第三章① ~有馬大介~

 しがなく満員電車で出勤して午前中の仕事をこなす。そしてネクタイを緩めてから名ばかりの社長室で一人昼食…亜希子さんの愛妻弁当を噛み締める。そんないつもの月曜日。
 でもふと考えると過る不安。昨日訪ねて来た刑事…カイカンさんは僕を疑ってる。でも逮捕されるような決定的な証拠があるわけじゃない。それに僕にはアリバイもある。大丈夫、きっと大丈夫だ。
 弁当箱をしまって室内を見回す。大きな革製の椅子に大きなデスク、パソコン、書棚、応接用のソファにテーブル…まるで大統領の執務室みたい。ここがこの会社の中枢、限られた人間しか出入りできないコックピット。
 でも…ここは僕の居場所じゃない。ホームグラウンドじゃない。結婚した人のお父さんがたまたま社長でたまたまそれを引き継いだだけ、たまたま引き継げるスキルを僕が持ってただけだ。この部屋にある物は何一つ僕が努力して手に入れた物じゃない。本当の僕は、きっとずっとあの湖のほとりでハッシーを待っていたいだけの男なんだ。
 だけどそれじゃ生きていけない。暮らしていけない。それはわかってる。周囲から求められる自分の姿と求めてほしい自分の姿は一致しないのが当たり前。だからしっかり期待にも応えつつ、ちゃっかり自分の好きなこともする。それが僕の生き方。かっこ良くはないけど、夢を長く追い続けるためには一番効率的な生き方だ。
 デスクの内線電話が鳴る。
「社長、お昼休みに申し訳ございません」
 受話器を耳に当てると受付からだった。
「構いませんよ。どうしました?」
「ご面会の方が。その、ちょっと不審な感じがしたので警備の方にも来てもらったのですが、ご本人は社長のお知り合いだとおっしゃってるんです。しかも…警視庁の刑事だと」

「いやあ、助かりました。危うく警察を呼ばれちゃうところでした」
 社長室に通されたカイカンさんはまた無邪気な顔に戻ってた。まあ確かにこんな格好でオフィスビルに入ってきたら取り押さえられても文句は言えない。
「大変でしたね。どうぞそちらへお掛けください」
 促したソファに腰を下ろすと、カイカンさんはまた室内をキョロキョロ。僕もその対面に座る。
「何か珍しいですか?」
「あ、いえいえ。もしかしたら社長室も珍獣グッズで溢れてるのかなと期待してたもんで」
「ここは職場ですから」
「ですよね。いや、失礼しました。有馬さんもビシッとスーツでさすがは社長さん」
「まあ制服みたいなもんですよ」
「わかります。私もこれが制服みたいなもんなんで」
 そのボロボロコートが制服なら普段はどんな格好をしてるって言うんだ。まさか逆にプライベートがタキシードなんてことはないだろうけど。いや、そんなことはどうでもいい。間もなく総務課の事務員さんが持ってきてくれたお茶にお互い口をつけると、また脱線する前にこっちから切り出した。
「それで、わざわざ会社までどうなさったんですか?」
「実はですね」
 湯呑みを置いてバリトンボイスが言う。
「ヒバゴンの生態についてお伺いしたくて」
 いきなり脱線。構えていた僕はずっこけそうになる。
「ヒバゴン…ジャパニーズビッグフットはどのような場所に生息しているのでしょうか。地形や気候の条件など教えていただければ…」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 大袈裟に手を振って言葉を遮る。
「そんなことをお尋ねにいらっしゃったんですか? すいません、お昼休みももうすぐ終わりますし、ここは職場ですし。趣味の話ならまた日を改めて」
「趣味ではなく捜査の話です。あなたの旧友が殺害された事件の捜査で来ました」
「だったらその話しをしてくださいよ」
「だからこれがその話なんです」
 言葉が噛み合わない。この人、頭が切れると思ったけどやっぱりただのアホ?
「もう少しわかるように説明してくださいよ」
「失礼しました。ええと、では…」
 コートのポケットから取り出した物体をくわえるカイカンさん。タバコ…かと思ったらどうやらおしゃぶり昆布みたい。いやいや、ますますわけがわからないって!
「事件が起きた土曜日の夜、あの林で出たらしいんですよ」
「出た? 何がです?」
「刃矢田町のハヤゴンが」
 室内に響く重たい声。僕は唖然。カイカンさんは続けた。
「そう、ヒバゴンみたいな野獣が出たんですよ。それがハヤゴンと呼ばれて町で噂になってるんです」
「どういうことですか?」
「順を追って話しますね。昨日の朝、村松さんの遺体を発見したのはあの林の近所に住む嵐さんというご夫妻です。お二人が朝一番で湖へ行ったのは、実は気になることがあったからなんです。その前の晩、つまり事件が起きた土曜日の夜、ご主人は晩酌の後で酔い覚ましの散歩に出られたんですが…」
 カイカンさんの左目がじっと僕を見る。
「ご主人は雨上りの林道を湖へと進み、そして目撃した…大きな毛むくじゃらの獣が二足歩行でフラフラと林から出てくるのを」
「まさか」
「時刻は午後9時過ぎ。ご主人は慌てて家に逃げ帰りました。もちろん奥さんは本気にしませんでした。お酒に酔って幻でも見たんだろうって、ご主人をなだめて寝かしつけたそうです。しかし翌朝になっても確かに見たとご主人が言うので、それでお二人であの林道へ行ったというわけです」
 胸の奥が疼き始める。そんな…そんなことが…。
「しかしご夫婦が見つけたのは野獣ではなく村松さんの遺体でした。びっくり仰天で110番通報。警察に変に思われると思って、前の晩にご主人が目撃したことについては最初はおっしゃらなかった。しかし昨日の夕方になって、やっぱり伝えようとご夫婦から申し出があったんです」
 そこでカイカンさんが身を乗り出す。
「どう思われますか、珍獣殿下。あの林にヒバゴンやイエティーのようなUMAが生息していると思いますか?」
「有り得ないですよ」
 笑って僕は腕を組んだ。
「あそこはただの雑木林で未開の原生林じゃありません。猿か狸でも見間違えたんじゃないですか? 夜で辺りは暗かったでしょうし」
「しかし…人間の大人くらいの背丈があったそうなんですよ」
「だったらやっぱりお酒に酔って幻を見たんでしょう」
 くわえていた昆布をタバコのように指に挟むカイカンさん。
「でも…どうでしょう。未確認生物の可能性もあるのかもしれません。あるいは林に生息している民族がいるとか。ほら、時々そういう目撃例もありますよね。何でしたっけ、スマトラ島の奥地に住んでるって言われてた…」
「マンテ族ですか。あの民族は身長が60センチくらいですから当てはまりませんよ。いや、確かに地球上には現代文明と離れて暮らしてる民族もたくさんいます。でもさすがに、東京の雑木林にいるってことはないですよ」
「そう…ですよね。いや、もし刃矢田町にハヤゴンがいるんなら、村松さんはハヤゴンに襲われた可能性もあるのかと。そもそも夜中の湖で村松さんを襲う犯人像がよくわからなかったんですが、それが林に潜む野獣ならしっくりきます。村松さんは夜中に湖へ散歩に行って、たまたま野獣に襲われた。ほら、チュパカブラとか、UMAの中には凶暴なのもいますよね」
「怖いこと言わないでくださいよ。あの林にそんなのがいるんなら僕がとっくに襲われてますって。子供の頃から何千回もあの林道を往復してるんですから」
「有馬さんは…犯人がハヤゴンの可能性はないとお考えですか?」
「はい」
「そう…ですか」
 カイカンさんは乗り出していた身を戻す。
「もしそんなに気になるんでしたら、近所の動物園を当たってみたらどうですか? オランウータンが逃げ出したりしてたらそれかもしれない」
「ナルホド」
 大きく頷くとカイカンさんは昆布をしまって腰を上げた。
「よくわかりました、珍獣殿下。すいません、貴重なお昼休みに」
「いえいえ」
 合わせて僕も立ち上がる。
「じゃあ捜査頑張ってください」
「どうもどうも。では失礼します」
 拍子抜けするくらいあっけなく、カイカンさんは帰っていった。

 午後の仕事中、何度かスマートフォンが振動した。メールしてきたのは井出くんを始めとする小学校時代の同級生、今も刃矢田町で暮らしてるメンバーだ。内容はみんな『珍獣殿下に報告、幻のハヤゴン現る!』…噂が広がってるんだな。嬉しいけど、残念ながら僕のテンションは上がらない。ついには亜希子さんからも同じ内容のメールが届く。まったく、こっちは大事な商談中だってのに。

 確かにハッシーは実在する。でもハヤゴンは実在しない。僕は誰よりもそのことを知ってる。だって…。