第三章② ~ムーン~

 事件は混沌を極めている。いや極め過ぎている。これまでも警部と一緒にいくつもの殺人事件の捜査を経験してきたが、さすがに容疑者が林に棲む野獣なんてケースはなかった。そもそも湖にハッシーが出るというだけでも信じられないのに、林にはハヤゴン? 刃矢田町は超常現象が闊歩する異空間なのか? このままだとそのうちUFOだって着陸しそうな勢いだ。
「どうしたんだいムーン、恐い顔して」
 月曜日の午後、警視庁のいつもの部屋。警部が有馬大介の会社を訪ねている間に私は警部に頼まれていた村松昭二の遺産相続について調べてみた。結果は予想どおり、彼には資産などなく、あるのは負債という名の負の遺産のみ。未婚で子供もおらず、親族からも絶縁されているため、当然相続する者も皆無。
 それを報告すると警部は「そう」とだけ呟いて黙り込んでしまった。私としてはどうしてそんなことを調べさせたのか気になったが…教えてくれなさそうな雰囲気だったのであえて質問はせず。以降はお互いの席でコーヒーカップを口に運ぶ無言の時間。変人上司のデスクには図書館から借りてきたヒバゴン関連の本が数冊。警部がそれをパラパラ見ている間に私も事件のことを黙考していたのだが、いつの間にか眉間にシワが寄っていたらしい。
「恐い顔でしたか、すいません。色々考えていたもので」
「確かに悩ましいよね。事件と同じ夜に同じ林でハヤゴンまで目撃されちゃったんだから。事件と無関係とは思えないけど」
「はい。しかし、どう関係付けたらいいのかさっぱりわかりません」
 待て待て、落ち着け。できるだけ論理的・科学的に考えてみよう。私は冷めたブラックコーヒーを一口飲む。
「警部のようなUMAファンからは怒られそうですが、私はハッシーはもちろん、今回目撃されたハヤゴンも実在しないという前提で考えてみたいと思います。村松さんがハヤゴンに襲われたなんて有り得ません」
「それについては賛成だ。噛み殺されたんならともかく、野獣が凶器で人を殴るわけがないからね。だとしたら嵐さんが目撃したハヤゴンは何だい?」
「犯人がハヤゴンの格好をしていたというのはいかがでしょう」
「それは斬新な発想だ。では何のために? 夜中にコスプレパーティでもしてたのかな?」
 右手の人差し指を立てる警部。
「いいえ、正体を隠すためですよ。ハヤゴンのコスプレをすれば顔や体型をごまかせます」
「確かにねえ。でもわざわざそのために着ぐるみまで用意するかな。顔と体型を隠すにしたってもっと軽装でいけるはずだよ。そもそも今回はたまたま嵐さんが酔い覚ましの散歩をしてたけど、あの林道は夜は滅多に人が来ない場所だ。誰も見てないのにそんな大がかりな変装をする必要があるかい?」
「そうですね」
 同じ理屈でハヤゴンの仕業に見せかけるためという理由も成立しない。
「では…村松さんに恐怖を与えるためというのはいかがでしょう」
「ナルホド、夜中の林から野獣が出てきたらインパクトは絶大だよね。でも…犯行を行なう利便性としては最悪だ。着ぐるみを着て人を殴るなんてやりにくくて仕方ないし、相手に逃げられたら走って追いかけるのも大変だよ」
「…ですよね」
 苦笑する警部に私も同感。じゃあいったい…いったい何なんだろう。また少し黙考するが何もアイデアは出てこない。
「警部、やはり嵐さんが見間違えたと考えるのが一番自然な気がします。風で揺れた木か何かがたまたま野獣のように見えただけで、事件とは関係ないんですよ」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花…か。まあ実際に世界中にあるUMAの目撃情報の大半はそういうのだろうなって私も思ってる。五感の中でも視覚は心理状態の影響を大きく受けるからね。期待して見てしまうとそう見えてしまうのは有り得ることだ。
 刃矢田町は昔ハッシーブームで盛り上がった町。今でも町民には珍獣の出現を心待ちにする気持ちがある。だから嵐さんもハヤゴンの幻を見た」
 警部はコーヒーを飲み干す。
「 実際にハッシーだって、ブームの頃に目撃情報はたくさんあっても写真は一枚もなかった。まあ現実なんてそんなもんかな」
 少し残念そうにそう言うと、立てていた指を下ろして警部は腰を上げる。
「さて、そろそろ時間かな」
「どちらへ?」
 尋ねながら私も起立。
「今夜は井出さんのお店で食事しようかと思ってね。ハッシートークに花を咲かせてくるよ。現実は現実として、人生には幻想も必要だからね」
 現実と幻想…これまであまり考えたことがなかった。そう言われると私の人生には幻想の成分がほとんどない気がする。
「もし事件について新しい情報が入ったらいつでも連絡くれて構わないから。じゃあお疲れ様」
「あの」
 部屋を出ようとする変人上司を私は無意識に呼び止めていた。
「どうしたんだい?」
 警部が振り返る。私は自分でもさらに思い掛けないことを告げた。
「ご一緒してよろしいですか?」
 そして残りのコーヒーを飲み干す。いつもブラックばかりでは気が滅入る。きっと心にも、たまには甘味の成分が必要なのだ。

 そんな気まぐれを私は大いに後悔することとなった。居酒屋『流星』に到着した警部は、カウンター席に陣取り、本当に井出とのハッシートークに花を咲かせた。会話に参加することもできないまま隣で私は静かに烏龍茶と焼き鳥をいただく。
「ブームの頃の町の盛り上がりはすごかったですよ。海外からのお客さんまで来てたんですから。まるで万国博覧会ですわ」
「そうでしたか」
「うちの店だけじゃねえです。商店街も潤って、みんなで旅行とかも行ったりしたんです。本当に珍獣殿下とおじいさんには足向けて寝られませんでしたよ」
「おじいさんと言うのはどなたです?」
「有馬くんのおじいさんですよ。あの湖で最初にハッシーを目撃したのが有馬くんとそのおじいさんなんです。有馬くんがまだ幼稚園の頃、二人で湖まで散歩に行った時に目の前に現れたんだそうで」
 私はあの新聞記事を思い出す。そうか、ハッシーを最初に目撃した男性とその孫というのは…。
「ナルホド。有馬さんがハッシーの存在を信じて頑張ってらっしゃるのは、実際にその目で見たからなんですね」
「はい。それに…きっとおじいさんのためっていうのも大きいんでしょうね」
 井出の顔が少しだけ陰った。
「おじいさん、とってもいい人でね。俺も子供の頃は有馬くんの家に遊びに行ったりして可愛がってもらいました。町内でも慕われてて、目撃者があの人だったからみんながハッシーを信じたっていうのも大きかったんです。
 ただ…本家のネス湖のネッシーの写真がインチキってことがわかって、世の中の雰囲気が変わっちまった。ハッシーも嘘なんじゃねえかって、そういうことを言ってくる輩も出てきて。もちろん町の人たちは信じてましたけど、有馬くんのおじいさんを嘘つきだって言うようなマスコミも出てきて。あ、ビールお代わりいりますか?」
 雰囲気を立て直すように明るく言った店主に警部も「お願いします」と空いたジョッキを差し出す。
「まあ世間の手のひら返しは怖いなあって思いましたね。それでハッシーブームもしぼんじまって。有馬くんがハッシーを追い続けるのは町興しのためだけじゃなくて、きっとおじいさんの汚名を晴らしたいっていうのもあるんでしょう。ほい、生一丁」
「ありがとうございます。ようやく珍獣殿下の情熱のルーツがわかった気がしますよ」
「これからも頑張ってほしいもんです。そういえば聞きました? 嵐さんちのじいさんがハヤゴンを見たって話。いやはや、今度はそっちがブームになるかもしれねえな」
 井出は腰に手を当てて笑う。警部の言ったとおり、この町の人たちは珍獣の存在を待ち望んでいる…いや、愛し焦がれている。
「実は私、高校生の時にヒバゴンを探しに行ったんですよ」
 警部がまたその話。この人にとってはそんなに誇らしい武勇伝なのだろうか。そこに「ほんとですかい?」と井出も食いついて、私はますます蚊帳の外。
「まあ結局見つからなくて、町役場に置いてあった着ぐるみを着て記念撮影して帰ったんですけどね」
「ハッハッハ、素敵じゃねえですか。そういうのがいいんです。いやあ、刑事さんも立派な珍獣ハンターだ。今度嵐のじいさんを誘って食事でもしますか」
「フフフ、ぜひ」
 楽しそうな笑顔たち。心に感動のセンサーが欠落している私だが、少しだけ、ほんの少しだけUMAのロマンがわかった気がする。
 …あ、食事に誘うと聞いて思い出した。そうだ、昨日美佳子から届いたメールに返信していない。今度一緒に食事に行く店を決めてくれたんだっけ。私は失礼してスマートフォンを取り出しそのメールを探す…が見つからない。
 おかしいな。確か警視庁の部屋でメールを開いて、読もうとしたら電話の着信が鳴って、それが所轄からのハヤゴン出現の報告で驚いて…。もしかしたらあの時に誤って消してしまったのかな。私は美佳子に改めてメールし、昨日のメールの再送を願った。まるで白ヤギさんと黒ヤギさんだ。
 そうこうしている間にも隣ではドクターハッシーの動画の話題で盛り上がっている。
「そういえばあのアシスタントの女性は有馬さんの奥様の妹さんなんですね」
「お、刑事さん、さすがによくご存じで。あの子が動画に出るようになってから人気が一気に上がったみたいですよ。再生回数っていうんでしたっけ、それが増えたって。やっぱり美人は強いですなあ」
「そういうもんですかねえ」
「何言ってんですかい、お隣にそんな美人を連れて」
「え? ああ、ムーンのことですか。まあ仮にムーンが美人だと仮定するとして、再生回数は上がるかもしれませんが犯人の検挙数が上がるわけではありません」
 勝手なことを言いやがって。そもそも動画に出るなんて絶対嫌だ。私はあえてノーコメントで烏龍茶を飲む。
「刑事さん、部下を怒らせちゃいけませんぜ。有馬くんも大丈夫かな。そのうちアシスタントの子を怒らせて逃げられなきゃいいけど」
「むしろ有馬さんの方が怒ったって話を聞きましたよ。彼女がハッシーの調査に湖に潜るって言ったら絶対ダメだって。企画としては面白いと思うんですけどね」
「そりゃあダメでしょう。もちろんあそこは遊泳禁止で危ないってのもありますけど、それ以上に有馬くんは湖を乱すことを許しませんから」
「どういう意味です?」
 グラスを置いてカウンターに身を乗り出す警部。
「確か最初の方の動画で語ってましたよ。まだアシスタントの子が入るずっと前の動画です。湖の…生態系とかって言ってたかな、それを乱すことは許さねえって」
「生態系…」
 低い声が口の中でくり返す。そしてこちらを向いて続けた。
「ムーン、急いでその動画を探してくれ」

 井出の言っていた動画は間もなく見つかった。二年前、ドクターハッシーの動画を始めた頃の物だ。湖のほとりに立つ有馬大介が語っている。私の示す画面に警部も顔を寄せた。
「みなさんは考えたことがありますか? この広い宇宙で人類がどうして地球にしかいないのか。それはこの惑星が奇跡のバランスで存在してるからです。大きさもそう、太陽からの距離もそう、大気や水分の量もそう、どれかが少しでもずれてたら生命は誕生しませんでした」
 動画の中の男はまるで選挙演説のように語り続ける。
「ネッシーやハッシーが古代の海洋生物の生き残りだっていうと、どうして生き残ってる数がそんなに少ないんだって反論する人がいます。でもよろしいですか? 生き残ることができる湖には奇跡の環境が実現してるんです。先ほどの地球のお話と同じです。水質、水温、地質、広さ、深さ、食物連鎖…全てが奇跡のバランスでなければネッシーもハッシーも生息できないわけです。そしてそれが実現してる湖は世界でも数少ない。だから生き残っている絶対数も希少なんです。
 僕はここに宣言します。湖の生態系を乱してハッシーの安全を脅かすような調査は絶対にしない。湖の底に機械を沈めたり、ダイバーが潜水したり、そんなことはせずに、ハッシーの存在を証明してみせます。それが僕の信念です!」
 選挙演説から最後は環境活動家の声明文のようになって動画は終わった。確かに…これでは人気が出なかっただろう。アンヌが参加している最近の動画とは全く別物だ。
「いかがでしたか、警部?」
 スマートフォンを下ろして隣を見ると、なんと変人上司は右手の人差し指を立てたまま剥製のように固まっている。これは…そう、これはこの人の頭脳がフル回転している時の症状。今の動画の中にきっと推理の導火線を着火する何かがあったのだ。もちろん私には全くわけがわからない。
「どうしたんです刑事さん、何かあったんですかい?」
「あ、大丈夫ですから。時々こうなるんです。しばらく放っておいてください」
 怪訝そうな店主に私はそう注釈。彼は微笑んで別の客の対応へ動く。すると手にしていたスマートフォンが着信を告げたので私はすぐに出た。
「オッス、美人刑事」
 相手は美佳子だった。
「ワンコールですぐに出るなんて、あたしからの電話を恋焦がれてたのかな?」
「もう、何言ってんの。たまたまスマホを手に持ってたのよ」
「相変わらず可愛げがないねえ。それでさ、今度のごはんのことだけど」
「ごめんね、メール消しちゃったみたいで」
「そんなの気にすんなって。せっかくだから料理のコースも決めちゃおうかなって思って電話したの。今大丈夫?」
 ちらりと隣を見る。変人上司は未だに固まったまま。
「大丈夫よ」
「よかった。じゃあねえ、コースは三つあってさ…」
 彼女のこのあたたかくてサバサバした感じはいつも渇いた心に潤いをくれる。料理も決まって電話を終えると、すぐに『念のため』という件名で日時と場所のメールが届いた。今度は間違って消さないように専用のフォルダに移す…と、そこには昨日美佳子からもらったメール。
 あれ? そうか、そういえば…昨日寝る前に私はちゃんとメールを保管していたんだっけ。すっかり忘れてた。
「驚いた顔して、彼氏からの連絡ですかい?」
 戻ってきた井出が笑う。
「いえいえ、そんなんじゃありません。その…友人からのメールを消しちゃったと思って再送を頼んだんですけど、実はメールは消えてなかったことがわかって。しなくてもいい動きをしてしまったなあって」
「ハッハッハ、そうですかい。自分にも経験がありますよ。小学校6年生の時に学芸会で劇をやったんですけどね、せっかくおもちゃの鉄砲を用意したのに結局使わないことになっちまって。張り切って撃ち方の練習とかしたんですけどねえ」
「鉄砲ということは…西部劇か何かですか?」
「いえいえ、それこそ珍獣が出てくる話で。脚本を書いたのも有馬くんです。森の中で探検隊がでっかいゴリラみたいな野獣と出会う話でした。有馬くんが鉄砲を撃つのはダメだ、仲良くなる話にしようって言って…。まあ結果的にはそれが正解でしたけどね。あの時は楽しかったなあ。いつもは恐い先生までノリノリで参加してくれて」
「諸星先生ですか」
「そうそう。先生がその野獣の役をやってくれたんですよ。もちろんちゃんと着ぐるみを着て。劇の中で野獣と仲良くなっていったら、本当に先生とも仲良くなっていって。そうだ、あの時の野獣の名前もハヤゴンだったんじゃねえかな」

 …パチン!

 店内に高らかにはじける音が響く。他の客たちも驚いてこちらを見た。そう、警部が立てていた指を鳴らしたのだ。
「井出さん」
 麻酔から醒めたように動き出す天才。
「その演劇の時の写真、ありますか? できれば大至急」
「え、どういうことですかい?」
「捜査に必要なんです。お願いします!」
 勢いに押されて店主は店の裏の自宅へ卒業アルバムを取りに行ってくれた。私はあきれ半分で尋ねる。
「警部、どういうことですか? 学芸会の演劇が何か?」
「まあ待っててごらん」
 思わせぶりにおしゃぶり昆布をくわえる変人上司。間もなく井出が戻ってきた。
「これが劇の時にみんなで撮った写真ですけど」
 広げられる見開きのページ。西暦を見るとちょうど町がハッシーブームで盛り上がっていた頃だ。だから劇の内容も珍獣の話になったのだろう。
「これがその頃の有馬くんです」
 井出が指差した先には、坊ちゃん刈りでメガネの少年が満足げな笑み。隣には探検隊の格好の井出自身。そして随分容姿は変わってしまったが、同じく探検隊の村松の姿まである。
「真ん中にいるのが諸星先生です」
 写真の中央には…毛むくじゃらの野獣が立っている。
「ハヤゴン発見!」
 低い声が呟く。次の瞬間、警部はくわえていた昆布を呑み込んだ。

★読者への挑戦状
 犯人を追い詰めるための全ての情報は出そろいました。村松昭二を殺害したのは珍獣殿下・有馬大介に間違いありません。しかし彼には鉄壁のアリバイが存在しています。
 それを崩す鍵は事件当夜に目撃された珍獣ハヤゴン。はたして事件の真相は?
 自由な推理をお楽しみの上、次章にお進みください。