第三章 ダイイング・メッセージなんてさっぱり

●赤井このみ

「おっはろー、このみ!」
 木曜日の朝、いつもの通学路で後ろからすみれの元気な声が飛んでくる。駆け足で追いついてきた親友にあたしは「おはよう」と返した。
「やっぱ目立つよ、その頭。黒い波の中に赤い実がプカプカ浮いてるみたい」
「もう、何よそれ」
「褒めてるんだよ、とっても可愛いから。こりゃ男子もほっとかないな。赤井このみだから赤い髪、うん、思い切ってうちも髪の毛すみれ色にしてみようかな」
 親友はあたしの隣に並んでいつもの笑顔を見せる。なんだかほっとする。朝ごはんの時も結局ママとはほとんど会話できなかったから。
「別に男子なんてどうでもいいよ、あたしがしたくてしてるんだから」
「そうなの? あ、そういえばさ、昨日のメールはどういう意味?秘密基地がどうこうって」
「ごめんごめん、気にしないで」
「え、意味ないの? 何かの暗号かと思って真剣に考えちゃったじゃん。あ、暗号っていえばさ、面白いの思い付いたんだよね。ダイイング・メッセージの問題なんだけど」
 実はすみれは将来小説家を目指してたりする。それもミステリーを書く推理作家志望。実際に文化祭の時は演劇部でミステリー劇の脚本も書いてたし、普段でも事件とかトリックとかを考えてはこうやってあたしに問題を出すのがお決まり。
「ダイイング・メッセージって何だっけ?」
「ああもう、そんなのミステリーの基本用語じゃん。被害者が死に際に犯人を伝えるために残すメッセージのことだよ」
「あ、そっか。ごめんごめん、続けて、すみれ先生」
「じゃあいくわよ。 ある男が殴り殺されました。倒れた時そばにパソコンがあって、男は犯人の名前をキーボードで撃って絶命しました。当然犯人はそのメッセージを消去してから逃げたんだけど、警察がキーボードの指紋を調べて被害者がAとIとKとOをのキーを押してたことがわかりました」
 殴り殺すとか絶命とか、朝から物騒な話だ。普段のすみれは人がちょっと擦り剥いて出血したのを見ただけでも貧血起こしちゃうくらい臆病なくせに。
「A、I、K、OですなわちAIKO、すぐに被害者の恋人の愛子さんが容疑者として浮かびました。でも彼女には鉄壁のアリバイがありました」
「アリバイって何だっけ?」
「もうまた? 前にも教えたでしょ。アリバイっていうのはようするに、犯行時刻に現場にいませんでしたっていう証明のことよ。つまり愛子さんは犯行時刻に別の場所にいたってことがわかったの。だから被害者を殴り殺すことはできない。なのにダイイング・メッセージはAIKO。さあ、この謎を解いてちょうだい」
 すみれは得意げに胸を張る。う~ん、正直チンプンカンプン。でも何か答えないとすみれは納得しないし。あたしは知恵を搾る。
「被害者の知り合いに別の愛子さんがいたとか?」
「ブー、違いまーす」
「じゃあどういうこと? 全然わかんないよ」
「もうちょっと推理してよ。もっとこう…名探偵みたいに」
「あたし名探偵じゃないもん。降参です、教えてください」
 何時間考えても解ける気がしなかった。ダイイング・メッセージなんてあたしにはさっぱりだ。キャハハと笑ってすみれが解説を始める。
「では教えてしんぜよう。よいか? 警察はキーボードの指紋を調べて被害者がどのキーを撃ったかわかっただけ、つまり撃った順番まではわかってない。使われたキーがA、I、K、Oだからって被害者が伝えたかったメッセージがAIKOとは限らないのだ」
「あ、そっか」
「本当の順番はA、K、I、OでAKIO、真犯人は友人の明夫くんなのだよ」
「すみれ、すごい!」
 あたしは小さく拍手を贈る。すみれも「初歩的なことだよ、ワトソンくん」なんて言ってる。でも待てよ、そうだとしたら…。
「ねえ、その理屈だとさ、A、O、K、Iの順番でAOKI、青木さんが真犯人かもしれないよ?」
「ありゃ、ほんとだ」
 真顔になるすみれ。
「他にもI、O、K、AでIOKA、井岡さんかも」
「ああもう、ほんとだほんとだ。悔しいなあ。見てなさいよこのみ、次回はもっとすごい問題を考えてくるから!」
 未来の小説家が悔しがってる。あたしはそんな様子に笑いながら、でも胸の奥ではちょっぴりうらやましかった。将来の夢か…あたしにはそういうのがまだないから。
 そのまま二人で学校へと歩く。またたわいもないお喋りが続いた。
「そういえば、山岡重司の新曲聴いた? かなりいい感じでさ」
 すみれがイチオシのシンガーソングライターの話題を出したところで、交差点に誰かが立ってるのが見えた。ゲゲ、チャビンじゃん。ヤッベ、目が合った。
「このみこのみ、ほら見て、チャビンがあんたを睨んでる」
「もう最悪、なんで朝からあんなとこに突っ立ってんの?」
 あたしが無理矢理目を逸らすと、すみれは思い出したように言う。
「そういえば知ってる? 演劇部の後輩から聞いたんだけどさ、この近くで事件があったんだって」
「あれでしょ、会社の社長さんが刺されて殺されたっていう…ニュースで見たよ。っていうかこの前も話さなかったっけ」
「違う違う、それじゃなくて昨日の話だよ。昨日の朝さ、なんか不審者がこの近くで逮捕されたんだって。通学中の女子を隠し撮りしてて婦人警官の人が捕まえたって。何人か現場を見た子がいたらしいよ」
「うわあ気持ち悪い」
 痴漢とか盗撮とか不倫とか、ネットニュースでもしょっちゅうそんな話を目にするけどその度に思う…男って、ていうか大人ってバカ? 真面目に生きろとかいじめはするなとか偉そうに言ってるくせに、自分たちの方が汚いこといっぱいいやってさ。
「このみ、なんだか顔が恐くなってる」
「いや、なんて言うか…愚かだなって思って」
「キャハハ、そうだね、愚か愚か。まあとにかくチャビンもそれでうちらの通学を見張ってんだよ」
 チャビンは腰に両手を当てて道行く生徒たちを目で追ってる。ゲゲゲ、また目が合った。もう、なんでそんなにあたしを目の敵にすんのよ! ねえ、あたしがなんかあんたに迷惑かけた?
 顔を下げてチャビンの前を通る。不審者から見張ってくれるのはありがたいけどこれじゃあ逆効果だよ。あ、もしかしたら昨日のカイカンさんとムーンさんもそのことで学校に来てたのかなあ。
「はいはいこのみちゃん、もう通り過ぎましたよ」
 すみれがポンポン後頭部を叩く。無意識にあたしは息を止めてた。
「ハア、今日は放課後チャビンに呼び出されても絶対行かないから」
「残念でした、今日は午後からチャビンの数学だもん。どっちにしてもそこでご対面でーす、キャハハ」
 すみれが楽しそうに笑う。そうか…今日は数学の授業があったんだった。校門をくぐりながらあたしは溜め息を吐く。髪の色を変えて新しい世界が始まったはずなのに!
 …そうだ、いっそあれをやってみようか。前から一度やってみたかったあれ。
「今度は目を輝かせてどうしたの?」
「すみれ、見ててね。あたしはほんとに反乱軍のリーダーになっちゃうから」

●ムーン

 昼食を終えて警視庁に戻ると、正面玄関の所で美佳子が誰かを見送っていた。相手は深々と頭を下げている。トレーナーにジーンズの大柄な男、もしかして…。
「それじゃあ村井さん、これからは気を付けてくださいね」
「すいませんでした」
 彼は泣きそうな声でそう言うといそいそとその場を立ち去り、すれ違いざまに私をちらりと見た。美佳子もこちらに気付く。
「やっほー、捜査一課の美人刑事、お疲れ」
「声が大きいって。美佳子、今のが昨日言ってた人?」
「そうなのよ。結局送検なしで釈放、調書だけ取っておしまい。まあ相当お説教はしたから少しは反省してくれてればいいけど」
 彼女はそおう言って伸びをすると、「それよりそっちは?」と話題を転換した。
「会社の社長がオフィスで殺害された事件を担当してるんだったよね。捜査は順調?」
「足踏み状態よ。単純な物盗りなようでそうでもない感じ喪あって」
「そっか、まあ頑張ってよ。あたしは今から昼飯行くわ」
 小さなハイタッチをして美佳子と別れる。被害者が殺害されたのが先週金曜日、遺体が発見されて捜査が開始されたのが今秋月曜日、そして今日が木曜日だからもうじき事件発生から一週間が経過する。そろそろ目鼻がついてほしいところだ。

 いつもの部屋に戻ると、警部がおしゃぶり昆布をくわえたままホワイトボードを見つめて唸っていた。そこには片仮名で『アイウエオ』と大きく記されている。奥の机では警部と私の上司にしてこのミットの長でもあるビンさんがいつものデスクで書類に目を通していた。
「お疲れ様です、ただ今戻りました」
 その場で一礼。警部は無言のまま思考を続け、ビンさんは小さく「お帰り」と返す。会話が始まる様子もないので私も自分の席に着き、手帳を開いて事件を整理することにした。
 はたして犯人は何者だろうか。
 金庫のお金を目当てに忍び込んだ泥棒が偶然戻ってきた名越社長を殺害してしまったのか? それとも名越社長が残業していることを知っていた誰かが押し入ったのか? 前者だとすると入り口の合鍵と金庫の暗証番号をどうやって犯人が手に入れたのかが問題だ。後者だとすると凶器が現場に合った果物ナイフというのはおかしい。それに被害者が残業していたのは偶然なのでそこを狙って押し入るのも無理がある。
 そしていずれの場合にせよ、ダイイング・メッセージの意味がさっぱりわからない。死の間際、被害者はアイウエオでいったい何を伝えようとしたのか?
 ちらとホワイトボードの方を見ると、警部は立てた右手の人差し指に長い前髪をクルクル巻き付けている。考え事をする時の癖だ。
 …ピルル、ピルル。
 声を掛けようとしたところでデスクの内線電話が鳴った。ビンさんが「はいもしもし」と優しい語り口でそれに出る。そして短い言葉を交わした後で受話器を口から離してこちらに言った。
「カイカン、ムーン、赤井このみってお嬢さんを知ってるか? その子が君たちに相談があると警視庁に電話してきてるそうだ。事件に巻き込まれたとかで」
 警部の指の動きが止まった。