を語るほど何かを成し遂げたわけではないが、文章の中では少なからず自分の生きた道を振り返ってもいる。キーボードを打ちながら、色々な記憶を巡ることができた。
 大学時代、「みんなと同じ勉強をして同じ点数を取れば留年しない」という足並み揃えよの医学部教育が嫌で、天邪鬼な僕は勉強グループには所属せずに一人で試験対策をしていた。でも実は一人ではなかった。いつもこの椅子と一緒だった。
 やがて視力が低下して教科書や問題集の文字が見えづらくなった頃、イライラして机を叩きそうになったり、投げ出してベッドに飛び込みたくなったりするのを、この椅子は必死に止めてくれていた。

 卒業後、国家試験が不合格で人生を放浪した際も、どこかに道はないかとインターネットで模索した。一年後にパソコンで合格発表を見た時もそう、履歴書を書いた時もそう、重要な作業は全てこの椅子の上だった。
 北海道に就職し、やがて視力を失った時には机に向かう必要がなくなりしばらく座らない期間もあったが、音声読み上げソフトの存在を知ってからは執筆熱が再燃。思えば色々な文章を書いてきた。仕事関係の書類、講演会や授業をする際の資料、手紙や挨拶文、オリジナル曲の作詞、ホームページのコラム、論文、視覚障害関連で依頼を受けた原稿、そして『刑事カイカン』を筆頭とする小説。まだまだ拙いものではあるが、自分の書く力はこの椅子の支えが合って育まれた。そしてこの度、そのおかげで著書発刊という夢が叶ったのだ。

 脱稿後、友人と家具屋に出向いて新しいパートナーを購入。しかしその後ももう少しだけ古い椅子には部屋の隅にいてもらった。だってやっぱり一緒に書いた本を見てもらいたかったから。
 10月に入り、完成した本が届く。僕はそれをそっと彼の上に置いた。

 二十五年間ありがとう、椅子くん! 長い間お疲れ様。
 僕の文章が本になるまで見届けてくれて、ずっと支えてくれて、一緒に闘ってくれて、本当にありがとう。ゆっくり休んでね。
 もっともっと素敵な文章が書けるように、また新しいパートナーと頑張っていくよ。でも君のことはけっして忘れない。
 さあ見ていてくれよ、次の夢は推理小説の出版だ! …さすがに無理かしら。

令和6年12月14日  福場将太