第四章 ~ムーン~

 同日午後3時、柊ホスピタル4階のカンファレンスルームには事件の関係者たちが集っていた。

 被害者の不倫相手であり遺体の第一発見者でもある総務課課長の恩田玲子。
 玲子と一緒に遺体を発見した栄養士の大門由香利。
 由香利に呼ばれて応急処置に駆け付けた看護師の夏川久美。
 事件当日に勤務していた警備員の蒲郡敏夫。
 事件当日に給湯室の冷蔵庫に飲み物を補充した総務課事務員の松野加奈。
 被害者の妻であり不倫に気付いて離婚を決めていた土橋若菜。
 そして捜査に当たった江里口と戸塚。加えて捜査協力することになった警部と私。この計十名で長机を囲んでいる。

 空気は当然重苦しい。中にはどうして自分がここに呼ばれたのか困惑している顔もある。
「みなさん揃われましたね」
 警部の低い声が口火を切った。いくつもの視線がその異様な風貌を訝しんでいるが当の本人は全く気にする様子もなく言葉を続ける。
「まあみなさん、そんなに緊張なさらず。カンファレンスをするわけではないんですから」
 誰もクスリとも笑わない。
「う~ん、ちょっとみなさんにリラックスしてもらった方がいいですね。ムーン、給湯室から飲み物を持ってきてくれるかい? 院長先生に許可はいただいてるから」
「わかりました」
 私は席を立つ。そして廊下に出て給湯室に行くと冷蔵庫から缶コーヒーをトレイに乗せて戻ってきた。そして一人に1本ずつ手渡していく。自分の物も含めてちょうど10本が行き渡った。
「まあみなさん、コーヒーでも飲みながらリラックスして話しましょう」
 最初はみんなためらっていたが、江里口と戸塚が勢いよく飲み始めたので徐々にそれに合わせる。警部と私を除いた八人全員が缶コーヒーを口に運んだ。
「では、そろそろいいでしょう。江里口警視、よろしく」
「わかりました」
 警部に水を向けられて今度は彼が口を開く。
「みなさん、本件を担当した警視庁の江里口です。この度は捜査にご協力いただきありがとうございました。中にはその過程で少々嫌なお気持ちにさせた方もいたと思います。申し訳ありませんでした」
 座ったまま一礼し、また顔を上げて彼は続けた。
「しかしながら、みなさんのご協力のおかげで本件は一つの結論に達することができました。土橋先生は…自殺されたのです」
 わずかにどよめく室内。彼はゆっくり頷いてそれをいさめる。
「これは間違いありません。彼が悪い連中からお金を借りて首が回らなくなっていたことも、大学病院から毒物を持ち出していたことも、全て調べがつきました。追い詰められての自殺だったのです。
 彼は昨日の夕方、当直室に入ると自分で持ち込んだ毒のカプセルを自分で飲まれたのです。カプセルを入れていた容器も発見されました。覚悟の自殺です」
「いやあ」
 そこで警部が場違いな明るさで割り込む。
「当初は私たちも殺人事件と勘違いしましてね。あ、申し遅れましたが私は警視庁のカイカンです。それで、犯人はパソコンに毒を塗ったんじゃないかとか、缶コーヒーに毒を塗ったんじゃないかとか、色々考えました。でもそれは全部間違い、見当はずれもいいとこでした。
 毒を仕込んだ犯人なんて存在しなかった。だからこうやって安心して給湯室の缶コーヒーも飲めるわけです。ね、ムーン?」
「はい。冷蔵庫にちょうど10本残っていましたので、それをそのままもらってきました」
 そう答えて私も自分の缶コーヒーに口をつける。咳払いして江里口が言った。
「まあそういうことですので、みなさん、ご安心ください。土橋先生が自ら命を絶たれたのは悲しいことですが、少なくとも恐ろしい殺人事件が起こったわけではありませんでした」
「これにて一件落着!」
 また警部が不謹慎なテンションで合いの手。集った者たちはそれぞれの表情で心痛を見せている。そして警部は飲んでいなかった自分の缶コーヒーの飲み口を開くと、ゆっくりそれを口に運んでいった。
 その瞬間…。

「飲んじゃダメ!」

 一つの声が上がる。警部の隣に座っていた彼女が叫んだのだ。彼女は今、缶コーヒーを口に運ぼうとした警部の右腕を必死に抑えている。事情がわからない者たちは騒然となってその光景に目を見張っていた。
「やっぱり…あなただったんですね」
 抑えられた腕をゆっくり下ろすと、警部が静かに言った。
「大丈夫、この缶コーヒーに毒は塗られていませんよ…松野可奈さん」

 真犯人は総務課事務員の松野可奈である、という警部の推理は数時間前、警視庁から柊ホスピタルへ向かう車中で語られた。ハンドルを握る私は事前に説明を受けていたが、後部座席の江里口と戸塚は当然大きな驚きを見せていた。
「待ってくれ」
 おもむろに江里口が言う。
「確かに給湯室の冷蔵庫に缶コーヒーを補充したのは彼女です。その時に20本ある缶コーヒーの中の1本だけに毒を塗ることはできた。でもまさか、20分の1の可能性に賭けたわけじゃありませんよね?」
「もちろんだよ」
 警部が助手席で右手の人差し指を立てる。
「問題はその1本をどうやって土橋先生に取らせるかだ。同じ銘柄の缶コーヒー、特別なマークや傷もない。他の19本と全く同じその1本を取らせることは一見不可能に思えるけど、方法はあったんだよ」
 警部がそれに気付いたのは、警視庁の部屋で私やビンさんと話をしていたあの時だった。警部は、届いたFAXの紙の束の中から先にビンさんが印刷していた紙を私が内容も見ずに取り出せたのが不思議だった。私も、全く同じカップラーメンが二つあって警部がどうやって自分の物とビンさんの物を見分けたのかが不思議だった。
 あの時ビンさんも笑っていたけど、その答えはわかってみれば至極単純で全く同じ理屈。見た目の違いではない。感触の違いでもない。それは温度の違いだった。
 届いたばかりのFAXの紙は温かい。だから温かくない二枚の紙が事前に印刷された物だと私は指先でわかった。警部も、直前にお湯を注いだばかりのビンさんのカップラーメンとかなり前にお湯を注いだ自分のカップラーメン、当然触ってぬるい方が自分の物だと判断したのだ。
「いいかい江里口警視? 決め手は温度だよ。松野さんは缶コーヒーを補充する時、本来なら減った数だけを補充すればいいものをあえて1本だけ残して残りの19本を全て新しい物に取り換えたんだ。流し台の下の棚に備蓄の缶コーヒーがたくさんあったんだろうね。こうすることで、1本だけがしっかり冷えていて残りの19本がぬるいという状態が出来上がる。ホットが好き、アイスが好き、という好みはあってもぬるいコーヒーが好きという人間はまずいない。つまり100パーセントの確率で土橋先生に冷たい1本を取らせることができるんだよ。その冷たい1本の飲み口にだけ彼女は毒を塗っておいたのさ」
 警部の解説に江里口も戸塚も唖然としている。このトリックの秀逸な…いや、悪魔的な所は、警察が到着する頃には残り19本の缶コーヒーももう冷蔵庫で冷やされてしまい、温度差の痕跡はなくなってしまうことにある。
「だから彼女は5時のギリギリ、土橋先生が到着する直前に飲み物を補充したのさ。なるべく残り19本の缶コーヒーをぬるいままにするためにね。後は彼が勝手に罠にかかるのを待てばよかった」
「整理させてくださいカイカン警部。つまり、こういうことですか?」
 戸塚が言った。どうやら手帳にメモを取っているらしい。
「土橋幸一は冷蔵庫から一番冷えている1本、毒が塗られた1本を取って当直室に入った。缶コーヒーを持った時に指先に毒が付着、そしてその指でパソコンの電源を入れた。だから電源ボタンからも毒物反応が出たと」
「そういうことだね」
「でもそれは偶然頼みです。確実にそうなる保証はありません」
「いいんだよ。犯人にはそうなればいいなという期待はあっただろうけど、仮にそうならなくても恩田さんに罪を着せる上で大きな支障はなかった。
 朝の清掃の時に毒を電源ボタンに塗って、遺体を発見した時に拭き取った…警察にそう思ってもらえればそれでいい。だから犯罪計画書にも毒を拭き取る段取りを書いておいたのさ。電源ボタンから毒が検出されなくてもちゃんと彼女が疑われるように」
「はあ…」
 後部座席で驚きと納得の息を漏らす戸塚。私は冷静にアクセルを踏み続ける。
「松野さんが事情聴取で語っていた、恩田さんのパソコンを修理した時に偶然不倫の写真のファイルを見つけてしまったっていう話は本当だろうね。彼女はそれを利用した。土橋先生の自宅に掛かってきたっていう不倫相手の女性からの間違い電話、あれを掛けたのも松野さんだろう。こうすれば奥さんは土橋先生の不倫を疑う。土橋先生が不審死した後、遅かれ早かれそのことは奥さんの口から警察の耳に入る。
 そして警察が土橋先生の不倫を調べ始めた段階で、今度は自分が恩田さんのパソコンに不倫の写真データがあることを警察に教える。きっと警察は恩田さんのパソコンを調べるだろうから、その時に見つかるように犯罪計画書のファイルも仕込んでおく…それが松野さんの計画だったのさ」
 警部の語りを聞きながら私は戦慄する。あどけなさの残るあの女性事務員はそんな恐るべき完全犯罪を目論んだのだ。ただ事件の日の昼、たまたま出崎医師がしょうもない理由で蒲郡に当直室のパソコンを触らせに行かせたのが大きな誤算だった。そのせいで恩田玲子犯人説が成り立たなくなってしまったのだから。
「一ついいですか?」
 そこでまた江里口が口を開く。
「温度差を利用した毒殺トリックはわかりました。しかしそのトリックが使われたという証拠は何もありません。恩田玲子のパソコンに犯罪計画書のファイルを忍ばせることも、別に松野可奈じゃなくても他の事務員でもできる。決定的な状況証拠とは言えません」
「そうなんだよね」
 警部はあっさり認めた。
「だからこれからみんなで一芝居撃ちたいんだ。名付けて劇団捜査一課!」
 警部が立てていた指をパチンと鳴らす。その言動は明らかにふざけていたが、江里口は何も言わなかった。

 やがて車は柊ホスピタルに到着。そして行なわれたのが先ほどのカンファレンスルームでの茶番劇。警部は松野可奈に自白させるように仕向けたのだ。
 まず給湯室から持って来た缶コーヒーを配り、江里口と戸塚が率先してそれを飲むことで関係者にも口をつけてもらうように促す。そして土橋は自分で毒を持ちこんで自殺したという嘘の説明をする。すると彼女はどう思うか。
 土橋は缶コーヒーの毒で死んだわけじゃないのか? ということはもしかしたら毒を仕掛けた1本はまだ冷蔵庫の中に残ったままなんじゃないか?
 …きっとそんなふうに不安になったはずだ。この時点で配られた缶コーヒーを飲んでいないのは警部と私だけ。さらに冷蔵庫に残っていた缶コーヒーはちょうど今配った10本だけだったことを伝える。すると彼女は疑心暗鬼に陥る。
 もしも日中に医局の医者が毒の缶コーヒーを飲めば大騒ぎになっていたはず。それがなかったということは、まだ毒の1本は今配られた10本の中にあるんじゃないか?
 そこで私も缶コーヒーに口をつけた。これでもうカンファレンスルームにいる十人のうち九人は飲んだことになる。でも誰も苦しんで倒れたりしていない。となるとまだ口をつけていない警部の缶コーヒーが毒の1本。そして今まさに警部がそれを飲もうとしている。
 …そう思い込んだ彼女は、とっさに叫んで警部の腕を抑えたのだ。無駄な犠牲者を出さないために。そしてこの行動が、紛れもなく自分が犯人であることを証明してしまったのである。必要十分条件は満たされたのだ。

 罪を認めた松野可奈はおとなしく警視庁へと連行された。病院組織の中ではけっして目立つことのない、素朴で地味な存在。そんな彼女が起こした大罪に多くの者が驚愕の顔を見せていた。

 警部は遠慮したのだが、江里口に押し切られて彼女の取り調べをすることになった。当然私も同席する。
「松野さん」
 小さな机を挟んで座ると、警部が穏やかに始めた。
「蒲郡さんに聞きました。今秋月曜日の夜、遅くまで事務室に残ってパソコンを叩いていたそうですね。恩田さんの席に座って、恩田さんのパソコンを。だから蒲郡さんも冗談で『課長さん』とあなたを呼んだりしたそうじゃないですか」
「そういえばそうでした」
 若い女事務員は悲しそうに笑む。
「その時に…恩田さんのパソコンに犯罪計画書のファイルを仕込んだんですね?」
 返されるのは無言の頷き。
「あなたにとって土橋先生を毒殺するだけでは不十分だった。必ずその罪を恩田さんに着せたかった。だからわざわざ当直室で事件を起こした。
 どうしてです? どうしてそこまで二人を…」
「だって」
 可奈はためらわずに答えた。
「だってあの二人にこの病院から消えてほしかったから。だってあの二人、不倫してたんですよ…当直室で」
 室内の空気が凍る。
「先週の木曜日、あたし、給湯室に忘れ物しちゃって夜中に取りに戻ったんです。そうしたら当直室の中から二人の声が聞こえてきました。汚らわしい男女の声が」
「それが…動機ですか」
「だって夜中に病院にいるお医者さんは当直の先生一人だけなんですよ。それなのにそんな…。二人は笑ってました、これじゃあ病棟から呼ばれてもすぐ行けないねって。最低だと思いませんか? あの人たちは…悪魔です」
 彼女の瞳が潤みだす。
「たくさんの患者さんの命を預かってるはずなのに、そんなことして…。患者さんたちのために、一刻も早くこの二人を排除しなきゃって思ったんです」
「看護師さんたちから伺いました。あなたは仕事の合間、病棟に行って入院中のおじいちゃんやおばあちゃんの話し相手になってあげていたそうですね。それだけじゃなく、一緒にトランプをしたり、散歩したり。病棟の患者さんたちはみんなあなたが大好きみたいですよ」
「あたしだってみんなが大好きです。だから、みんなの命を預かってる先生が…そんなことしてるのが…絶対許せなくて」
 彼女の頬を涙が伝った。胸が痛い。彼女が土橋と玲子を憎んだ理由はよくわかる。純粋な…純粋過ぎたその気持ちがこの凶行を招いてしまったのだ。
「あなたは私の命も救おうとしてくれましたね」
 警部の目にも優しさが宿る。
「こんな意味不明な格好をして、場違いなことを言って、あなたからすれば眉をひそめたくなるような、できれば関わりたくないド変人でしょう。なのにあなたは私の腕を抑えて毒の缶コーヒーを飲まないようにしてくれた。それで自分の罪を認めることになっても…。
 松野さん、あなたは本当の愛情を持った本当に優しい人なんだと私は信じます。できればあなたのような人にお医者さんや看護師さんをやってほしい」
「無理ですよ、あたしバカだから」
 彼女は涙をそのままに、少しだけ嬉しそうに笑った。
 私もそう思う。純粋で誠実な人間にこそ医療や司法に携わってほしい。でも汚れた私の心は同時にこうも思ってしまう。きっとそんな人間には、医療や司法の仕事は務まらないと。純粋さなら江里口も彼女に負けていないかもしれないが、彼には社会正義という強い信念がある。それが彼女になかったことが本当に惜しまれる。
「ねえ刑事さん、どうしてあたしが怪しいって思ったんですか? やっぱり飲み物の補充をしたのがあたしだから?」
「いえ」
 無邪気に尋ねた彼女に警部はせつない眼差しを向けた。そしてコートのポケットから一枚の紙…あの犯罪計画書のコピーを取り出す。
「あなたが恩田さんに罪を着せるために作ったこの犯罪計画書ですが、土橋先生の行動を記した一文にこうあります…『給湯室で無作為に缶コーヒーを1本取る』と」
 該当箇所を警部が指で示す。彼女も覗きこんだ。
「これを読んだ時、『無作為に』という言葉が気になりました。恩田さんがこれを書いたのなら『無作為に』なんて言葉は必要ありません。これは、缶コーヒーは全部同じだから選びようがない、だからその中の1本に毒が塗られていたわけじゃないと、本当のトリックを隠そうとして無意識に出た言葉じゃないでしょうか」
「失敗したなあ。やっぱ、あたしバカだ」
 彼女は自分の頭をコツンと小突いた。
「ねえ刑事さん、あたしって刑務所行きですよね。だったら最後にもう一度だけ、病棟のおじいちゃんやおばあちゃんたちに会いたいな」
 子供のように純粋な願いだった。そこに他意はなく、ただ入院患者たちへの愛情と優しさだけがあるのだろう。でも、それでも、警部は重たく答えた。
「殺人犯を解放するわけにはいきません」