第三話 花火の夜の暗号

「いいじゃん、一緒に寄っていこうよ」

「ごめん…そういう場所が得意じゃなくて」

私がそう頭を下げると、彼女は「わかってますとも」と微笑んだ。

「一応誘ってみただけ。まあ確かにあんたが浴衣なんか着たら男共が集まってきて大騒ぎになっちゃうからね」

「もう美佳子ったら、そんなわけないでしょ」

少しだけ怒ったふりをして私はアイスティーを口に運ぶ。よくクーラーのきいた店内でもその冷たさはやはり喉に心地良かった。

私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司は私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

そして今、喫茶店でテーブルの対面に座っている彼女の名前は氏家美佳子。長い黒髪にスラリと長身、警視庁交通課勤務の婦人警官だ。私にとっては職場の同僚であり、こんなふうに仕事帰りに一緒にお茶できる数少ない友人でもある。だからできるだけ彼女の頼みには応えたいとは思うんだけど…さすがに一緒に浴衣を着てお祭りに行くのは厳しい。そう、今夜は夏帆川の花火大会。隅田川の花火大会ほどではないにしろ、それでも数百人規模の人が動く。

「しょうがない、いつもどおり缶ビールで一人晩酌とするか。ああ、独身女の悲哀を感じるわ」

美佳子はそんなことを言いながらアイスコーヒーのグラスを振る。カラン、と氷が清涼感のある音を立てた。私は苦笑いで窓の外を見る。まだ明るさを残す7月末の宵の口。腕時計を見ると時刻は午後6時15分。やっぱり7時からの花火大会の影響なんだろう、浴衣姿の若い子も混じって東京の街はいつも以上に人手が多かった。

…ピロリーン。

と、そこでテーブルの隅に置かれた美佳子のスマートフォンが小さく鳴った。

「電話?」

「ううん、ショートメール。ちょっとごめん」

グラスを置いて画面を確認、すると美佳子は「なんだこりゃ」と眉を八の字にする。

「どうかしたの?」

「いや、小学校時代の男友達からなんだけど…意味不明」

彼女はスマートフォンをこちらに向ける。そこには平仮名で『せんこう』とだけ書かれていた。確かにわけがわからない。ちなみに差出人の名前は『白木幸太郎』。

「何だろうね。打ち間違い…それともフラッシュライトの閃光のことかな。あるいは専門学校のコースで基礎と専攻とか」

「あたしと同い年なの、とっくに学校は卒業してるわよ。先生って意味の先公かもね。あたしはポリ公だっつーの」

不良言葉を並べながら美佳子はスマートフォンを耳に当てる。謎のメールの送り主に電話しているのだろう。しかし三十秒ほどで彼女はコールをやめた。

「電話にも出ないし、いったい何なのよ。まあいいわ、ほっとこう」

美佳子はスマートフォンをテーブルに置く。そして私たちはまた何気ないお喋りに興じた。しかし十五分後、再びピロリーンの音。画面を確認した美佳子は眉根を寄せている。

「もう、いったい何なのよ」

「また同じ人から? 今度は何だって?」

再びこちらにスマートフォンが向けられる。平仮名で『うちあげ』と書かれている。先ほどの『せんこう』と合わせても全く文章のていを成していない。あえて無理矢理解釈するなら…。

「打ち上げのお店に先行する、つまり先に行くって意味じゃないの? あるいは打ち上げのお店を選考、つまり選んでますって意味かも」

「別にあたし、こいつと打ち上げするようなことないわよ」

「最近会ってないの?」

「直接会ったのは学生の頃が最後。あ、でも電話とかメールとかは時々してたけど。そういえば昨日もあたしからショートメール送ったわ、お盆にある同窓会に行くかどうか確認したの」

「そう…」

答えながら私は少しうらやましさを感じる。普段から連絡を取り合ったり、示し合わせて同窓会に行ったり、私にはそういう友達がいない。でもそれはもちろん私自身の責任。美佳子に男女問わずたくさんの友達がいるのは、間違いなく彼女の人柄の賜物だ。

私はアイスティーをまた一口。すると美佳子の手の中のスマートフォンがメロディを奏で始めた。今度は電話の着信らしく、彼女はまた耳に当てる。私はてっきり白木という男からコールバックがきたのだと思ったが、どうも違うようだ。

「そうなの? う~ん、わけわかんないなあ」

奥まった場所のテーブルとはいえ、一応店内のため彼女は気を遣いながら小声で話す。

「あたし? ううん、仕事はもう終わってる。今は…喫茶店にいるけど。え、場所? ちょっとあんた来るつもりなわけ? いや、別にいいけどさ」

美佳子は電話の相手にこの店の場所を伝えている。そしてそれが終わると通話も終えた。続いて小さく溜め息。

「ごめん、今から人と会うことになっちゃった」

すまなさそうな彼女に私はかぶりを振る。別に何か重大な用件があってお茶してたわけじゃないからそれは一向に構わなかった。ただ…彼女の身の回りで何が起きているのかは少々気になる。私のそんな表情を察したのか彼女は説明を始めた。

「あんたには事情を言っておくわ。まあどうでもいいっちゃどうでもいい話なんだけどね。

まずメールを送ってきた奴の名前は白木幸太郎(しらき・こうたろう)。んで今電話かけてきたのは村江洋介(むらえ・ようすけ)。二人とも小学校の時の同級生でね、家も近かったからよく三人で遊んでたんだ。でもあたしだけ私立の中学に行っちゃったから、その後は時々会うくらいの感じ。さっきも言ったけど社会人になってからは全然会ってなかったの」

私は頷きだけを返す。

「でも幸太郎と洋介は中学も高校も大学もずっと一緒でね。なんか二人とも日本史とか世界史とか好きでさ、いつだったかな、歴史研究会なんていう同好会も作ったとか言ってたわ。あ、ごめんごめん、脱線したね。それでね、洋介が今電話で言ってたのは、幸太郎から洋介に電話がついさっきあったんだって。

幸太郎は洋介にこう言ったそうなの…『美佳子に暗号のメールを送ってるからそれを一緒に考えてやってくれ』って」

なんとなく状況はわかってきた。

「それで今から村江さんがここに来るのね?」

「そういうこと。近くにいるから三十分くらいで来るってさ。別に来なくてもいいんだけど。そもそもどうして暗号解読なんかしなくちゃいけないのよ」

「白木さんってそういう悪戯っぽいことする人なの?」

美佳子は「う~ん…」と唸りながら頭を掻く。

「どうだったかな。確かに自分で考えたクイズとかよくあたしたちに解かせたりしてたかな。でもそんなの子供の頃の話よ」

そうこう言っているうちにまたピロリーン。届いたショートメールには平仮名で『へび』と一言。

「今、6時45分だから、ぴったり十五分おきに送られてるわね」

私が指摘すると美佳子は頬を膨らませる。

「ああ、もう何だっつーのよ!」

彼女は残りのコーヒーを飲み干すとそのままお代わりを注文した。

届いたメッセージをローマ字にしたり英語にしたり、あるいは分解して並び替えてみたり、二人で色々やってみたけど暗号はビクともしない。

「ねえ、なんかひらめかないの? 捜査一課の刑事さん」

「そう言われても…」

刑事だからって暗号解読が得意なんてことは全くない。推理小説ならともかく、実際の事件に暗号が絡むケースなんてそうそうないのだ。

「おたくの警部さんなら解けるんじゃない?」

美佳子が言う。確かに警部なら…私の上司のあの人ならもしかしたらすぐに解いてみせるかもしれない。

「さすがにこんなプライベートなことを頼むわけにはいかないわよ。それにもしあっさり解かれちゃったらシャクだし」

警部の天才気取りの顔が浮かぶ。いやだいやだ、絶対力なんか借りない!

午後7時ジャスト、4通目のメールが届くと予測していたがそれはなかった。ということはこの3通で暗号は終わり…と思っていると、7時15分、またもやピロリーン。そしてそれとほぼ同時にカランとドアのカウベルが鳴って喫茶店に一人の男が入ってきた。彼は美佳子を見つけるとひょいと右手を挙げてみせる。どうやらあれが村江洋介らしい。Tシャツにジーンズ姿、短髪にやや釣り目のその男は店員に何か注文してからまっすぐこちらにやってくる。

「美佳子、久しぶり。ええと、こちらさんは?」

怪訝な顔の彼に私は軽く挨拶と自己紹介。

「ああ、職場のお友達ですか。初めまして、俺、村江洋介です。お邪魔してすんません。それにしても…すっげえお綺麗ですね、女優みたいだ」

「こらナンパ男、そんなのいいから早く座んなさい」

美佳子が自分の隣の席をパンパン叩く。彼はヘイヘイとそれに応じた。私はもちろんノーリアクションのポーカーフェイス。

「それで? 幸太郎からの暗号メールはどうなってんの?」

「どんどん届いてるわよ。たった今最新のメールが来たとこ。まったく、あいつ何考えてんの? 電話で何か言ってなかった?」

「いや…美佳子と一緒に暗号の答えを考えろとしか。そういえば『解いたら俺の居場所がわかるぜ』とかも言ってたっけ。どういう意味だろうな。まあまあ美佳子、仏頂面すんなって、いいじゃん、こういうのも楽しくて。なんだかガキの頃に戻ったみたいじゃねえか」

「冗談じゃないわよ、こちとら社会人だっつーの! あんたらちゃんと仕事してんの? その格好…まさかまだフリーター気取ってんじゃないでしょうね」

「人聞き悪いなあ。今は未来のための準備期間なんだよ。俺は夢に生きてるんだ。まあお堅い公務員のオカチメンコさんにはわかんねえだろうけど」

「言ったわね、この勘違い男!」

なんだか幼馴染同士の世界になってきた。邪魔しちゃ悪いので帰ろうかとも思ったが、私は一応4通目を確認することにした。

「それで美佳子、今届いたメールには何手書いてあるの?」

「そうだそうだ、ええっとね」

彼女はスマートフォンを操作する。

「平仮名で『ろけっと』よ」

これまた予想外のワードだ。そこで店員が村江にエスプレッソを運んでくる。それを一口飲んでから彼は「これまでの3通のメールの内容も教えてくれよ」と美佳子に頼む。彼女はじろりと睨み返し、やれやれといった感じで解説。私もそれを聞きながら頭の中で反芻した。

せんこう、うちあげ、へび、ろけっと…?

あれ、なんだかわかりそう。この単語の羅列、どこかで聞いたような…。

窓の外を見る。ようやく日も暮れた東京の街。確か今夜は…。

線香、打ち上げ、へび、ロケット…?

「あっ!」

思わず声が出た。二人は同時にこちらを見る。

「どうしたの? もしかしてわかったの?」

「いや、えっとね」

少し迷った。答えはわかった…と思う。でも白木って人は美佳子や村江に解いてほしくて暗号を送ったんだろうし、部外者の私がしゃしゃり出るのは…。

「わかったんなら教えてよ」

「えっと、でも…」

「そうか!」

突然村江がひらめいたように言った。

「花火だよ花火。これ全部花火の種類じゃねえか。線香花火、打ち上げ花火、へび花火、それにロケット花火」

美佳子も「あっ」と目を見開く。私が思い至った答えも同じだ。よかった、ちゃんと関係者が解いてくれて。

「なるほどね。でも、だったらどうして平仮名で『せんこう』なんて書くのよ」

「漢字で書いたらすぐわかっちまうからだろ。二番目に『うちあげ』を持って来たのもミソだな。普通は宴会の打ち上げを想像するから混乱させられるって寸法だ」

まるで出題者のように得意げに開設する彼。

「ねえ、幸太郎はこれで自分の居場所がわかるって言ったんでしょ? ってことはつまり花火が見える場所にいるってこと?」

「そういうことだな。じゃあ今夜の花火大会の会場にいるってことか? いや、そうじゃない。俺たちだけにわかる場所があるじゃねえか。つまりそれは…あそこだよ!」

「そうね、そういうことだわ」

二人だけで納得して話が進んでいく。私は完全に置いてけぼりだ。でも優しい美佳子はすぐに補足してくれる。

「小5の時、三人で夏帆川の花火大会に行ったのよ。でもすっごい人でさ、落ち着いて見られる感じじゃなかったの。そしたら幸太郎が近くの廃ビルの屋上から見ようって…まあ今から思えば不法侵入なんだけどね。でもとっても綺麗に見えたの。だから小6の時もそこから三人で見たの」

「三人だけの秘密の場所か。なるほど、じゃあ白木さんは今夜もそこから花火を見てるってことね」

全て解決した。村江も大いに頷いている。もしかしたら自分の活躍で答えが出せたのが嬉しいのかもしれない。

「よっしゃ美佳子、今から俺たちも行ってみようぜ。あいつもそれを待ってるんだろうし、ついでに花火も見ればいいじゃん。花火大会はもう始まってるけど、今から行けば後半は見られるぜ」

「だから不法侵入だって言ってるでしょ」

「堅いこと言うなって」

「ダメ、あたしが何の仕事してるか知ってるでしょ」

しばしの問答。結局電話しても白木が出ないのであくまで彼を注意するためという名目で美佳子もそこへ行くことになった。

喫茶店を出たところで私は二人と別れる。ここから先は思い出の世界、さすがに部外者は遠慮しないと。まあせっかくだから三人で懐かしの場所から花火を楽しんでくればいいと私はこっそり思った。

そのまま徒歩で駐車場まで戻りマイカーに乗り込む。気付けば満車。今夜は花火大会に合わせて川沿いに露店も出てるから、きっと家族連れも多いのだろう。まあいずれにせよ…私には縁のない話。イグニッションキーを回すとブルンとエンジンが嘶く。

そのまましばらく家路を走らせていたところで美佳子からの電話が鳴った。道路脇に停車してそれに出ると驚くべき事実が告げられる。

…白木幸太郎の遺体を発見したというのだ。

「警部、正面に見えてるあのビルです」

ハンドルを握ったまま私は言った。

「もともとはデパートになる予定だったのが開業前に経営破綻して、今もそのままビルだけ残ってるみたいです」

「了解」

助手席から低くてよく通る声が返した。そこに座っているのは真夏だというのにボロボロのコートとハットに身を包み、おまけに長い前髪が右目を隠している異様極まりない人物。この警視庁切っての不審者こそ私の上司・カイカン警部である。しかも今夜はその手にビニール袋が握られ、そこから甘い醤油だれの香りが漂っている。そう、警部が手にしているのはお祭り屋台の定番だ。

美佳子からの連絡を受けた私は間髪入れずに警部に電話した。するとお祭りの露店を巡っているというではないか。なので私は愛車で近くまで乗り付け警部を拾い、そして現場のビルへと向かっているわけだ。まあたまたま近くにいてくれたのは有難いが、こんな格好でお祭りの歩行者天国を歩いてよく通報されなかったものだ。

「しかし警部、夜店がお好きなんですか?」

「それもある。けど、やっぱり一番のお目当てはこれさ。タコ焼きや焼きそば、フランクフルトなんかは普段でも買える。でもこれだけはお祭りの屋台でしか手に入らない貴重品だからね。だから必ず買うようにしてるんだ」

得意げにビニール袋を掲げる警部に私は「そうですか」と相槌。どうでもいい質問をしてしまった。

間もなく廃ビルの脇に停車。さすがにシャッターが降りていて中には入れないが、外階段を通れば屋上へは行くことができる。外階段の入り口は奥まった所にあるとはいえ、いささか無用心なのは否めない。

「ほら警部、急いでください」

後ろを振り返ると変人上司はヒイヒイ言いながら階段を昇っている。

「こりゃきついよムーン。屋上までどれくらいあるんだい?」

「5階建てですからさらにもう一つ上になりますね。まったく、普段からエレベーターばかり使ってるからですよ」

気付けば警部の手にビニール袋がない。

「あれ、お祭りのお土産はどうされたんですか?」

「ああ、君の車のダッシュボードに入れさせてもらったよ」

…うわ最悪。

現場検証開始。白木幸太郎は貯水タンクの陰に倒れていた。すでに所轄捜査員と鑑識班が到着し屋上は物々しい雰囲気。それとは対照的に遠くの夜空には大輪の花火が次々と咲き乱れている。少し離れてはいるが確かにここは穴場のスポットだ。花火が揚がる度に照

らし出される死者の横顔は物悲しく、作られる影絵はまるでこの社会の人知れぬ暗部を表しているかのよう。花火という幻想と殺人という現実、今ここはそんな二つの世界の狭間なのだ。

美佳子は捜査員たちの輪の外に立っている。しっかり唇を結んではいるが、その瞳は視点が定まっていない。隣で村江もすねた子供のような顔で佇んでいた。

「大変でしたね」

私はあえて敬語で二人に声を掛けた。そして花火の音を避けるために一度屋上の隅まで移動してもらい事情を伺った。

あの喫茶店を出た後、二人は地下鉄でこのビルまで来て、外階段を昇り屋上に到着。そこに白木が待ち構えていると予想していたがその姿が見えない。美佳子はあきれて溜め息をついたが、村江は白木の名を呼びながら駆け出し辺りを捜索、貯水タンクの裏に回った時に倒れている彼を発見した。身体を揺さぶっても反応がなく、首に絞められたような跡があるのを見た村江は絶叫する。その声を聞きつけた美佳子も慌てて貯水タンクの裏に回り幼馴染の亡骸を確認。これが大まかな遺体発見の流れだった。

「美佳子、大丈夫?」

小声で尋ねる。彼女は「平気」と返したがその顔には喜怒哀楽のどの感情も浮かんでいない。村江にも調子を尋ねたが、彼は「どうして幸太郎が…」と呟くだけだった。

「また必要な時にお呼びしますのでお二人はここで待っていてください」

仕事口調でそう伝えると私は捜査員たちの所へ戻った。そして鑑識からの報告を受けることにする。普段は私が先に臨場して情報をまとめ、遅れて来る警部にそれを伝えるのがルーチン。しかし今回は警部も一緒にいる、だから一緒に話を聞く…とはならないのがあの人。変人上司は捜査員の輪から一人離れて静かに花火を見つめていた。

「では、お願いします」

私が手帳とペンを構えると、鑑識員は丁寧に説明してくれた。

遺体は後ろから首を絞められており死因は窒息死。凶器はビニール紐で、もともと屋上に散乱していた物を犯人が拾って使ったと考えられる。死亡推定時刻については、詳細は解剖を待ってからになるが、現場の検死では午後6時から7時半の間で概ね間違いなしとのことだった。

被害者の所持品は財布、家の鍵、ハンカチ、そして携帯電話…スマートフォンではなくガラケイ…がズボンのポケットにあった。ショートメールの送信履歴を見ると、最初の『せんこう』が6時15分、『うちあげ』が6時30分、『へび』が6時45分、そして『ろけっと』が7時15分だった。私の記憶している着信の時刻とも一致しているから、あの暗号メールが被害者の携帯電話から送られたことは間違いない。しかも未送信の『ねずみ』というメールも残っていた。つまり白木は少なくとも午後7時15分までは生きていて、次の『ねずみ』を送る前に殺害されたことになる。先ほどの死亡推定時刻と合わせると、犯行時刻は7時15分から30分までの間だ。多くの人が幸福な気持ちになっていただろう花火大会

のさなか、彼はこんな場所で密かに命を奪われたのだ。

私は改めて遺体とその周辺を観察する。するとすぐ近くにストローのついたドリンクの紙パックが落ちているのに気付いた。サイズはかなり大きい。

「これも…被害者の所持品ですか?」

「はい、容器から被害者の指紋が出てます。お祭りの屋台で売られているビッグコーラですね。まだ中身は半分以上残ってますよ」

「そうですか…ありがとうございます」

鑑識員にお礼を言って私はまた少し辺りを歩いてみることにした。犯人の遺留品でもあればいいのだが…あからさまな物は落ちていない。

それにしても犯人はいったい何者なのだろう。凶器がその場に落ちていたビニール紐であることから考えても、これは突発的な犯行だ。白木は花火を見るためにここに忍び込んだ。たまたま同じように忍び込んだ人物が他にいて、何かトラブルにでもなったのだろうか。

それとも…もともと白木は誰かとここにやってきて、その相手とトラブルになったのだろうか。そうだ、その方がしっくりくる。いくら穴場でもたった一人でここに花火を見に来たとは思えない。花火大会は7時から。それに合わせて彼は誰かとここにやってきたのではないか? となると…。私は駆け戻ってまた鑑識員に尋ねる。

「あの、すいません。被害者の飲みかけのビッグコーラの他にもドリンクは落ちていませんでしたか?」

「いえ、現場に落ちていたのはこの1本だけです」

ダメか、もう1本落ちていれば連れとここに来たことが証明できると思ったんだが…。いや待て待て、犯人が連れなら自分のドリンクを持ち去って逃走しているはず。となると確認する方法は…!

運営事務局に問い合わせると今夜のお祭りでビッグコーラを売っている屋台は一つだけだった。私はさっそくそこを訪れ、被害者の財布にあった免許証を見せながら確認する。周りは文字通りお祭り気分のお祭り騒ぎ、そこで警察手帳を示すなんて無粋極まりないが仕方ない。

「いやあ嬢ちゃん、誰に何本売ったかなんて憶えちゃいねえって」

鉢巻きにべらんめえ口調、典型的な江戸っ子気質の店主が答える。それにしてもこの歳で嬢ちゃん扱いされるとは。

「よく写真を見てください。この人です、ここにビッグコーラを買いに来たはずなんです。売った本数がわからなければ、連れがいたかどうかを思い出してください」

「てやんでい、嬢ちゃん、えらくベッピンだけど無理は言っちゃあいけねえ。こんなに人

がごった返してんだ、いちいち連れのことなんて憶えてられるかよ。そいつが来たかどうかも憶えてねえのに」

「ちょっと待ちな松さん」

威勢のいい声が飛んでくる。隣の射的屋の店主だ。彼は下あごをボリボリ掻きながらこちらへ来ると、じっと私の持つ写真を覗き込んだ。

「これあいつだよ、ほら、憶えてねえか? 金払う時に手から落として」

「ああ、そうかあいつだ!」

松さんと呼ばれたドリンク屋の店主はピシャリと自分の広い額を打った。

「すまねえ嬢ちゃん、確かにこいつは店に来た。まだ花火大会が始まる前だ。払おうとした小銭を落としやがって、それで隣の池さんにも拾うのを手伝ってもらったんだ」

池さんというのが射的屋の店主らしい。

「俺の店の方まで転がってきてよ。そのままネコババしようかと思ったぜ。おっと、刑事さんの前でこりゃまずかったな」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。でも連れがいたかどうかはわかんねえな」

「払ったお金はいくらだったんですか?」

「1000円だったのは憶えてる。拾った小銭を数えたからな。でもすまねえ、何本買ってったかは憶えてねえ」

「いえ、十分参考になりました」

私は写真をしまって一礼する。屋台の看板を見るとビッグコーラは1本500円。もし白木がお札で1000円渡したのなら1本買ったか2本買ったかは特定できない。1本買ってお釣りをもらおうとした可能性もあるからだ。しかし小銭で1000円渡したとするとそれは2本買う場合しか考えられない。当然だ、1本買うだけなら小銭で500円渡せばいいんだから。そしてビッグコーラは一人で2本飲む量ではない。連れがいたと考えた方が自然だ。

「ご協力ありがとうございました。すいません、お忙しい時に」

「ちょいと待ちな」

立ち去ろうとした私の左腕を松さんのたくましい腕がぐいと掴む。

「嬢ちゃん、売り上げに貢献してくれねえか? サービスするぜ」

「いえ、あの、お腹いっぱいなんで」

さっき喫茶店にいったばかりだし、ビッグコーラなんて私には無理。すると今度は池さんが私の右肘を引っ張る。

「じゃあこっちだ。美人の刑事さんよ、一発撃って行ってくれ」

「おいこら池さん、ずるいぞ!」

「俺のおかげで思い出したくせに。よし、じゃあ本職の腕を見せてもらうぜ。さあさあ皆様寄ってらっしゃい見てらっしゃい、美人女刑事さんの脅威の狙撃術だ!」

池さんはそう言いながらパンパンと手を打つ。な、なんてことを…。訂正しようにももう手遅れ、周囲には人だかりができつつあった

「え、刑事? ドラマの撮影か?」

「うわあほんとに美人。あたし一緒に写真撮ってもらおうかな」

どんどん大騒ぎになってくる。池さんはニコニコしながら私に射的用のピストルを握らせる。松さんも「どうでい、射撃見ながらビッグコーラを飲まねえか!」と集まったお祭り客を相手に商売根性全開。もう、こんなことしてる場合じゃないのに!

「わかりました!」

こうなりゃヤケクソ。さっさと済ませて立ち去ろう。私は銃口を標的に向けた。周囲から上がる謎の歓声。

「行け、嬢ちゃん!」

松さんが叫ぶのと同時に私は引き金を引いた。

なんだかどっと疲れた。再び廃ビルの屋上への階段を昇りながら私は考える。

これで白木が連れと一緒にここに来た可能性は高くなった。では誰と…? ここは美佳子と白木と村江の三人が小学5年生の時に見つけた秘密の場所。であれば一緒に来る可能性が一番高いのは美佳子と村江だ。

でも…有り得ない。曲がったことが嫌いで思いやりに溢れた美佳子が殺人なんてするわけがない。いや、そういう私情は抜きにしても、美佳子は死亡推定時刻の午後6時から7時半まで私と一緒に喫茶店にいたんだから犯行は不可能だ。

じゃあ村江は? 彼が喫茶店に現れたのは4通目のメール『ろけっと』の着信とほぼ同時だった。つまり7時15分。この廃ビルからあの喫茶店までは地下鉄を使って約三十分、バスやタクシーでもそう時間は変わらないだろう。つまり6時45分にここを出れば、7時15分に喫茶店に現れることは可能。ようするに死亡推定時刻のうち、6時ジャストから6時45分までの間、彼にはアリバイがない。実は白木と一緒にここに来て犯行に及んだとすれば…。

いやいや大事なことを忘れてる。4通目のメールは7時15分、つまりその時刻まで白木は生きていたことになる。じゃあやっぱり村江は事件とは無関係…?

ドドン!

屋上に戻った時、一際大きな音がした。見るとハート型の赤い花火が上がっている。

「こりゃすごいね。最近はこんなのもあるんだ」

後ろから警部の声。振り返ると好物のおしゃぶり昆布を口にくわえた変人上司が立っていた。

「随分考え込んでたね、ムーン。それにどこへ行ってきたの?」

「あ、いえ、報告が遅れました。白木さんには一緒に花火を見に来た連れがいたんじゃないかと思って、彼がドリンクを買った屋台に確認してたんです」

「それで?」

「彼はビッグコーラを2本買っていたことがわかりました。やはり連れはいたようです」

「そう…。氏家巡査のためにもこの事件はしっかり解決しないとね」

私の隣まで来る警部。また新たな花火が上がり、その横顔が浮かび上がる。

「ここまでの捜査情報と君の考えを聞かせてくれ、ムーン」

「ナルホド」

聞き終えた警部は独特のイントネーションで頷いた。

「結構いいセン行ってるんじゃないかな。私も同感だよ。この屋上でたまたま出会った誰かに殺害されるなんて考えにくい。白木さんは一緒に花火を見に来た相手に殺された、と見るべきだろうね。そしてその第一候補は村江さんだ」

そこで警部の声が少し沈む。

「大丈夫かい? 氏家巡査の幼馴染を疑うのは心理的に抵抗が強いかもしれない。でも…」

「わかってます、大丈夫です。それが私たちの仕事ですから」

答えながら自己嫌悪も覚える。むしろそこで心理的抵抗を感じるような人間性が私にあればよかったのに。こんな状況でも私の心は極めて冷静…いや冷徹だった。

「よし、じゃあ考察を続けよう」

今度は声が少し優しくなった気がする。私は頷いて話を戻した。

「警部、村江さんにはアリバイがあります。白木さんが4通目のメールを送ったのは7時15分。彼はその時刻に喫茶店に現れました」

「確かにそのメールを送ったのが白木さんなら村江さんに犯行は不可能だ。でも手紙と違ってメールは誰が書いたのかわからないからね。白木さんの携帯電話を使って別人が送ることだってできるよ」

「別人とは…」

「もちろん村江さん本人さ。白木さんの携帯電話を失敬して喫茶店まで行って、店に入る直前に送信すればいいだけの話だよ」

そうか…それだけのことか。極めて単純なアリバイ工作だ。

「ひょっとすると暗号メールは全て村江さんが送ったんじゃないかな。白木さんがまだ生きていると見せかけるためにね。一応状況証拠もあるよ。3通目までは十五分おきに届いていたのに、そこから4通目のメールまで間隔が三十分空いたのは彼が地下鉄で喫茶店に移動していたからかもしれない。地下じゃ携帯電話の電波は届かないからね」

警部は右手の人差し指を立てる。

「考えてもごらんよ。1通目の『せんこう』のメールが届いた後、氏家巡査が電話をかけても白木さんは出なかった。暗号を送って楽しんでるんなら電話に出て思わせぶりなことでも言えばいいじゃないか」

「ではあの時点ですでに白木さんは…」

「殺されていたと思うね。ビッグコーラが半分以上残っていたこともそれを裏付けてる」

「となると犯行は6時過ぎ…それなら村江さんにも十分可能です」

「そうなるよね。そして彼は遺体の第一発見者だ。失敬していた携帯電話をこっそり白木さんのズボンのポケットに戻すこともできた。もちろん自分の指紋は拭いて、代わりに白木さんの指紋を付着させてからね」

相変わらず警部の推理はすごい。しっかり筋も通っている。でも…疑問がないわけじゃない。

「しかし警部、アリバイ工作でメールをするんなら、暗号を送るよりも普通に世間話のやりとりをした方が自然じゃないですか?」

「そうなんだよね」

立てていた指が下ろされ、警部は小さく息を吐いた。

「そこがわからないんだよ。村江さんが犯人だとすると、彼はアリバイの証人にするために氏家巡査に会いに行ったことになる。でも会いに行く口実を作るためにわざわざ暗号を作る必要はないよね。白木さんから誘われたから一緒に花火を見に行こうって言えばいいだけの話だ。むしろそっちの方がスムーズだよ」

「それに警察官の美佳子をアリバイの証人にするっていうのもおかしくないですか? リスクがあり過ぎですよ」

警部は黙ってしまう。そしてまた右手の人差し指を立て、そこに長い前髪をクルクル巻き付け始めた。考え事をする時の癖だ。

私は腕時計を見る。午後9時半を過ぎ、遠くの空では花火大会がフィナーレに入っている。ただその美しい幻想に心を預ける気にはなれそうもなかった。

「すいません」

そこで遺体の検死をしていた監察医が呼ぶ声。警部はしばらく黙考中なので自分だけそちらに行く。

「どうしました?」

「先ほど報告しなかったことが見つかりまして」

監察医は遺体の首を指差す。

「少し不自然なんですよ。吉川線が首の左側にしか見られないんです」

人は紐で首を絞められるとそれをはずそうとして抵抗する。そのため首にはかきむしったような跡が残る…これが吉川線だ。通常は両手で抵抗するから吉川線は首の左右に残る。しかしそれが左側にしかないとすると…。

「被害者は右手を使わなかったんでしょうか?」

「そういうことに…なりますかね」

監察医も明確な答えはないらしい。私は被害者の首を覗き込んだ。確かに引っ掻き傷は左側にしかない。私は警部の所へ駆け戻り今の事実を報告する。

「右手が…?」

その言葉を最後に変人上司はマネキンのように固まってしまう。

来た、これは警部の頭脳の導火線が着火したサイン。私の脳裏によぎる幼い頃の記憶。シュルルル…と砂浜を這う白い光、それが砲台に届いて夜空に火の玉を打ち上げる。そして天高く上った所で破裂して炎の花を咲かせる。同時に上がるいくつもの歓声、照らし出されるたくさんの笑顔。

ドドドン!

大きな音で我に帰る。目の前の夜空に花火大会の最後の一発が咲いた。そしてもう一つの花火も…。

「やっぱりね」

音に掻き消されることなく低く重たい声が告げる。マネキンから人間に戻った警部がゆっくりこちらを向いた。

「犯人は村江さんだ」

真実を照らし出す推理が暗闇に咲く。そしておしゃぶり昆布はその口へと呑み込まれていった。

遺体は搬出され、捜査員たちも撤収。濁った東京の空、灰色の闇が支配する静寂の屋上。そこに立つのは美佳子、村江、私、そして全てを見通すこの人。

「村江さん」

警部はいきなり名指しした。

「あなたは亡くなった白木さんにとっても、そこにいる氏家巡査にとっても友人です。そんなあなたを糾弾するような真似はできればしたくありません。もし何か心当たりがあるのなら正直におっしゃってくださいませんか」

「何ですかそれ、ちょっと待ってくださいよ」

彼は怒り半分、驚き半分で一歩踏み出した。

「まるで俺が犯人みたいな言い方じゃないですか。そ、そんなことあるわけないでしょ。な、美佳子!」

彼女は何も答えずただ黙って見つめ返す。

「おいおい冗談じゃねえよ。俺はお前とずっと一緒にいただろ。そんな俺がいつ幸太郎を殺すんだよ。俺がお前のいる喫茶店に着いた時、その直前に幸太郎からのメールが届いたんだろ? つまりあいつは生きてここにいたってことだよ!」

「いいえ」

低い声は感情なく否定する。そして白木の携帯電話を失敬しておけば代わりにメールを送ってアリバイを偽装することは可能だと警部は説明した。

「わざと5通目の『ねずみ』のメールを未送信で残したのはうまいやり方です。そのせいで、白木さんは4通目の『ろけっと』のメールを送った時までは生きていたように見せかけられますからね」

「知らねえよ、俺はそんなことしてねえ! 常識で考えろよ、どこにアリバイ工作でわざわざ暗号をメールで送る奴がいるんだよ」

「フフフ…私もそれが疑問でした」

変人上司は不気味に笑ってまた右手の人差し指を立てる。

「メールでアリバイを作るなら世間話のやりとりをすれば十分。どうしてわざわざあんな暗号を送ったのか…意味不明ですよね。しかし先ほど遺体の状態を聞いてその謎が解けました。ね、ムーン」

水を向けられた私は、咳払いしてから吉川線のこと、そしてそれが左側にしか残っていなかったことを説明する。

「ありがとうムーン。よろしいですか? 後ろから首を絞められたら誰だって必死に抵抗するはずです。なのに白木さんはどうして右手を使わなかったのか」

警部の声が圧力を増す。

「その時、白木さんの右手が何かで塞がっていたからです。ある物を握っていたから右手は使えなかった。ではそれは何でしょうか? ちなみにドリンクではありません。彼のビッグコーラは遺体の近くに転がっていました」

一瞬の静寂。そして…。

「携帯電話」

ポツリと答えたのは美佳子だった。警部は立てていた指をパチンと鳴らす。

「そうです。後ろから首を絞められた時、彼は右手に携帯電話を握っていた。たまたま電話しようとしていた時に襲われたのか、襲われてからとっさに取り出したのかはわかりません。でもそれを放さなかったと言うことは、彼は首を絞められながらも携帯電話を使おうとしていたということです。助けを呼ぶため…いや、犯人の正体を知らせるために」

村江の表情が凍る。

「白木さんはガラケイを使っていました。ガラケイなら片手でも操作できる、簡単な操作なら画面を見なくてもできます。首を絞められているわけですからね、電話をかけても声は出せません。となると残るはメールしかない。

氏家巡査、君は昨日白木さんに同窓会のことでメールしたんだったね。であればワンタッチで君への返信メールは作れる。警察官の君なら犯人を告発する相手としてもうってつけだ」

ショックに耐えるように美佳子がぐっと下唇を噛む。

「そして白木さんは息絶える前にメールを送信した。つまりこれが1通目のメール、あれは確かに白木さん本人が送ったメールだったんです」

「ふざけるな」

村江が身体をわなわなと振るわせる。そしてさらに一歩踏み出して声を荒げた。

「さっきから勝手なことばっかり言いやがって。俺があいつの首を絞めて、あいつがそれを知らせるために美佳子にメールを送っただと? 違う、あれはあいつの悪ふざけの暗号メールだ」

「いいえ、あなたが犯人だと伝える告発メールです。そうですよね、『そんこう』さん?」

排気ガスの悪臭を含んだぬるい風が通り過ぎた。村江の勢いが止まる。

「白木さんはあなたの名前を音読みして『そんこう』と呼んでいたんじゃありませんか?」

「でも警部さん」

代わりに口を開いたのは美佳子。

「あたしはそんなニックネーム知りません」

「きっと二人が中学に進んでからできたニックネームなんだろう。確か二人は歴史研究会だったね。もしかしたら有名な『白村江(はくそんこう)の戦い』から由来しているんじゃないかな」

もはや容疑者の域を越えた男は言葉を失ったまま項垂れる。

「あなたに襲われた白木さんは思わず呼び名れた『そんこう』と打とうとした。でも首を絞められながら、画面を見ずに打ったから『せんこう』になってしまったんです」

私はガラケイを使っていた頃を思い出す。さしすせその『そ』を入力するためには3のボタンを5回押さねばならない。それが4回だと『せ』になってしまう。白木が首を絞められながら手探りでメールを打ったとすれば十分起こりうるミスだろう。

「彼を殺害した後、メールのことに気付いたあなたは焦った。もしかしたら『せんこう』が『そんこう』の打ち間違いだと警察が気付いて、自分が疑われるかもしれない。なんとかこの『せんこう』のメールに別の意味を持たせなくてはならない。そこで思い付いたのが例の花火の暗号です。まあ今夜は花火大会でしたからね、線香花火を連想してそこから考えたんでしょう」

そういうことだったのか…私はようやく腑に落ちる。1通目のメールは被害者が送ったダイイングメッセージ、それをカムフラージュするために犯人は残りのメールで暗号に見

せかけた。ついでにメールの送信時刻をアリバイ工作にも利用したのだ。

無言の三つの視線を注がれ、彼はただ黙っている。遠くでクラクションが鳴り、また生ぬるい風が吹いた。

「…言って」

重い沈黙を破ったのは美佳子。

「本当のこと言ってよ、ねえ洋介! あたしも…おかしいと思ってた、喫茶店で会った時から」

それは涙声だった。

「だってあんたあの時言ったじゃない、『これまでの3通のメールの内容も教えてくれよ』って! あたしはあんたに『たった今最新のメールが来た』としか言ってなかったのよ。なのにどうして? どうして届いたメールが4通目だってあんた知って田の?

あたしはてっきりあんたと幸太郎が組んであたしに何かサプライズでもしようとしてるのかと思ってた。でも…幸太郎の遺体が発見されてもあんた何も言わなかった」

美佳子の瞳がどんどん潤んでいく。私も迂闊だった。喫茶店の時点で村江は致命的な失言をしていたのだ。自分自身がメールの送り主でない限り知り得ないことを口走っていたのだ。

再び長い沈黙。そして重たい口がようやく開かれる。

「だってあいつが…」

村江はゆっくり顔を上げた。

「あいつが美佳子にプロポーズするなんて言うから。今日の花火大会でハート型の花火が上がるって聞いて、あいつその瞬間に告白するなんて言いやがったんだ。電話してお前を呼ぼうと舌から、俺、思わず落ちてたビニール紐であいつの首を絞めたんだ。

だって俺、あいつと約束してたんだぜ? 資金を貯めたら一緒に海外で遺跡の発掘しようって。歴史を引っくり返すような大発見をしようって。それが中学の時にあいつと誓った夢だったんだ!」

誰も何も返さない。犯人は空しい語りを続けた。

「なのにお前と結婚したいだなんて言ったんだ! 日本で普通の家庭を築きたい、遺跡発掘なんていつまでそんな夢みたいなこと言ってんだって、あいつ、そう笑いやがったんだ! だから、俺は…」

彼は泣きそうな顔になったかと思うと、今度は急に笑い出す。

「ハハハ、笑っちまうぜ。俺だけだったんだよ、真剣に夢に生きてたのは。でももう終わりだ、全部終わりだ。これで人生おしまいだ!

ハハ、ハハ、せっかく考えたアリバイ工作だったのにな。あっさりばれちまった。でもなあ警部さん、あんたさっき言ったよな。3通目と4通目のメールの間隔が三十分空いたのは地下鉄に乗ってたからだって。そいつは違うぜ、俺はバスで移動してたんだ。

間隔が伸びたのはただ単に思い付かなかったからだよ。線香花火、打ち上げ花火、へび

花火、ロケット花火、ねずみ花火…もう一個花火の種類が思い付いてれば送ってたさ。でも思い付かないし、アリバイのためには『ろけっと』のメールは店に入る直前に送りたかったからな。それで三十分空いちまっただけだよ。

ハハハハ、傑作だ、なあ美佳子、笑っちまうだろ」

止める間もなかった。美佳子が村江の頬を打った。屋上に別離の音が響く。彼女は何も言わない。ただ涙で自身の頬を濡らしながら幼馴染を睨んでいた。

「村江さん…」

頬を腫らして呆然と佇む男に警部が告げる。

「どうして思い付かなかったんです? 一番大切な…『夢花火』を。あなたは本当に夢を追って生きていたんですか?」

返事はない。全てあとの祭りだった。

警視庁で美佳子からの聴取を終えると、警部の指示で私が彼女を家まで送る。村江の取り調べは警部が一人でやると言ってくれた。まあすっかり戦意喪失して自供もしてるからそれほど手間はかからないだろう。

「あたし、男運ないのかな」

マンションのワンルームに入ったところで彼女が小さく言う。

「右に同じく」

私が答えると、美佳子がぷっと吹き出した。

「そうだなあ、まったくだ。よし、今夜は哀れな独身女同士、飲み明かすぞ!」

勢いよく冷蔵庫を開けて缶ビールを二つ持って来ると、彼女はどっかり床に座る。

「あ、でもツマミがないなあ」

「ちょっと待ってて」

私は急いで駐車場に行き、車から二つの物を持ってくる。一つはトランクに入れていたペルシャ猫のキャラクターのぬいぐるみ。

「うわ、それ人気でなかなか手に入らないやつじゃん。しかもそんなにでっかいの…いったいどうしたの?」

「えっと…まあいいじゃない。はい、プレゼント」

「マジ? うわ、めっちゃ可愛い!」

美佳子はぎゅっと胸に抱く。彼女は無類の猫好きなのだ。でも自分が留守の間寂しい思いをさせるのが嫌で買うのはずっと我慢している。まあこのぬいぐるみ…あの射的屋の一番の目玉だったから本当は断わろうとしたんだけど、池さんは「当てられちまった物はあ

んたのもんだ、持ってけ泥棒!」と無理矢理私に押し付けた。実は警察学校で射撃の成績がトップでしたなんて…今更言えない。

「それとね…」

もう一つの品、ダッシュボードから持ってきたのはこれだ。

「うわ、おいしそう。あんたいつの間に」

「ちょっと冷めちゃったけど、ツマミはこれでいい?」

「問題なし! いいねえ、お祭りの定番! よし、ほらグラス持って、ビールつぐよ。今夜は帰さないからな、覚悟しとけよ美人刑事」

「もう、美佳子ったら」

もちろん朝までつき合うつもり。

警部、忘れ物のイカ焼き…ごちそうさまです