第二章 再会デートミッション

 彼がいなくなったからってそこまで世界が変わるわけもない。志望校に進学した彼女は新しい人間関係の中で部活や学園祭に励み、まあ青春って呼べるだけの高校時代を過ごした。そして順調に大学にも進学。法学部を選んだ理由はよくわかんない。何となくな気もするし、ずっと前から決めてたような気もした。ここでもそれなりのキャンパスライフを謳歌しつつ、でも勉学にも重点を置きながら、無事在学中に司法試験に合格。将来は弁護士か検察官、ひょっとして裁判官? …なんて教授連中は期待してくれたけど、彼女が選んだ進路は司法試験合格を特段必要としない警察官であった。

 警察学校を卒業すると、彼女は地元からは少し離れた道東の町の交番へ配属となる。道案内に落し物の相談、パトロール、時には交通違反者や路上痴漢、引ったくり犯の逮捕、泥酔者の保護なんかも経験しながら、彼女は『町のお巡りさん』を学んでいった。

 そして婦人警官の制服に身を包んで二年、懐かしい名前から結婚式の招待状が届いた。新郎も新婦も中学時代のクラスメイト。二人はそのまま地元で就職して結ばれたみたい。
 世間では忘年会シーズンの12月、普段は控えめにしてるメイクをちょっぴり解放して彼女は札幌の式場で懐かしい顔ぶれと再会した。そして過去と未来をつないだ披露宴はあったかい空気の中で盛り上がり、主役の二人から幸せのお裾分けをもらったかつての同級生たちはそのまま二次会へとなだれ込んだ。
 貸し切りの小さなレストランでの立食形式。グラスワインを片手に思い出話と近況報告に興じる。家業を継いでる人、大学院に残って研究を続けてる人、早々に結婚して子育てしてる人、自分で会社を起こした人、劇団をしながらバイト暮らしの人などなど、人生の歩き方は色々だった。
「あいつも来れたらよかったのになあ。やっぱり東京は遠いか」
 時々そんな話題が耳に入る。別に期待してたわけじゃないけど…いや、ちょっぴりは楽しみにしてたけど、彼は来ていなかった。

「ねえねえ」
 トイレから出て廊下で一休みしていた彼女に声がかけられた。それは今や二次会で司会進行を務める親友、綺麗な腰までの黒髪はあの頃のままだ。
「幹事お疲れ様、ラプン。すっごく久しぶりね」
「うんうん、私は大学が京都だったからねえ。就職もそのまま向こうでしちゃったし。こんなことでもないとなかなか里帰りもできないよ。そっちはどう? 警察官なんでしょ、すっごいなあ」
 離れていた距離も、はぐれていた時間も、一瞬にしてゼロにしてしまう…同じ季節を共有した仲間っていうのは本当に不思議だ。
「全然すごくないって。まだまだ新米だし、人の役に立ってる実感もないし。春に交番勤務の後期研修がようやく終わるから、4月からどこに配属かなって感じ」
「ふ~ん、そうなんだ。でもかっこいいな。そのうちきっとたくさんの人を助けられるよ、あの時…私を助けてくれたみたいに」
「また随分懐かしい話ね」
「私、一生忘れないよ。あ、そうだ、ケータイって持ってる?」
 ラプンはドレスのポケットから可愛い水色の携帯電話を取り出した。つられて彼女もバッグから白い携帯電話を出す。
「あんまり流行り物って好きじゃないんだけど、仕事柄一応持ってるわ」
「もう21世紀だよ、ケータイは必需品だって。ねえ、番号とメールアドレス教えて」
 教えられた内容をしっかり登録すると、親友はいつか見たような含みのあるニンマリ笑顔を浮かべて言った。
「ねえ…今、いい人とかいる?」
「え? 突然何よ。ないない、全くない。婦人警官なんてもてない女の職業ランキングでダントツナンバーワンなんだから」
「またそんなこと言って。ほんとはもてるでしょ、ミニスカポリスの制服とか好きな人多そうだし」
「あのね、それはいい人じゃなくていけない人たちでしょ」
「フフフ、そっかそっか。でももったいないなあ、いっそメガネやめてコンタクトにしてみたら? せっかく綺麗なんだし独り身なんて寂しいよ」
 言葉とは裏腹にラプンはなんだか嬉しそうだった。彼女にはわけがわかんない。それを尋ねようかと思ったところで店の方から声が飛んでくる。
「おーい幹事さーん、そろそろビンゴの時間だって。司会よろしくー!」
「あ、今行きまーす。じゃ、後でメールするから」
 そう言ってラプンは会場に駆けていく。その後ろから彼女もついて行った。

 ビンゴも大いに盛り上がり、二次会もつつがなく終了。有志での三次会もあるみたいだったけど、彼女は明日も仕事なので失礼することにした。北海道はとにかく広い。道内の移動っていったって、本州なら県をまたぐくらいの距離がある。油断してると電車を逃してすぐに帰り着けなくなっちゃうのだ。
 無事最終に間に合ってその車両に揺られながら彼女は考えていた。
 たくさんの光をまとった幸せそうな新郎新婦。彼らに拍手と声援を贈る人たちも幸せそうだった。その余韻は今も残ってる。
 でも…きっとそれは自分には似合わない幸せなんだろうな。高校時代・大学時代もロマンスっぽいことがなかったわけじゃない。有難いことに好きだの愛してるだの言ってくれる男の子もいたし、恋人ごっこもそれなりにはしてみたつもり。でも…恋をしてる感じはずっとしなかった。理由はよくわかんない。
 そっと目を閉じる。夜の闇の中を走る特急は時々轟音をまといながらも彼女を浅い眠りへと導いていった。

 シンデレラのタイムリミットを一時間くらい過ぎた頃、一人暮らしのアパートに戻る。ウエストがきつい服を脱いで久しぶりの濃いメイクを落としてると、ベッドに投げ出した携帯電話がメールの着信を告げた。黒縁メガネを掛けて確認するとそれはラプンから。件名は『恩返し』。
「何を大袈裟な…」
 そっと微笑んでメールを開く。
『今日は久しぶりに会えて嬉しかった。忙しいだろうけどまた時々会おうね。それと、今日は彼が来てなくて残念だったね。式場でもレストランでも探してたでしょ? ちゃんと見てたんだから』
 時として本人よりも他人の方が自分の心を知っているものだ。彼女はドキッとしながら読み進める。
『でもご安心あれ。幹事の役得で彼のメールアドレスはゲットしてるのです。それをお知らせ致しますので有効にご活用ください。念のため、彼が独身なのも確認済みです。
 さっきも言ったけど、あの時二人に助けてもらったこと、私は一生忘れません。
 なんてね、これでちょっとは借りが返せたかな? じゃあまた☆』
 本文の最後に一つのメールアドレスが付記されていた。

 すぐに電光石火でメールできるほど彼女のフットワークが軽いはずもない。翌朝職場に向かう車の中でも彼女は考え続けていた。
 あれから何年経ってるのよ。そもそも何を理由にメールすればいいわけ? 向こうだって忙しいかもしれないし、あたしのことなんか憶えてないかもしれないじゃない。
 十年ぶりのピリピリをぶり返しながら彼女は「おはようございます」と交番に入る。
「ああおはよう、結婚式はどうだった?」
 交番の長であり彼女の指導係でもある初老の部長が迎えた。
「はい、とても良い式でした」
「そりゃよかった。君も結婚したくなったんじゃないかい?」
「いえそんな、そんなことはありません。あたしは社会正義に身を捧げる覚悟ですから」
「ハッハッハ、大袈裟だねえ。自分の幸せも大切にせんといかんぞ。そう、そこで君に一つ良い話が来てる」
 部長は一冊のファイルを手に取った。彼女は一歩進んで視線を向ける。
「何ですか?」
「お見合い相手の資料だよ」
「えっ」
 思わず大きな声が出た。
「いえいえそんなの…困ります。結婚とかそういうの全然考えてませんから。それに修行中の身ですし、それにあたしなんか…」
 慌てふためいて遠慮する部下に部長はまた声を出して笑う。
「ハッハッハ、悪い悪い、冗談だよ。まあいつかはそんな話もしたいけど今回はそうじゃないんだ。実はね、研修のお誘いが来てるんだ」
「もう、びっくりさせないでくださいよ」
 大騒ぎしてしまった恥ずかしさを誤魔化しながら、彼女は部長が開いたファイルを覗き込む。
「来年の2月から3月にかけての研修プログラムなんだけどな。人事交流も兼ねて、普段と違う地域の警察署で勤務するんだ。例えば九州の警察官が関西、北陸の警察官が四国、みたいにね。若いうちに色々な経験を積ませようっていう上の考えさ。まあいつもと違う現場を知るのは悪いことじゃない。どうだい、行ってみる気はあるかい?」
「そう…ですね、北海道からの研修先はどこですか?」
 正直興味はなかった。自分が生まれたこの北の大地を離れたいとはあんまり思ってなかったから。でもここにきて神様は小粋なことをしてくれやがった。
「東京だよ。警視庁館内の警察署で研修するんだ。しかも優秀だった場合は4月からそのままそこで勤務するのもありなんだそうだぞ」
 突然回路がつながったみたいに一つの考えが頭に浮かぶ。
 …東京? 東京は彼が住んでる場所。 そこに二ヶ月間行くってなると、彼に連絡を取っても不自然じゃない。そうだこれだ、これなら名目もタイミングもばっちりだ。
「もちろん強制じゃないぞ。気が進まなかったら無利する必要は…」
「いえ、行きたいです! 行かせてください」
 道行く人が驚きそうなくらい元気な声で、彼女ははっきりそう告げた。

 かくして親友と上司のお膳立てによって、ようやく彼女の重い重い腰が上がる。その夜彼女はラプンにメールした。ただ一言、『感謝する』と。

 歳末の忙しさも何のその、年明けからメガネもコンタクトに変えて新しい幕開けの予感。
 そして2月、いよいよやってきました首都東京! 北海道では冬真っ盛りだけど、こっちはもうほのかに春の気配もしそうな感じ。なんてったって雪がない! モコモコのダウンコートも給油が大変な灯油ストーブも必要ない。でも北海道みたいに建物に防寒対策がされてないから、室内はむしろこっちの方が寒くて常にセーターが必要だったりする。それに水道のお水が薬臭くてめちゃくちゃまずい。あと東京の味噌ラーメン、こんなのは味噌ラーメンとして認められない!
 そんな小さな発見をいくつもしながら彼女の東京研修は始まった。研修先は新宿区にある御苑前署、指導係になってくれたのは交通課に勤務する大関という婦人警官だった。この研修プログラム自体初めての試みで、受け入れ側も戸惑ってたようだけど、大関は面倒そうな顔一つせず彼女に接してくれた。
「履歴書見たわよ。司法試験に受かってるのに交番勤務のお巡りさんなんて面白いわね。検察官になってたらそれこそ私たちの上に立てたのに。お給料だってずっといいはずよ」
「よく言われます。でもあたしはお巡りさんの方が好きなんで」
 初日からさっそく連れ出された交通違反の取り締まり、二人でミニパトの運転席と助手席に並びながらそんな会話をする。
「お巡りさんが好きってのも面白いわね」
「大関さんは上を目指していらっしゃるんですか? いずれは本庁へ行くとか」
「そうねえ、憧れた時期もあったけど…やっぱり私も町のお巡りさんが好きかな」
「一緒じゃないですか」
「フフフ、そうね」
 二人で笑う。彼女は良い先輩に当たったみたいだった。
「そういえば大関さん、『御苑前』っていうのはこの辺りの地名なんですか?」
「そっか、道産子だとわからないわよね。あ、別に馬鹿にしたんじゃないわよ、なんか東京に住んでるとここが日本のスタンダードだってつい思っちゃうから、それがいけないなって思って。
 御苑っていうのは新宿御苑のことでね、すごく広い市民公園なの。ほら、警察署のすぐ前に入り口があったでしょ」
「あ、そういえば。あれって公園の入り口なんですね。お金入れる機械があったから、植物園か何かかと思いました」
「新宿御苑は有料なの。その分綺麗だし安全なんだけどね。園内には緑の野原とか並木道とか、ちょっとした林なんかもあって、もうちょっとあったかくなったらよく家族連れがピクニックや散歩に来てるわ。あ、もちろんデートコースにも最適よ」
 先輩はハンドルを握ったまま横目でちらりと彼女を見る。
「もし北海道に彼氏がいるんだったらいつか一緒に行ってみたら?」
「あ、いえその、そういう人は一切いませんから」
 彼女の反応に大関はクスッと笑った。
「あらそれは残念ね。他にわからないこととかある? 仕事以外のことでもいいわよ」
「そういえば、昨日日用品を買いに行ったんですけど、アルファベットで『OIOI』って書いてある看板がありました。あれって『オイオイ』って読むんですか?」
 先輩はプッと吹き出した。
「ベタだなあ。あれは『マルイ』って読むのよ。デパートの名前、聞いたことあるでしょ」
 これもまた彼女にとっては小さな発見。オシャレに縁遠いとこういうことになるのかも。
「でも北海道っていいわよね、学生の頃に一回行ったけど、また行きたいわ。特に憶えてるのはねえ、洞爺湖温泉の宿から見た花火。湖に花火が映って夢みたいな風景だったわ」
「いいですね。ちなみにそれは彼氏と行かれたんですか?」
「残念ながら、もてない女三人組よ。だからひたすら食べてばっかり。だって北海道のごはんはおいしいんだもの。おかげで旅行が終わったら2キロ太ってたわ」
 そこでまた二人で笑った。

 研修は忙しかったけど、それよりも興味とか新鮮さとかの方が勝ってたから全然苦じゃなかった。普段と違う職場を見るっていうのは本当に学ぶことが多い。そんなこんなで日々にも慣れ、部屋の整理や歓迎会も終わってようやく落ち着いた頃、彼女には大きな任務が待っていた。そう研修ではなくプライベートのミッション。ある意味で東京に来た細大の目的に関すること。
 渡された月間の研修スケジュールを見て彼女は目を疑った。2月に非番の日があるにはあったんだけど…。
「どうして…よりにもよってこの日なのよ」
 机に置いたスケジュール表をもう一度見、右手に携帯電話を握って彼女は溜め息。そして年末になんとかやり遂げたファーストミッションを思い出していた。

***

 あの結婚式から一週間が経った頃、彼女はようやく彼のアドレスにメールした。まず件名に自分の名前を書く。続いてメール本文。何度も文章を考えて、撃っては消してを少なくとも二十回はくり返してからようやく送信したのは…。
『お久しぶり。ラプンからアドレス聞きました。2月に仕事で東京に行くことになったんだけどよかったら会うとかどうですか?』
 文末には自分の電話番号も付記しておいた。そして緊張の待機タイム。
 十五分ほど経ってからだろうか。ずっと握りしめてた携帯電話を枕元に置いた途端に電話が掛かってきた。慌てて手に取ろうとしたらベッドから落っことしてしまい、さらには立ち上がった拍子に蹴り飛ばしてしまったりして一人で大わらわ。
「…もしもし?」
 ようやくそれを耳に当てると荒い呼吸で答える。
「あ、俺だよ。メールありがとな」
 耳から全身に広がるあったかい響き。その声はあの頃より少し低くなってたけど間違いなく彼のものだった。
「今、電話して大丈夫か? なんか息切らしてるみたいだけど」
「いや、これは違うの。大丈夫、全然大丈夫よ」
 無理矢理冷静を装って声に可愛さを含ませる。
「それならよかった。いやあ、すっごい久しぶり。卒業式以来だもんなあ。元気してたか?」
「あ、うん、あたしは元気。そっちは?」
「ぼちぼちやってるぜ。それで何? 東京に来るのか?」
「うん、仕事の研修でね。2月の頭から3月の末まで」
 電話を持つ手はまだ盛大に震えてたけどようやく会話が転がり出す。なんだか不思議な気持ちだった。ずっと遠くで聴こえてた音楽が突然耳元で鳴り出したみたいな、ずっと素通りしてた景色にようやく立ち止まったみたいな。
 彼女は自分が警察官になったこと、結婚式で再会した中学時代の仲間たちのことなどを話す。彼も明るい調子で聞いてくれて、徐々にぎこちなさも取れていった。でも、彼の近況を尋ねる質問だけはどうしてもできなかった。結婚式の話題が出たんだから「そっちはどう?」とか言ってもいいんだろうけど、それだけは無理。その時の彼女は普段泥棒と格闘してるとは思えない臆病者だった。本当にしょうもない、ただ彼もまたこっちの恋愛事情を尋ねるようなことは言わなかった。
「それでせっかくだしと思って…。あの、あ、会う時間とかありそうかな。忙しかったら無理しなくてもいいけど」
 一瞬彼が黙る。彼女は砕けそうなほど強く奥歯を噛んで沈黙に耐える。
「…大丈夫、調整できると思う。せっかくだしな、会おうぜ」
 世界一長い数秒が過ぎて彼女は胸を撫で下ろす。人間とは単純にできてて、途端に銀行強盗でも倒せそうな元気が全身にみなぎってきた。
「会うならそっちはいつ頃が都合いいんだ?」
「ごめん、まだわかんないんだ。研修のスケジュールが出てからだから…わかるのは二月に入ってからかも」
「そっか、まあ焦らなくていいよ。俺は結構自由が利くから。わかったら教えてくれ。会う場所とか考えておくよ」
「…うん」
 その後少しだけ世間話をしたところで彼が言う。
「今日あんまり話しちゃうと会う時のネタがなくなりそうだな、これくらいにしとこうぜ」
「そうだね。急に連絡してごめん」
「何言ってんだ。じゃあな、楽しみにしてるから」
「あたしも」
 年の瀬ということでお互い「よいお年を」で通話が終わる。気付けば電話を握る手は汗でびっしょり。そして話しながらずっと部屋の中をうろついてたせいで、四回もテーブルの角に膝小僧をぶつけてた。でも…ちっとも痛くない。彼は確かに言った…「楽しみにしてる」って。
「ひゃっほーい!」
 一人で部屋で跳びはねる。そこからの数週間、年末年始の当直勤務さえ彼女はノリノリでこなしたのだった。

***

 そんな電話のやり取りから二カ月半。あれっきり電話もメールもしないまま今日を迎えた。ちゃんと東京に来て研修のスケジュールが出たんだからそれを伝えなくちゃいけない。
「よし、いざ!」
 メールも考えたけど、彼女は電話を選択する。彼からかかってきた時に登録した番号に深呼吸してから発信した。
「…もしもし?」
 彼が出た。性懲りもなく心臓はバックンバックンしてたけど、前回の反省を活かして今度は余裕のある語り口で話し出す。
「あ、もしもし、あたしだけど今大丈夫?」
「大丈夫だよ。無事東京に来たのか?」
「来たよ。やっぱりこっちはすっごいね、お祭りみたいに人がうじゃうじゃ歩いてるんだもん。札幌も都会だけどやっぱり規模が違うわ。あたしはね、新宿御苑の近くの警察署で研修してる。部屋は職員寮。あ、それより明けましておめでとう」
「おめでとう…って、もう2月だぜ」
 二人で笑う。平日の夜だったからさっそく本題に入った。
「それでね、スケジュールが決まったんだけど」
「いつなら会えそう?」
「それがね…」
 もう一度机の上のスケジュール表を見る。そして意を決して告げた。
「14日…14日なの、非番の日。あの、あ、空いてる?」
「14日か…」
 少しだけ考えてから答える彼。
「大丈夫だぜ。待ち合わせ場所とか店とか俺考えとくから」
「ギリギリになっちゃってごめんね。じゃあプランは任せた!」
「任されよ! 決まったらメールする。じゃあ今年もよろしくな」
「こちらこそ、よろしくね」
 十年もご無沙汰しておいて今年もよろしくなんて変な感じだけど、とても自然に言い合えた。そんな感じで通話は終わる。セカンドミッションもクリアだった。
「ひゃっほーい!」
 また部屋で跳びはねる。おっとまずいまずい、ここは警察の職員寮。苦情が来たら大変だ。

 そして前回同様、その後彼女がノリノリで研修に臨んだのは言うまでもない。
「すごいやる気だけど何かいいことでもあった?」
 疲れ知らずの彼女に大関からはそんな言葉が掛けられた。他の署員からも「研修が終わってもぜひうちに残ってよ」「道産子は江戸っ子よりすごいね」なんて讃辞が飛ぶ。署長まで出てきて褒めてくれる始末。
 でも彼女にはそんなもんよりはるかに嬉しいことがもうあった。それはもちろん彼との約束。それも2月14日、あの日から十年ぶりの再会の約束だった。

 そして迎えた当日、この日は彼女にとってさらにさらに困難なミッションが予定されていた。洋服・髪型・ルージュの色、迷うだけ迷って結局いつもの感じになるのはご愛嬌。それでもちょっぴり可愛さを装備した戦闘服にしっかり得物も忍ばせて、いざ彼が指定した待ち合わせ場所へ出陣する。
 そこは都心から離れたローカル駅だった。待ち合わせの午前11時半より三十分早く到着して彼女はロータリーに出る。閑散…というほどじゃないけど、駅の利用者は少なく、学生風の若者や買い物袋を提げた主婦が行き交ってるだけ。彼女は新宿の喧騒とは異なる空気の中を歩いて目的地を目指す。キオスク、タクシー乗り場、バス停、そして…女神をかたどった濃い緑色のブロンズ像。あった、あれが彼の指定した目印だ。そして像の前にはこちらに背中を向けて立ってる男性が一人。
 鼓動がにわかに速くなる。でもまさかね、まだ三十分前だし。
 深呼吸して一歩ずつ接近する。するとその後ろ姿は遠い記憶の中の彼と重なっていく。
 間違いなかった。すぐ後ろまで来ると、彼女はもう一度深呼吸してから声を掛けた。
「あの…」
 ゆっくり振り返る…そこにあったのはずっと待ち焦がれてた笑顔。
「おう、久しぶり!」
 目を細めて微笑み、軽く右手を上げる彼。そんな仕草も記憶と重なる。彼女も自然に口元を綻ばせた。
「お久しぶり。あの、ありがとね、忙しいのに」
「何言ってんだ、こっちこそ会えて嬉しいよ。随分早いなあ、まだ三十分前だぜ」
「まあ一応ね。それにしても…背が伸びたんだね。中学の時はあたしとそんなに変わんなかったのに」
「まあな、かっこよくなっただろ? そっちも…結構女らしくなったんじゃないか? 背は変わってないかもしれないけど」
「もう何よ、これでも5センチは伸びたんだよ。自分がでっかくなったからってさ。それよりもっと気付くこととかないの?」
「う~ん、そうだなあ…」
 彼はちょっと困った顔。
「髪の色が変わった?」
「もう違うわよ、髪は昔から同じ。そうじゃなくてコンタクトよコンタクト、中学の時はメガネだったでしょ、あたし」
「あ、そういえば。いやあどうりで急に美人になったと思った」
「誤魔化してもダメ!」
 彼の一言一言にドキドキしたりドギマギしたり、でもいつしかそれも楽しくなって昔みたいなやりとりができる。それがとっても…とっても嬉しい。
「強気なとこは全然変わってないなあ」
「余計なお世話よ」
 しばらくその場で談笑が続く。彼が照れてるのか彼女が思わず逸らしてるのか、視線がなかなか絡み合わない。ふと彼の手元を見る。
「どうして傘なんか持ってるの? 今日って雨の予報だっけ」
「念のためさ。東京の天気は変わりやすいから」
「あれ、そんなキャラだっけ? 昔は雨でも雪でも平気で濡れながら帰ってたじゃない」
「もう大人だぜ。あ、外だと寒いよな。ちょっと早いけど店に行こうか」
「こらこら、道産子がこれくらいで寒がらないの」
 笑いながら二人で歩き出す。店の予約時刻を気にしてるのか、彼は地面を踏みしめるみたいにゆっくりのスピードで足を進めたので彼女もそれに合わせた。
「せっかく東京に来たのにこんな地味な町に呼び出してごめんな。実はこの辺り、大学に近くてさ、学生時代はよく来てたんだ」
「へえ、そうなんだ」
 見回すと確かに喫茶店とか本屋さんとかがたくさんあって学生街って感じ。自分の知らない彼の青春がここにあったんだなって彼女は少ししみじみした。
「おっと、ここで右だ」
 そう言われて一緒に角を曲がると、目の前に歩行者天国になってる大きな通りが広がる。
「驚いたか? ここは『れんが通り』って言ってな、地面に赤い煉瓦が敷かれてるだろ」
「わあ、すっごく綺麗だね。どっかの外国みたい」
「一応有名な芸術家がデザインしたらしいぜ」
 れんが通りはまっすぐ100メートルくらい続いてた。両側には花屋さんとかおもちゃ屋さんとかの商店、古い雑居ビルなんかが建ち並ぶ。そして通りの真ん中には中央分離帯みたいに刈り揃えられた高さ1メートルくらいの植え込みが続き、その脇には動物の形をした白いオブジェが所々に設置されている。人通りは駅前ロータリーよりも多くて、学生風の若者以外にも犬を連れた老夫婦、幼い子供を肩車した家族連れ、ギターを背負ったおじさんなんかが行き交ってた。
「いい町だね。なんだか優しい感じ…あたし、こういう雰囲気好きよ」
 一緒に歩きながら彼女が言う。
「動物のオブジェも可愛いわ。ほら、あそこにもある」
「ええと、あれはライオンかな?」
「よく見なって、ゾウさんだよ」
「ほんとだ、耳が大きくて鼻が長いや」
 とにかく楽しかった。何がとかどこがとかじゃなくて、こうやって二人で会って話してることがほんとに心から楽しかった。一応女性誌に載ってた悩殺スマイルを鏡の前でさんざん練習してきたけど、そんなのはすっかり忘却の彼方。
 れんが通りを抜けて角を曲がった所で『コロ』っていうこれまた可愛い名前のレストランにたどり着く。時刻は11時半少し前。
「予約よりちょっと早いけど大丈夫だろ」
 彼がドアを開けると、カランと心地良いカウベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お待ちしておりました」
 若いウエイトレスの笑顔に迎えられる。その案内で二人は窓際席へ向かったけど、小さな男の子がこっちに駆けて来た。ウエイトレスは「少々お待ちください」と立ち止まって少年をやり過ごしてから「こちらでございます」とテーブルを示した。向かい合って座るとそれぞれにメニューが手渡される。
「本日はエビドリアがお休みとなっております。お水は今お持ちしますので」
 ウエイトレスが去ってから彼女が切り出す。
「随分丁寧なウエイトレスさんね。エビドリアがお休みなんて、言わなくてもメニューにお休みのシールが貼ってあるのに」
「ん? そうかもな。あいつ、結構心配性なんだ」
「知り合いなの?」
 心が少しだけ波立つ。彼ははっとしたように「大学の時の後輩なんだ」と付け加えた。
「そうなんだ」
 それ以上の言葉は続かない。彼がどんな青春を送ってたのか…彼女は知りたいような、知るのが怖いような気持だった。
「それより何食べる? 好きなの選べよ」
 彼が明るく尋ねた。気を取り直して彼女も笑顔を作る。
「そうね、お薦めとかあるの? 常連なんでしょ?」
「常連っていうか、学生時代はよく通ってたよ。例えば、ベタだけどオムライスとか絶品だぜ。ケチャップがオリジナルなんだ。ビーフシチューもいいぞ、肉がトロトロに軟らかくて。パスタとかピザなら二人で分けてもいいし…」
 彼はメニューを上から一品ずつ解説してくれる。
「どれもおいしそう。じゃあ、あたしはオムライス」
「俺はカレーピラフにしようかな」
 どうしてだろう。ただ食べる物を選んでるだけなのにすごく幸せな感じ。間もなくさっきのウエイトレスが水を持って来て彼が注文を伝える。彼女はついじっと横顔を見てしまう。そのあどけなさの残る微笑み方にはあの頃の面影が見える。やがて注文を終えた彼がこっちを向いたので彼女は慌てて目を逸らした。彼は特に気に留めた様子もなくまっすぐな瞳を向けている。
「本当に…不思議な感じだよ。こうやって東京で二人で会えるなんてな」
「そうだね。二人で会って話すのなんていつ以来だろ」
 わざとそう言ったけど、彼女はその質問の答えを知っていた。確かめたかったのだ、彼も憶えていてくれるかどうかを。すると彼はすんなりと返した。
「ほら、あれじゃないか? 受験の少し前に…図書館で偶然会ってさ、自販機のとこで二人でたくさん話した時だよ」
「そうそう、そうだったね」
 馬鹿、なんで今思い出したようなこと言うのよ。ずっと忘れてなかったくせに。彼女は胸の中で自分をたしなめる。
「確かあれも2月の…14日だったんじゃないか? ってことはマジでぴったり十年ぶりの再会か。運命みたいだな」
「確かに奇跡的…かも」
 また心臓がバックんバックンしてくる。そして運ばれる二人分のオレンジジュース、そのグラスを掲げて彼が言う。
「じゃあ奇跡の再開に乾杯」
「乾杯」
 差し出された彼のグラスに彼女はグラスを合わせた。

 これも十年前のあの日と同じ、語る言葉は尽きることがなかった。時には手を打って笑いながら、時には一緒に思い出すのに頭をひねりながら、彼女はおいしい食事と愛しい時間を味わった。お皿が空になっても話題はまだ盛り沢山。追加でケーキやコーヒーも注文して、まるでまきをくべ続けていく暖炉みたいに幸福な時間はいつまでも赤々と燃え続けた。
「それにしても…」
 一息ついて彼が言う。
「本当に警察官になってくれたんだな。君は警察官に向いてるっていつか俺が言ったの憶えてるか?」
「うん、憶えてる。最初はびっくりしたけど、もしかしたらあの言葉のおかげかも…お巡りさんになれたのは」
「そう言ってくれると嬉しいぜ。頑張れよ、俺も…頑張るから」
 そこからようやくお互いの近況を報告した。彼も実は法学部を卒業し司法試験に合格、現在は新米弁護士で修行中とのことだった。ただその話題になるとどこか口が重たくなる雰囲気があったので彼女は深くは追及しなかった。
 コーヒーを飲み干してふと見ると窓の外は暗くなってきている。
「もう…5時だね。すごい、ずっと話してたんだ、あたしたち」
 彼女が言うと彼も水を飲んで答えた。
「楽しい時間は速いって本当だな。こんなに笑ったの久しぶりだよ。店にも悪いから…そろそろ帰るか。駅まで送るぜ」
「…うん」
 帰るっていう言葉にちょっぴりは寂しくなったけど、その何倍もの満足感が心をいっぱいにしてた。それに夜のシミュレイションは全くしてきてないし、ボロが出る前に健全な時間で解散するのがよいと彼女もそう思った。
 二人が腰を上げると、あのウエイトレスがまた丁寧に出口まで案内してくれる。
「無事警察官になったお祝いってことで」
 よくわかんない名目で彼がおごってくれたので、彼女は素直に「ごちそうさま」とそれに応じた。学生時代は男の子と食事しても絶対割り勘を譲らなかったのにな…なんてどうでもいいことをふと考えたりもする。
「ご来店ありがとうございました。お気を付けて」
 ウエイトレスの明るい声を背中に受けながら、カウベルを鳴らして二人で店を出る。冷たい空気に包まれたけど、もちろんヘッチャラ。そしてまたゆっくり駅を目指す。
 れんが通りにはもうあんまり人が歩いてなかったけど、常夜灯のれんが道は昼間とは違うシックな味わいがあって、そこに並ぶ動物のオブジェたちも幻想的で素敵だった。さすが、どこぞの芸術家がデザインした道だなって感心する。

 ふと気付けば二人とも黙って歩いてた。彼女は胸の奥で自問自答する。このままでも十分に合格点、文句なしに楽しい一日だった。でも最後のミッションがまだ残ってる。どうしよう…レストランでも会話しながら何度かバッグの中のそれに触れてがいたんだけど、どうしてもタイミングが掴めなかった。
 れんが通りを抜け、少しずつ駅が見えてくる。もうあんまり時間がない。そう思うとまたあのピリピリがぶり返してきた。どうする? どうする? やっぱり余計なことはしない方がいいかな? そうだよね、せっかく楽しく過ごせたんだし、気まずくならない方がいいよね。やっぱりやめておこう…。
 怖じ気づきそうになったところで、彼女のおでこに冷たい粉が舞い落ちる。
 …スリー。
 遠い昔に聞いたようなカウントダウンが聞こえた。
「え?」
 思わず空を見上げる。それは故郷ではすっかり見飽きた自然の宝石…粉雪だった。
「東京でも…降るんだね」
「ああ、時々はな。ほら、傘持ってきて正解だろ?」
 そう言って彼も立ち止まる。そして目を細めて続けた。
「懐かしいな、北海道の雪。こっちに来て十年も経つけど、やっぱり…俺は北海道が好きだな」
 …ツー。
「また帰ってくればいいじゃない。弁護士事務所なら北海道にもたくさんあるよ」
「そうだよな」
 …ワン。
 彼の頬に粉雪が数粒舞い落ちる。優しく、そしてどこか寂しく微笑む彼。それを見た瞬間に彼女はようやく確信した。ずっとわかってたこと、ずっと当たり前だったこと、ずっと…宝物だったこと。
 あの頃から、あたしはずっと彼に恋してたんだ。彼とよく目が合ってたのは彼が自分を見てたからじゃない、自分が彼を見てたからだった。
 ゆっくり息を吸う。雪は見るに見かねた神様からのきっと最後の一押しだ。

 …ゼロ!

「あのさ!」
 また場違いに大きな声が出た。ドッキンコドッキンコと限界まで脈打って破裂しそうな心臓。頑張れ自分、ファイトだ自分を何度も胸の中で叫びながら、彼女は震える手でバッグからそれを取り出した。大きなリボンのついたチョコレート。俯いたままそれを彼の前に差し出す。
 雪が少し強くなった。数秒だったのか、数十秒だったのか。彼は何もアクションを起こさない。受け取ってもらえない不安で息が詰まりそうになる。
「あの、これ、一応2月14日だからっていうか、その…」
 潰れる喉でそう言った瞬間、あたたかい手が彼女の手に重なる。そしてチョコレートをしっかりと受け取ってくれた。受け取って…くれた!
「バレンタインチョコか、サンキュー」
 いつもどおりのその口調に涙がでそうになる。彼女は真っ赤になった顔を上げた。
「アハハ、キャラが違うかな」
「いや、ありがとう。マジで嬉しい。大切に食べるからな」
 さらに雪が強まってきたので彼が傘を開く。
「どうぞ」
 この世界にこんなに嬉しい誘いがあるだろうか。彼女は彼の隣に身を寄せる。
「どうも」
 相合傘のまま駅のロータリーを進み、そのまま建物の中に入った。傘は閉じたけど二人の距離はそのまま。そして改札口の前まで来る。
「雪、大丈夫かな。この傘貸そうか?」
「大丈夫よ、道産子だもん。そっちこそ気を付けてね。帰りはバス?」
「いや、近い殻俺はタクシーで帰るんだ」
「あらあら贅沢ね。じゃあ…今日はありがと」
 あんまり話してると顔が赤いのがばれそうだったので彼女はそう言った。
「じゃあまた…」
 そう言いかけた彼女の言葉を遮って彼が口を開く。
「また必ず会おうな。来月も東京にいるんだろ? じゃあ来月会おう、できれば一か月後の…3月14日に」
 全ての音が消え、時間がスローモーションになる。また…会える。彼の方から会おうって言ってくれた。しかも次は…ホワイトデー。
「う、うん、お休みがもらえるように頼んでみるね」
 きっと顔は真っ赤を通り越してユデダコ状態。
「そうか、よかった。じゃあ…また、メールくれよ。じゃ、じゃあ初デートはここまで!」
 そう言うと彼は小走りで去っていく。焦って何度も通行人にぶつかりそうになってる。
「…バカ」
 そんな後ろ姿を見送ってから彼女は改札をくぐった。そして胸の中で叫ぶ。

 …ミッション・コンプリート!