第一章② ~ムーン~

 東京にもこんな景色がまだあったのか。いくつもの高層ビルが競って突き刺さっている窮屈な都心の空と比べたら、この町の空はなんて広くて澄み切っているのだろう。それに視線を下ろせばどこまでも続く緑が茂る木々の群れ。そこを抜ける細く長い林道を今私は歩んでいる。風が吹けば、葉ずれの音と土の香りと共に涼しさが爽やかに通り抜けていく。
 ああ、気持ち良い…これが純粋な森林浴やハイキングだったなら心の底からそう思えただろう。しかし残念ながらそうじゃない。この林道を抜けた先の湖で待ち構えているのは殺人事件の現場なのだ。

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

 朝一番で受けた臨場の指令。林の中の湖のほとりで男の他殺体が発見されたのだという。本当はカイカン警部も拾って来たかったのだが、しばらく警視庁で待っても出勤せず連絡もつかず。仕方なく一人で訪れた刃矢田町、林道の入り口に停車して徒歩で現場へ向かっているのが現在の私。もう十五分くらい歩いているからそろそろ湖に出るはずだ。
 緑に癒される時間もここまでかと思うと思わず溜め息。それにきっとあの人はまたのんびり重役出勤で現れるに違いない。それまでに所轄捜査員や鑑識員、第一発見者などから話しを伺って、情報をまとめるいわゆる『インテイク』という作業が私のいつものルーティン。まったく因果な仕事である。
 林道が終わって視界が開ける。いよいよ事件現場だ。奥歯を噛んでぐっと気持ちを引き締めようとした時…。
「あっ!」
 思わず叫んだ。想像していたよりも大きな湖。そして湖畔から10メートルほどの所に倒れた男性の遺体。しかし私が驚いたのはそれらに対してではない。
「警部!」
 夏場だというのにボロボロのコートとハットをまとった不審人物が、所轄捜査員や鑑識員に混じって動き回っている。そう、なんとあの人が私よりも先に現場に来ていたのだ。
「やあムーン」
 私の存在に気付いてこちらを向くその顔は、相変わらず長い前髪が右目を隠している。
「お、お疲れ様です、警部。どうなさったんですか?」
「どうなさったって、ミットに事件の割り振りが来たから臨場したんだよ」
 よく通る低い声が近付いてくる。
「君にも連絡あったでしょ?」
「それはそうですが、いつもはもっとゆっくりいらっしゃるじゃないですか」
「まあ、たまにはね。フフフ…」
 不気味に笑うその姿は間近で見るとますます異様極まりない。これが我が上司とは誠に嘆かわしい。そしてその下でもう五年も働いてきた自分を思うとさらに嘆かわしい。だがそんな嘆きが何も生み出さないことは百も千も承知。
「インテイクも私がやっておいた。いやあ、久しぶりにやるとなかなか大変だね」
「え、そうなんですか」
 いったい、どういう風の吹き回しだろう。
「君みたいにうまくやれるかわからないけど、ここまでの情報を報告するよ。こっちだ」
 遺体へと向かう警部。私は慌てて手帳を取り出しながらそれを追った。いつもと逆パターンでなんだか調子が狂う。
「見てごらん」
 生命を宿さない身体は仰向けに倒れていた。
「撲殺…ですか」
 私は片膝をついて遺体を覗き込む。一目瞭然だった。瞳は閉じているものの、その額には乾いて固まった血液がこびりついている。
「そのとおり。亡くなったのは村松昭二さん、35歳男性だ。職業不詳、住所も不定。身分証の類は持ってなくて、所持品は小銭の入った財布とタバコ、居酒屋のマッチ、ジッポライター、あとは充電の切れたスマートフォンくらい。スマートフォンは今充電しながら鑑識さんにパスワードを解析してもらってる」
「居酒屋というのはどちらのお店ですか?」
「お、いい質問だね。流れ星と書いて『流星』っていうこの町のお店だよ」
「ということはこの人は町の住民ですか」
「いや、元住民だ」
「そうですか。それにしても身分証なしですぐに身元がわかったんですか?」
「フフフ、どうやってわかったと思う? 考えてごらん」
 そう言われても…ぱっと答えが出てこない。スマートフォンもまだパスワード解析中ならそこから情報を得たわけでもないだろう。
「第一発見者が顔見知りだったとかですか?」
 警部は楽しそうにかぶりを振る。どうやら違うらしい。悔しいが降参だった。
「すいません、わかりません」
「いいかいムーン」
 右手の人差し指が立てられた。
「被害者の容姿をよく見てごらん。何をしてる人に見える?」
 そういえばミットに入ってこの人の下についたばかりの頃は、よくこうやって教えてもらってたっけ。
「勤め人…には見えませんね」
 改めて遺体を観察する。30代半ばで金髪に指輪やネックレスをジャラジャラ。服の下から刺青が出てきてもおかしくない雰囲気だ。
「あまり…柄がよろしくない容姿をしておられますよね。言葉は悪いですが、チンピラみたいな感じです」
「そう」
 そこで立てていた指がパチンと鳴らされる。
「もちろん人を見た目で判断しちゃいけない、いけないけどこの仕事はそういう視点も持っておかなくちゃいけない。私もどうも善良な市民には見えなかったから、鑑識さんに頼んですぐ指紋を警視庁のデータベースに照合してもらったんだ。それでヒットした」
「前があったんですね」
 見た目で判断されても文句の言えない変人上司は頷く。『前』とはすなわち前科のこと、被害者はこれまでにも警察のお世話になっていたということだ。
「10代の頃から歩道歴があった。高校を中退して町を出た後も、傷害とか窃盗、違法薬物所持とかで逮捕されて、実刑も数回あったよ。暴力団の構成員ではないようだから…まあヤクザとチンピラの間ってとこかな」
 前髪に隠れていない警部の左目がやや細められる。いわゆるハングレというやつか。特に続きもないようなので、メモを終えると私は腰を上げた。
「遺体の第一発見者はどなたですか?」
「嵐さんっていうご高齢のご夫妻だよ。林の近所に住んでてね、朝の散歩をしてて遺体にご対面、慌てて通報したって流れ。今は所轄署で休んでもらってる。
 ここに来る前に少しだけ会ってきたけど…まあ二人ともびっくりしちゃってる感じだったね。普段泥棒も出ないような平和な町みたいだから」
「そうですか。では…特に不審な点はなかったんですね」
「そう…だね。不審とまではいかないけど、ご主人の方が何か言いたそうな顔はしてたかな。でも奥さんが無言でそれを制止してるみたいな…。まああくまで私の心証だから気のせいかもしれないけど」
 物証はもちろん、この仕事は時として心証も重要な手掛かりになる。私はそれも手帳にメモした。
「いいかい? 続きましては現場の検死で得られた情報だ。死因は頭部を打撲したことによる脳挫傷。転んで頭を打ったとか、上から物が落ちてきたとかって様子はないから、君の見立てどおり撲殺で間違いないだろう。凶器はまだ発見されていない」
 凶器は不見当、と私はペンを走らせる。もしかしたらあの湖に捨てられているのかもしれない。
「死後硬直の程度から死亡推定時刻は昨夜の7時から10時頃と見られてるけど…もう少し狭められそうだ。夕べ激しい雨が降ったのを憶えてるかい?」
 そういえばそうだった。帰宅して部屋でぼんやりしていた時に通り雨が窓を叩いた。
「確か…7時過ぎくらいから降った気がします」
「気象庁に確認したらこの地域は午後7時過ぎから一時間半ほど降ってた。そして遺体には雨に降られた痕跡が全くない。ほら、鑑識作業は終わってるから触ってごらん」
 私は再びしゃがむ。確かに毛髪はおろかトレーナーもズボンも全く湿っていない。夏場とはいえまだそこまで気温も上がっていないから、夕べ土砂降りに打たれればこんなに乾いていることはないだろう。
「どういうことかわかるね? 雨が降り出す前から遺体がここに転がってたとしたら当然ずぶ濡れになったはずだ。でも服は全く湿っていないし、おでこの血痕も洗い流されていない。となると事件が起きたのは雨が止んだ8時半以降。さっきの死亡推定時刻と合わせると、8時半から10時までの間になるわけさ」
「はい」
 納得できる論理だ。司法解剖が行なわれればより正確な時刻も割り出せるだろう。それもメモして私は腰を上げる。
「しかしそうなりますと、村松さんは夜遅くにこんな場所で何をしていたのかが気になりますね。ここには湖しかありませんし、私もさっき実際に歩いて来ましたが、林道もずっと一本道で途中に何もありません。昼間なら散歩や森林浴かもしれませんが、夜中となると…用事があるとは思えません」
「ねえムーン、村松さんがハッシーのファンだったってことはないかな」
「え、何です? ハッシー?」
 突然出た単語の意味がわからず訊き返すと警部はまた不気味に笑った。
「フフフ、ネス湖のネッシーは知ってるでしょ? 日本にもイッシーとかクッシーとかいくつか有名なのがいる」
 全く予想外の話題。もちろんネッシーの名前くらいは私も知っているが…。戸惑う私に見せつけるように、変人上司はそこで勢いよく振り返った。
「あの湖はただの湖じゃない。あそこにもいるんだ。その名も刃矢田町のハッシー、ネッシーみたいに首の長い恐竜の姿をしてるらしいよ。もう二十五年くらい前かな、世間でちょっとしたブームになったんだ。未だに根強いファンがいるかもしれない」
「二十五年前は私はまだ物心がつく前ですよ。警部がおっしゃってるのは、村松さんがそのハッシーのファンで、夜中に見に来たってことですか?」
 遺体の顔を見る。けっして褒められた人生を歩んできたわけではない男。ツチノコだとかUFOだとか、オカルト趣味を否定する気はないが、それらはロマンに基づく娯楽だと私は認識している。ある意味で犯罪を生業にしてきたこの男とは水と油に思えるが。
「何歳になっても珍獣は少年心をワクワクさせるからね。夜中にふいに来たくなってもおかしくないさ」
 いやいやいや、おかしいでしょ。そんな胸の中の反論が顔に出たのか、変人上司は小首を傾げる。
「あれ、君はそう思わないかい? まあ確かに珍獣は女子より男子の方が好きかもね」
 そういう問題ではない。そもそもそんな珍獣が21世紀の東京にいるわけがない。いるわけがないものを夜中にわざわざこんな林の奥まで見に来るはずがない。しかし納得できないでいる私とは逆、警部の声は楽しそうに弾んでいる。そこでようやく腑に落ちた。普段は遅れて臨場するこの人がいの一番に駆けつけたのは、現場が珍獣の棲む湖だったからなのだ。まったく、公私混同というか、自由奔放というか。
「警部、よろしいですか」
 手帳をしまって口調を改める。
「仮にですよ、夜中にそのハッシーを見に来たとして、被害者は誰に襲われたんですか。夜の林に強盗が潜んでいるとは思えません」
「そう。まさか現代に山賊がいるとも思えないしね」
 それを言うなら恐竜がいるとはもっと思えない。
「それにこんなに見た目がイカつい人をあえて狙う強盗はいないだろうから、動機は怨恨か…利害か…。ひょっとして一緒にハッシーを見に来た仲間と何かでもめたのかな」
 そこまで言うと警部は高らかに宣言した。
「ひとまず私たちも見に行こうか、噂の珍獣を」

 捜査員に遺体の搬出を指示してから警部と私は湖のほとりへ。確かに綺麗な湖ではある。形は楕円形、水は青よりも群青に近く、弱いさざ波が陽光にきらめいている。
「大きいですね。周りを一周するのに三十分くらいかかりそうです」
「そうだね。水深もかなり深いって昔テレビで見た記憶があるよ。ブームの頃にはたくさんの人が全国からここに押し寄せてた。ハッシーのおかげで刃矢田町の名前も一躍有名になったんだ」
「珍獣は町興しにもなるんですね」
「それも地元の人たちに愛され続ける理由さ。ネス湖のネッシーだって未だに探索イベントをやって盛り上がってる。いやあ、この湖面からハッシーが顔を出すかもって思ったらワクワクするね」
 また声を弾ませて言われても私にはちっとも共感できない。
「あの、よろしいですか」
 近くを動き回っていた鑑識員の一人が声を掛けてきた。そうだ、珍獣の話はどうでもいい。ここへ来たのは事件の捜査をするためだ。
「はい、どうされました?」
 未だに湖に見惚れている上司に代わって私が応じる。
「こちらを見てください」
 近寄って指差された所を見る。湖のすぐほとり、そこにはマッチ棒の燃えカスが一本。これはもしかして…。
「警部、ちょっとよろしいですか」
 声を大きくして呼ぶとようやく変人上司もやってくる。そして同じく落ちたマッチ棒を覗き込んだ。
「村松さんは居酒屋のマッチを所持していたんですよね?」
「そう、『流星』ってお店の。鑑識さん、すいませんが被害者の所持品のマッチと同じ物か照合してください」
「かしこまりました」
 鑑識員はカメラで撮影すると、手袋をした指で丁寧にマッチ棒を採取する。その動きが一瞬止まったので私は尋ねた。
「どうかされましたか?」
「いえ、このマッチ棒…湿ってるんです。それで軸がふやけてまして」
 証拠品を保存用のビニール袋にしまう鑑識員。警部はじっとその動きを見つめてから「もし吸い殻も落ちていたら教えてください」と指示し、再び湖面へ向き直る。鑑識員は「かしこまりました」と離れていく。
 私は警部の隣に並ぶ。言葉がないので横顔を見ると、その左目は湖の遠い沖を見つめていた。弱い風が吹き、しばらく無言の時が流れる。
「どうして…」
 呟く低い声。そして一瞬遺体のあった場所を振り返ると、警部は長い前髪に右手の人差し指をクルクル巻き付け始めた。考え事をする時のくせだ。探しているのだろうか…事件捜査を始めるための『取っ掛かり』を。
 私も頭の中で考える。強盗の犯行ではないとすると、犯人は被害者と顔見知りである可能性が高い。夜中にこんな場所にいた理由はわからないが、まずは交友関係を当たってみるのがセオリーか。それにそうだ、居酒屋のマッチを持っていたということは最近その店に行った可能性が高い。『流星』はこの町の店。もしかしたら村松は町を去った後も時々遊びに来ていたのかもしれない。店主に尋ねれば村松の昨日の足取りも追えるのではないか?
「ねえムーン」
 警部の指の動きが止まった。穏やかな声が尋ねる。
「君はどう思う? この湖にハッシーは今も棲んでいると思うかい?」
 事件のことかと思えばまたハッシーか。私はうんざり気味に答えた。
「すいません。今も昔も、私には信じられません」
「君らしいね」
 少し笑ってから変人上司は伸びをする。見ると捜査員・鑑識員たちの現場検証も概ね終わったようだ。
「さあて、これからどうするかな。何かアイデアはあるかい?」
「やはり『流星』という居酒屋を訪ねてみるのがよいかと思います。被害者の交友関係や、昨日の足取りがわかるかもしれません」
「さっすがムーン、お見事! ではそうしよう」
 警部はもう一度名残惜しそうに湖を見つめてから背を向けて歩き出す。私も従った。
「そうだムーン、後でいいから一つ調べておいてくれるかな」
「はい、何でしょう」
 私が手帳を取り出すと警部はまた右手の人差し指を立てる。
「村松さんの資産がどれくらいあるか。そして彼が亡くなった場合に、その遺産を相続する相手が誰なのか。例えば奥さんとか、子供とか…そういう人がいないか調べてほしい」
「わかりました」
 ペンを走らせながら私は疑問を感じる。もしかしたら妻子はいるかもしれないが、相続するような資産が彼にあるのだろうか? どうして警部がそんなことを思ったのか尋ねようとした時…。

 …バシャッ。

 ふいに背後で水が跳ねる音。反射的に振り返った警部に私も合わせたが…わずかに波紋を広げる湖面には何もいない。
「ムーン、今…音がしたよね」
「ただの波じゃないですか? あるいは…魚が跳ねたとか」
 黙って数秒見守ってから、警部はまた身を翻して林道へ向かった。

 マッチ箱に記載されていた住所へ向かうと、さびれた商店街の片隅に居酒屋『流星』はすぐに見つかった。カウンターと子上がりを合わせても十名も入れないような小さな造り。店主の名は井出、村松とは幼馴染の間柄で、昨日村松は突然ひょっこり来店したという。
「さあ、どうぞどうぞ」
 井出はとても愛想の良い長身の男で、警部と私をカウンターに座らせると、ビールとお通しでも出しそうな勢いでもてなしてくれた。
「本当にいいんですかい? 日夜市民のために頑張ってくれてる警察さんだ、一杯くらいサービスしますよ」
「いえいえ、勤務中ですから。お気持ちだけいただいておきます」
 警部の異様な風貌にも不快な顔一つ見せないのは、さすがは客商売といったところか。
「むしろ開店前の準備でお忙しい時にお邪魔してすいません」
「それが全然お忙しくないんでさあ。準備なんてしてもしなくても閑古鳥ですよ。これでも昔は毎晩お客さんで溢れてたんですけどねえ」
「町の人口が減っておられるんですか?」
「それもありますけど、何て言いますか、活気がねえんですよ。特段三行がある町でもねえですし。俺がガキの頃はもっと町全体が盛り上がってて、観光客なんかも来てたくらいで」
「ひょっとして、ハッシーブームの頃でしょうか」
「さっすが刑事さん、ご存じでしたか。あの頃は楽しかったなあ。テレビの取材なんかも来たりしてね、お袋も化粧してインタビューを受けたりしてました。商店街もハッシー祭りとかハッシーセールがしょっちゅうで、毎日賑わってました」
「それはそれは」
 楽しそうに頷く変人上司。ここに来てまた珍獣トーク…私はいささか辟易する。
「ぜひまたブームが来ればいいですね。そうなったら私も探索に参加したい」
「ハハハ、そいつは嬉しい。実はそう思って頑張ってくれてる奴もいましてね。『珍獣殿下』ってみんなに呼ばれてる幼馴染なんですけど」
「珍獣殿下ですか、素敵な呼び名ですね」
 どこが素敵なんだ、と汚れた私の心は思ってしまう。もちろん口には出さないが。
「動画投稿っていうんでしたっけ、彼、インターネットでハッシーを探す映像を載せてるんです。俺も何度か見ましたけど結構面白いですよ。大学の研究室にありそうな、本格的な機材をいくつも使って調査してて」
「それはすごい。個人でそんなことをするなんてよっぽどのお金持ちなんでしょうか」
「奥さんの親父さんの会社を継いだらしいですから、それで余裕があるんじゃねえですか。俺もあやかりたいもんですよ」
「その動画が人気になれば、またハッシーブームが来て町が盛り上がるかもしれませんね。昔は刃矢田町名物のハッシー饅頭まであったそうですから」
「本当によくご存じですね。この店でもハッシー焼きなんてメニューを親父が考えて出してましたよ」
 その後もロマンとノスタルジーに溢れた話が展開。こうやって楽しい会話を作って自然に情報を引き出すのも刑事のテクニック…なのだが、さすがに三十分を超えてくると不安になる。万が一このまま開店時刻へ突入してしまったら大変だ。
「実はですね、私も学生の頃にとある珍獣を探しましてね」
「警部、井出さんもお忙しいですから」
 耐えかねて言葉を挟むと変人上司もはっとして壁の時計を見た。
「すいません、つい話し込んでしまって」
「いえいえ、刑事さんがそんなにハッシーファンだとは知りませんでした。よかったら今度はお客として飲みにいらっしゃってくだせえ。ハッシー好きの奴らを集めておきますぜ」
「ぜひ。では仕切り直しで」
 少し座り直してから警部が口を開く。
「村松昭二さんについてです。村松さんの遺体は今朝発見されました。他殺と考えられています。昨日、彼はこのお店にいらっしゃったんですよね?」
 井出の顔から笑みが消える。私は手帳とペンを構えた。
「ええ、来ました。午後4時くらいです。いきなりそこのドアをドンドン叩かれて。まだ準備中だって言っても強引に入ってきちまったんです。しょうがねえから飲ませましたけど」
「村松さんとは親しくされていたんですか?」
「とんでもねえ。昭ちゃんが高校辞めてからは一度も会ってませんでしたよ。あ、すいません。昭ちゃんっていうのは村松くんのことです。昔はそう呼んでたんで」
 店主は磨いていたグラスを置いた。
「そりゃあね、小学生の頃は仲良くしてましたよ。仲の良いクラスでね、みんな友達って感じでしたし。昭ちゃんもその頃はワンパクなガキ大将で一緒にいると楽しかった。それがねえ、どこで道を踏みはずしちまったのか、悪さばっかりするようになって、警察さんの世話にもなっちまって…お袋さんがかわいそうでしたよ。自分を抑えるってことができねえ性格でしたから、そいつが悪い方へ向かっちまったんでしょうね」
 やりきれなさの溜め息が一つ落ちる。
「先月もクラスのみんなで集まったんですけど、誰も昭ちゃんの話題は出しませんでした」
「集まったというのは同窓会ですか?」
「いえ、葬式です。6年生の時の担任が亡くなって。諸星っていう恐い先生でね、しょっちゅう叱られましたけど…いなくなっちまうと寂しいもんです」
 そこで警部が少し身を乗り出す。
「ひょっとするとその諸星先生の墓前に手を合わせるために、村松さんは町へ戻ってこられたのでしょうか」
「それはねえと思います。そんなこと一言も言ってなかったし。誰も昭ちゃんの連絡先を知らなかったから、先生の訃報も届いてねえでしょうし。昨日俺が教えてやってもよかったんですけど…そんな気にもなれなくて」
「では村松さんは何をしにいらっしゃったのでしょう」
「わかりません。もう町に親しい人もいねえと思います。この店はきっと俺が後を継いでると思って立ち寄ったんでしょうね。いきなり入ってきて何か食わせろ、酒飲ませろですもん、ただのゴロツキですよ、あれじゃあ」
 先ほどより重たい溜め息。
「でも昭ちゃん…死んじまったんですよね。今頃あの世で諸星先生にゲンコツされてんじゃねえかなあ。恐いけど愛情がある先生でしたから」
「…良い先生ですね」
 懐かしそうに笑むと、警部はコートのポケットから取り出した短い物体を口にくわえる。「お使いになりますか?」と店のマッチ箱を差し出す井出。やはり遺体のポケットに入っていたのと同じ物だ。
「すいません、これ、タバコじゃなくておしゃぶり昆布なんです」
「あ、そうでしたか。そいつは失礼」
 どう考えても突然昆布を口にする警部の方が失礼ではあるが、それはさておき、変人上司が言葉を止めたので代わって私が質問を投げる。
「亡くなった村松さんもそのマッチ箱を持っておられたのですが、昨日ここでお渡しになったのですか?」
「勝手に持ってっちまったんですよ。ジッポライターのオイルがもうすぐ切れそうだからって、帰る時に」
「村松さんがここを出られたのは何時頃ですか?」
「開店直前だったから…6時頃ですね」
「その時、どこへ行くとか誰かに会うとかはおっしゃっていませんでしたか?」
「何も言ってなかったですね」
「では最近の出来事や生活の様子などについては」
 私の質問攻めに井出は腕組みして唸る。
「そうですねえ、最近は景気が悪いとか、ろくな奴がいねえとか、そんな話ばっかりで。まともな仕事をしてる感じじゃなかったですね。悪さばっかりしてたツケが来たんでしょう、威張ってはいましたけどなんだか余裕がねえ気がしました。
 すいません、俺も話半分で聞いてたもんで」
「ハッシーの話題はありませんでしたか?」
 警部が思い出したように口を開いた。
「村松さんの遺体は湖のほとりで発見されました。もしかしたらここでハッシーの話題になって、懐かしくなって湖へ行ったのかと思ったのですが」
「ハッシーですか…」
 記憶を探るように井出は顎に手を当てて少し黙る。
「確かに小学生の頃の昭ちゃんは珍獣殿下と一緒によくハッシーを探してました。二人で黒板に想像図とか描いたりしてね。でも昨日は…そんな話題はなかったなあ」
「そうですか」
 警部は少し残念そうに昆布をポケットに戻す。
「こんなこと言うと冷たいかもしれませんけど、俺の好きだった昭ちゃんはとっくの昔にいなくなってました。だから死んだって言われてもあんまり悲しくないです。今の昭ちゃんは…最低です」
 店主は苦笑い。
「だって金も全然持ってなかったんですよ。さんざん飲み食いして、金が入ったらすぐ払いに来るからツケにしといてくれって…ふざけんなって思いましたよ」
「喧嘩になったんですか?」
 と、私。
「いえ、馬鹿らしいんでやめました。開店前に嫌な気持ちになりたくなかったですし。でもタダで飲ませる義理はねえから、ちゃんと連絡先を書けってメモ用紙を渡したんです」
 警部が顔を上げる。
「じゃあ行き先だけ書くってニヤニヤしながら言ってましたけど…昭ちゃんが店を出た後にメモ用紙を見たら結局何も書いてねえんですよ。ほんとにふざけた奴です。心底軽蔑しましたね」
「本当に何も書かれてなかったんですか? 例えば小さい字で書いてあるとか、薄い字で書いてあるとか」
「お疑いなら見てみてくだせえ。その時のままですから」
 井出はカウンターからメモ用紙を取って渡す。受け取る警部。一枚ずつ破って使うタイプの物で、私も覗き込んだが確かに何も書かれていなかった。警部は念のため一枚目だけでなくパラパラめくって下の用紙も確認したが…やがてあきらめたように返却した。
「確かに全部白紙ですね」

 最後に井出自身のアリバイを確認してから警部と私は居酒屋『流星』を出る。彼には閉店の午前2時まで常連客と一緒に店にいたという鉄壁のアリバイがあった。
「さてムーン、こうなると午後6時に居酒屋を出た村松さんがどこへ行ったのかがますます重要だね。何も書かなかったメモ用紙も気になる」
「知られたくない相手に会いに行ったのでしょうか」
「でも『行き先だけ書く』って自分で言って何も書かないっていうのはなんだかちぐはぐだよね。しかもその時村松さんはニヤニヤしてたみたいだし」
「井出さんをからかったんじゃないですか?」
「かもしれない。そうだ、村松さんのスマートフォン、そろそろパスワードの解析も終わって内容の分析もしてるはずだ、そこから何かわかるかも」
「鑑識課に確認してみます」
 商店街の下ろされたシャッターの前で立ち止まり私は電話を掛けた。するとちょうど分析も終わったところで、色々と教えてくれた。
 村松はかなりお金に困っていたようで、借金返済を求められるメールが多数、逆に知人にお金を貸してくれと頼むメールも多数だったらしい。中には『これ以上金を返さずに逃げ回るんなら容赦はしない』と脅されていたり、『お金が返せないと殺される。助けてくれ』と懇願したりしているメールもあり、追い詰められていたのは間違いない。電話の発信履歴や着信履歴もサラ金や水商売関連がほとんどで、純粋な友人や親族との交流と思えるものはなかったという。
「では最近特に刃矢田町の誰かと連絡を取り合っていた痕跡はないんですね。他には何かありますか? え、動画サイト?」
 スマートフォンには村松がインターネットの動画をたくさん見ていた履歴が残っていたのだ。すると電話のやりとりが漏れ聞こえたのか、そばで昆布をくゆらせていた警部が突然「動画の内容は?」と尋ねてきた。私は頷く。
「あの、動画の内容ってわかりますか? …えっ!」
 どうせいかがわしい動画だろうと思っていたが、鑑識からの答えを聞いて私は驚きの声を出してしまう。そして情報は以上とのことで通話はそこで終わった。
「どうだった、ムーン?」
 小さく深呼吸してから私は答える。
「被害者が最近よく見ていたのは…動画投稿サイトに上がっている『ドクターハッシーのハッシーは必ずいる!』というシリーズでした」
 昆布をくわえた警部の口元が綻ぶ。見つけたのだ…『取っ掛かり』を。
「それってさっき井出さんが言ってたやつだよね。幼馴染の珍獣殿下が作ってるっていう動画。ムーン、君のスマートフォンで見られる買い?」
「はい、ただ今」
 普段そういった物は見ないので若干操作に手間取ったが、すぐに問題のシリーズは見つかった。
「出ました、これが今一番新しい動画です」
 私の手元を覗き込む変人上司。画面に登場したのは村松や井出と同世代の男性。やや長めの黒髪にメガネ、小太りの容姿をしている。隣にはまだ二十代と思われる綺麗な女性、大きな瞳と明るい茶髪が印象的だ。そして二人が立っている場所はまさに先ほど警部が佇んでいた湖のほとり。
「博士、博士、ハ、カ、セ!」
 女性がリズミカルに口火を切った。
「今回はどんな方法でハッシーを探すんですか?」
 彼女が小道具と思われる大きめのマイクを向けると、今度は男がもったいつけて話し始める。
「今回は魚群探知機を使ってみようかと思います。これは漁師さんも魚の位置をつかむために用いるんですけど、音波を水中に放つだけなので湖の生態系を乱す心配はありません」
 男はなんだか得意げだ。アングルもズームもずっと変わらないのでおそらく三脚を使った固定カメラでの撮影だろう。
「それはすごいですね。さっそく見せていただけますか?」
「どうぞ、こちらです。今回はそのためにボートも用意してあります」
 そこで画面が切り替わる。ここからは彼女がカメラを手持ちで撮影しているようだ。
「それが魚群探知機ですか、博士」
「そうです。いいですか、ここにモニターがありまして、ボートの底から送った音波を…」
 見るからに高そうな機材が解説される。その後は実際にボートで湖の中心まで行って探知機を作動させている映像。何度かモニター画面もアップになる。そして結局ハッシーの姿は捉えられず調査は終わった。最後にもう一度固定カメラで二人が湖のほとりに並ぶ。
「今回は残念でしたね、博士」
「はい、何かが動いたのは間違いないんですけど、決定的な解明はできませんでした。でも大丈夫、まだまだ作戦はあります」
「博士、次なる作戦は?」
「最近注目されてるドローンを使った調査を考えてます。次こそ必ず証明しますから。それではみなさん、次回の動画をお楽しみに」
 二人は拳を握って右手を掲げる。
「ハッシーは必ずいる!」
 お決まりのフレーズなのか、揃ってそう叫んだところで動画は終了。
 …なんだかなあ。それが私の素直な感想だった。楽しそうなのは伝わったが私にとってはそれ以上の感慨は何も湧かない。時々テレビでやっている徳川埋蔵金の発掘番組を見ても思うが、そもそも発見したのなら番組よりも先にニュースが流れているはずだ。ハッシーだって存在が実証されれば世間は大騒ぎだろう。それがないのに動画を見ながらはたして発見できるかなんてワクワクしようはずもない。ダメだ、やっぱり私は何かが欠落している。
 ふと隣を見ると変人上司は目を輝かせていた。明らかにワクワクしていらっしゃるご様子。おいおい、マジですか。
「ムーン」
 そしてさらに弾みを増した声が告げる。はたしてそれは犯人を追うための指示だったのか、それともハッシーを追うための指示だったのか。

「会いに行くぞ、珍獣殿下に」