1
「こいつが夏彦、大学時代からの俺の悪友な」
待ち合わせした居酒屋の玄関、婚約者の秋生からそう紹介された瞬間、春奈は目の前の青年に目が釘付けになった。
「んでもってこいつが春奈、半年後には俺の嫁。仲良くしてやってくれな」
「夏彦です、よろしくお願いします」
そう笑顔で挨拶されて彼女は慌てて頭を下げる。腰までの黒髪がふわりと揺れた。
「あ、あの、こちらこそよろしくお願いします」
あまりのぎこちなさに、初めて恋する少女じゃあるまいしと心の中で自分をたしなめるが、毎度のことながらこの胸の高鳴りはどうしようもない。
「なんだよ二人とも、他人行儀だな。みんな同い年なんだからタメ口でいこうぜ。よし、じゃあさっさと店に入ろう、腹減っちまったよ」
秋生が促す。今夜は食事がてら半年後の披露宴で行なう余興の打ち合わせだった。そしてその余興の司会をしてくれるのがこの夏彦。着席してまずはビールで乾杯。その後はしょっちゅう雑談に脱線しながら話し合いが進んでいく。
「そうだ夏彦、昔サークルでやったカップリングゲームなんかいいんじゃねえか? あれ盛り上がるし、女の子たちにもコスプレしてもらってさ」
未来の夫は上機嫌で色々なアイデアを出している。だが…正直彼女は上の空。どんなに矯正してもついつい視線は夏彦に向いてしまう。そして時々、彼からも自分に視線が向けられる。勘違い? いや、きっとそうじゃない。確かに秋生の目を盗んで見つめ合う瞬間がある。その証拠に、テーブルの下で足が触れ合ってもどちらからも離れようとしなかった。
「夏彦くんって楽しい人ね。それに優しいし。タイタニックの映画のディカプリオみたい」
「そんな、褒め過ぎだよ春奈ちゃん」
「おい春奈、じゃあ俺はあの映画に出てきたクソ野郎の婚約者かよ」
「もう秋生、そういう意味じゃないわ」
三人で笑い合いながら春奈は密かに唇を噛む。もっと早く、せめて彼と婚約する前に夏彦と出会えていたら…!
*
その後も打ち合わせと称して三人で遊ぶことが多くなった。そして挙式まで二ヶ月を切った頃、秋生が独身最後の夏に三人で旅行をしようと言い出した。行き先は伊豆のビーチ
リゾート、それぞれ仕事のスケジュールを調整して無事に日程も決まった。春奈はいつもより露出の多い刺激的な水着を選ぶ。試着室の鏡に自分を映した時、誰に見てほしがっているのかを彼女ははっきりと自覚していた。それでも多くの物を失ってまでその衝動に身を任せることは彼女にはまだできなかった。
当日はボディボードを積んだ秋生の車で出発。道中も尽きない話題で盛り上がる。そして昼過ぎに伊豆の臨海ホテルに到着。秋生と彼女は同じ部屋、そしてその隣が夏彦の部屋。各自荷物を置いてからさっそく着替えてビーチにくり出す。照り付ける太陽と真っ青な空の下、彼女は二人にボディボードを教わりながら、夏彦の指が自分の肌に触れる度に心と体が深い所で疼くのを感じていた。
やがてくすんだ夕焼けが入り江を包む。シャワーを浴びてからホテルのレストランで早めの夕食を囲み、そして一休みしたら近くのバーへくり出そうと約束して一度それぞれの部屋に戻った。
「今日の春奈の水着、やばかったぜ。ちょっとサービスし過ぎじゃねえか?」
ドアを閉めるとすぐに秋生が腰に手を回してくる。嬉しかったはずの感触が今はおぞましいものに感じられて彼女はそれをすり抜けた。
「もう何やってんの、この後夏彦くんと飲みに行くんでしょ」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
唇を寄せられそうになった時、彼のスマートフォンが鳴りだした。なんだよという顔を大袈裟にしてそれに出る秋生。春奈は内心ほっとする。
「はい、あ、武藤さん、お疲れ様です。どうされました?」
会社の上司からの電話らしい。そして通話を終えた後の彼の言葉を聞いた瞬間、春奈は自分が深い闇へと転落していくのを悟った。
2
その頃隣の部屋では夏彦が一人で拳を握りしめていた。初めて会ったあの日から、春奈の存在がどんどん自分の中で大きくなってもはや限界に達しつつあるのを彼はしっかりと感じていた。眩しい微笑み、やわらかい声、透き通るような肌、美しい黒髪、甘い香り、吸い込まれそうな瞳、そして桜色の唇。しかし彼女はいつも親友の隣にいる。もうすぐ夫婦として結ばれようとしている。自分の出る幕などどこにもない、余計なことを考えてはいけない。なのに時々…彼女が伺うような、ねだるような眼差しを自分に投げてくることがある。もしかして彼女も…? いやそんなはずはない。そんなのは都合のいい勘違いだ。夏彦はそう自分を抑え込んできた。もう少しだ、再来月には二人が結婚する。そうすれば
きっとあきらめがつく。
身を切られるような思いで披露宴の準備を進めてきた夏彦だったが、今日彼は彼女の魅惑的な水着姿を見てしまった、触れてしまった。最後のストッパーがキリキリと悲鳴を上げて軋んでいる。そして今壁を一枚隔てた向こう側で彼女が秋生と身を寄せているかと思うと嫉妬で気が狂いそうだった。
「畜生っ!」
叫んだ。この後また三人でバーへ飲みに行って、自分は道化の笑顔で優しい友人を演じなければならないのか。握る拳に爪が食い込んだ時、部屋のドアがノックされた。我に返って時計を見る。午後8時半過ぎ…まだ約束の時刻には早い。ドアを開けるとすまなさそうな顔の秋生が立っていた。傍らに彼女の姿はない。
「すまん、夏彦!」
彼はいきなりその場で土下座をしてみせる。わけがわからない夏彦はひとまず立ち上がらせて中に招いた。
「いったいどうしたんだよ?」
「それが…俺、ポカしちまった」
秋生は説明する。片付けてきたつもりの仕事に重大なミスがあり、このままでは会社に致命的な損失を出してしまう、上司からすぐに会社に来て対処しろと言われた、そうすれば最悪の事態は避けられる、と。
「あの、だから…」
「わかったよ、東京に戻りたいんだろ。俺だって同じ状況だったらそうするさ。だから気にすんな」
夏彦は明るく言った。正直ほっとしていたのだ。これでもう苦痛な演技を続ける必要はなくなる。
「まあ一日だけでも楽しい旅行だったよ。わかった、今すぐ荷物をまとめるから…」
「いや、そうじゃねえんだ」
秋生はさらにすまなさそうな顔をする。
「帰りたいっていう話をしたら春奈がむくれちまってさ、もう口もきいてくれねえんだよ。あいつ、この旅行をすごく楽しみにしてたからな。それで提案なんだけどもともと二泊の予定だっただろ? 俺、今から急いで帰って徹夜で仕事を片付ければまた明日の昼過ぎにはこっちに戻ってこられると思うんだ。だから悪いんだけど…」
夏彦は自分の中で何かがうごめくのを感じた。
「悪いんだけどそれまで春奈の相手をしてほしいんだ。お前話も楽しいし春奈もお前のことは信頼してるからさ、それなら納得してくれると思うんだ。このまま旅行がポシャッて気まずくなったら結婚だってやばいしよ。二人が遊んだ金はもちろん俺が出す。だから頼む、春奈を楽しませてやってくれ! 頼む、夏彦!」
両手を合わせて頭を下げる親友を前に、夏彦はしばし呆然。眠っていた獣がむっくりと
起き上がる感覚、気付けば鼓動は強く全身を打っていた。
「わかったよ」
答えた声が上ずったのを咳払いで誤魔化す。
「そ、それくらい、どうってことないさ」
「すまん夏彦、恩に着る」
「よせよ、大袈裟な。じゃあこれから二人で春奈ちゃんに説明するか?」
「できたらお前から伝えてくれねえか。俺が何を言ってももう聞いてくれねえんだ」
「しゃあねえな、了解了解、じゃあちょっと行って来る」
友人を部屋に残して彼は隣室へ向かう。面倒そうに装ったが胸の内では興奮が止まらなかった。ドアの前に立つと微かに彼女の声が漏れ聞こえる…電話をしているらしい。ゆっくり深呼吸、これで彼女がOKしてくれたら…そう期待するとノックする手も震えそうだった。彼女の電話が終わった様子なのを確認してゆっくり二度ドアを叩く。
「あ、俺、夏彦だけど。春奈ちゃん、ちょっといいかな?」
*
バカンスを続行できると聞いてひとまず姫君も納得、明日の昼まで夏彦がエスコート役ということで話もまとまった。秋生は何度も二人に頭を下げながら車で飛び出していった。ホテルの前でそれを見送ってからしばしの沈黙。初めての二人きりに今更ながら緊張する。
「秋生も…」
先に口を開いたのは夏彦だった。
「秋生も間が悪いな。そういえば大学の時もよくレポートを出し忘れてたっけ」
「そう…」
吐息のような弱い相槌だけが返される。そっと隣を見る。肩と胸元をあらわにした涼しげな彼女は星明りの中でも美しかった。
「じゃ、じゃあ春奈ちゃん、これからどうしよう。一応予定してたバーに行く? 俺が相手でよかったらだけど」
クスッと笑って彼女は「うん」と無邪気に頷いた。二人で海沿いの夜道を歩いていく。
「春奈ちゃん、ほんとに秋生についていかなくてよかったの?」
「いいよ、どうせずっと仕事だろうし邪魔しちゃ悪いもん。それに…」
彼女の言葉は止まる。無言になっても波音が沈黙を埋めてくれた。潮の香りの中に時折彼女の甘い香りも舞っている。夏彦の中で彼女の存在がさらに膨張し、逆に秋生の存在が海の彼方の小島のように遠く小さくなっていった。
カントリー風のバーに到着。隅の席に向かい合って座ったが、遮る物のなくなった二人の視線は躊躇なく絡まり続けた。最初は世間話もしていたが気付けば黙って見つめ合うだけの時間が過ぎる。もう言葉は必要ないことを夏彦は確信した。
「出ようか」
春奈は黙って頷いた。そして帰り道はどちらからともなく手を握り、潮風の中で抱擁し、勢いのままに夏彦の部屋のベッドに倒れ込む。触れ合う肌は炎のように熱かった。
*
午前1時、秋生からのコール。息を整えてから夏彦はスマートフォンを耳に当てる。
「もしもし?」
「悪いな夏彦、俺だよ。もう寝てたか?」
「いや…ちょっとうとうとしてただけ。それよりどうした、もう東京か?」
「ああ、仕事に取り掛かってるよ。上司もつき合ってくれてる。それよりさ、さっきから春奈に電話してるんだけど全然出てくれねえんだよ。まだ怒ってんのかな?」
一瞬答えに詰まる。
「きっと…熟睡してるんだろ。今日はたくさん泳いで疲れたからな。10時頃にバーから戻って、その後はお互いすぐ自分の部屋に引っ込んだんだ。なんなら様子を見に行くぞ?」
「いや…そこまではいいよ。ありがとな、明日も昼まで相手してやってくれ」
「気にすんなって、じゃあ仕事頑張れよ。ゆっくり戻ってきていいから」
「え?」
「あ、いや、睡眠不足で焦って運転して事故っちゃまずいだろ」
こぼれた本音をなんとか取り繕う。
「ハハハ、そりゃそうだな、わかったよ。じゃあ夏彦、よろしく頼む」
電話が切れる。危なかった…と胸を撫で下ろす。口我滑ったのも無理はない。通話の最中もずっと彼女は息を殺して自分の腕の中にいたのだから。スマートフォンをベッドから投げ捨ててまた見つめ合う。
とても罪深いことをしている…それはわかっていた。近付いてくる瞳と唇。それでもこの愛欲に抗う術など誰が持ち合わせていようものか。
*
長くて短い夜が明ける。その日も快晴で陽光を浴びた海がエメラルド色に輝いていた。少しだけ眠って夏彦は目を醒ます。そして隣で瞳を閉じたままの天使を見つめる。胸の奥が鈍く痛んだ。しかしもう引き返せない、もう…。
やがて彼女も目を醒ます。一人ずつシャワーを浴びてからロビーラウンジに下りる。午前10時、オープンテラスでブランチにありついた。あまり会話はなかったがここでも波音が沈黙を埋めてくれる。焼きたてのクロワッサン、レタスだけのサラダ、濃厚なスクランブルエッグを胃に収めた。そして静かに食後のコーヒーを味わっていると、カップを口に
運ぶ手を止めて突然春奈が言った。
「あたし、秋生と別れる」
声は小さかったがそこには決意が込められていた。夏彦も深く頷く。
「わかった。俺も春奈ちゃんと一緒になりたい。あいつが帰ってきたら…俺から謝るよ」
「ありがとう。でも待って、すぐには動かない方がいいと思うの」
彼女に妖艶な笑みが過ぎったのを夏彦は見た。
「できるだけスムーズにいくようにしたいの。だからお願い、協力して」
「協力って…」
彼女は説明する。今回旅行中に自分をほっぽり出していったことを理由に徐々に秋生とギクシャクしてみせると。そして頃合いを見て両者了解の破談に持ち込みたいと。
「でもそんなふうに…うまくいくかな?」
「つらいけど演じてみせる。だって夏彦くんと一緒になるためだもん。出会った時からずっと思ってた、この人が運命の人だって。だからお願い、秋生と夏彦くんは友達だから苦しいかもしれないけどもう少しだけ内緒にしてて。あたし、友情が壊れないように精一杯するから」
「あ、ああ…」
彼としては早く決着をつけたい気持ちがあった。それこそあいつ以上の土下座をしてもいい。全てを懺悔して打ち明けたい。友情を失うことになっても、嘘をつかないことが裏切った親友へのせめてもの誠意だと思った。だが彼女はそれを望んでいない。
「お願い、夏彦くん」
惚れた弱み、なんだか泥沼にはまっていく気もしたが彼は春奈に押し切られた。
「わかったよ」
「ありがとう」
日差しを浴びながら彼女はまた眩しく微笑んだ。秋生と別れるまでの間、演技だとしても春奈はあいつに身体を許すのだろうか…そんなことを考えてしまう自分のさもしさに夏彦は目を伏せた。そして秋生の前でこれまでとは逆の演技をまたしなければならないことがひどく憂鬱だった。彼女はコーヒーカップを口に運ぶと、海の方を向いて遠い沖の輝きに目を細めている。再び無言になるテーブル。
「あの、すいません」
そこに割り込んだのは波音ではなく知らない声。振り返ると美しい女が立っていた。わずかに茶色がかった肩までの髪に切れ長の瞳、リゾートに似合わないかしこまった服装、そしてその手には黒い手帳が示されている。
「警視庁のムーンといいます。少しお話よろしいですか?」
*
聴取は夏彦の部屋で行なわれることとなった。事情を尋ねると奇妙な名前の女刑事は要領よくいきさつを説明してくれた。
今朝、この近くの浜辺で男性の刺殺体が発見。東京在住の泉谷という会社員で年齢は37歳。一見変哲のない小市民だが実のところ泉谷はとんでもない裏の顔を持っていた。出会い系サイトで知り合った女性と巧みに親密になり、やがて直接会おうと持ちかけそこで一線を越える。相手は一夜の思い出のつもりでもここからが地獄の始まりで、行為の最中の姿が隠し撮りされており、その後も身体の要求に応じなければネット上に動画をばらまくと脅迫されるのだ。泉谷は仕事の出張も利用して女性との逢瀬をくり返し、被害者は東京だけにとどまらない。そんなわけで事件現場は伊豆だが警視庁の刑事も合同捜査をしているという。
「ひどい男ですね」
思わずそう言ってから夏彦は心の中で苦笑する。友人の婚約者を奪う自分も…十分にひどい男だ。ふと隣の春奈を見ると彼女は幽霊でも見たかのような真っ青な顔をしている。気付けば女刑事の鋭い眼光も彼女に注がれていた。
「泉谷さんのことをご存じですか?」
厳しさを含んだ声が尋ねた。春奈は視線を落としたまま無言で首を振る。
「本名は名乗っていないかもしれません。こういう方なのですが」
女刑事は免許証の写真らしき物を彼女の眼前に示す。一瞥した春奈は「知りません」とすぐに目を逸らした。
「本当ですか?」
さらに踏み込む女刑事に夏彦が「待ってくださいよ!」と口を挟む。
「刑事さん、どういうことですか? 春奈ちゃんがそいつとどんな関わりがあるっていうんですか!」
女刑事は写真をしまってから彼に向き直った。
「失礼しました。実は複数の目撃証言がありまして。泉谷さんは作や0時過ぎに海沿いの道を女性と歩いていたそうなんです。死亡推定時刻から考えて事件が起きたのは午前1時から2時の間です。つまり一緒に歩いていた女性が関与している可能性が窮めて高いわけです」
「だからってどうして春奈ちゃんが…」
「目撃された助成は腰までの長い黒髪でした。ちょうど…春奈さんのような」
一瞬言葉に詰まる。しかし夏彦はすぐに切り返した。
「そんな、髪型が似てるってだけで彼女を疑ってるんですか?」
「この近辺のホテルや民宿にいるお客さんを当たっていますが、今のところ他に同じようなヘアースタイルの持ち主はいません。もちろん従業員にも。それに…」
女刑事は再び彼女を見る。そして言いづらそうに顔をしかめた。
「通話記録を調べたところ、泉谷さんが春奈さんと連絡を取り合っていたことがわかりま
した。昨夜も通話されていますね?」
石像のように何も答えない相手に女刑事は優しく続けた。
「春奈さん、正直にお話していただけませんか。私は可能な限りあなたの力になりたいと思っています。もしあなたが彼に脅迫されておられたというなら…」
両手で顔を覆う彼女。夏彦は目の前の現実についていけず困惑していた。だが彼女に何らかの心当たりがあることはその挙動から明らかだった。
「春奈ちゃん、どうしたんだよ。まさか本当に君が…」
「違う」
顔を隠したまま彼女はブンブンと首を振る。
「違うの夏彦くん。あたし、あいつに騙されて…それで何回か会っただけ。勝手にあたしのスマフォに居場所を特定するアプリを仕掛けて…それで伊豆までついてきたの。昨日の夜、秋生が夏彦くんの部屋に行った時があったでしょ。ちょうどその時に電話がかかってきたの」
彼女が誰かと電話する声をドア越しに聞いたのを夏彦は思い出す。
「それでどうしたの?」
「もう会わないって伝えたわ。それからは連絡も無視してた。本当よ。だから…」
「では夕べも泉谷さんには会っていないと?」
女刑事の問に彼女は顔を覆った両手を下ろして答える。
「はい、会ってません」
言い切る春奈。隣で夏彦は考えていた。彼女がそんな男と関係を持っていたのはショックだったが、でももう会わない、夕べも会っていないと言っている。本当なのか?
そこではっとする。そうだ、夕べに会えるはずがない。だって一晩中自分と一緒にいたんだから! 目撃された長い黒髪の女が彼女であるはずがない。
「あの…」
それを伝えようと口を開きかけて夏彦は躊躇する。彼女は婚約中の身、一晩中自分と一緒にいたと言えば、すなわち不貞を明らかにすることになる。
「どうかしましたか?」
怪訝な顔の女刑事。言葉を見つけられないでいると、ドアがノックされてスーツ姿の初老の男が入ってきた。やりとりからすると一緒に捜査をしている静岡県警の刑事らしい。
「ムーンさん、もう一人関係者の方が来られました。その女性の婚約者の方だそうです」
「どうぞ、入ってもらってください」
促されて姿を見せたのは秋生だった。突然警察官に囲まれてキツネにつままれたような顔をしている。
「おい春奈、夏彦、いったい何がどうなってんだよ。今東京から戻ってきたらホテルの前にパトカーが停まってるし、お前らが事情聴取を受けてるっていうし」
「秋生…」
夏彦が言いかけたが、「ちょっとよろしいですか」と会話をさせるのを防ぐように女刑事が割り込む。
「春奈さんの婚約者なんですね。昨夜はご一緒じゃなかったんですか?」
「ええ、そうなんです、実は俺…」
秋生は説明する。三人で旅行に来たが自分だけ仕事で東京に戻らなくてはならなくなり昨夜9時頃ここを離れたこと、そして徹夜で片付けて今し方伊豆に戻ってきたこと。それを素早く手帳にメモしてから女刑事は続けた。
「そうですか。実はこの近くで起きた殺人事件についてお話を伺っていたんです。被害者と一緒にいるのを目撃された助成の背格好が春奈さんに似ていたんです。それに…」
女刑事は発しかけた言葉を止めた。出会い系サイトで男と関係を持っていたことを婚約者に伝えるのははばかられたのかもしれない。秋生は言葉が中途で終わったことを特段気に留めた様子もなく、また殺人事件という一大事にもさほど動揺した素振りを見せず、ゆっくり春奈に歩み寄った。
「おい春奈、どういうことだよ。お前、何かしたのか?」
「違うわ秋生、信じて、あたしは何もしてない」
「刑事さん、事件が起きたのは何時頃なんですか?」
秋生が婚約者を見つめたまま尋ねる。
「昨夜の…いや正確に言えば今朝の1時から2時の間です」
「なあ春奈、お前夕べはずっと電話に出なかったよな。俺、何度も掛けたのに朝までずっと出てくれなかった」
「それは…」
彼女は反射的に夏彦を見ようとしたが寸でのところで自制する。
「それはあの、疲れて熟睡してたのよ。そう、だからバーにも長居せずにすぐ戻ったの。ね、夏彦くん」
「ああ…」
同意してから夏彦は後悔した。これで警察の前で虚偽の証言をしたことになる。バーから戻った後も春奈はずっと自分と一緒にいた。明け方眠りにつくまで片時も離れなかった。そのことを警察に言えば彼女の無実なんてすぐ証明できたはずなのに。
「そうか…そうだよな。いや、疑ってごめんな。お前に男を刺し殺すなんてできるわけないよな、本当にごめん」
侘びを示すかのように秋生は強く抱擁する。その胸で彼女はシクシク泣き始めた。妙な雰囲気になる室内。別世界へ行ってしまった二人に冷たい一瞥をくれてから女刑事は夏彦に近付く。
「すいません、あなたと春奈さんがバーから戻られたのは何時頃ですか?」
「10時です。一杯だけ飲んですぐホテルに帰りました」
「では昨夜の10時以降、あなたはどうされていたんですか?」
「えっと…俺も疲れてたんで早めに寝ました」
嘘に嘘が重なっていく。ちらりとこちらを見た秋生の視線に気付いて彼は慌てて付け加える。
「そういえば1時頃、秋生から電話をもらいました。春奈ちゃんが電話に出ないって…。だから俺が様子を見に行こうかと言ったらそこまではいいって言うから電話を切りました」
「ではバーから戻られた後、朝まで春奈さんの姿は見ておられないわけですね」
「そう…です」
夏彦は逡巡した。いっそ全てを正直に話した方がいいのではないか。彼女とはずっと一緒にいたと…でもそれを言うことは同時に秋生への裏切りを表明することだ。一緒にいたけどやましいことは何もないと説明するか? いや、それならどうして電話の時に嘘をついたんだという話になってしまう。完全に泥沼だった。
それに…。彼は愛した女を見る。今彼女は目の前で秋生に抱かれている。警察と婚約者を同時に欺くためにしているのかもしれないが、夏彦はそんな春奈のしたたかさ、いや狡猾さに腹が立った。次から次へと平然と偽りを演じる女。昨夜は輝く天使のように思えたのに今はどす黒い悪魔のように見える。自分に向けられた愛情も…本当に真実だったのか? あれも演技だったんじゃないのか? この先も彼女を信じて愛し続ける自信を夏彦は完全に喪失する。
「少しよろしいですか」
女刑事にそう言われて二人はようやく抱擁を解いた。
「秋生さん、念のためあなたの行動も確認させてください。昨夜東京に戻って徹夜で仕事をしていたとのことですが、それを証明できる人はおられますか?」
彼はきょとんとなる。夏彦も女刑事が秋生のアリバイまで確認したことが意外だった。春奈に泉谷を殺す動機があるとすれば婚約者の彼にもある…警察はそう考えているのだろうか。
「俺ですか? それなら上司に確認してもらえればすぐわかりますよ。一緒にオフィスにいましたから」
秋生はスマートフォンを操作して「この人です」と連絡先を示した。
「武藤さん…ですね、わかりました」
女刑事はまた素早く手帳に控える。それが終わってから優しく春奈に行った。
「すいませんが…もっと詳しくお話を伺いたいので、署までご同行いただけますか?」
彼女の瞳に驚愕が浮かぶ。秋生は反射的に顔を伏せる。
「ちょっと待ってください、春奈ちゃんを逮捕するんですか!」
思わず言ってから夏彦は心の中で自嘲する。なんて滑稽なんだろう。婚約者すら欺く驚異の嘘つき女をどうして自分がかばってるんだろう。まあ確かに彼女は犯人じゃない、それは自分が誰より知っている。一晩中この腕の中にいた彼女が浜辺まで人殺しに行けたはずはない。
「いえ、あくまで任意の事情聴取です。婚約者やお友達の前では言いづらいこともあるでしょうし。昨夜の10時以降のアリバイが証明できたらすぐに終わりますよ」
思わせぶりに言ってから女刑事の眼光がより強まる。
「それとも夏彦さん、先ほどまでのあなたの証言に何か間違いはありますか?」
「いえ…」
もう何も言えない。警察に連れて行かれる彼女の後姿を見た瞬間、夏彦は自分が深い闇へと転落していくのを悟った。
3
呆然とする夏彦をそのまま部屋に残し、秋生は春奈に付き添って一緒にパトカーに乗り込んだ。顔を伏せて震える彼女の手をそっと握る。車窓には浜辺でビーチバレーに興じる若者たちの姿が遠く流れていく。やがて警察署へ到着した。
「聴取の最中は席をはずしていただけますか」
女刑事から有無を言わさぬ語調でそう言われ、秋生は「わかりました」と引き下がる。
「春奈、ここで待ってるからな」
肩を落として奥の部屋に連れていかれる婚約者の背中に投げ掛けてみたが、彼女は何も答えない。振り向くことさえないまま去っていった。所在なくなった彼は辺りを見回し、ロビーのようなスペースへ移動する。他に誰もいない。自販機で缶コーヒーを一本買うと、ベンチに座ってごくりとそれを飲み下した。
「春奈…」
そっと呟く。そしてその口元に浮かべられたのは…醜悪な笑み。
「ククク」
下衆な声もこぼれる。彼にとってはこの状況が愉快でたまらなかったのだ。もう下手な芝居は必要ない。彼の胸の内に春奈を案じる気持ちなど微塵も存在しなかった。
秋生の計画は居酒屋で春奈を夏彦に紹介した瞬間から始まっていた。春奈は確かに美しい顔と魅惑的な肉体を持った女だった。だが心はあまりにもみすぼらしかった。男を乗り換えることなど日常茶飯事、実際に自分との交際が始まったのも前の恋人との関係に悩んでいて相談を受けたのがきっかけだった。ひどい仕打ちを受けたと泣いていたが、今となってはそれも本当だったかどうか怪しい。そして交際し始めてから次々に明らかになる事実。買い物やホストへの浪費癖、出会い系サイトでの男遊び、さらには別れを切り出そうとすると見せてくる猟奇的な脅迫。結婚してくれないのならあなたの家族を不幸にするとまで抜かしてきやがった。一方的に婚約破棄なんかすれば慰謝料だけではすまない、何をされるかわかったもんじゃない。
そんな時、初対面の夏彦に向かって春なの食指が動いたのを彼は見逃さなかった。そして夏彦もあっさり春奈に取り込まれた…それが猛毒を持つ蜘蛛の巣だとも知らずに。自分の目を盗んで二人がこっそり見つめ合うのを気付かないふりをしながら、心の中ではずっとガッツポーズをしていた。これで自分は春奈の魔の手から逃れられる。
だがしかし、二人はなかなか一線を越えてくれない。婚約中に不貞を働けば自分の有責になり慰謝料だって請求されることをあの女も知っているのだ。結婚式はどんどん近付いてくる。それならもう一押し、そう考えて計画したのがこの伊豆への旅行。春奈の水着姿を見れば大抵の男はスイッチが入る。その後で自分が姿を消せば二人は…。思ったとおりだった。
「ククク…」
また下衆な笑いがこぼれる。友人には悪いがこれで自分は自由の身、せいぜい春奈と末永く幸せにな。秋生はそうほくそ笑んだ。
昨夜9時、ホテルを出た彼は東京には戻らず、人気のない場所に車を停めて夜を明かした。その間ずっとイヤホンで聞いていたのは夏彦の部屋の音声だ。土下座して彼に謝り、彼の部屋で自分は東京に戻らなければならないと相談したあの時、彼だけを春奈の部屋に向かわせた。その隙にベッドの下に仕掛けた盗聴器からの音声。二人の不貞を確かめるため、もし二人が否定した際には証拠として突き付けるために用意した物。本来なら婚約者が寝取られれば嫉妬に狂うのが当然、しかし秋生にとってのそれは狂喜乱舞にも値する悦楽でしかなかった。深夜1時、試しに夏彦に電話を掛けてみた時の対応も傑作だった。春奈と一緒にいるくせに一人でいるふうを装って、その全てを聞かれているなんて思ってもいやしない。そんな状況に秋生はまるで自分が全てを手のひらの上で動かす神になったかのような全能感を憶えていた。そして自分を裏切って楽しむ婚約者と親友の音声に、二人への罪悪感など完全に消え失せていた。
しかもさらに面白いことには偶然殺人事件まで発生した。もちろん春奈がずっと夏彦の部屋にいたことは承知している。なんなら録音音声という物的証拠まである。だから彼女の無実を証明することなど造作もない。だがそんなことはしてやらない。これまでさんざん苦しめられたんだ、しばらくはあの女が苦しむさまを見たかった。殺人犯の汚名を晴らすには不貞行為を認めるしかない。認めなければいつまでも疑われ続ける。どっちにしてもこれまでうまく立ち回ってきたあの女には耐え難い屈辱だろう。どこのどいつか知らないが、ちょうどよく殺人事件を起こしてくれたもんだ。
「フハハハ」
大笑い。一気に飲み干すと彼は空き缶を放り投げる。それは見事にゴミ箱の中へ吸い込まれていった。
*
そんな様子を物陰から見つめる視線が一つ。ムーンと名乗った女刑事、その切れ長の瞳は場違いな笑いを漏らす秋生の背中に注がれている。彼自身は気付いていなかったが、女刑事は彼がした一つの失言を聞き逃さなかった。
夏彦の部屋で事情聴取をした時、後からやってきた秋生は春奈に「お前に男を刺し殺すなんてできるわけない」と口にした。男を刺し殺す…彼には殺人事件としか説明していなかった、にもかかわらず被害者が男性であることや死因が刺殺であることを彼は知っていた。春奈も夏彦も聴取が始まった後で秋生に連絡は取っていない。警察関係者が口外するはずもなく、マスコミも事件のことはまだ報じていない。じゃあどうやって秋生はそのことを知ったのか。
一つは彼自身が犯人であるという可能性。しかし目撃された容疑者は長い黒髪の女性だからこれは有り得ない。となると考えられるのは盗み聞き。彼は何らかの方法で夏彦の部屋の音声をホテルの外で聴いていたのではないか。そう思って静岡県警に調べてもらったらベッドの下から盗聴器はすぐに見つかった。
女刑事は溜め息を吐く。正直春奈が犯人ではないことは部屋で話を聞いた時点で確信していた。春奈と夏彦、二人の挙動を見れば昨夜関係を持ったのは一目瞭然。一晩中ベッドで一緒にいたなら彼女には完全なアリバイがあるのだ。それをあの場で言えなかったのは婚約中の身の上だったから、さらにそこに婚約者の秋生まで現れてしまったからだろう。夏彦の方は口を割りそうな顔もしていたが、一度嘘をついた手前なかなか言い出せなかったに違いない。そして盗聴器を仕掛けたということは、秋生は二人が関係を持つだろうことを疑っていたことになる。まったく、とんだ仲良し三人組がいたもんだ。警察としては、さっさと春奈に昨夜のアリバイを白状してもらって、真犯人の捜索に動きたかった。その後の三人の泥沼人間関係など知ったこっちゃない。
女刑事はまた溜め息。そして意を決すると秋生に歩み寄っていく。春奈と夏彦が白杖しないならこちらから切り崩すまで。微罪とはいえ盗聴も立派な犯罪。能天気に一人で笑っている男に女刑事は声を掛ける。
「すいません、よろしいですか」
彼はぎょっとして振り返る。
「ど、どうかしましたか刑事さん」
不意を突かれてさすがに表情が定まらない様子だ。まずはこいつに盗聴の事実を認めさせ、そのことを突きつけて春奈に夏彦と一緒にいたことを認めさせよう。そしてその時点で一度警視庁にいる上司に報告しよう…そんなことを考えながら女刑事は切り出した。
「あなたが夏彦さんの部屋に仕掛けた物について、正直にお話ください」
それを聞いた瞬間、秋生は自分が深い闇へと転落していくのを悟った。
4
夕焼けの東京。茜色に染まる高層ビルのオフィスに彼女は一人座っていた。また笑いが込み上げてきて口元が綻ぶ。デスクのタバコを一本取る。海外のサイトから直接購入しているお気に入りの銘柄だ。火を着けて深く吸い込むとたまらなく美味かった。
夕方のニュースが泉谷の刺殺体が伊豆のビーチで発見されたことを報じた。まだ犯人が捕まったという話はない。そりゃそうだ、誤認逮捕でもない限りそんなことが起こるはずはないのだ。だって犯人はここにいるのだから。
またタバコを口に運ぶ。ほのかな不安をニコチンがそっと和らげる。大丈夫、警察はここまでたどり着かない…彼女にはその自負があった。凶器のナイフも処分した。それに自分には一晩中このオフィスで仕事をしていたというアリバイがある。伊豆まで人殺しに往復することは不可能だ。
「頼むよ、協力してくれ。うまく婚約解消するために、春奈と他の男に浮気をさせたいんだ」
何度か体の関係を持っていた部下の秋生から彼女がそう相談を持ち掛けられたのは先月のことだ。
「まず三人で伊豆に行って、俺だけ仕事の急用で東京に戻る。そうすればあの二人は必ず一線を越える。俺は盗聴器でそれを確認する。だから頼むよ、俺を東京に呼び戻す電話を掛けてくれ。一晩中オフィスで一緒に仕事してたことにしてくれ」
彼女はそれに快く了解した。秋生のためではなく自分のために。正直秋生の婚約解消がスムーズに行こうが行くまいがどうでもいい。でも秋生の作戦は彼女にとって都合が良かった。だって逆に言えば自分が一晩中オフィスにいたことを彼が証言してくれるということだから。これを利用しない手はなかった。
標的はあの下劣な男。暇潰しに登録した出会い系サイトで知り合い、一度一緒に飲みに行って一晩過ごしたらその映像で脅迫してきやがった。あいつをどうやって葬るかずっと考えていた彼女にとって、秋生の提案はまさに渡りに舟だった。
秋生が旅行に行くのに合わせて、彼女は泉谷に連絡を取った。するとその日は伊豆にいるというではないか。奇妙な偶然の一致を彼女は感じる。実際には泉谷は春奈につきまとうために伊豆へ行ったので偶然でもないのだが、もちろん彼女にそれを知る術はない。どうせビーチでまた女を引っ掛けるつもりなんだろうと適当に解釈し、殺害現場を伊豆に決めた。
そして当日午後8時半、予定どおり秋生に電話を掛けて急いで東京に戻るように伝える。もちろん実際には秋生は戻ってこない。彼女はマイカーを走らせ静岡へ向かう。そして伊豆のビーチで泉谷と待ち合わせ、人目につかない所まで誘い出して心臓を一突きしてやった。後は悠々とまた東京まで深夜のドライブ。万が一警察が訪ねてきても、一晩中オフィ
スにいたと秋生に証言してもらっておしまいだ。
「チョロいもんね、完全犯罪なんて」
独り言。椅子をくるりと回転させて彼女は立ち上がる。腰までの長い黒髪もふわりと揺れる。窓の下には少しずつ夜に向かう東京の街。
彼女はまだ知らないのだ、そのアリバイを証言してくれるはずの秋生が盗聴器のことで警察に搾られ、実際には東京に戻っていないと認めたことを。殺害現場の近くで珍しい外国製のタバコの吸殻が見つかったことを。そしてそれらの事実を報告した女刑事の上司には、とびきり鋭い頭脳が備わっていることを。
「失礼します」
ノックと同時によく通る低い声がした。誰だろう…彼女は振り返って「どなた?」と返す。ゆっくりドアが開くと、ボロボロのコートとハットに身を包んだ男が立っていた。
「警視庁のカイカンといいます。少しお話を伺えますか? …武藤冬美さん」
長い前髪の奥で男の右目が光るのを見た瞬間、冬美は自分が深い闇へと転落していくのを悟った。