ゴトン、ゴトン、ゴトトン…。
遠くに電車の走る音が響いた。夜の静寂のせいかとてもよく聞こえる。この時刻ならもう最終便…あるいは貨物列車かもしれない。私はそんなことを思いながら腕時計を見た。
…午前0時半。ここに駆けつけてもうすぐ三十分になる。
私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
さて、今夜の現場はここ…小さな神社に上るための三十段ほどの石段。その最下段に頭から突っ込むような体勢で一人の男性が絶命しているのが発見された。身元は所持していた財布の中のカードからすぐに判明した…長谷塚真矢(はせづか・しんや)、23歳。改めてその顔を覗き込むと、砂と泥で汚れてはいるが特に苦悶の表情はない。鑑識員が現場を撮影するフラッシュの中、安らかに瞳を閉じて眠っている。
「やあムーン、どんな感じだい?」
ふいに闇の一角から低くよく通る声がした。靴音とともに近付いてくるその声の主は、振り返らずともすぐわかる。
「お疲れ様です警部、今日はお早いお見えですね」
私がそちらを向くと、ボロボロのコートとハットに身を包んだその姿が闇から現れる。
「フフフ…たまにはね」
そう不気味に笑ったこの不審人物こそ、私の上司・カイカン警部である。いつもは鑑識作業や現場検証が一通り終わった後でのんびり登場するので、それに比べれば確かに早いが…他の捜査員から比べればもちろん遅い。
「警部、その格好で夜中に歩いていたら怪し過ぎますよ」
「何年私と働いてるんだ。そんなことより説明よろしく」
まあ確かに、この人の意味不明な言動にいちいちツッコミを入れていてはきりがないのだけど…。気を取り直し、遺体を示しながら私は現在判明していることを報告する。それを聞きながら警部は「ナルホド」と独特のイントネーションで頷いた。
「じゃあ長谷塚さんは、この石段を下りている時に足を滑らせて転落したってこと?」
「はい、今の所その可能性が一番高いかと…。夕立のせいで足場は滑りやすくなっていましたし、辺りはご覧のように真っ暗ですから。遺体の所見も転落死と考えて矛盾しません」
「死亡推定時刻は?」
「正確なものは司法解剖を待ってからですが、現場での検死では午後9時から11時の間といったところです。遺体が発見されたのが11時半でした」
発見したのは近所に住む老婦人。明日夫の心臓手術を控えた彼女は心配でなかなか寝付けず、手術の成功祈願のため夜更けにこの神社を訪れたのだ。しかし残念ながら、その参拝をする前に石段でこの惨状を見つけてしまった。110番した後、彼女は今近くの交番で事情聴取を受けている。
「ナルホド。じゃあ長谷塚さんも夜中に神社にお参りに来たのかな?」
そう言いながら遺体のそばにしゃがみ込む警部。私もその後ろに立った。
「…かもしれませんね。この石段の上は神社しかありませんし、他の用事でここに来るとは考え難いです」
都心と異なり高い建物の目立たない小さな町だ。その片隅の社にいる神様は、住民たちのささやかな拠り所だったのだろうか。
「参拝を済ませて帰る時に足を踏み外したのではないでしょうか」
警部はしばらく黙って遺体の衣類に触れていたが、やがて「所持品は?」と尋ねた。
「はい、財布が上着の右ポケットに、ハンカチと鍵が左ポケットにありました。あと、ネクタイが内ポケットに、タバコが胸ポケットに入っていました」
それは先ほど鑑識員から受けた報告。いつもなら手帳のメモを見ながら答えるのだが…この暗がりではそうもいかない。私は間違いのないようにしっかり記憶を確認する。
「そう…。それにしても不思議だ」
そう言いながら腰を上げた警部に私は尋ねる。
「何かおかしな点がありますか?」
「わからないかいムーン?よく見てごらん」
警部はそう言ってコートから取り出した物体を口にくわえる。それはおしゃぶり昆布…これも今更ツッコミを入れても仕方のないこの人の習慣。私はそんなことより改めて遺体を観察する。一体何が不思議だというのか?
「もしかして、タバコは持っているのにライターがないことですか?それは私も少し気になりました」
「それもあるけど、もっと不思議なのは…長谷塚さんの服装だよ」
警部は石段を数歩上がり、遺体のズボンを示した。
「だってこのズボン、ジャージだよ?でも上着はスーツにワイシャツ…どう考えてもおかしい」
「えっ?」
思わず声に出てしまう。慌てて確認すると確かに…警部の言うとおり。この遺体、上はスーツを着ているのに下はジャージを履いている。両方とも黒色なので一見わからないが、よく見ると明らかにアンバランスだ。私は鑑識員の報告を聞いただけで遺体の衣類に直接触れていなかった自分を恥じる。
「警部、すいません。私の確認が甘かったです」
「フフフ…まあ普通こんな意味不明な格好をしている人はいないからね」
…あんたがそのセリフを言いますか?
「靴はスニーカーだし…、この人、上半身と下半身がちぐはぐだ。一体これはどういうことだろう」
警部はくわえた昆布を口先で動かしながら自問自答する。その横で私も考えた。しかし…さっぱりわからない。どうしてこんな服装なんだ?
数分の沈黙の後、頸部は昆布をコートのポケットにしまってから言った。
「ところで、長谷塚さんは携帯電話は持っていなかったの?」
「はい。それも気になったのですが、どこにもないようです。転落した拍子にポケットから飛び出したのかもしれないと思って所轄の捜査員が辺りを探したんですが…見つかっていません」
「となると、もともと持っていなかったのか、あるいは…」
そこで警部の声が一段と低くなる。
「誰かが持ち去ったのか、だね」
初夏の生温い夜風が吹いた。警部の右目を隠す長い前髪が揺れる。私も乱れた髪を押さえながら言った。
「だとするとこれは…事故に見せかけた殺人」
警部は小さく「かもしれない」と呟くと、ゆっくり石段を上り始めた。この人はいつも現場でまず『取っ掛かり』を探す。捜査にどこから手を付けるかを決めるための取っ掛かり…不思議な服装と消えた携帯電話、今回の事件ではそれは早々に見つかったようだ。
「ムーン、長谷塚さんの住所がわかったらすぐ室内を確認して。それでもし携帯電話が見つからなかったら、電話局に発信と着信の履歴をもらうんだ」
私は「わかりました」と答えて頭の中にしっかりその指示をメモする。
「もう遺体は運んでよろしいですか?」
「どうぞ」
警部はそう言いながらさらに石段を上る。
「あの警部、どちらへ?」
「先に警視庁に戻っててよ。せっかくだから私は神社にお参りしていくから。事件の早期解決祈願と…あと、第一発見者のおばあちゃんの、旦那さんの手術成功祈願をね」
振り返らずにそう告げると、コートとハットの後ろ姿は再び闇へと消えていった。