エピローグ

1997年11月15日(土) 午後3時30分

市内某所の1室。瀬山夏夫は秋の天高い空を鉄格子の窓から眺めていた。床に座り込んでいるその姿は生き仏さながらであった。
彼の思考は何度も何度もこの一週間を回帰する。

(長かった、本当に長い1週間だった…。
月曜日、昼休みに司書室から図書室の鍵を盗んだ。放課後は久しぶりの図書委員の集会だったが、その時岡本先生が鍵の紛失を告げた。もちろん自分は名乗り出なかった。
火曜日、早朝に登校し盗んだ鍵で図書室に侵入した。机に赤い塗料をまいて包丁を突き立てる…自分自身の良心を一時的に刺し殺すように。そして放課後の大掃除、ドアの入れ換えを…。
水曜日、再び早朝に登校し呼び出した出口を書庫に封じ込めた。その時、図書室と書庫を繋ぐ鉄扉が施錠されていることに気付いたが…今更引き返せなかった。足元には自分が殴った出口がもう倒れていたのだ。そして、計画どおり盗んだ鍵で書庫を密室にしてそれを中庭へ…。
木曜日、午後から沖渡先生が緊急個人面談なるものを開き、図書委員が集められた。当然気は乗らなかったが断る口実がなかった。心の中では『あの鉄扉を施錠した誰かがいる』という不安がどんどん膨らんでいた。そして自分の面談が終わり教室へ戻ろうとした時、途中の廊下に板村という下級生がいた。彼は「犯人はあなたですか」と突然言ってきた…。その瞬間目の前が真っ白になり、気が付けば自分は手にしていた水筒で相手を殴り倒していた。彼を屋上へ運んだ時には心が激しく危険信号を発していた。計画は完全に狂い始めている、全ての不安を取り除けと。そして自分はあの鉄扉を施錠したかもしれない水田さんを消すために、彼女の自転車のブレーキを壊しに…。
金曜日、久しぶりにあの人の夢を見ていたが沖渡先生の電話で起こされた。その後、早朝の図書室で全てが明るみに…。
そして今日、土曜日…。

思えば、生物管理委員の出口という男のせいであの鯉が死んでしまったという噂を聞いてから、ずっとこの計画を練ってきた。
出口という男に憎しみが募っていく中、彼が後期からなんと図書委員会に入ってきた。それとなく観察していたが、本当に変わり者で、遊び半分であの鯉を殺してもおかしくないような奴だ。こんな奴にあの人の鯉が殺された、許せない…。
自分が他人を裁けるほどの人間だとは思わない。しかし、心の支えが奪われた以上、何らかの形でけじめをつけなければ自分は前へ進めない…。そう考えていた。別に完全犯罪をやりたかったわけではない、人を殺したかったわけではない。でも、そうしなければ自分は前へ進めなかったのだ。やりたくなくても受験戦争に挑まなければその先の進路へ進めないように…。これは、自分には避けて通れない戦いだったのだ。

…しかし、今となっては自分のしたことをやはり後悔せざるを得ない。もしかしたらこんなことをしなくても自分は歩いていけたのではないか?ほんの少しの考え方の切り替えと『何か』さえあれば…未来は拓けたのではないか?自分は、無関係な二人の人間を手にかけてしまった。
沖渡先生の兄だという刑事から、なんと被害者は全員無事だったと聞いた。これは本当に運が良かったとしか言いようがない。彼らの、そして自分の運がだ。よかった…、自分で殺そうとしておいてなんだが、本当によかったと今は何故か心から思う。…出口に対してさえも。
さあ、これから自分はどうしよう。まだまだ人生は続くのだ…)

その時、ドアがノックされた。
「瀬山くん、面会だ」

「いやあ、元気だったかい?」
面会室のガラスの向こうには、沖渡の直線的な顔があった。タイトなバイクスーツに身を包み、片脇にはヘルメットを抱えている。
「おかげさまで…」
瀬山は何となくそう言いながら椅子に腰を下ろした。
「今日は土曜だろ、図書委員のみんなは午後からお見舞いに行ってるんだ。1年男子は板村の、2年生と小笠原は出口のお見舞いに。ここにも来たいって言ってたんだけど、今日はとりあえず私が来た。
…どうだ、ちゃんと食べてるか?」
沖渡はそっとヘルメットを足下に置いて体面に座った。
「…まあ、とりあえずは元気です。でも、そんなことを話しに来たんじゃないんでしょう、先生?」
「ハハハ、まあね。話というのは、あの『天空』って鯉のこと。調べてみるとあれは十年ほど前に、フゾクの卒業生の学者さんが学校に寄贈したんだってね」
瀬山は答えない。
「その人はフゾク卒業後、大学時代には人力飛行機を設計して有名なコンテストで優勝、その後も航空力学の道に進んだ。…そう、歳の離れた君のお兄さんだね。幼い頃、ご両親の離婚でお兄さんは父方に、君は母方に引き取られた」
瀬山はまだ黙っている。
「君が凶器に使った『航空力学と飛行の論理』というあの重たい本、その共著者一覧の中にもお兄さんの名前があった。少し読ませてもらったよ。お兄さんは鯉のぼりが風にたなびくのを見て、魚が水の中を進むメカニズムを飛行に応用することを思い付いた。この研究は世界的に大きな評価を受け、表彰もされた。その記念として母校の中庭の池にあの鯉が贈呈された。
…でもそれから数年後、彼は飛行の実験中の事故で亡くなった」
視線を逸らす瀬山。沖渡は優しい声で続けた。
「多分、君にとってそれ以来、『天空』が心の支えになったんだね。お兄さんの遺した鯉を見る度に生きる元気が湧いてきた。離れて暮らしていたけど、ずっと誇りに思っていたお兄さんの形見だったんだね。
…しかし、その鯉が出口のせいで死んでしまった」
「だから、何です?」
瀬山は視線を目の前の教師に戻しようやく口を開いた。
「今更動機を掘り返して何がおっしゃりたいんですか?」
「まあ、そう怒るなよ。瀬山、君は思い違いをしてるんだ」
「え?」
「出口はふざけてあの鯉を殺してなんかいない。彼は自分のお気に入りのあだ名を命名するくらいあの鯉が好きだったんだ。図書室で本を借りて調べるくらい、大切に育てていたんだと思うよ。鯉が死んだのは多分病気のせいだ…彼に罪はない」
「…たとえそうでも、あいつは鯉が死んだ後、逃げるように生物管理委員をやめたんです。その後もふざけてばかりいた。悲しんでいる様子なんかなかった!」
瀬山は声を荒げた。
「なあ瀬山…目に見える姿だけで人間を量ることなんてできないんだよ。ストレートに悲しみを表現する人間もいれば、人前ではいつもどおりに振舞う人間もいる。傷付けるくらいまで相手を思うことを愛だとする人間もいれば、傷付ける前に忘れようとすることを愛だとする人間もいる。どちらが正しいわけでも、いけないわけでもないんだ」
沖渡はそこで少し微笑む。
「…人の本質を見極めることは本当に困難だ。きっと一生かかったって極めることなんてできないんだろうな。だから勝手に人を疑ったりしては本当はいけないし、だからといって信じることをやめてもいけない。
…つらいね、でもそれが触れ合いってもんだろう。きっと自分自身さえも理解するのに四苦八苦している人間同士だからこそ、誰かを必要とするし、その間に愛なんてもんが生まれてくるんだと思うよ。理解し合うなんてできなくてもね」
沖渡は瀬山の瞳をじっと見つめながら話す。
「私たち教師ってのは君たちよりもほんのちょっと、君たちの心を覗く方法を知ってるだけの存在なんだよ。少なくとも、私はそうありたいと思ってる。自分で言うのもなんだが、小笠原があの鉄扉を施錠したんじゃないかって思ったのも、出口が自殺なんてするはずないって思ったのも、推理とかそんなことの前にまず教師としての勘みたいなものがあったからなんだ。日頃見ている君たちに対してだけ鋭く働く勘。
まあ、君を犯人だと問い詰めた時は本当につらかったけどね。こんなことになる前に君の悩みに気付いて救いの手を差し伸べる、それが本来の私たちの仕事だったから」
「そんな…」
「認めたくはないけど、教師も欠陥を持った人間。悩みや妬みや悲しみを抱えて、それでも生徒たちの力になりたいと望んでる。矛盾した社会にドップリ浸かりながら、それに屈したくはないと戦ってる君たちを応援したいと思ってるんだ。まあ、君たちから見ればエゴの塊なのかもしれない。でも、君たち生徒の幸せを願う心は常に持ってる、…これだけは信じてくれ」
「…それにしては、ニュースを見ると最近続々と学校で不祥事が起こってますよ。教師が加害者の事件もある」
瀬山は前髪で目を隠しながらそう言った。
「う~ん、それを言われるとつらいなあ…。でも、心底望んで教師になった人たちは、生徒をないがしろにはしていないと思うよ」
「先生は、そうなんですか?」
沖渡はそれには答えず、屈託のない笑顔を見せた。そして、ヘルメットの中から一枚の紙を取り出す。
「これ、事件のせいで発行が延ばし延ばしになってた図書新聞。今日ようやく発行になったんだ。みんなから君に届けるように頼まれた。後で係りの人に渡しておくから…」
「いい暇潰しになります」
「新しいのが発行される度に届けに来るから。果たして図書延滞者の数が減るかどうか、注目のところだな」
「そろそろ、時間です」
面会室の外から声がした。
「あ、はい。それじゃ…」
沖渡は立ち上がってヘルメットをかぶる。
「あ、瀬山、最後にもう一つ。君は殺人犯じゃない。出口や板村が助かったのも、君の心の中に無意識の優しさがあったからだ、私はそう思ってる。教師の生徒の心を覗く能力を信じて、君もそう思ってくれ」
瀬山は何も言わずに目を伏せていた。
沖渡は立ち去ろうと背を向けた歩き始めたが、またドアの前で歩みを止め、そのまま振り向かずに話した。
「あと、これは出口に口止めされているんだが…、言っちゃおう!出口は本当に『天空』が好きだったんだよ。だから、毎日放課後に中庭の池へお祈りに行ってたそうなんだ。図書委員をさぼりがちだったのもそのせいもあったんじゃないかな。もちろんふった彼女がなんと図書委員にいたからってのもあったろうけど…。ふったっていっても、実は『天空』の死で落ち込んでて、小笠原に優しく接することができなかっただけみたいなんだけどね」
「あの、時間なんですが…」
またドアの外から声がした。
「あ、すいませんすいません」
沖渡はそう言いながらノブに手をかけた。そんな中、瀬山は沖渡の言葉を考えていた。

(出口が毎日放課後、中庭の池へお祈りに行ってた…?
そういえば、大掃除の時ワックスを取りに行った帰りに、どこかから戻ってきた出口に会った。あの時はさぼって売店でジュースでも飲んでたんだろうと勝手に思ったんだが…。そうか…、お祈りに行ってたのか。
あの時は今からやらなくてはいけない犯罪計画やドア入れ換えの作業のことで頭がいっぱいだったから出口のことを詮索する余裕がなかった。
そうか、あいつは『天空』のことを…。自分はとんでもない過ちを犯すところだった。兄の形見を奪った恨みを込めて、兄の著書で出口を殴ったのだが…自分はなんて愚かだったのだろう。生きていてくれて本当によかった、よかった…。

いや、彼が実はいい奴だったから自分のしたことは過ちだというのはおかしい。…そう、つまりはそうなのだ。例え出口が極悪非道な奴で遊び半分で『天空』を殺したんだとしても、彼に復讐しようとすることは結局自分の悲しみのはけ口を他者に決め付けているに過ぎない。それも誰に相談したわけでもなく、全部自分で勝手に…。
自分の心の弱さを、他者を傷付けるある種の優越感で覆そうとしているだけなのだ。
最低な正当化…。
彼が生きていてくれれば、本当は最初にするべきだった『話し合う』ということができる。だから、生きていてくれてよかった…。そしてごめん、ありがとう)

瀬山が顔を上げると沖渡が部屋を出ていくところだった。ためらいなく涙を流しながら瀬山は心から叫んだ。
「先生、本当にありがとうございました!」
その声は届いたのか届かなかったのか…教師は何も言わず部屋を出ていった。

数分後、もとの部屋に戻った瀬山の耳に、沖渡の去りゆくバイクの音が心地よく届いた。
季節は秋、やわらかな午後の日差しがそっとアカシアを思わせる。

-了-