第十章 真相講義

1997年11月14日(金) 午前5時28分

福場は早朝の電話に起こされた。昨夜は沖渡の言葉が気になってなかなか寝付けなかった彼をコール音が容赦なくまくし立てる。福場は重い体を起こすと明かりをつけて時刻を確認した。
(誰だよ、こんな朝早くに…。それにしても眠いな)
目を擦りながら受話器を取る。
「ふぁい、福場ですが」
「僕だ。瀬山だ」
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「叩き起こされたのはこっちも同じさ。沖渡先生だよ、さっき電話がかかってきたんだ」
「沖渡先生?どうかしたのか」
「何か知らないけど、事件の真相がわかったから至急図書室に集合してくれってさ。冗談じゃないよ、昨日の個人面談が最初で最後じゃなかったのかよ。本当にもう…」
委員長の不満はひとまず聞き流して福場は尋ねる。
「事件の真相がわかったって?それ、本当か」
「ああ、確かにそう言ってた。他のみんなにも連絡させられたよ。じゃあ、そろそろ出発しないと間に合わないから、切るぞ。まったくもういい加減にしてほしいよ」
そう言い捨てて電話は乱暴に切れた。

夜明け前の街に福場は自転車を走らせていた。11月中旬のこの時刻はもう十分に寒い。日の出はまだ遠く、空には星たちが瞬いている。
(事件の真相が…わかった?)
望んだことではあったが気持ちは複雑だった。真相に向き合う覚悟…それができているかと問われると自信がない。心は大きく揺れていた。
(真相…一体それは何だろう?沖渡先生は何を…今から語るのだろう?)
福場にはこの一連の出来事を筋が通るように説明するなんてことは到底不可能に思えた。しかし一方で沖渡はそこにたどり着いたに違いないという無根拠で無責任な確信もあった。
(今はとにかく向かうしかない。あの場所に全てがある。
行くんだ、図書室へ!)
かじかむ両手をこらえながら福場はペダルをこぐ足を加速させる。

フゾクの校門に到着した時、時刻は午前6時を回っていた。まだ辺りは暗く、校門の後ろに黒く大きな校舎の影がぼんやり見える。その中でただ一点、4階、図書室だと思われる位置だけ明かりが灯っている。校舎出入り口のシャッターはすでに開かれていた。
福場は一度深呼吸してから自転車を校内に滑り込ませる。

4階へ上がると、廊下には数メートルおきに制服警官が配備されていた。特に図書室の辺りは厳重で、前方のドアの両脇に警官が立っていた。
その光景に圧倒されながら中に入ると委員たちの姿が長机にある。そして、カウンター前には数学教師・沖渡が立っている。窓の外はまだ深い闇。電灯だけで照らし出される室内はどこか夢の中のように感じられた。
「よし来たな、福場。これで全員集合だ」
沖渡は感情なくそう言うと福場に着席を促し、入り口のドアを静かに閉めた。
「先生、女子の先輩たちがまだ誰も来てないようですが」
カウンター前に戻った沖渡に瀬戸川が尋ねた。
「…ああ、その事なんだが…。実は昨日一人交通事故に遭ってしまって…、今全員付き添いで病院の方に行ってもらってるんだ」
「交通事故ですか?」
と、マニアックマン。
「そうだ、自転車で下校中にね…。幸いまだ命はあるんだが、非常に危険な状態だ」
「そ、そんな…」
小笠原遥香が怯えた声で言う。
「…そのことも順を追って説明する」
「先生、板村くんは…」
福場が昨日の電話を思い出して尋ねた。
「板村がどうかしたんすか?」
怪訝そうな平岡。沖渡が福場に代わって答える。
「実は昨日の放課後、ここのすぐ上の屋上で頭を殴られて倒れていたんだ。渡辺が偶然屋上に行かなければもっと発見は遅れていただろう」
福場はふと集まっている委員たちに紛れて、その渡辺もこの場に居合わせていることに気付いた。
「しかし…早期発見ではあったが、手遅れだったよ。昨夜遅くに…」
その言葉に一同は水を打ったように静まり返る。沖渡はゆっくり目を閉じ、そしてまたゆっくり開いてから言った。
「…みんな、今から全てを説明する。だから、落ち着いて聞いてくれ」
沖渡は改めてそこに集った生徒たちを見回す。瀬山、福場、久保田、瀬戸川、平岡、小笠原、そして渡辺…それぞれの面持ちが返される。
「念のために確認する。もし自分にやましい所がある者がいるのなら名乗り出てほしい…頼む!」
頭を下げる数学教師。まるで黙祷のような無言の一分が流れる。しかし誰も名乗りを上げる者はいない。沖渡は顔を上げた。
「では…始めます」

沖渡はカウンターに置かれたボックスから一枚の貸し出しカードを取り出した。
「これは…例の『大工』と書かれたカードだ」
早朝の冷たい空気のせいか、その声は鋭く図書室に響く。
「まず…『これを書いたのは誰なのか』、これが第1問だ」
「そんなの、『大工』本人に決まってるんじゃ…」
平岡が言う。
「確かにここには『大工』と書かれている。しかし本当にこれは『大工』なんだろうか…と私は考えた。実はこれを書いた人物は『大工』が伝えたかったのではない、私たちが勝手にそう読んでいたに過ぎないのではないか…」
沖渡がカードを全員に示す。小笠原が「どういうことかしら」と呟いた。
「このカードには別のメッセージがあるってことさ。その前に、みんなに協力してもらいたい。今から一人ずつこの黒板に『大工』と書いてくれ。チョークはここにあるから」
カウンターの横には昨日の個人面談でも使われたキャスター付きの黒板が置かれている。
「もちろんここにいる全員だ」
厳しい語調…また沈黙がその場を包む。そしてまず福場が立ち上がり、その後一人また一人と生徒たちは沖渡の指示に従った。静寂の図書室にチョークの音だけが続く。委員長やマニアックマンのように少なからず不快そうな顔をする者もいたが、とりあえず人数分の『大工』が黒板に並んだ。それはとても不気味な光景であった。
全員が書き終えて着席したのを見届けると、教師は再び口を開く。
「『大工』、これ以外にもこのカードには学年の欄に漢字で『一』と書かれている。また小さな穴も空けてあるんだ」
そこでカードが再び全員に示される。
「確かに嫌がらせにしては、凝ってるわりに意味がさっぱりわかりませんね」
と、瀬戸川。
「そう。つまりこれは…恐怖を与えるための行為ではない。悪ふざけなんだよ、ただのね。包丁と塗料を使ったりしたあの悪戯とは全くレベルも系統も違うものだ」
「悪ふざけって…それでも全く意味がわからないじゃないですか。別のメッセージなんてどこにあるんです?」
マニアックマンが言う。
「あるんだよ久保田。今からそれを説明する」
沖渡は堂々としていてそこには何の迷いも感じられない。
「ちょっとした暗号だったのさ。まず『一』、そして『大工』…」
沖渡は黒板の余白に『一』と書き、その下に縦に少し間隔をあけながら『大』、『工』と書いた。
「しかも『大』と『工』の間には…穴」
沖渡はその位置に小さな丸印も板書した。
「この暗号を解くには、カードに書き込まれた情報をこうやって縦書きにすればいいんだ」
生徒たちはしばらく黒板のその文字を見つめたが…何もわからない。
「そしてもう一つの作業、穴を漢字に変換すると…」
沖渡は丸印を消し、代わりに『穴』と書き込んだ。
「どうだい?これなら…読めるだろう?」




「あ…」
福場の頭の中で二つの名称が結び付いた。


「…『天空』」
噛みしめるように福場が言う。沖渡は微かに笑みを浮かべ、「そのとおりだ」と返した。そして他の生徒たちも沖渡の言わんとすることに気付く。
「これらの四文字を間隔を狭めて並べると、『天空』になる。これは以前中庭の池で飼われていた鯉の名前なんだが…実はもう一人、ある人物の名前でもある」
「ある人物?」
委員長がくり返す。
「そうだ。小笠原、君ならもしかしたら知っているんじゃないのかな?」
周囲の視線が赤毛の少女に集まる。それを避けるように顔を伏せたまま彼女は小さな声で言った。
「出口先輩の…中学の頃の…あだ名です」
場がざわつきそうになるが、それより先に沖渡が言い切った。
「そう、つまりこの貸し出しカードを書いたのは出口本人だったんだ」

「…最初から説明しよう。出口はただ単に、図書を借りる時に自分のお気に入りのあだ名、かつお気に入りの鯉の名前でもある『天空』を暗号にして貸し出しカードに書いただけだったんだ…いつもの悪ふざけでね。変わり者でエンターテイナーの出口ならやりかねないことじゃないかな。
もちろん裏付けもある。実際このカードで貸し出された図書『水に棲む生き物』も彼の部屋から発見されている。生物管理委員会で鯉を飼っていた彼が読みそうな本だ。
おそらくこのカードを出口が書いたのはまだ鯉が生きていた頃だろう。本を借りて読んでまで世話をしていた鯉が死んでしまって、本も返しそびれていたんじゃないかな」
「でも先生、それではあの包丁の持ち手に書かれた『大工』はどうなるんです?」
委員長が問う。
「あれは、このカードをただ『大工』としか読まなかった別の人間が書いたんだ。『大工』の持つ一種の不気味さを自分の計画に利用しようとしたんだろう」
「でもそんなの、わからないじゃないですか!」
突然小笠原が顔を上げて反論した。
「また出口先輩が書いたのかも…。包丁を使ったからって、度を過ぎた悪ふざけともとれないことはないわ。あの人はそういうふざけた人なのよ!」
これまで物静かな彼女しか知らなかった図書委員たちはその激情に驚きを見せる。
「いや、それはない」
沖渡はキッパリと否定した。
「どうしてですか?筆跡鑑定でもしたんですか?」
マニアックマンも反論に加勢した。
「カードに書かれている文字も、包丁に書かれている文字も簡単なものだから…筆跡鑑定は難しいだろう」
「じゃあ…」
「しかし、この貸し出しカードを書いた人間と包丁に『大工』と書いた人間は別だ」
「どうしてそんなことが断定できるんすか?」
平岡も口を出す。沖渡は先ほど生徒たちが書いた黒板の『大工』の群れを指差した。
「…書き順だよ、書き順が違うんだ。
『工』の字は横・縦・横と書くのが正しい。国語が専門の岡本先生にも確認した。みんなに書いてもらった時、私は書き順を見ていたんだよ。全員横・縦・横だった。
しかし出口は横・横・縦と書く癖があったらしい。筆跡鑑定は無理でも、重なり具合から書き順は判別できるんだ。警察の鑑識に調べてもらった、包丁の『工』は横・縦・横、つまりこれは出口とは別人、君たちのように標準的な書き順の人間我書いたんだ」
「まるで僕たちの中に…その人物がいるような言い方ですね」
委員長が敵意を含ませた声で言った。
「そのとおりだ」
沖渡の言葉にもはやためらいはない。
「支所室から鍵を盗めるという条件から考えても、図書委員以外に真犯人は有り得ない」

息を呑む一同。沖渡は確かにとんでもないことを言おうとしている…しかしそれはけしていい加減な見解ではないことを全員が感じ取った瞬間だった。視線はカウンター前に立つ教師に集まる。彼はまるでそんな生徒たちの胸中を察したように無言で頷くと、語りを再開した。
「…つらい話ですが、続けます。
この一週間で起こった一連の出来事は、全てある1人の人物、仮に…まあkとしよう、によって起こされたものだ。そしてそれは出口ではない。出口はただいつもの悪ふざけで貸し出しカードに暗号を書いただけ。kはその『大工』という疑惑の名称を自分が今から行なおうとしている犯罪計画に利用することを思い付いた。
…犯行の過程で『大工』を名乗れば、みんなの疑惑の矛先を『大工』という正体不明の人物に向けさせることができるからね」
福場は普段から『大工』をなにかと話題にしていた自分たちを思い出していた。
「そして密室の書庫に出口を残すことで、出口の自殺をでっちあげ、『大工は出口だった』という結論に私たちを導こうとした。実際、一度はみんなそう考えただろう?」
沖渡はまた生徒たちを見回した。マニアックマンは厳しく睨み返していたが、沖渡は続けた。
「だからkにとって『大工』が本当はどこの誰であろうと知ったこっちゃなかったわけだ。しかしまさか出口自身が本当に謎の図書延滞者『大工』の正体だったとは思いもしなかっただろうけどね。
…順を追って話そう。kはまず図書室の鍵を手に入れる必要があった。もちろん図書室に忍び込んであの包丁の悪戯をするためだ。司書室に日常から頻繁に出入りしている図書委員のkにとって、鍵を盗むことはさほど難しいことではなかった。しかし、その時たまたま別件で司書室に来ていたある人物に、kは鍵を盗むところを目撃されてしまった。
…そのある人物こそが、板村だ」
「えっ」
渡辺が声を上げた。
「板村は月曜日の昼休憩、岡本先生に国語の質問をするためたまたま司書室に来ていた。kはその時とばかりに鍵を盗んだのだろうが、岡本先生の解説を受けながらちらっと他所見をした板村に、盗む瞬間を見られてしまったんだ」
福場は心の中で納得する。
(そうか…、やはり板村くんは事件に大きく関係があったんだ…)
「多分その時はkも見られたことに気付かなかっただろうし、板村も自分が目撃したことがそんなに重大なことだとは思っていなかったんだろう。
しかし昨日の個人面談の時、図書室で委員たちの話を聞いていた板村は、『鍵を盗んだ人物こそが事件の犯人である』ということを知ってしまった。そして、自分は犯人を目撃していることを理解したんだ。だから彼は怒って帰るふうを装って自分の面談をボイコットした」
その辺りの経過は福場が昨夜の電話で沖渡に伝えたことだった。福場は面談中図書室に残っている生徒たちの行動を観察するように頼まれていたのだ。そう、自分の面談が終わり、数学準備室を出ようとして呼び止められたあの時に。
自分の伝えた情報が思いがけない意味を持っていたことに驚きつつ、福場は沖渡の言葉に集中する。数学教師はさらに板村の行動に関する推理を展開した。
「そして先に渡辺だけを教室に帰して、彼は廊下でkが面談を終えて来るのを待っていた。理由はkを問い詰めるため…もしかしたら名乗り出るよう説得するつもりだったのかもしれない」
渡辺は昨日の板村の姿を思い出す。あの時の板村の、何か思い詰めたような…異常な光を宿した瞳を。
「やがて面談を終えたkが、教室へ戻る途中で板村の待ち構える廊下に来た。そして事件のことを話してきた板村を、kは思わず持っていた物で殴ってしまった」
その光景を思い浮かべたのか、平岡が反射的に目をつぶる。
「冷静になってからkは焦っただろうが、とにかく板村を隠すことを考えた。授業中だから他の生徒に目撃される可能性は少ない。しかもそこは4階、屋上に運ぶことを思い付くのは当然だ。屋上には滅多に人が来ないから最適の隠し場所といえる」
「ちょっと待ってください!板村は発見の時はまだ生きていたんですよね?何故kはとどめを刺さなかったんですか?」
マニアックマンが喰ってかかるが…沖渡はすんなりと答える。
「死亡推定時刻を曖昧にするためだ。もし板村が発見されて、殴られたのは五時限目と六時限目の最中だと断定されてしまったらまずい。ほとんどの生徒は授業中でアリバイがある時間だからね、犯行が可能だったのは面談のせいで授業を受けていなかった者だけだと絞り込まれてしまう。だからkは板村に致命傷だけを与えて、板村が絶命する瞬間はできるだけ後延ばしにしようとしたんだ」
合理的な説明にマニアックマンは言葉を呑み込む。続いて平岡が目を開いて問った。
「い、一体誰なんすか、kってのは?この中にいるんすよね?」
はっとしたようにお互いを伺う生徒たち。沖渡が何か言いかけるが、委員長が先に言葉を発した。
「でも先生、書庫の状況は明らかに出口くんの自殺を物語っていたのではありませんか?密室の中に出口くんがいたんだったら、kって人が魔法使いでもない限り…」
「そ、そうだ!あの状況を作り出せたのは密室の中にいた出口さんしかいない。やっぱりあれは出口さんの自殺で、板村が殴られた事件は無関係なんじゃないですか?」
マニアックマンが勢いを取り戻して疑問をぶつける。
「いや…」
沖渡はまたゆっくり目を閉じ、それを開いてから言葉を続けた。その瞳には完全なる確信の色。
「間違いなく出口はkに殺されたんだ。あの密室もkが作り出したものだ。…今からそれを説明しよう」

「ちょ、ちょっと待ってください!」
マニアックマンがついに立ち上がって叫んだ。沖渡は言葉を止め、目を丸くして彼を見る。
「やっぱり先生の言おうとしていることはおかしいですよ。書庫は密室だ密室だっていかにもミステリーみたいに言うけど、ただ単に出口さんが書庫に入って内側から鍵をかけたっていう解釈をするのが普通じゃないですか!
…それに、仮にですよ、もし仮に先生が神業的な密室トリックを発見したとしても、それが行なわれたっていう証拠がない以上、結局何の意味も…」
「落ち着け久保田」
強い声で言う沖渡。そしてカウンター前からゆっくり離れ、後ろの席に座っていたある生徒の前へと移動した。そこで無表情を崩さずに話しかける。
「久保田もああ言ってるし、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?…小笠原」
彼女は落としていた視線をゆっくりと数学教師に向けた。
「…え?」
「警察も久保田のように出口の自殺という見解で決着しようとしている。…君は本当にそれでいいのか?出口が自殺でないことは君が一番知っているんだろう?」
その言葉に福場が驚いて尋ねる。
「どういうことです?じゃあ、まさか彼女がk…」
沖渡はちらと福場を見、再び小笠原に視線を戻した。
「まさか、もちろん犯人以外で一番知っているってことだよ。
…なあ小笠原、出口は君が思っているような人間じゃないよ。私が保証する。だから彼の味方になってやってくれないか?…元恋人だからとかそんなんじゃなく、一人の人間として…誇りあるアカシアの生徒として」
また周囲の視線が彼女に集まる。しばしの逡巡の後、彼女は口を開いた。
「…わかりました。私、証言…します。今まで黙っていてすいませんでした」
そして彼女は力強く続けた。
「実は私、…大掃除の時、あの鉄扉に鍵…かけたんです!」
微笑む沖渡。
「私は女子の先輩方と四人で書庫を掃除していました。その時、水田先輩が鉄扉を閉めました。そして、掃除が終わってみんなで廊下に出る時、私…鍵をかけたんです!ノブのツマミを回して…。だって、その方が安全だと思ったから。
でも次の日、出口先輩が書庫の中から発見されて…私怖くなって…」
そこで言葉を詰まらせる。沖渡が続けた。
「小笠原はとても頭の切れる奴だ。だから鉄扉を施錠しておいた方がいいとすぐ気付いたんだよ。そうしておけば、図書室の鍵を盗んで包丁の悪戯をした犯人は少なくとも書庫までは入ってこれなくなるからね。
…しかしそれにも関わらず、翌日出口は書庫の中から発見された。誰も入れなかったはずなのに。つまり多くの者が考えた出口の自殺だが、実はそれも不可能だったんだよ。そして小笠原はただ一人その事を知っていた。相当悩んだんだろうね」
「で、でも…」
恐る恐る口にする平岡。
「どうして今まで黙ってたんすか?彼女は…」
それには小笠原本人が答えた。
「だって…私が証言しなければ…自殺で解決しちゃうから。自殺っていうかっこ悪い死に方であいつが死んじゃえばいいって…思った。私をいきなり捨てるように別れたあいつが…。
でも、だんだん黙ってるのがつらくなって…だから学校に来るのもつらくなって…」
「もういいよ、小笠原」
沖渡は涙声の彼女の肩をポンと叩き、足音もなくカウンター前に戻った。しばらく呆然としていたマニアックマンは腰が砕けたように椅子に沈む。その瞳は激しく左右に揺れていた。
無理もない。出口の自殺説は、図書室から鉄扉を通って書庫に侵入したというのが大前提だったのだから。
「みんなわかるな?つまり、書庫に入ること自体ができない状況だったんだよ、あの時。まさにミステリーだろう」
誰も何も言えない。もはや沖渡の次の一言を待つしかなかった。
長い数秒が過ぎる。そして沖渡はついにその言葉を発した。
「それでは…改めて説明しましょう」

「私が出口の自殺を疑ったのは、盗まれた図書室の鍵が中庭にあったからだ。明らかにこれは第三者が関与していること、その人物が辻褄合わせで『いかにも書庫の天窓から出口が投げたような位置』に鍵を置いたことを示している」
「しかし先生」
瀬戸川が尋ねた。
「確かに鍵のことは不自然だと思いますけど、それはkが犯人だとしても同じことじゃないでしょうか?どうやるのかは知りませんが、書庫を密室にしたまま脱出できたんなら、その時に書庫の中に鍵を残しておけばいい。出口先輩の自殺をでっちあげるならなおさら…」
「そのとおりだ。私もそれが不思議だった。何故kは鍵を書庫の中に残さなかったのか?うっかり忘れたのかとも思ったけど、これだけのことをやってのけた犯人がそんなポカをするとも思えない。ではどうして?
しかし、こう考えれば納得がいく。つまり『書庫を密室にして脱出するには鍵を持ち出す必要があった』とね」
「で、でも先生…」
福場が思わず口を開いたが沖渡はそれを遮って続けた。
「ところでみんな、ちょっと頭の中で考えてみてくれ。今『ドアを開けたい』という目的があって、『鍵がかかったドア』と『そのドアには合わない鍵』があるとする。
…さあ、みんなならどうする?」
何人かが顔を見合わせる。沖渡は少し待ってから言った。
「…久保田、どうだ?」
マニアックマンはバンダナを触りながら答えた。
「そんなの…無理ですよ。合う鍵を探してこなくちゃ」
「そう」
沖渡は微笑んで答える。
「普通誰でもそう考える、『ドアに合う鍵を持ってこよう』とね。しかし、今の明大は『ドアを開けたい』ってことだけなんだ。つまり…」
数学教師はそこで一息ついて大きな声で言った。
「『鍵に合うドアを持ってくる』でもいいんだよ」
福場が言う。
「先生、一体どういうことなのか…よくわからないんですが」
「うん、単刀直入に言おう。事件の時、書庫の廊下側には本来の書庫のドアではなく図書室の後方のドアがはまっていたんだ。二つのドアが入れ換えられていたんだよ」
「なんだって?」
マニアックマンが室内を振り返って叫んだ。図書室の後方…今はもう新しいドアだが、沖渡はそこに書庫のドアがはまっていたと言っているのだ。
「そう、思わぬ盲点だろう?同じタイプのドアだから交換は当然可能だ。盗まれた鍵は図書室の前方・後方どちらのドアも開け閉めできる。つまり書庫のドアと図書室の後方のドアが入れ換えられていたら、図書室の鍵だけでどちらの部屋にも自由に出入りできるってわけだ…鉄扉の施錠に関係なくね。
kは書庫に自由に出入りできたんだから密室にするなど簡単なこと。普通に施錠すればいいんだ。だから鍵は外に持って出なくちゃいけなかった」
みんな目を丸くしている。
「図書室で包丁の悪戯が起きたことで、誰もがこの悪戯が目的で図書室の鍵は盗まれたのだと考えた。だが実のところ、鍵は書庫を密室にする目的で盗まれたんだ。包丁の悪戯は言わばカムフラージュだったのさ。
二つのドアを入れ換えればうまくいく…このことに気付いたのは事件のかなり後のことだ。数学の授業中に、解を持たない方程式でも係数を入れ換えるだけで簡単に解けるようになるってことがあってそれがヒントになったんだよ」
福場にはおぼろげながらその時の記憶があった。そう、沖渡の板書ミスをクラスの秀才・徳永が指摘したあの授業だ。
「そうか…だからkは三つのドアの鍵穴を粘土で塞いだのか…」
マニアックマンが言った。
「どういう事?」
隣の渡辺が尋ねる。
「だってさ、そうしておかないと書庫の鍵が書庫のドアに合わないことになっちゃうだろう?そうなればすぐにドアが入れ換えられてることがばれる。
でも鍵穴を塞いでおけば、同じタイプのドアだから全く見分けがつかなくなる。要するに同じドアばかりの学校という環境において、鍵穴がドアを見分ける唯一の手段なんだ。図書室の前方のドアの鍵穴も塞いだのはやっぱりカムフラージュだろうな。問題の二つのドアだけ塞がれたんじゃ不自然だからね」
そこでマニアックマンは沖渡に視線を向ける。
「これはすごい計画です。鍵穴が塞がれた以上、ドアは無理矢理壊して外すしかなくなる。つまり入れ換えられてた証拠も曖昧になる。…ですよね、先生?」
そう締めくくった彼に、沖渡は「そのとおりだ」と力強く頷いた。
「で、でも…」
今度は委員長が口を開く。
「確かにそれが本当なら話は…合います。でも、ドアを入れ換えるったって、いつどうやってやるんです?ドアを入れ換えるには両方の鍵が必要だし、それなりに重たいドアですし…一人でやるには大変な作業ですよ」
続いて瀬戸川も意見した。
「僕もそう思います。それに目立ち過ぎますよ、そんなことしてたら。いくら4階がフゾクのチベットでも通りかかる生徒や先生はいます。そんな大作業を見つからずにやれる機会がありますかね?」
他の生徒たちも無言でその疑問に同意する。
「…確かにそうだ。だが、その作業を効率的に、なおかつとても自然に行なえる機会がkにはあった。図書委員はみんな知ってる、当たり前の機会だよ。
それは…大掃除に他ならない」

「大掃除の時、全てのドアが雑巾掛けのために外された。入れ換えるにはもってこいだ。kは事件の前日の大掃除を利用してドアの入れ換えを行なったんだ」
(まさかあの時から犯罪計画が進んでいたなんて…)
その周到性に福場の背筋が凍った。
「これを見てくれ。これは昨日の個人面談でみんなから聞いた各自の大掃除中の行動だ」
そう言いながら沖渡はカウンター裏から模造紙を取り出しそれをマグネットで先ほどの黒板に貼った。しばしの間、生徒たちはそれに目を通す。そこには各人の行動が時系列で書き込まれていた。少し待ってから沖渡は話を続ける。
「入れ換えられた二つのドアはもともと位置的に近い所にある。よって外した時も近い所に立てかけられたはずだ。だから戻す時にあべこべに戻したとしてもそれほど不自然はないだろう」
その言葉に福場が何か言おうとしたが、沖渡は目でそれを制した。
「kは大掃除を利用してドア入れ換えに成功した。そして翌日の早朝に出口を電話で図書室に呼び出した」
「しかし先生、そんな朝早くに突然呼び出されて…わざわざ来るでしょうか」
瀬戸川が意見する。
「来る。何故ならその前日に包丁の悪戯が行なわれ、図書委員全員がそのことに少なからず興味を持っていたからだ。kは電話で出口に『包丁事件の犯人がわかったから図書委員は今すぐ図書室に集合だ』とでも言ったんだろう。出口の性格から考えても、彼はワクワクして来たんじゃないかな。つまり包丁の悪戯には早朝に呼び出す理由を作るという意味もあったんだ。
…実際今朝も同じ様な内容で瀬山に呼び出しをかけてもらったら、全員来たじゃないか。出口も含めここにいる全員自転車通いで、一人暮らしも多いからな」
「そのことを確認するために、こんな朝早くに呼び出したんですか?」
委員長が問う。
「そうだ瀬山。色々すまなかったな」
そう労われて彼は曖昧に頷いた。
「…話を戻そう。kは呼び出した出口を重たい本で殴る。そして自殺をでっちあげる上で必要な箇所に出口の指紋を付着させ、最後に密室の書庫に出口を封じ込めた。そして一度その場を去り、またみんなに混じって登校した。
…以上が書庫の事件の真相だ」
沖渡は言い切るとゆっくり目を閉じた。
「だ、誰なんだよ、kってのは!いるんだろこの中に!だったら潔く名乗り出ろよ!」
マニアックマンが再び立ち上がり、身を乗り出して全員に叫ぶが誰もそれに応じる者はいない。沖渡は目を開き、言葉を続ける。
「kは誰なのか…それはごく単純な論理で特定できる。この模造紙に書いた全員の動きを見てごらん」
マニアックマンは着席し、福場も改めて自分の記憶と照らし合わせながらそれを読む。

<大掃除中の委員の行動>
1.女子四人が支所室の掃除。1年男子三人が廊下のホウキがけ。
2.瀬山がワックスを取りに行き戻る時に出口と合流。
3.全員司書室に集合し掃除の分担の指示を受ける。
4.1年男子三人が保健室にゴミ袋を取りに行く。
5.2年男子三人でドアを外し、女子四人が外したドアを雑巾で拭く。
6.福場・出口が長机を運びだし駐車場へ。瀬山は図書室の掃除を開始。
7.1年男子三人が戻ってきてドアの敷居の溝の掃除を開始。
8. 女子四人が書庫の掃除に移る。
9.1年男子三人が図書室の掃除に加わる。
10.書庫の掃除が終わり、女子四人が下校。
11.図書室の掃除が終わり、瀬山と1年男子三人でドアをはめ直す。そして1年男子三人は下校。
12.福場・出口が長机を持って図書室に戻る。
13.2年男子三人で図書室と書庫のドアを施錠してから下校。

沖渡は言葉を続けた。
「kの条件はただ一つ。二つのドアを入れ換えるためにドア外しとはめ直しの両方に参加している人物。この条件を満たすのはたった一人しかいない」
室内の緊張が高まる。全ての視線が彼に集まった。
「kはばれずにドアあ入れ替えを行なうためにうまく委員を動かせる立場にある人物。さらに早朝に委員を呼び出しても不自然でない人物。そして大掃除の終了後、岡本先生から二つの鍵を預かりそれをうまく使い分けて図書室と書庫を施錠できた人物…」
そこでゆっくり息を吐いてから、意を決したように沖渡は告げた。
「それは図書委員長・瀬山夏夫しか有り得ない」

「…本気でおっしゃってるんですか、先生」
口を開いた瀬山は瞳に明らかな憎悪の色を浮かべて沖渡を見返した。
「そうだ。この模造紙を見てもわかるが、ドア外しとはめ直し、両方に参加している人間は君しかいない。それどころか、他の誰一人両方の光景を見ている者はいないんだ。君がうまく指示してそうしたからだ…誰にもドアの入れ換えを気付かせないためにね」
瀬山はまた黙る。沖渡は続けた。
「まず、1年男子三人がゴミ袋を取りに行っている間に福場と出口と一緒にドアを外す。終わったら福場と出口は長机を洗う作業で駐車場に行く。二人がそれを希望することもある程度予想していた。まあ、希望しなかったら君が指示して行かせればいい。君はわざと二人を図書室から離れさせた…ここでもあの包丁の悪戯が効いてるわけだ。
そして、ドア外しを見ていた女子四人ははめ直しをやる前に下校させる。最後にドア外しの時その場にいなかった1年男子三人に今度はドアのはめ直しをやらせた、もちろん福場と出口が戻ってくる前にだ。この時ドアをあべこべにはめさせたんだ。
…こうして君は図書委員たちをうまくコントロールして、掃除に紛らせてドアの入れ換えを成功させた。委員長の君だからこそ、その時の状況を見ながらうまくみんなを動かせたんだ」
言葉を止めて瀬山を見る沖渡。数秒間をおいて瀬山が口を開いた。
「…先生がおっしゃっているのは勝手な想像です。僕はただ委員長として大掃除を仕切っていただけです。そこでドア入れ換えが行なわれたっていう証拠はどこにもないじゃないですか。そんなことで生徒を犯人扱いなんて…あなた、教師ですか?」
沖渡は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐにまた真剣な表情に戻って続けた。
「私がドアの入れ換えのトリックに気付いて急いで図書室に行った時には、すでに業者が三つともドアを外して乱暴にトラックに積んで帰るところだったんだ。ガラスも全部割れてた。だから、どのドアがどこにはまっていたかなんてもうわからなくなってしまっていたんだ」
「じゃあ…」
一瞬瀬山がニヤリとするが、沖渡はすぐに続けた。
「しかし、思い出したんだよ。みんなで書庫の中の出口を発見した時、平岡がドアのガラスで手を切ってしまったことを。あの時結構血が出てたからもしや…と思ったら、案の定だったよ。一つだけ血液の付着したドアがあった。そして、警察に頼んでじっくりとそのドアの塞がれた鍵穴を調べてもらったら…書庫のドアのはずなのに図書室のドアだった。
…これはドアの入れ換えが行なわれていた確かな証拠だ」
「そんな…ぼ、僕は知らない!」
「他にもある。最初に説明したが、板村殺害は犯人にとって予定外の衝動的な犯行だった。だからその時たまたま持っていた物で板村を殴ってしまった。その時、とはもちろんさっき話した個人面談の時だ。
確かあの時君は、魔法瓶型の水筒を持っていたね。あれで…殴ったんじゃないのかい?」
瀬山は黙る。
「思い切り殴ったら水稲は外側がへこむなり、あるいは内側のステンレスが割れるなりしているはずだ。あの水筒が壊れずに今もちゃんとあるって言うなら、見せてくれないか」
「…勝手な想像だ。水筒じゃなくても…例えば廊下に設置してある消火器とかで犯人は殴ったのかもしれない。そんなことで、自分の生徒を殺人犯扱いするなんて…」
委員たちは何も言わずに…いや言えずに、ただ対峙する二人を見守っていた。普段の彼とは別人のように両目をつり上げた険しい瀬山の顔。直線的だが断固たる決意で相手を見る沖渡の顔。やがて教師は声を張り上げた。
「しょうがない…。岡本先生、お願いします!」
その合図で司書室からのドアが開き、岡本とともに水田がそこに姿を現した。

誰も動かない、誰も何も言わない。気づけば窓の外の闇は少しずつ薄まってきていた。
「…フフッ」
カウンターの奥の水田を見ながら瀬山が息を漏らす。そして不敵な笑みを浮かべて沖渡に言った。
「先生、嘘をつきましたね。どういうつもりです?水田さんが事故に遭って病院で危険な状態だなんて言って…。大丈夫だったみたいじゃないですか。一体あなたは生徒を…」
沖渡は静かに答える。
「今の言葉で完全に証明されたよ…必要十分条件を満たした。犯人は君だ、瀬山」
「…え?」
「私は誰が交通事故に遭ったのかを一言も言ってないんだよ。『2年の女子の一人が自転車で事故に遭った』としかね。
それなのに…どうして君はそのことを知っているんだ?」
「そ、そんなの…」
瀬山は頬を引きつらせながら返した。
「そ、それは…今朝来た時、警察の人が話しているのをたまたま聞いたんですよ。水田という女子生徒が昨日交通事故に遭ったって言ってました」
「…確かなことかい?」
沖渡が目を丸くして尋ねた。
「ええ、確かにそう聞きました。それに同級生の交通事故の情報なんて、どこから入ってきていても別におかしくないでしょう?僕がそれを知っていたからって…それがそんなに重要ですか?」
沖渡はそれには答えず言った。
「水田、こっちに出てきてくれないか」
文学少女は黙って頷くと、ゆっくり沖渡の隣に歩み出た。カウンターに隠されていた彼女の全身が生徒たちの目にさらされたのだが…危険な状態どころかどこにも怪我をしている様子はない。
「どういう…事です?傷一つないじゃ…」
その瀬山の言葉に、悲しそうな目をした岡本が答えた。
「水田さんじゃないのよ…。事故に遭ったのは西村さんなの」
「え?」
驚く瀬山に沖渡が説明する。
「実はな瀬山、昨日面談の時から水田は気分が良くなかったんだ。それで自転車で帰るのは危ないと判断して、西村と交代したそうなんだ。二人ともJR通いだから広島駅まで行くからな。だから、駅で落ち合う約束で水田は西村の定期を借りて路面電車に乗ってたんだ。
いいか瀬山、どこからも水田が事故に遭ったなんて情報が入ってくるはずがない、そんな事実がないんだから」
沖渡はそこで水田を見ながら言う。
「普通2年女子の誰かが自転車で交通事故に遭ったと聞いて、水田が元気な姿で目の前に現れたら…もう一人の自転車通学者である須賀が事故に遭ったのだと考えるんじゃないかな。なあ、久保田?」
すっかりおとなしくなったマニアックマンが答えた。
「はい。水田さんが司書室から出てきた時、そう思いました」
「だよな。なのに瀬山はずっと事故に遭ったのは水田だと信じて疑わなかった。…それは、水田の自転車のブレーキを壊しておいたのが瀬山自身だからだ。だから交通事故の話を聞いた時、すぐにそれは水田のことだと判断した」
沖渡は再び瀬山を見る。
「確かに君の細工で水田の自転車は事故に遭った…でも乗っていたのは西村だった。さっきのドアの入れ換えじゃないが…二人が入れ代わっているとは誤算だったな」
瀬山は何も答えない。再び長い沈黙が図書室に訪れた。窓の外の闇はさらに影を潜めている。
「もう…いいじゃない、瀬山くん」
岡本が言った。それは…いつもの優しい図書委員会顧問の口調だった。
「でも、どうして瀬山先輩は水田先輩まで…?」
瀬戸川が呟く。沖渡も小さな声で答えた。
「瀬山は…ずっと不安だったんだよ。出口を襲った後、瀬山は書庫を出る時にあの鉄扉がすでに施錠されていることに気付いた。計画では自分が施錠して書庫を密室にするはずだったのに。
…先ほど話したが、鉄扉は施錠されていなかったという前提がなければ出口の自殺説は成立しない。鍵を閉めた誰かがいるとなると、その誰かがもしそのことを証言してしまえば全てが狂ってしまう。だから瀬山は一体誰が施錠したのかをずっと考えていたんだ。まあ実際はそれは小笠原だったんだが…瀬山は水田だと思ったんだろう」
「どうしてっすか?」
と、平岡。
「これは私の推測だが、瀬山は図書室の掃除をしている時に書庫にいた水田があのドアを閉じるのを見たんじゃないかな。実際はただ閉じただけだったんだが、その記憶から瀬山は鍵を掛けたのも水田に違いないと判断した。
掃除のときに須賀が書庫から瀬山を見たことを面談で証言しているから、瀬山の方から書庫の女子が見えていたとしてもおかしくない」
沖渡はどこかつらそうに言葉を続ける。
「…しかし瀬山は悩んだ、果たして水田の口を封じるべきかどうか。幸いにして警察は出口の自殺の結論を出そうとしていた。そのままいけば水田を手にかける必要はなくなる。瀬山が何かと事件を調べるのに反対していたのはそのせいだ。しかし、私が個人面談などと細かく調べ始めた。そこでついに瀬山は決意した。
水田の自転車のブレーキを壊したのは、多分板村を襲ったすぐ後、その足で自転車置場に行ってやったんだろう。結局私が面談を行なったことが二つの事件を引き起こすきっかけと機会を瀬山に与えてしまったことになる…。そのことは本当に悪かったと思っている。多分瀬山は…」
「もういいです」
瀬山は抑えた声でそう言った。
「もう…わかりました。先生の解答はほぼ満点です、さすがですね。…うまくいかないもんです、完全犯罪なんてのは」
瀬山はそう言うと立ち上がり、足早に前方のドアへ向かった。
「待てよ瀬山!」
福場だった。犯人が友人だと指摘されてからずっと放心していた彼だったが、我に返ってそう呼びかけたのだ。
「なあ福場」
瀬山は足を止めただけで振り返らずに答える。
「これは…君の好きなミステリーじゃない。僕にとっては現実の人生なんだ。…解決の後、真犯人の独白シーンなんて御免だ」
それだけ言うと再び歩き始める瀬山。沖渡が言った。
「君は立派な委員長だったよ、瀬山。きっとみんなそう思っている」
瀬山は再び足を止めた。
「皮肉にしか…聞こえません」
「図書室がうまく機能しているのは、あなたのおかげよ…瀬山くん。私は長年顧問をしているけど、今みたいに楽しそうな図書委員会は見たことがないわ」
そう言って微笑む岡本。その優しい笑顔は犯人に対してではなく、一人の愛しい生徒に向けてのものだった。
「委員長、これからはもっと仕事しますから、安心しててください。俺が卒業するまでに、パソコンで図書を管理するシステムを導入してみせます」
と、マニアックマンがいつもの自信に満ちた声で言う。
「延滞者の問題もなんとかするっす!」
平岡もそう言って髭を擦る。
「今まで、…ご苦労様」
福場も色々言いたい事はあったはずだが…ただそれだけ伝えた。
「今度から一度に五冊借りても…いいかな?瀬山くん」
命を狙われたはずの文学少女もまるで普段の会話のように言葉をかける。
たくさんの暖かい言葉と視線が彼の背中に集まっていた。それはけして同情や慰みであはない。確かに彼が図書室のために努力を惜しまなかった功績への返報だ。しばらくの後、我らが委員長は言った。
「…いいよ、水田さん。本当にごめん。いや、西村さんに言うべきかな」
消えそうなほど小さな声だったがそれは確かに聞こえた。
「…あと瀬戸川、次期委員長…頼む」
「はい、わかりました!」
指名された後輩は一礼してみせる。
「じゃあみんな…」
振り向かないままそう言うと、元委員長は走って図書室を出ていった。

瀬山夏夫は沖渡刑事に付き添われパトカーで学校を去った。いつの間にか完全に夜は明け、時刻は午前7時半を回っている。校舎内には窓から柔らかな朝日が差し込んできた。
そして図書室、生徒たちはまた各自沈黙のまま席についていた。カウンター前には沖渡も無言のまま立ち、岡本は窓から中庭を見ている。
そんな姿を見ながら、福場はこの結末が果たして正しかったのかを考えていた。瀬山をただ悪として憎むことはできない、しかし三人もの犠牲者を前に、真実というものの無力さを感じざるを得ない。誰もこれがハッピーエンドと呼べるはずもない。

その時、司書室からのドアが勢いよく開いた。全員が注目する。そこには似合わない笑顔を浮かべた原田がいた。
「いや~、ご苦労だったな、沖渡先生」
そう言った彼の後ろから、少しためらいがちに二人の女子生徒が現れた。…須賀と西村である。西村の左足首には包帯が巻かれている。
「あれ?西村先輩…」
瀬戸川が言う。
「実は」
いきなり沖渡が大声を出した。みんな驚く。
「確かに西村は事故に遭ったんだが、運良くただの軽い捻挫ですんだんだよ。だからもう今朝退院なんだ。…須賀、付き添いありがとう」
「いえいえ」
須賀が頭を掻くまねをしながら笑った。それはいつもの元気印の彼女の笑顔だ。他の者たちも合わせて笑う。そして全員立ち上がってカウンター前に集まった。
「なんかこんなふうに笑うの…久しぶりね」
西村が言った。
「ハハハ、笑いついでにもう一つ、いやもう二つかな、嘘をばらさなくちゃならないんだ、みんなに。ね、岡本先生」
大声で笑いながら言う沖渡。彼は、あの直線的な構造の顔からは想像もつかないほど素敵な笑顔を見せている。
「ハイハイ、そうですそうです」
岡本も涙を浮かべて笑う。
「嘘ってなんすか?」
平岡が尋ねた。沖渡が答える。
「実はな、板村は死んじゃいないんだよ。渡辺の早期発見のおかげで何とか一命を取り留めてるんだ。近いうちに…きっと意識も戻るだろうってことだ」
「本当ですか?やった、ウオオー!」
渡辺を含め、1年男子たちがいきなりお互いを抱きしめ始める。
「そしてもう一つ…」
沖渡が人差し指を立てて言う。
「これは驚くぞ、みんな。なんと、実は出口も無事だったりするんだな、これが」
「え~!!」
生徒たちはもう狂乱状態だ。
「そ、そんな」
「学校からも死んだって報告が…、なあ」
「学校ぐるみで嘘ついてたのか?岡本先生なんてマジつらそうだったのに」
生徒たちが口々に叫ぶ中、教師達の笑顔ときたら…。そして原田が答える。
「もちろん、そんなことじゃないんだ。一度は確かに息を引き取ったんだよ、出口は。でも、息を吹き返したんだ。昨日その報告を受けた時にはそりゃ驚いたの何のって…。酒井教頭が司書室にすっ飛んできたんだからなあ」
福場は説明できない感情で胸がいっぱいになっていた。窓から差し込む朝の光…そのぬくもりは生命の弱さと強さ、不思議な優しさ、そしてかけがえのなさを囁いているように感じられた。その光の中、小笠原もそっと嬉し涙を隠している。
気付けば、いつしか誰もがその瞳にうっすらと涙を浮かべていた…ただし沖渡を除いて。彼はただ屈託ない笑顔で言った。
「出口は幼い頃にも蘇生体験があるそうなんだ。そういう体質ってあるそうなんだな。う~ん、信じられんような本当の話だが。リハビリには時間がかかるかもしれんが、彼はきっと戻ってくるよ」
福場は出口のあだ名、『天空』の由来を林から聞いた時のことを思い出していた。
…「あいつ、自分には臨死体験があるなんて言ってて」。
(林くんの言ってたあれは、本当だったんだな。
あれ?ということは、瀬山は誰も殺してなんかいないってことに…。
よかった、本当によかった…!)
…「ただ私は真相を突き止めて、綺麗に解決したいんだ」。
教師・沖渡の言葉はここに守られたことになる。
(お見事、そしてありがとうございました!)
福場は心から沖渡に拍手を、図書委員会に花束を贈りたい気持ちだった。
「色々生意気なことを言ってすいませんでした、先生」
マニアックマンがペコリと沖渡に頭を下げる。
「いや…気にしなくていい。それに、私は教師だよ?生徒の問題は解決しなくちゃね」
笑顔の沖渡にマニアックマンは小さく溜め息を吐く。
「う~ん、…完敗です。本当に」
「授業の時とは違って…全然間違いませんでしたね、今の講義」
図書委員会では見せたことのない笑顔の小笠原が、茶目っ気たっぷりに言った。沖渡は頭を掻きながら答える。
「実は授業以外では絶対に間違えない男なんだ、私は」
「あら?そんなことないですよ」
沖渡のギャグに岡本がつっこんだ。
「私、知ってますよ…沖渡先生のミス」
沖渡は目を丸くして岡本の顔を凝視する。
「岡本先生…な、何です?渡し何か…」
生徒たちも笑い声を止め、岡本の次の言葉に注目する。
「火曜日の朝、印刷室でお会いした時、沖渡先生どの漫画家のファンだっておっしゃいました?」
「え?言ったでしょう、萩原望都さんですよ」
「…誰っすか、それ?」
平岡が言う。
「知らんのか?『11人いる!』とか『ポーの一族』とかで有名な…」
「それは萩原ではなく萩尾望都先生ですね」
マニアックマンが専門家っぽい口調で訂正した。
「あ、あれ?そうだったっけ?ずっと萩原だと思ってた…」
「ケンイチじゃないんだから…」
と、須賀。そこで爆笑が起こった。沖渡だけますます目を丸くしてオロオロしている。
「本当だ、先生やっぱり間違いまくり」
福場はそう言いながら心から笑っていた。

アカシア大学附属高等学校…生徒たちの自覚に任せる部分の多い、リスク管理の時代からすれば異質な信念を掲げた学校。ここには個性的な生徒や教師がたくさんいる。心から笑える雰囲気がある。まだ白紙の未来がある。自分を試せるチャンスがある。そう、自由があるのだ。
今回は悲しい事件が起こってしまった…でも、誰も学校を恨んではいない。ここにいる事を悔やんではいない。
みんな、フゾクが大好きだ!

そのうちに他の生徒たちも登校してくる時刻となり、いつもの日常が始まった。ただし、この場に参加した生徒たちは授業中ずっと爆睡だったらしいが…。

キーン、コーン、カーン、コーン…。