1
林に囲まれた湖。夕焼けがその湖面を橙色に染め上げてる。波も小さくてまるで巨大なオレンジゼリーみたい。
「よっこらせっと」
手にしてた紙袋を地面に置いてほとりに立つ。またここに来ちゃった。子供の頃からこの景色を何百回、いやもう何千回とこうやって見つめてきた。ただし心が奪われてるのは美しい眺望にじゃない。湖の底に確かにいる存在にだ。
腕時計を見る。時刻は午後5時半。明日は日曜日だし一時間くらいねばってみようかな。
「頼むよ、顔を出してよ」
時々湖面にそう投げ掛ける。でも何の変化もない。ゆっくりとそんな穏やかな時間が流れていくだけ。それも好きだった。
やがて辺りが少し暗くなる。空を見上げると雨雲…そういえば天気予報で夜は雨かもって言ってたっけ。最近は日本の気候も変わって、まるで熱帯のスコールみたいなゲリラ豪雨が降るからな。もう6時半、そろそろ帰ろうかな。ポケットから懐中電灯を取り出して湖面に向ける。
「お願いだよ。また姿を見せてよ!」
ライトで信号を送りながらもう一度願う。でも返されるのは静寂だけ。
「アッハッハッハ!」
ライトを消して落胆した瞬間、突然背後から笑い声が上がった。びっくりして振り返ると夕闇の中に誰かが立ってる。黄昏という言葉は薄暗さで誰だかわからない相手に「たそかれ」と尋ねた古語から来てるって聞いたことがあるけど、まさにその状況。
「誰ですか?」
現代語で尋ねた。すると「俺だよ、俺」って言いながらダミ声がこちらに歩み寄り、残照の中に男の顔が浮かんだ。思わず息を呑む。
「村松くん…」
「久しぶりだな、有馬…いや、珍獣殿下」
正直、もう二度と会うことはないと思ってた。脂っこい目に短い金髪、浅黒い肌、ダブダブのトレーナーにネックレスと指輪がジャラジャラ。村松昭二くんは小学校時代の友達。そして『珍獣殿下』っていうのはこの僕、有馬大介のその頃のニックネームだ。
「ひ、久しぶりだね。村松くんは町を出ちゃったから…十五年、いや二十年ぶりくらいかな。どうしてこんな所にいるの?」
「そりゃもちろんお前に会いに来たに決まってんだろ。俺の大親友の珍獣殿下に。全然変わってねえな、お前」
妙に馴れ馴れしい。村松くんは僕の肩越しに湖を一瞥、そしてニタリと口を歪めた。
「それにしても、マジにまだ信じてんだな。ラッシーだっけ? そんな怪獣がこの湖にいるなんてよ」
「ラッシーじゃなくてハッシーだよ。それに怪獣じゃなくて珍獣」
「そうそう、刃矢田町の珍獣ハッシー。懐かしいよなあ、ガキの頃は一緒にここでそいつが出てくるのを日が暮れるまで待ってたよなあ」
村松くんは僕を押しのけてほとりに立つとタバコをくわえた。
「でも全然出てきてくれなかったよなあ」
取り出したジッポライターがオイル切れだったみたいで、村松くんは小さく舌打ち。代わりにマッチで火を着ける。そして燃えカスのマッチ棒を地面に捨てると煙を深く吸い込んでから言った。
「懐かしいぜ、マジに」
その横顔を見ながら考える。いったい…いったい村松くんはどうしてここに現れたんだろう。最後に会ったのは高校生の時。その頃だってもう仲良くしてたわけじゃないし、わざわざ旧交をあたために来るなんて思えない。胸の奥がザワザワ…悪い予感しかしてこない。
確かに小学生の頃はよく一緒に遊んでた。自分勝手で気分屋で喧嘩っ早い奴だったけど、その分頼もしさもあった。それに僕にとってはハッシーの話を信じてくれる有難い相棒でもあった。幼稚園の時、僕はおじいちゃんと一緒にここでハッシーを目撃したんだ。その話を村松くんは信じてくれて、一緒に捕まえようって躍起になってくれた。放課後や休日はしょっちゅうここに来て、ハッシー捕獲作戦を色々講じた。内気な僕がクラスで珍獣殿下なんて呼ばれて居場所を得たのも、村松くんのおかげかもしれない。まあ何年か経つと町は本当にハッシーブームになっちゃって、大人までハッシーを探索する大騒ぎだったけど。
でも村松くんと仲良くしてたのは小学生の頃まで。中学で悪い先輩の影響を受けた村松くんはヤンチャが悪い方向へ向かっちゃって、授業をサボったり、タバコを吸ったり、ついには卒業制作でみんなで作ったオブジェを破壊する暴挙にまで及んだ。いくら幼馴染でも徐々に村松くんの周りからは友達がいなくなって、高校時代はほぼ学校に来ないで悪い仲間と夜遊び。警察沙汰も起こして高校は中退、その後も商店街で見かけることはあったけど、髪の毛を金色に染めてタバコを吹かすその姿には一緒にハッシーを探した頃の面影はなくなってた。そのうち姿を見かけることもなくなって、噂だと少年院やら刑務所やらに出たり入ったりだったみたい。村松くんの家族も人知れずどこかへ引っ越していった。
「なあ」
ダミ声に呼ばれて僕は我に返る。足元の紙袋を村松くんは爪先で小突いた。
「これは何だよ。ハッシー捕獲の秘密兵器か?」
「違うよ。先月、諸星先生が亡くなったんだ。憶えてるだろ、小学校6年の時の担任の先生。今日お宅にお線香を上げに行ったら、奥さんがこれをくれたんだよ。だから蹴らないで」
「諸星…死んじまったのか。あのセンコウ、何度も俺にゲンコツしやがってよ」
「それは村松くんが悪いことしたからだろ。ちょっと恐いけどいい先生だったよ。学芸会の劇にも参加してくれて…今日もらったのはその時に使った衣装なんだ。先生、大切に保管してくれてたんだよ」
「劇…そういえばやったなあ、お前が脚本書いて、確か森に現れる謎の野獣を捕まえる話だったよなあ。俺は探検隊の役だったっけ」
村松くんはタバコをくわえたままその場にしゃがむと、石を一つ拾って湖へと投げた。チャポンと音がして波紋の輪が広がる。
「ガキだったけどよ、今から思えばあの頃が一番楽しかったぜ」
弱い風が吹いて僕らはしばらく黙ったままになった。
「なあ」
村松くんはしゃがんだままこちらを見ずに言った。
「ちょっち金を貸してくんねえ?」
軽い調子だけど深刻身のある声だった。僕が何も答えないでいると村松くんはゆっくり腰を上げて、脂っこい目がジロリと向く。
「なあ、俺に金を貸してくれねえかなあ」
「ど、どうして?」
「色々あってよ。ちょっちやべえ所からも借りちまってんだ。いつまでも逃げ回るわけにもいかねえし、このままじゃマジやべえんだよ。もうケツに火が着いてんだ」
僕を体ごと振り向かせると大きな両手が肩を掴む。
「頼むぜ、助けてくれよ。五百万ぽっち貸してくんねえかなあ。なあ、友達だろ?」
「五百万って…無理だよ、そんな大金」
目を逸らしてごく当たり前の返答。するとヘラヘラしながら村松くんは肩をさすってきた。
「まーたそんなこと言っちゃって。持ってんだろ? ネットの動画見たぜ。高そうな機材でハッシーを探してたじゃねえか」
そうか、動画サイトに投稿してるハッシー調査の映像。そこに写る僕を見て村松くんは訪ねてきたんだ。
「あの機材はレンタルで借りてるだけだよ。家のローンだってあるし、五百万円なんてとてもじゃないけど」
「動画の中で言ってたじゃねえか、これは最新のなんとかっていう装置だって。レンタルだってそれなりの金はかかってんだろ。その分を俺にちょっち回してくれりゃあいいのよ」
「村松くん、恐い人たちに狙われてるんなら警察に…」
「おい、珍獣殿下」
僕の肩から両手を離すと押し殺した声が続けた。
「俺がこんなに頼んでんのにダメなのか? なあおい!」
どんどんイライラが強まって村松くんのこめかみに青筋が立つ。
「つべこべ言わねえで貸してくれよ。こんなに頭下げて頼んでるんだろうが! ハッシーに使う金があるんなら回してくれりゃあいいだろ、どうせドブに捨ててんだから」
「ドブに捨ててなんかいない」
思わず言い返す。
「有効に使ってるよ、ちゃんと科学的な検証を重ねて必要な調査をしてるんだ。ハッシーの存在を証明するために」
「何言ってんだよお前は!」
今度は嘲笑が向けられる。
「マジにそんなこと言ってんのかよ! バッカじゃねえの、いい歳して。珍獣ハッシーだ? そんなんいるわけねえだろうが。常識で考えろよ」
「いるよ。僕、見たんだ。小学生の頃は村松くんだって一緒に探してくれたじゃないか」
「あんなん嘘に決まってんだろ。いるわけねえってわかって遊んでやってただけさ。そんな俺のおかげでお前はクラスの人気者になれたじゃねえか。恩を仇で返すのかよ」
「ハ、ハッシーは絶対いるんだ! おじいちゃんだって一緒に見たんだ」
声を荒げる僕に村松くんは大きく溜め息。
「いいか、冷静に考えろよ。ネス湖のネッシーの写真だって嘘だったんだろ? 目を覚ませよ、そんなんいるわけねえんだから。じいちゃんだってボケてたんだよ」
「そんなことない! 確かにネッシーの写真はトリックだったけど、ネス湖でネッシーを見たって人はたくさんいる。ネス湖に巨大生物がいたっていう記録は大昔から残ってるんだ。それにネス湖だけじゃない、そういう目撃情報は世界中にたくさんあるんだ。最近だとアメリカのシャンプルール湖のシャンプだってそうだ。日本の湖にいたって全然おかしくないんだよ」
「じゃあお前のその科学的な調査でハッシーは見つかったのかよ? 写真の一枚でも撮れてんのか?」
また言い返しそうになるのを僕はぐっと唇を噛んでこらえる。
「写真は…写真はまだない」
「ほら見ろ」
「違う。一度水中カメラも使ったけど、たまたま前の日が大雨で水が濁っててよく見えなかったんだ。それにそう、たまたま波も高かったし、ハッシーが深く潜っててもおかしくない。でも湖の底の方から聴こえる不思議な音波はキャッチしてる。きっとあれはハッシーの声だ。きっとイルカみたいに信号を送って…」
「もういい!」
うんざりしたみたいに村松くんが叫ぶ。
「もういい、そんな話どうでもいいんだ。親友の俺が困ってんのにお前はそんな馬鹿みてえな道楽の方が大事っつうんだな」
「道楽なんかじゃない。僕は真剣なんだ」
「どこが真剣なんだよ。いもしねえ怪獣探してるお前のどこが真剣なんだよ。こちとら必死にもがいても首がまわらねえってのによ! ああそうか、よくわかった、よくわかったぜ、この恩知らずが」
村松くんは指に挟んでたタバコを湖へと投げた。
「何するんだ! 湖の生態系が壊れたらどうするんだ! ハッシーが棲めなくなっちゃうだろ」
「マジだな、マジの馬鹿だ。そうだ、いいこと思いついたぜ、そんなにハッシーがいるっつうんなら俺がいなくしてやるよ。この湖に毒を流し込んでやる。
知り合いに産業廃棄物をこっそり棄てる仕事をしてる奴がいてよ。新しい捨て場所がねえって困ってたんだ。この湖を紹介しておくぜ」
「産廃の不法投棄? そんなの絶対ダメだよ。そういうのが一番生態系を破壊するんだ! 人間のせいで絶滅した生き物が地球上にどれだけいると思ってるんだ!」
「いいじゃねえか、ハッシーも絶滅すりゃあいい。そうしたらもう金をドブに捨てる必要ねえもんなあ。俺に回す金もできんだろ」
「…させない」
僕の唇が無意識に動いた。頭の奥が急激に冷却されて氷みたいに冷たくなるのがわかる。それによって生じたエネルギーが懐中電灯を握る手に力を込めていく。
「ギャハハハ」
憎らしい悪魔の顔が笑う。
「マジの馬鹿だぜ、珍獣殿下。そういや今はドクターハッシーだっけ? 動画の中で博士って呼ばれてたよなあ。とんだ馬鹿博士だぜ」
「…絶対させない」
「え、何だよ?」
「ハッシーを殺させるもんかぁ!」
誰かの叫び声…いや僕だ、今のは僕が叫んだんだ。そう気付いた時には、懐中電灯を村松くんの頭に振り下ろしてた。
2
遠くでカラスが鳴いてる。湖のほとりに佇む僕、その足もとに倒れた村松くん。彼の額は赤黒く染まり、僕の右手の懐中電灯にもその血はべったり付着してる。呼び掛けても村松くんは全く反応しない。息も…してないみたいだ。
ゴクリと唾を飲む。殺しちゃった…村松くんを、僕、殺しちゃったんだ。ブルブル全身が震えだして懐中電灯をその場に取り落とす。見えないロープで首を絞められてるみたいにジワジワ息が苦しくなる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そうだ、警察に行かなくちゃ。でも、でもそんなことしたら…。
湖を振り返る。そうだよ、僕にはまだやることがある。ハッシーの存在をちゃんと世間に証明したい。それをせずに人生を終わるなんて耐えられない。昔目にしたあの姿をもう一度この目にするまでは、警察に捕まるわけにはいかない、いかないんだ!
そう思い至ると震えは止まった。一度は凍りついた頭にまた血がかよって思考もゆっくり回り始める。あ、そうだ、村松くんが投げ捨てたタバコ。慌てて懐中電灯を拾ってスイッチオンしたけど…点灯しない。殴ったショックか落としたショックかで壊れちゃったみたい。代わりにポケットからスマートフォンを出してそのライトで湖面を照らす。すると…あった、タバコがプカプカ浮いてる。なんとか手を伸ばしてそれを取る。よかった、間違ってハッシーが食べちゃったら大変だから。
「さて」
腕時計は7時前。改めて村松くんを見た。
「ごめんね」
一応そう謝ってから僕は考える。問題はどうやってごまかすかだ。村松くんはお金のトラブルで恐い人たちから逃げてるって言ってた。そいつらの仕業に見せかけられないかな。いや、いっそ遺体を隠して…でもそうすると…じゃあどうすれば…僕が疑われないようにするためには…。推理小説みたいにアリバイっていうのをうまく作れないかな?
思案してると鼻にポツリと一滴の水。雨だ。ついに降り出したか。空を見上げた瞬間、雷に撃たれたみたいに僕は天恵を受ける。そうだ…この雨を利用すればアリバイを作れるかもしれないぞ。
どうする? やるなら迷ってる時間はないぞ。やろう、やるしかない。僕は覚悟を決めて紙袋に手を伸ばした。
*
全てを終えて帰路に着く。一応アスファルトで舗装されてるとはいえ、夜の林道を抜けるのはちょっと怖い。スマホのライトがないと真っ暗になっちゃうだろう。期待どおり雨脚もどんどん強まってきてる。ずぶ濡れになりそうだから走ろうかな。
そう思った時、スマホが着信を告げる。画面には最愛の奥さんの名前。
「もしもし亜希子さん」
「あ、大介さん? 今どこ?」
「ごめん、遅くなっちゃって。諸星先生のお宅からの帰りに湖に寄ってたんだ」
「やっぱり。どう、ハッシーは顔を出してくれた?」
「今日もダメだったよ。でも大丈夫、そのうち必ず見つけるから。楽しみにしてて」
電話の向こうでクスクス笑う亜希子さん。
「楽しみにしてるわ。あ、それよりお父さんたちが遊びに来てるの。みんなで一緒に晩ごはん食べましょ」
「そうなんだね。うん、雨も降ってきたから急いで帰るよ」
「気を付けてね」
「うん、ありがとう。愛してる」
少しだけ甘い言葉を交わしてから通話を終える。亜希子さんのお父さんたちも来てる…アリバイの証人は大いに越したことはないよな。よし、いいぞいいぞ。
雨脚はさらに強まる。僕は林道を全速力で町へと走った。