第四章 ~有馬大介~

 火曜日の夕方。しがなく満員電車で退勤して刃矢田町に戻ってきた僕は、またここに足が向いてしまった。林に囲まれた湖。今日も波はなくてオレンジゼリーみたいな湖面が広がってる。しばらくそのまま待ってみたけど…やっぱりハッシーは顔を出さない。
 ここで村松くんを手に掛けて三日。なんだかもう何年も経ってしまったみたい。いや、あの村松くんは僕の見た悪い夢で、小学生の時に一緒にここでハッシーを探してくれた村松くんは今もどこかに元気でいるんじゃないかな。そんな気がする。そう思いたい。でも…それは悲しい幻想。
 溜め息がこぼれる。昨日は会社までやって来たカイカンさんは今日は姿を見せなかった。捜査はどうなったんだろう。僕への疑いは…晴れたのかな。
 また湖を見る。せめてもう一度、もう一度だけでも僕にその姿を見せてほしい。ねえ、頼むよハッシー。心の中で必死に願ったけど何故か声にはならなかった。
「出てきませんね」
 後ろから低い声。びっくりして振り返るとそこにはカイカンさん。ハットの影と長い前髪のせいで表情はよくわからない。隣には顔が見えていても表情のないムーンさんが立ってた。
「どうしたんですか、こんな所で」
 僕は穏やかに尋ねる。
「捕まえに来たんです」
「え、ハッシーをですか?」
「いいえ」
「じゃあハヤゴンを?」
「いいえ」
「じゃあ…」
 重たい声ははっきりと告げた。
「あなたをです、有馬大介さん」
 その瞬間、カイカンさんの前髪の奥に隠れた右目が光ったような気がした。

「土曜日の夜、ここで村松さんを殺害したのはあなたです」
 躊躇のない話し方だった。まるでごく当たり前のことを言ってるみたいな。
「お認めになりますか?」
 僕は唇を結んであえて何も答えない。一瞬膝が震えたけど…大丈夫、頭の中は冷静だ。
「そうですか。ではご説明します。
 借金で首が回らなくなっていた村松さんはインターネットであなたの動画を見た。ハッシー探索に大金をつぎ込んでいるあなたなら幼馴染のよしみでお金を工面してくれるかもしれない…そんな期待で彼はこの町へ戻ってきた。まずは井出さんの居酒屋に立ち寄り、お店を出たのが午後6時。その足でここへやって来て、先ほどのように湖のほとりで立っていたあなたと再会しトラブルになった。
 もしかしたらお金の話だけじゃなかったのかもしれませんね。村松さんはあなたのことを…ハッシーのことを否定するようなことを何か言ったのかもしれない。それがあなたの逆鱗に触れた」
「いい加減にしてください!」
 思わず言葉を挟む。
「何度も、何度も言ったじゃないですか。僕はやってない、村松くんとは会ってないんです!」
「村松さんは井出さんのお店のメモ用紙に行き先を書くと言って何も書かなかった。あれは白紙でハクシ、つまりは動画の中で博士と呼ばれていたあなたに会いに湖へ行くという意味だったんです」
「そんなのこじつけです」
「現場には雨に濡れたマッチ棒が落ちていた。あれは雨が降る前…あなたがまだいる時刻に村松さんがここへ来た証拠です」
「そんなの証拠になるもんか! ぼ、僕にはアリバイがあるんでしょ? 村松くんが殺された時刻、僕は家にいたんです」
「確かに」
 素早く右手の人差し指を立てるカイカンさん。
「発見された遺体には雨に降られた痕跡がなかった。よって死亡推定時刻は雨が上がった8時半以降と当初判断されました」
 僕はちょっとだけ頷く。
「しかし、それがあなたのアリバイトリックだった。ハッシーの調査のために普段から天気予報を意識していたあなたは、雨を利用することを思い付いたんです。遺体を塗れないようにできれば、自分のアリバイを作れると」
「そんなの…そんなの無理です。だってカイカンさんの話だと、村松くんは突然やって来たんでしょ? だったら突発的な犯行だ。あらかじめ遺体を塗れないようにする道具を用意してるわけないじゃないですか」
「そのとおり。だからあなたはその場にたまたまあった物を利用した」
 まさか…まさかそこまで見抜いてる?
「あなたが利用した物、それはハヤゴンの着ぐるみです」
 心臓が跳ね上がる。カイカンさんは一歩踏み込んだ。
「あの日の午後、あなたは諸星先生のお宅へ行かれたんでしたね。そして先生の奥様から思い出の品を託された…本日ムーンが先生のお宅にお邪魔して確認してくれました」
「はい」
 ムーンさんが表情を崩さずに告げる。
「先生の奥様はおっしゃっていましたよ。諸星先生が小学校で6年生の担任をした時、演劇で使った衣装をあなたに渡したと。その劇は珍獣ハヤゴンが登場する物語で、脚本を書いたのは有馬さん、あなたでした。そしてハヤゴンを演じたのが諸星先生です。ちなみにこれが井出さんからお借りした卒業アルバムのコピーです」
 ポケットから取り出した紙を広げるムーンさん。そこにはあの劇の時の集合写真。子供たちの中心にいるのが毛むくじゃらの野獣の格好をした諸星先生。
「つまり、何が言いたいかと申しますと」
 またバリトンボイスが語る。
「村松さんを殺してしまった時、あなたの手元にはハヤゴンの着ぐるみがあったということです。着ぐるみなら折りたためば紙袋にも入る。あなたはそれを取り出して村松さんに着せた…こうやって遺体が雨に濡れないようにしたんです」
 立てていた指をパチンと鳴らすカイカンさん。
「着ぐるみを着せた村松さんを、あなたはひとまず近くの林の中に隠した。その後に急いで帰宅してアリバイを作った。そして最後の仕上げとして、翌朝の早朝に林へ戻り、着ぐるみを脱がせた村松さんを湖のそばに放置した。こうして見事に、雨に降られていない他殺体を演出したわけです。
 あなたが早朝にどこかに出掛けたことは、あなたのお宅に泊まっていたアンヌさんが目撃しています。まあ、彼女は日課のジョギングへ行ったと思ったようですが」
 ダメだ、全部バレてる。でも…あきらめちゃいけない。落ち着け、落ち着くんだ。
「カイカンさん。今の話は全部想像じゃないですか。早朝に出掛けたのだって本当にジョギングに行ったんですよ。亜希子さんからメタボだと言われるんで、それで…」
「ではどうして、私がハヤゴンという名前を出した時、小学生の時の劇に出てきた珍獣だとおっしゃらなかったんですか? 着ぐるみに警察が注目するのを避けるためですよね」
「違います。たまたま…たまたま忘れてただけです」
「珍獣をこよなく愛するあなたが、自分で脚本を書いた劇を忘れていたとおっしゃるんですか?」
「忘れることだってありますよ」
「そうですか。しかし、私の推理を裏付ける目撃情報があります」
 立てていた指が下ろされる。
「嵐さんの証言です。事件の日の夜9時、雨上りの林道を散歩していた嵐さんは林の中から出てくる毛むくじゃらの野獣を見た。そう、それが村松さんだったんですよ。嵐さんは野獣がフラフラ歩いていたと証言されました。つまり…」
 やっぱり、やっぱりそうだったのか。
「村松さんは即死ではなかったのです。あなたに殴られて気を失ったものの、少し時間が経って意識を取り戻した。まあ傷は致命傷でしたし、どの程度意識が戻ったのかはわかりません。しかも着ぐるみを着せられていたわけですから、朦朧としながらわけがわからず動き回るのが精いっぱいだったでしょう。そこを嵐さんに目撃されてしまったわけです」
「即死ではない可能性があることは司法解剖でも証明されています」
 と、ムーンさん。
「そんなの…嵐さんの見間違いかもしれないじゃないですか」
「だったらあなたは何故すぐにハヤゴンの存在を否定したんですか、珍獣殿下」
 低い声が圧力を増す。
「昨日会社へお邪魔してハヤゴンの話をした時、あなたは全く喜ばなかった。テンションが上がることもなく、それどころか有り得ないと即座に否定した。子供の頃から珍獣が大好きで、町興しのために珍獣の動画を配信していらっしゃるあなたが。ハヤゴンの目撃情報なんておいしい話、新しい動画のネタとしてすぐに飛びついてもよかったはずなのに。
 でもそうはならなかった。理由は簡単です。あなただけはそのハヤゴンの正体に察しがついていた。着ぐるみを着せた村松さんだと知っていたからです」
 確かに…普段の僕だったら飛び上がって喜んだだろう。楽しそうにハヤゴンの噂をメールでやりとりしてた井出くんたちに混じって、探索ツアーだって企画しただろう。しまった、僕は一番自分らしくない行動をしてたんだ。
「司法解剖で死亡推定時刻は9時から10時と断定されました。嵐さんに目撃された後、村松さんは間もなく息を引き取られたのです」
 ムーンさんが言った。カイカンさんが頷く。
「犯人は村松さんが死んだと勘違いして、しなくてもいいアリバイ工作をしてしまったんじゃないか…こう思った時に全ての謎が解けました。実は先日、ムーンも同じようなことをしましてね。友人から届いたメールを消してしまったと勘違いして、もう一度友人にメールを送ってもらったら実はメールは消してなかった。フフフ、人間っていうのはそういうものですよね。最高のヒントをありがとう、ムーン」
「いえ」
 ムーンさんは複雑な表情で視線を逸らすと、先ほどの写真のコピーをポケットに戻した。そして二人の刑事はじっと僕を見る。
 弱い風が吹いた。辺りは少しずつ夜の闇へ近付いている。
「いかがでしょう、有馬さん。もうお認めいただけませんか?」
 優しく…そして寂しい笑みでカイカンさんは尋ねた。
「もう、悲しい嘘は終わりにしませんか」
 犯行の全ては暴かれた。村松くんを殺しちゃったと勘違いしてハヤゴンの着ぐるみを着せて、僕が家に帰った後で村松くんが目を覚ましてその格好のまま動き回って、それが目撃されて噂になって…。本当に変な事件。やっぱり僕には完全犯罪の才能なんてなかったんだな。
 でも…でも、やっぱりあきらめたくない。僕は…逮捕されたくない。
「物的証拠が何もないじゃないですか」
 震える唇で反論。
「今の推理だけで僕が犯人ってことになるんですか? 無理がありますよ」
「そうですか」
 残念そうに低い声は言う。
「だったら物的証拠を見つけます。凶器と着ぐるみ、この二つが発見されればあなたの犯行は証明されます」
「凶器って…」
「懐中電灯ですよ」
 カイカンさんは言い切った。そんな、どうしてそこまで…。
「おっしゃってましたね、いつもポケットに懐中電灯を入れていると。あなたはそれで村松さんを殴ったんじゃありませんか?」
 この人は…超能力者か? 前髪に隠れた右目は何でも見通せるの?
「当てずっぽうじゃありません。根拠があります。事件の夜の7時過ぎ、湖からの帰り道であなたは奥様からの電話に出た、憶えてらっしゃいますか?」
 確かにあの時、亜希子さんからの電話があった。でも普段どおりの会話をしただけだし、犯行がバレるようなことは言ってないはず。
「憶えてますけど、それが何か?」
 僕の問いに答えたのはムーンさんだった。
「お宅で雑談した時、奥様がおっしゃったんです。あなたはワンコールですぐ電話に出てくれたと。スマートフォンをポケットに入れていたら、取り出して通話ボタンを押すのにワンコールじゃ間に合わないと思うのですが」
「だからあの時はスマホを手に持ってたんです。だってライトを…」
 そこまで言いかけて僕は口を押さえる。カイカンさんはまた右手の人差し指を立てた。
「そう、あなたはその時スマホのライトで林道を歩いていたんです。ではどうして懐中電灯を使わなかったのか? それは村松さんを殴って壊してしまったからですよ」
 驚愕。スマートフォンに出るタイミングだけでそこまで…とんでもない推理力だ。膝だけじゃなく全身が小刻みに震え出す。
「壊れた懐中電灯とハヤゴンの着ぐるみ、あなたは湖にこれらを沈めて隠したはずです」
「え?」
「私はそう確信しています。なので今日中に許可を取って明日の朝一番で潜水部隊を湖へ投入します。手続き頼むよ、ムーン」
「かしこまりました」
 機敏に頷くムーンさん。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕は湖に隠したりなんかしてない」
「では、失礼します」
 立てていた指を下ろすとその場を去るカイカンさん。あ、待って…。
 ムーンさんも僕に一礼してそれに続く。やがて二人の刑事は林道の彼方へ消えて行った。
 待って、待って…。
 心の中で絶叫する。
 待ってくれよ! それはダメだって!

 日が落ちた。僕は湖のほとりにまだ佇んでる。風が吹いて林の木々が少しざわめく。
 このままだと明日、湖に警察の潜水調査が入る。どうしよう…どうすれば…。悩んでる? いや、悩んではいない。とっくに心は決まってる。ただ踏ん切りがつかないだけだ。
「お願いだよ、顔を見せてよ」
 湖面に願いの言葉を投げ込む。でも…やっぱり顔を出してはくれない。あの時、おじいちゃんと一緒に目にしたハッシー。僕の人生を価値あるものに変えてくれたハッシー。会いたいなあ、もう一度。
 さらに一時間ねばってみた。でも…やっぱり出てきてくれない。悪事を働いちゃった自分にはもうハッシーに会う資格はないのかも。僕はあきれ笑いで湖に背を向けた。
「ありがとうハッシー。…元気でね」
 そしてほとりを離れて林道に入る。子供の頃から数え切れないくらい往復してる道だ。ただ延々と木が並んでるだけに見える林も、僕にとってはいくつも目印がある。
 それにしてもあの時はびっくりしたなあ。日曜日の早朝、村松くんの遺体から着ぐるみを脱がせ荷行ったら、違う場所に移動してるんだもん。まさか息を吹き返して動き回ってたなんて。
 あったあった、この木だ。僕はスマホのライトで辺りを照らしながら林道から林に分け入る。そして少し進んだ所にある大きな岩の裏の茂みの中に手を伸ばした。
そこにはハヤゴンの着ぐるみと壊れた懐中電灯が入った紙袋。処分に困ってひとまずここに隠してた。それに懐中電灯はともかく、着ぐるみは思い出の宝物だからやっぱり処分する気にはなれなかった。これをアリバイ工作に使っちゃったことが…一番罪深かったかもしれないな。
 紙袋を手に林道へ戻る。そしてゆっくりと町へ歩く。花は咲いてないけど、これが僕の引退の花道。
 林道を出ると道路には一台の車。その助手席がゆっくり開く。
「こんばんは」
 出てきたのはボロボロのコートにハットの刑事。なんだ、やっぱりそういうことか。
「ずっと待ってたんですか、カイカンさん」
 自分でも不思議なくらい穏やかに尋ねた。
「きっとあなたがそれを持っていらっしゃるだろうと思いまして」
「かないませんねえ。はい、お望みの物的証拠です」
 紙袋ごと差し出すとカイカンさんは中身も確認せずに受け取った。
「ありがとうございます。これは…自首と解釈してよろしいですか?」
「もちろんです。僕が自首すれば…警察があの湖を調べることはありませんよね」
「はい」
 カイカンさんは優しく頷く。
「実はこの事件、捜査の最初からずっと気になっていたことがありました。湖のほとりに遺体が倒れてる…そもそもこれがとても不自然なんです。だってそうでしょう? 湖のほとりで殺人を犯したのなら、遺体を湖に沈めて隠せばいい。誰だってそう考えますよ。
 遺体が発見されなければそもそも殺人事件の捜査も始まらない、アリバイ工作なんてしなくていいんですから。特に村松さんは普段から不安定な生活をされていました。姿を消したって探す人はいなかったかもしれない」
「そうですね」
 僕は素直に答えた。低い声は穏やかに続ける。
「なのに犯人はわざわざ遺体を見つかりやすく湖のほとりに放置した。最初は村松さんに莫大な遺産があって、犯人がその相続者なのかと考えました。遺体を隠せば村松さんは失踪扱いになり、遺産はもらえませんから。しかし調べたところ、彼には遺産なんてありませんでした。では犯人はどうして遺体を湖に隠さなかったのか」
 右手の人差し指が立てられる。
「その答えはあなたの動画を見てようやくわかりました。あなたは湖の生態系を乱したくなかったんですね」
「はい。ハッシーがあの湖に生息できてるのは奇跡のバランスで環境が保たれてるからです。村松くんの遺体を沈めてそのバランスが崩れちゃったら大変です。林に埋めようかとも思いましたけど、万が一にでもいつか村松くんが行方不明ってことになって、警察が湖の底をさらってみようなんてことになったら大変です。だったら最初から警察に遺体を見つけてもらった方がいいって思いました。
 だから明日警察が湖に潜るって聞いて…もう自首するしかないなって。まあ、潜る話はきっとはったりだったんでしょうけど」
「フフフ…」
 不気味に笑ってカイカンさんは指を下ろす。
「完全犯罪のチャンスを棒に振ってでも、あなたはハッシーを守ることを選んだ。お見それ致しましたよ、珍獣殿下」
「…ありがとうございます」
 胸の奥がジワッとあたたかくなった。そしてやっとわかったことを伝える。
「社長よりも博士よりも、僕にとっては珍獣殿下が人生最高の肩書きでした」