第二話 死のスイカ割り

太陽の眩しさに俺はそっと目を閉じた。全身の力を抜く…熱い砂に埋もれるのは本当に気持ちが良い。遠くに聞こえる波音も優しく心を撫でてくれる。ああ、日常のストレスが解毒されていくようだ。

俺は大学の仲間と海へキャンプにやってきた。ここはメンバーの一人、ヒロシが教えてくれた穴場の渚で俺たち以外の海水浴客はいない。まあ海の家とかはないからその分買い出しは大変だけど。今日は朝からみんなで泳いで、その流れで俺は砂浜に首から下を埋められることになった。今女の子たちは近くの銭湯で入浴中、ヒロシは車で買い出しに行ってくれている。一番近くのコンビニでも片道三十分はかかるから戻って来るのはまだ四十分以上先。俺も一緒に行こうかと尋ねたけど、そのまま寛いでくれてていいとあいつは言ってくれた。相変わらずいい奴だ。ヒロシと女の子たちが戻ってきたら今度は男二人で銭湯に行く予定。お言葉に甘えてそれまでのんびりさせてもらうとしよう。

体がホカホカしてなんだか眠たくなってきた。満ち潮になっても波がここまで来ることはないからいっそ昼寝もいいだろう。そう思いながらうとうとしていると、砂を踏む音が後ろから近付いてきた。

誰だろう。地元の人かな。こんな不格好で挨拶するのも変だし、それにこの状態じゃ振り返るのも難しい。まあただの通行人かもしれないし…なんて思っていると、足音はどんどんこっちに近付いてくる。明らかに俺を目指して歩いてくる。そしてついにそれはすぐ後ろまで迫った。

「よう、ケースケ」

俺の名を呼んだのはヒロシの声だった。

「なんだ、びっくりさせるなよ。でもどうしたんだ? コンビニに行ったはずじゃ…」

「お前と二人で遊びたくてな」

ヒロシの声にはいつもの陽気さがない。それどころかどこか陰鬱で邪悪な響きがある。嫌な予感がした。

「遊ぶって…」

「スイカ割りだよ」

ヒロシが前に回り込んでようやくその姿が見えた。右手には金属バット、左手にはタオル、そして見上げたその顔には全く光を宿さない冷たい瞳。真夏の浜辺で俺は心底震え上がった。それは明らかに憎悪と軽蔑、そして殺意を含んだ目だと直感したのだ。

「ス、スイカ割りって…スイカなんて持ってきてないだろ」

無理に明るく返すがヒロシは微塵も笑わない。

「スイカならあるだろ、俺の目の前に」

抑揚のない声が答える。ヒロシはタオルで目隠しをすると数メートル後ろに下がった。

「よし、じゃあ始めるぞ。ケースケ、お前が誘導しろよ」

両手でバットが握られる。身の毛がよだった俺は必死に言葉を投げた。

「ちょっと待てヒロシ、冗談だろ、何考えてんだよ!」

「だからスイカ割りだよ。海水浴の定番だろ」

「ふざけるなって、そんなバットで殴ったら怪我するだろ!」

「怪我? 安心しろ、スイカ割りだからちゃんとスイカが砕けるまで殴ってやるよ。まあ中身が飛び散るかもしれないけど、どうせこんな腐ったスイカは誰も食わねえしな」

「おい待て、待てったら!」

「よーし、じゃあ1回戦」

ヒロシがバットを高く振り上げながら歩み寄ってくる。

「うおりゃ!」

そして振り下ろされたバットは浜辺に大きくめり込んで砂しぶきを上げた。その位置は俺の頭から左に50センチほどずれた辺り。俺は絶叫した。

「ああ、はずしちまったな。お前がちゃんと誘導しないからだぞ」

「うわあ、やめてくれやめてくれ!」

なんとか砂から抜け出そうとするが、深く埋められた体はまるで自由が利かない。

「じゃあ、2回戦」

また少し離れた位置まで戻るヒロシ。こいつは本気だ。本気で俺のことを…!

「待て、待ってくれ、頼むよ! こんなことして…警察に捕まるぞ」

「ゴチャゴチャうるさいスイカだな。その点はご安心あれ、俺は買い出しに行ってることになってるからアリバイってやつがあるのさ。フフフ、今日買い出しする物は前もって買って用意しておいたからそれで誤魔化せる」

「そんな…」

「きっと警察は粉々になったお前を発見して、どっかの異常者の仕業と思うだろうよ。俺がお前の親友だってことはみんなが証言してくれるしな。葬式でもちゃんと号泣してやるさ」

目隠しをしているせいで余計に不気味だった。白い砂浜と青い海を背景にまたヒロシは近付いてくる。

「おいおい、右とか左とか誘導してくれよ。しょうがないな、じゃあヤマカンで…うおりゃ!」

今度は右の砂にバットがめり込む。30センチも離れていない。俺はまた絶叫する。

「惜しいなあ、もうちょっとか」

ヒロシは軽口を叩きながらまた離れていく。何がこいつをこんな狂気にからさせてしまったのだろう。やっぱり…あのことが?

「すまんヒロシ、悪かった、俺が悪かった。でも知らなかったんだよ、あの子がお前の妹だなんて。知ってたらあんなことしなかった。たまたま偶然、飲み屋で会って、それで酔った勢いで…」

「本当にうるさいスイカだな」

バットを握るたくましい腕に血管が浮かんだ。

「あいつが弄ばれたのは間違いねえことさ。もういいからさっさとくたばれよ」

「すまん、本当に…ごめん、ごめんなさい」

ヒロシがまたバットを構える。わかってる、声を出せば出すほど自分の位置を教えることになる。でも、このままじゃ…!

「頼む、助けてくれ!」

「じゃあ3回戦、これで決めるぜ」

一歩ずつ砂を踏みしめるビーチサンダルがついに俺の正面に来た。振り上げられるバット…そのまま振り下ろせば確実にそれは俺の脳天に命中する。

「うわあ、やめてくれヒロシ、俺が悪かった、勘弁してくれ。何でもするから」

「…あばよケースケ」

氷のような声が告げる。俺は反射的に目を閉じた。そして次の瞬間、この世の物とは思えない激痛が頭を襲った。

あれ…俺、どうしたんだっけ。長い間眠っていたみたいだ。重たいまぶたを空けるとぼやけた視界…そこに少しずつ天井と蛍光灯が浮かび上がった。体は動かない。どうやらベッドの上に寝ているらしい。口と鼻には酸素マスクが当てられていて、ピッピッという心電図のモニターの音も聞こえている。ここは…病院だ。

そこで思い出す。そうだ、俺はヒロシに殴られて…。でもここにいるってことは助かったのか。誰かが通報して救急車を呼んでくれたんだな。じゃあヒロシは…?

「失礼しますね」

ドアが開く。入ってきたのは若い看護師。俺が目を開けているのを見て驚いている。そして何度か俺の名前を呼んだ後、急いで部屋を出て医者を連れて戻ってきた。

「大丈夫ですか、わかりますか?」

俺の目にペンライトの光を当てたりしながら診察が行なわれる。

「…はい」

ようやく小さな声が出て俺は答えた。

「よかった。今はゆっくりお休みください。大丈夫です、手術はうまくいきましたから」

「ありがとうございます」

微笑む医者にそう答えて俺はまた目を閉じた。意識もまどろみの中に再び水没していく。

それから俺は順調に回復していった。どんな病状なのか何度か医者に尋ねてみたが、いつも忙しそうで「さあ」と誤魔化されるだけだった。そして無事一般病室へ移った日、一人の不気味な男が訪ねてきた。刑事だというがとてもそうは見えない。ボロボロのコートにハット、その長い前髪は右目を隠している。

「私は警視庁のカイカンと言います。ようやく面会の許可が出ましてね。調子はいかがですか」

「ええまあ…大丈夫です」

「主治医の先生からは特に後遺症もなく、記憶の障害もなかったと伺いました。よかったですね」

「おかげ様で」

一応そう答えて俺は椅子を促す。カイカンとかいう妙な名前の刑事は「それでは」と腰を下ろした。

「それで刑事さん、今日は何のお話ですか」

「あなたが病院に運ばれた日のことを伺いたいんです」

やっぱりそうか。実のところ俺はまだ当日の詳細を聞かされていない。ヒロシがどうなったのか、誰が救急車を呼んでくれたのか…。

「あなたはお友達と海へキャンプに行った、そしてみんなに砂に埋められて首から上だけ外に出した状態だった…間違いありませんね?」

「はい」

「ではその後…何が起きたのか教えてください」

その質問を俺は怪訝に感じる。

「何がって…ヒロシから聞いていないんですか? まさかあいつは逃走中で行方不明とか?」

今度はカイカンが怪訝な顔。

「いえいえとんでもない、ヒロシさんはちゃんとお家におられますよ。ただ当日のことになると途端に口が重たくなってしまって、それで警察としても困ってるんです」

どうもちぐはぐだ。家にいる? いくら黙秘したってバットで人を殴ったんだから逮捕されてて当然だと思うが。警察は別の誰かが殴ったと思っているのか?

「あの…刑事さん、俺を殴ったのは誰なんです?」

「殴った? どういうことでしょう」

「どういうことって、ですから俺はバットで頭を殴られて病院に運ばれたんですよね?」

「とんでもない」

カイカンは身を乗り出す。そして低くてよく通る声が続けた。

「何をおっしゃってるんですか。あなたが運ばれたのはご病気のためです。…急性クモ膜下出血」

「えっ?」

俺は素っ頓狂な声を上げる。病気? そんなバカな!

「そ、その…クモなんとか出血は殴られたせいで起こったんですか?」

「いえいえ。頭部に外傷は何もありませんでした。もともとあった脳動脈瘤が破裂したことが原因だそうです。おかしいな、お医者さんは説明したっておっしゃってましたけど」

「いえ、俺が聞いても『さあ』って誤魔化すばっかりで」

そこでカイカンはふっと笑い、乗り出していた身を戻す。

「それは『ザア』ですね。急性クモ膜下出血の略称はSAH、通称『ザア』だそうですから。ダメですねえ、エリート意識の高いお医者さんは専門用語ばっかり使って。私も医学書で調べてみましたが、患者さんはバットで頭を殴られたような激痛を感じるって書いてありましたよ。だからあなたも…勘違いされたんですかね」

頭が混乱してくる。あの痛みは…脳動脈瘤の破裂の痛みだったのか?

「ちょ、ちょっと整理させてください。じゃあ救急車を呼んだのは誰なんです?」

「そりゃもちろんヒロシさんですよ。意識を失ってるあなたを見つけてすぐ呼んでくれたそうです。いやあラッキーでしたね、クモ膜下出血の処置は時間との勝負ですから。彼が呼んでくれなかったら手遅れだったかもしれません。

ただ伺ったところ、ヒロシさんは本来その時刻は買い出しに出ていたとか。だから警察としては何か理由があって浜辺に引き返した時にあなたを発見したんじゃないかと考えてるんです。でもそのことを確認すると…どうしてだかヒロシさんはウンともスンとも言わなくなってしまうんですよ」

少しずつ事情がわかってくる。つまり、ヒロシは俺を殴ろうとバットを振り上げたが、振り下ろすより前にクモ膜下出血が起こって俺はそのまま気絶した。あいつも驚いただろうな。きっと何が起きたのかわけがわからなかったはずだ。でもあいつは…救急車を呼んでくれたんだ。意識を失った俺を見殺しにしなかったんだ。

もちろん脳動脈瘤が破裂した原因にはあいつから受けた精神的ストレスもあるのかもしれない。でももし家に一人でいる時に破裂してたら、俺は助からなかった可能性が高い。そう考えると間違いなくあいつは命の恩人だ。警察に緘黙してるのは、殺すつもりだった相手を助けることになってあいつも心のやりどころがわからなくなってしまったんだろう。

「少々気になることがあるとすれば…」

カイカンが笑みを消し、右手の人差し指を立てる。

「その時ヒロシさんが金属バットとタオルを持っていたことです。あれは…何のためだったんでしょうか」

「スイカ割りですよ」

俺は穏やかに答えた。

「女の子たちには内緒で、スイカ割りをヒロシと計画してたんです。そのためのバットとタオルです。スイカは買い出しであいつが買ってくる予定だったんですけど、あいつ財布を忘れて、それで一度俺の所へ戻ってきたんです」

カイカンの前髪に隠れていない左目が黙ってこっちを見ている。俺はさらに続けた。

「今思い出しましたよ。ドジだなあっていう会話をあいつとしたんです。そうしたら俺の頭が急に痛くなって…。でも命拾いしました、あいつのおかげで」

カイカンは何も言わない。まるで俺の言葉の真偽を吟味しているみたいだ。俺は無理に笑顔を作る。不自然な沈黙が病室に流れた。

「そういえば」

重たい声が尋ねた。

「先ほどヒロシさんについて、あなたは逃走中じゃないのかとおっしゃいませんでしたか? あれはどういう意味でしょう」

空気が凍りつく。俺はなんとか声を搾り出した。

「そ、そんなこと…言いましたっけ? 記憶にないなあ。やっぱり後遺症で混乱してるんですかね」

カイカンは左目を細める。

「ヒロシには感謝してもしきれません、俺の一生の親友ですよ」

そうダメ押しで言うとカイカンもわずかに微笑んだ。そして立てていた指を下ろしてゆっくりと腰を上げる。

「そうですか。それならば警察の出番は何もありませんね、お騒がせしました」

そのままドアへ向かう。納得してくれた…のか? いや、それともわざと…?

「失礼しました、お大事に」

そう言って病室を出ていくカイカンに、俺は「ありがとうございました」と返していた。

翌日、一緒にキャンプに行ったみんながお見舞いに来てくれた。ヒロシも気まずそうな顔で一番後ろに立っている。

「ありがとなヒロシ、本当に…心から感謝してるよ」

「いや…」

口ごもる親友に俺は深々と頭を下げる。

「本当にすまなかった。今回のことは一生かけて…償いをする覚悟だ」

「ケースケくん、日本語おかしいよ。償いじゃなくて恩返しでしょ?」

女の子の一人が言ってみんなが笑う。顔を上げると、ヒロシも少しだけ笑って頷いてく

れた。じわっと熱い涙が込み上げてくるのを俺は隠す。

「それにしても…」

また別の女の子が言った。

「ケースケくんの頭、メロンみたいだね。ほら、白い網をかぶってるから」

「頭の手術したんだからしょうがないだろ」

俺が言うとみんな爆笑。ヒロシも声を出して笑っている。

まあ危うくスイカになるところだったから、メロンですんで本当によかった。