第二章① ~有馬大介~

「はい、午後のコーヒー」
 リビングのソファで休んでると、亜希子さんが優しい声でテーブルにカップを置いてくれる。僕は「ありがとう」とそれを口に運んだ。
「熱いから気を付けてね」
「うん。アチッ」
「ほらほら」
「ごめんごめん。でもとってもおいしいよ」
 クスクス笑う亜希子さんに僕も照れ笑いを返す。レースのカーテン越しに射し込む太陽がリビングのフローリングを明るく照らす。流れてる時間はいつもどおり穏やかだけど、今日はそこに悲しみの香りが漂ってた。
 村松くんの遺体が湖のほとりで発見されたのはもう町内で噂になってる。お隣さんも言ってたし、同級生の何人かから連絡も来た。なんだか不思議な気持ち。自分でその手に掛けたのに、幼馴染を一人失った寂しさが今頃になってじんわり胸の奥に広がってくる。
「クッキーでも食べる?」
 亜希子さんはきっとそんな僕に気を遣って明るく振る舞ってくれてるんだろう。やっぱりこの人だけは裏切れない。
「ありがとう。でも今は大丈夫。それより亜希子さんも座ったら?」
「ありがと」
 自分の分のコーヒーも入れて亜希子さんはソファの隣に腰を下ろす。そしてしばらくはお互い黙ってカップを口に運ぶだけの時間が過ぎた。
 時刻は午後3時過ぎ。今頃警察はどんな捜査をしてるんだろう。僕の所へも訪ねて来たりするのかな。でも…きっと大丈夫。村松くんが僕と会った証拠はないし、とっさの思いつきだったけどアリバイ工作もうまくいったはず。村松くんの遺体が雨に濡れてないことに警察が着目してくれればきっと…。
「大介さん、どうかした?」
 つい険しい顔になってたみたいで、亜希子さんが僕を覗き込んでくる。
「いや、何でもないよ。そういえばアンヌちゃんはまだ寝てるの?」
「そうなのよ。お昼に声を掛けたらもう少し寝るって。ほんとにネボスケなんだから」
 昨夜我が家に遊びに来た亜希子さんのご両親と妹のアンヌちゃん。ご両親は晩御飯を食べて帰ったけど、アンヌちゃんは結局そのまま泊まっていった。普段ならちょっと居心地悪い話だけど、昨夜の僕としては助かった。アリバイの証人は一人でも多い方がいいから。
「まあ今日は日曜日だし、好きなだけ寝かせておいてあげなよ」
「あんまり甘やかしちゃダメよ」
「そ、そうかな」
 厳しく言われてちょっと動揺。そんな僕を見て亜希子さんはまたクスクス。するとそのタイミングで玄関のインターホンが鳴った。
「あら、お客さんかしら」
 カップを置いてリビングを出ていく亜希子さん。でもすぐに小走りで引き返してきて僕を呼んだ。
「大介さん、警察の方が」

 玄関にいたのは一見するととても刑事には見えない二人だった。男の方はところどころ破れたボロボロのコートにハットをまとって、しかも前髪がブラック・ジャックみたいに長い。漫画ならともかく、実生活ではこんな奇妙な人はなかなかいない。そして女性の方は淡くブラウンに染めた肩までの髪をセンターで分け、切れ長の瞳が印象的な美人。テレビドラマならともかく、実生活ではこんな綺麗な人もなかなかいない。思わず見惚れそう。
「警視庁のカイカンです。こちらは部下のムーン」
 よく響くバリトンボイスが挨拶した。
「あ、どうも。有馬大輔です。こちらは奥さんの亜希子さんです」
「いやあ、お目にかかれて光栄ですよ、珍獣殿下」
 男の刑事が会釈。カイカンとかムーンとかいう名前も意味不明だけど、僕は珍獣殿下と呼ばれたことに一番驚く。
「ここに来る前に『流星』という居酒屋に寄りまして、そこで伺ったんですよ。小学生の頃はクラスでそう呼ばれてらっしゃったと」
 カイカンさんはそう説明を加えた。なんだそういうことか。昨日村松くんから久しぶりにそう呼ばれたばっかりだから何か意味があるのかと思っちゃった。
「井出くんに聞いたんですね。急に呼ばれてびっくりしました」
「そして今は博士でいらっしゃる」
「え?」
「珍獣ハッシーを探索するドクターハッシーなんですよね?」
「え、ええまあ」
 そんなことまで聞いたのか。また言葉に詰まってると、今度は隣のムーンさんが口を開く。
「少しお時間よろしいでしょうか。亡くなられた村松昭二さんのことでお話しを伺いたいのですが」

 二人にリビングのソファを促す。僕もテーブルを挟んでさっきまでと同じ場所に腰を下ろした。
「センスの良いお部屋ですね。それにとても綺麗にしてらっしゃる」
 少しキョロキョロしてからカイカンさんが言う。室内でもハットは脱がないみたい。
「亜希子さんのおかげです。僕はインテリアとかよくわからないんで」
「フフフ。あの、お仕事は何を? 井出さんからは会社の社長さんだと伺いましたが」
「そんなたいしたもんじゃないです。亜希子さんのお父さんがやってた量販店の会社を引き継いだだけで、お父さんもまだ会長として在籍してらっしゃいますし、まあ見習いの社長ですよ。満員電車でしがなく通勤してます」
「そうですか。あの、今日はお休みで?」
「はい。基本、土日は休みです」
「ではハッシーの調査は主に土日にしてらっしゃるんですか?」
 身を乗り出すカイカンさん。隣でムーンさんは怪訝な顔。僕も意外な質問に戸惑う。
「え、ええ、まあ。でもどうしてそんなことを?」
「ネットに上げてらっしゃる動画を拝見したんです。この町にある湖でハッシーの調査をしてらっしゃった。かなり本格的だったのでお仕事と両立するのは大変そうだなと思いまして」
「僕にとってはあれがライフワークですから」
「動画では珍獣殿下ではなく、ドクターハッシーと名乗ってらっしゃるんですね」
「若い子たちにうけるためには珍獣殿下じゃ古臭いかなって思いまして」
「ナルホド」
 カイカンさんは独特のイントネーションで頷く。
「ちなみにあの動画はどれくらいの頻度で製作してらっしゃるんですか?」
「仕事の余裕にもよりますけど、月に2・3回ってところですかね。それよりも刑事さん」
 なかなか本題が始まらないのでこっちから切り出すことにした。
「村松くんのことですが…彼が亡くなったっていう話は噂で入ってきました。あの湖のそばで遺体が発見されたって」
「…そのとおりです」
 カイカンさんの顔から笑みが消える。少し座り直してから低い声は続けた。
「脱線してすいません。そう、村松さんは湖の近くで倒れていました。今朝、散歩をしていたご夫婦に発見されたんです。頭から血を流しておられたので、警察としては殺人事件と考えています」
 ちょっと首筋がヒヤッとする。僕はなるべく神妙な顔を作った。
「刑事さん、犯人は? 犯人は誰なんですか?」
「まだわかりません。金品は奪われていませんでしたので、物盗りの犯行ではないと思います」
「じゃあいったい誰に…もしかしてヤクザの人にやられたんですか?」
「どうしてそう思われるんです?」
 カイカンさんの前髪に隠れていない左目が見開く。隣でムーンさんも手帳とペンを構えた。
「あ、あのそれは…村松くん、中学の頃からグレちゃって、悪い奴らとつながってるって噂もあったから。だから、そっち方面のゴタゴタに巻き込まれたのかなって」
「ナルホド。幼馴染ですもんね。最近でも親しくされていたんですか?」
「いえ全然。小学生の頃は一緒に遊んだりしてましたけど、中学からはほとんど…。村松くん、どんどんよくない方向に行っちゃって」
「井出さんも同じようなことをおっしゃってました。高校を辞めて町から去ってしまったと」
「はい。だから友達もみんな…村松くんとは疎遠になってました」
「だとすると村松さんがどうして町へ戻ってきたのかが気になりますね。お心当たりはありますか?」
「町へ戻ってきた理由…」
 できるだけあやふやに答える。
「何だろう。昔が懐かしくなったんですかね。それでブラブラしてたのかな。でも夜中に湖へ行くのも変だし…すいません、思い当たりません」
「どうして夜中だと?」
 またカイカンさんが身を乗り出す。
「今おっしゃいましたよね、夜中に湖へ行くのは変だと。どうして事件が起きたのが夜中だと思われるんですか? 」
 しまった、口が滑っちゃった。そうか、そうだよな、アリバイ工作をしたせいで僕の中ではすっかり夜中のイメージになってた。
「いや、あの、明るい時間に殺人事件っていうのは違和感があって…。村松くんって見た目が恐いから、夜道で襲う方が自然なのかなって」
「ずっと会ってらっしゃらなかったのにどうして見た目が恐いと?」
 しまったしまった、そうか、そうだよな。落ち着け落ち着け、どんどんボロが出るぞ。
「む、昔のイメージがあったからつい。今は優しい見た目かもしれませんもんね。ごめんなさい、適当なことばかり言って」
「いえいえ、こちらこそ失礼しました」
 僕が頭を下げるとカイカンさんはまた笑顔に戻った。
「じゃ、じゃあ実際の事件はいつ起こったんですか?」
「現在わかっている情報を整理しますと、昨夜の8時半から10時までの間が犯行時刻と思われます。ほら、夕べは大雨が降ったじゃないですか。雨が止んだのが8時半頃なんです。発見された村松さんの遺体は全く濡れていなかったので」
「そうですか」
 ニヤけそうになる口元をぐっとこらえる。やった、バッチリ! 8時半から10時なら、僕には鉄壁のアリバイがある。
「ちなみに有馬さん」
 また笑みを消すカイカンさん。この豹変がちょっと怖い。
「あなたは昨日、どのように過ごされてましたか?」
「え、僕ですか? どうしてです?」
「一応参考までに。いかがでしょう。伺ってはまずいですか」
「まずくはないですけど。昨日は…午前中は家でのんびりして、お昼過ぎから出掛けました」
「どちらへ?」
「先月、小学校時代の担任の先生が亡くなられて、そのお宅へ伺ってました。先生の奥さんと色々思い出話をしてるうちに長居しちゃって。5時過ぎまでそちらに」
「井出さんからもお話が出ました。諸星先生ですね。ではその後はどちらへ?」
 一瞬迷った。でも変に嘘をついて食い違ったらさっきみたいに指摘されるかもしれない。ここは正直に答えよう。
「湖へ寄ってから帰りました」
 ムーンさんの右眉がピクリと動く。カイカンさんはさらに身を乗り出した。
「どうして湖に寄られたんですか?」
「それはもちろん、ハッシーが姿を見せるかもしれないからですよ。だから時間が空いたらしょっちゅう湖へ寄るんです。言ったじゃないですか、ライフワークだって。そのための懐中電灯やデジカメはいつもポケットに入れてます」
「さすがはドクターハッシーですね。それで、ハッシーは撮影できましたか?」
「残念ながら。7時までねばりましたけど、雨も降ってきたんで帰りました。この家には…7時半には戻ってたと思います」
「では」
 乗り出していた身を戻し、カイカンさんはゆっくり右手の人差し指を立てる。
「午後8時半から10時の間は…どこにいらっしゃいましたか?」
 リビングに放たれる重たい声。前髪に隠れていない左目がじっと僕を見た。ムーンさんもこっちを凝視。
「え、それって村松くんが殺された時間ですよね。ひょっとしてアリバイの確認…そんな、やめてくださいよ、どうして僕を疑うんですか」
 演技じゃなくて本気で動揺。まさか警察にいきなりそんな質問をされるなんて思ってなかった。
「さっきも言ったみたいに、僕は7時半には帰宅して、その後はずっと家にいました。なんなら亜希子さんに確認してください」
「奥様以外にそれを証明できる人はいますか? 気を悪くなさらないでくださいね、これも捜査の決まりでして」
「証人ならたくさんいますよ」
 言葉を探してるとキッチンから優しい声。亜希子さんは改めて四人分のコーヒーを入れてトレイで運んできてくれた。
「よろしければどうぞ」
 刑事二人の前にカップが振る舞われる。
「あ、すいません、いただきます」
 立ててた指を下げてカップを取るカイカンさん。ムーンさんも手帳を置いて「すいません」とそれに続く。僕の前にもカップを置くと、亜希子さんは僕の隣に座った。
「奥様、証人がたくさんいらっしゃるというのは…」
 尋ねるバリトンボイス。
「はい。大介さんは確かに昨夜の午後7時半には帰宅して、ずっと家にいましたよ。私だけじゃなくて、私の両親や妹も一緒でしたから。ちょうど遊びに来てたんです」
「ご両親と妹さんも…。そうですか。みなさんはもうお帰りに?」
「両親は夜の10時頃に帰りましたけど、妹はそのまま残って三人で遅くまで話してました。寝たのはそう…午前2時頃でしょうか」
「そう…ですか」
「あの、この家から湖まで行くのに、どれくらいの時間がかかりますか?」
 言葉を止めたカイカンさんに代わって、今度はムーンさんが質問。
「そうですね、林道の入り口まで行って、そこから林道を抜けて湖までだから…普通に歩いて三十分ってところでしょうか。全速力で走ったら十五分くらいで行けると思います。大介さんの足だと二十分かな」
「おいおい、亜希子さん」
「だって最近は朝のジョギングもサボってるじゃない」
「仕事が忙しくて疲れてたんだよ」
「あら、ごめんなさい」
 また亜希子さんはクスクス笑う。
「では、走っても往復で三十分以上はかかると見てよろしいですね」
 微笑ましい夫婦の語らいなんて意に介さない感じで、ムーンさんはカップを置くと手帳にペンを走らせる。
「ちなみに車やバイクの免許はお持ちですか?」
「いえ、僕も亜希子さんも持ってません。通勤は電車ですし、ここは小さな町ですから買い物も徒歩で十分なんです。だから自転車もありません。ね、亜希子さん」
「そうね。昨日の夜、大介さんが三十分以上姿を消していないことは、私はもちろん、両親も妹も証言してくれるはずです。これでよろしいでしょうか」
「とてもよくわかりました奥様。確かにご主人のアリバイは鉄壁ですね」
 カイカンさんがそう言ってカップをテーブルに置く。
「疑って申し訳ない、珍獣殿下」
「いえいえそんな。本気で疑われたとは思ってませんから」
 笑って答えてこっそり胸を撫で下ろす。亜希子さんのおかげで自然にアリバイも証明できた。これで警察は別の方向へ目を向けてくれるかな。
「ところで、奥様は村松さんのことはご存じだったんですか?」
「いえ、私は面識はありません。大介さんの小学校時代のお友達っていうのも今日知りました」
「奥様はこの町のご出身ではないんですか?」
「ええ。大介さんとは大学で知り合ったんです。私の入ってた手芸サークルの隣が大介さんのいたUMAサークルで。どっちも弱小サークルだったんですけど、廊下で顔を合わせてるうちに親しくなりまして」
「いいよ、そんな話は」
 僕が言うと亜希子さんは「あらごめんなさい」とまたクスクス。
「青春ですね。それにしてもやはり大学時代もUMAを研究していらっしゃったんですね」
「まあ一応。ちょうどUMAが好きな仲間が何人かいたんで、それでサークルを立ち上げたんです」
「それはすごい。ね、ムーン、UMAのファンは世の中にたくさんいるんだよ。わかったかい?」
 カイカンさんは何故か得意げに隣の部下を向く。
「あの、すいません、ユーマというのは何のことですか?」
「何を言ってるんだ君は。UMAっていうのは…いや、これは専門家にお伺いした方がいいな。お願いします、珍獣殿下」
 そう言われて僕は頭を掻く。
「そんな、専門家だなんて。ただずっと好きなだけですよ。
 えっと、ムーンさん、UMAっていうのは未確認生物のことです。目撃情報とか伝承とかはたくさんあるけどしっかりその存在が確認されてない生物。ツチノコとか河童とかはその代表ですね」
「幻の生き物ってことですか」
「幻じゃないです、ただ存在が実証されていないだけで。パンダやゴリラだって昔はUMAだったんですよ。まあ僕は珍獣っていう呼び方の方が親しみやすくて好きですけど。見ててください、そのうちハッシーだって必ず存在が証明されます。いいですか、まだ決定的な証拠が見つかってないだけで…」
「もう大介さんったら、そんなに力説しなくても。刑事さん困ってるじゃない。すいません、この人、ハッシーのことになると熱くなっちゃって」
「いえいえ。とてもわかりやすい説明でした」
 ムーンさんはちょっと苦笑い。きっとこの人はあんまり興味ないんだろうなあ。代わりにその上司はやたらに食いついてくるけど。
「それで、大学時代はどんな探索を?」
「探索っていうほど大したことはしてません。でもネス湖とか屈斜路湖とか、有名スポットは一通り巡りました。まあ聖地巡礼みたいなものですね」
「それは素晴らしい。実は私も高校生の頃、ヒバゴン探索に行きまして」
「え、本当ですか?」
 思わず嬉しくなって声が大きくなる。ヒバゴンは主に70年代に中国山地の比婆山連峰で目撃された珍獣。別名はジャパニーズビッグフット、人獣型のUMAとしては日本で一番有名なんじゃないかな。
「私、広島の出身でしてね。それで仲間と出向いたんです。まあ発見はできませんでしたけど」
「そんなの当たり前じゃないですか」
 と、横からムーンさん。美人だけどコメントは手厳しい。
「見つからなくてもいいんだよ、君にはこのロマンがわからんのか。ねえ、珍獣殿下」
「そのとおりです。あの探索に出掛ける時のワクワクといったらありません」
 いつしか事件の話題はどこへやら、珍獣トークで盛り上がる僕たち二人。その間、女性陣は若干ポカーンで冷めたコーヒーを口に運んでた。

 リビングでの談話の後、ぜひにとせがまれて僕はカイカンさんを自分の部屋へとお連れする。もちろん女性陣二人はパス。
「どうぞ、こちらです」
「失礼しま…うわあ!」
 一歩踏み入れるやいなや、カイカンさんは子供みたいに無邪気な声を上げた。まあ無理もないかな、この部屋にはこれまで僕が収集した珍獣に関する資料や写真がどっさり並んでるんだから。
「すごいコレクションですね。わあ、わあ、これ、懐かしい!」
 カイカンさんが駆け寄ったのは壁に飾られた一枚の写真。そこには地面に残る一つの足跡が写ってる。
「これ、ヒバゴンの足跡ですよね」
「ご名答です。さすが、現地に行かれただけのことはありますね」
「町の役場を訪ねたら、当時の資料としてこの写真を見せてくれたんですよ。懐かしいなあ。ちなみにヒバゴンの正体について、珍獣殿下はどうお考えですか?」
「人類とは違う進化を遂げた類人猿って説が有力ですかね。ヒマラヤのイエティーとかロシアのアルマスなんかも同じ種族だと思います」
「ナルホド。あ、こちらはネッシーの写真ですか?」
「いえ、それは最近注目されてるシャンプです。アメリカのシャンプレーン湖にいる首長竜で、ご覧のとおりネッシーと同じような見た目をしてます。今のところはそんなぼんやりした写真しかありませんけど、それでも目撃情報が増えてるんですよ」
「ネッシーは古代のプレシオサウルスの生き残りという説がありますけど、ひょっとしてこのシャンプもそうなんですかね」
「おそらく。日本にもフタバスズキリュウという同系統の海洋生物がいました。だからその生き残りとしてハッシーもいるわけです」
「知ってます、フタバスズキリュウ。ドラえもんの映画の『のび太の恐竜』に出てきましたよね。名前は…」
「ピースケ」
 僕とカイカンさんは同時に言って笑った。その後は藤子・F・不二雄先生もきっとネッシーが好きだったという話題で盛り上がる。はしゃいでいる場合じゃないのはわかってるけど、やっぱり同志との語らいは楽しい。小学生の頃に戻ったみたいに心が弾む。
「ところでハッシーの写真はないんですか? 見てみたかったんですが」
 部屋をキョロキョロしながら尋ねるカイカンさん。僕は息を吐く。
「ありません。目撃情報はたくさんあるんですけど、ブームの頃も写真は一枚も撮影されてないんです」
「そうなんですね…」
 少し意外そうにカイカンさんは頷いた。
「ではドクターハッシーの調査は続いていくわけですか。最新の動画では次はドローンを使うっておっしゃってましたよね。ドローンって、飛行機のラジコンみたいな物ですよね」
「手に入るかわかりませんけど、空中から湖を撮影して温度で生物の存在を可視化するサーマルドローンを使えたらと考えてます」
「そいつはすごい。それも刃矢田町をまたハッシーブームで盛り上げるためですか?」
「ええ、まあ」
「素晴らしい!」
 カイカンさんはパンと手を打つ。そしてゆっくり続けた。
「でも…お金がかかるでしょう」

 室内の空気が変わる。じっと僕を見る左目。それはさっきまでの無邪気さとは違う、疑心に満ちた目だった。
「お、お金ですか? まあ多少は。でもちゃんと自分の収入の中でやってますから」
「わかっています。あなたにとってはライフワークのための真っ当な出費。ただ、世の中には色んなことを勝手に思う人がいますからね。例えば…そう、村松さんはいかがでしょう。彼の目にはあなたの活動はどんなふうに映ったんですかね」
「どんなふうにって…どういう意味ですか?」
「彼のスマートフォンの履歴を調べたら、あなたの動画をたくさん見てらっしゃったんです。相当お金に困っておられたようですから、どんな気持ちだったのかなあと」
 昨日の村松くんの言葉を思い出す。村松くんは僕がやってることを、道楽だ、お金をドブに捨ててるって批判した。
「確かに村松くんから見たら、お金に余裕がある僕が妬ましかったかもしれませんね。でもそんなの自業自得です。僕は真面目に働いてる、彼はいい加減な生き方をした、その差ですよ」
 不安とイライラが入りまじってつい語気が強くなる。
「別にあなたを批判しているわけではないんです。ただ…」
 カイカンさんはまたゆっくり右手の人差し指を立てた。
「ただ、村松さんがあなたにならお金が借りられるんじゃないかと思ったかもしれない、それであなたに会うために町へ戻ってきたのかもしれない、その可能性はあるんじゃないかと思いまして」
「来てません、僕は会ってません」
「昨日、諸星先生のお宅を5時過ぎに出たあなたは湖へ立ち寄って7時頃までそこにいらっしゃった。そうでしたね?」
 僕は黙って頷く。
「実は村松さんは6時まで井出さんのお店にいたことがわかっています。もし店を出た彼が湖へ向かったとしたら…そこであなたと会ったはずなんですが」
 ドクンと脈打つ心臓。確かにそうだった。黄昏の中、湖を見てた僕の後ろから村松くんが現れたんだ。でも落ち着け落ち着け、それを証明する方法はない。この人は当てずっぽうで言ってるだけだ。
「何度も言わせないでください、村松くんとは会ってないんです。村松くんが殺されたのは雨が上がった後だって言ったじゃないですか。僕はとっくに帰宅してましたよ」
「確かに発見された遺体は全く濡れていませんでした。だから村松さんが湖へ行ったのも雨が上がった後と考えられたわけですが、ただ…」
 低い声は数秒黙って続けた。
「マッチ棒の燃えカスが落ちていたんですよ。湖のほとりです。調べたところ、これは井出さんの店のマッチで、村松さんが持って行かれた物でした」
 そういえば…村松くんはマッチでタバコを吸ってた。湖に捨てた吸殻は回収したけど、マッチ棒の燃えカスまでは意識してなかったな。でも…でもそれで何がわかるっていうんだ?
「実はこのマッチ棒の燃えカス…雨に濡れていたんですよ。よろしいですか? 濡れたマッチ棒が落ちていたということは彼が湖まで来ていたということです、しかも井出さんの店を出た午後6時から雨が降り始めた7時までの間に」
 立てていた指をパチンと鳴らし、カイカンさんが重たく告げる。
「その時刻、湖にはあなたがいたはずなんですが…」
 何も言い返せない。膝が小刻みに震えだす。心底驚いた…この人はマッチの燃えカスだけでそこまで推理できちゃうのか。この人が協力してくれれば、ハッシーだってすぐ見つけられるんじゃないかな。
 でも、でも、こんなことで負けを認めるわけにはいかない。僕は気合いで膝の震えを止めた。
「すごい、すごいですよ刑事さん。マッチ一本でそこまで考えるなんて。でも、僕に言わせれば科学的根拠に乏しいかな」
 わざと明るく話す。
「濡れたマッチ棒だけでそこまで断定できますか?
 例えば…そう、村松くんは雨が上がってから湖へ来た、そこでタバコを吸ってマッチ棒を捨てた。地面は雨で濡れてたはずですから、その水分がマッチに沁み込んだのかもしれないじゃないですか。
 あるいは…そう、雨で湖の水かさは増えてたはずですよね。そこに強い風が吹いて、波が立って、ほとりに落ちたマッチ棒にかかったのかもしれない。
 どうですか? そういう可能性はないって言いきれますか?」
「…ナルホド」
 頷くカイカンさん。そして小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。井出さんのお店を出た後の村松さんの足取りが掴めなくて、それでつい考えてしまいました。村松さんがあなたに会おうとしていたのなら、あなたがいると思って湖へ足を運んだのも筋が通るかなと」
「通るかもしれませんけど…実際僕は会ってません。これは本当です」
「わかりました。こうやってつい色々考えてしまうのが刑事の職業病でしてね、時々自分が嫌になりますよ。あなたとも本当に純粋な珍獣ファンとして出会えていたらどんなに幸せだったかと思います」
 寂しそうな目でカイカンさんはまた室内を見回した。僕の頭もクールダウンする。脈拍もようやく落ち着いてきた。
「こちらこそ怒っちゃってごめんなさい。確かに村松くんは僕の動画を見てたのかもしれませんけど、僕に会おうとしてたかまではわかりませんよ。気まぐれで夜中に湖へ来ただけかもしれない」
「素敵な部屋を見せていただいて感謝します。ここは珍獣ミュージアムですね」
 僕の言葉には答えずカイカンさんはそう言い、そしてゆっくりドアへと向かった。
「ただ…」
 ノブに手を掛けて低い声が言う。
「井出さんのお店を出る時、お金を払わなかった村松さんは行き先をメモ用紙に書くとおっしゃったらしいんです」
 呼吸が止まる。まさか…まさかそこに僕の名前を?
 室内に流れる沈黙。やがて少しだけ振り返ってカイカンさんが言う。
「そのメモ用紙には…誰の名前も書かれていませんでした」
 心の底からほっとする。よかった、それなら村松くんが僕に会いに来ようとしてた証拠はない。
「彼はどうして何も書かなかったのか。しかもその時彼はニヤニヤしていたそうで、何かメッセージがあるような気がするんです」
「何も書いてないのにメッセージって…どういうことですか?」
「有馬さん、動画の中でアシスタントの女性はあなたのことを『博士』と呼んでましたよね」
 文脈がわからない。また珍獣の話に脱線かな? 僕は慎重に答えた。
「ええ、ドクターハッシーだから彼女がそう呼ぶんです」
「ハカセって、ハクシとも言いますよね」
「言いますけど…それが何か?」
 カイカンさんはドアの方をむき、ノブを回しながら言った。
「メモ用紙は白紙だったんです」
 これまでで一番重たい声が告げ、ボロボロのコートの刑事はそのまま部屋を出て行った。

 …バタン。

 冷たくドアが閉まる。取り残される僕。
 白紙でハクシで博士でドクターハッシー…。それが村松くんのメッセージ。なんてことだ、カイカンさんは完全に僕を疑ってる。だからわざわざ僕に会いに来たんだ! でも…。
 僕はデスクの鍵の掛かった引き出しを開く。そしてその奥にしまわれた一枚の写真を取り出した。
 そこに写ってるのは…紛れもなくあの湖から顔を出すハッシーの姿。

 …捕まるわけにはいかない。ハッシーの存在を世間に認めさせるまで、僕は絶対に捕まるわけにはいかないんだ!