1
「どうぞ、お入りください」
江里口は鷹揚な物腰で恩田玲子を迎えた。しかしその瞳は微塵も笑っていない。それを感じ取ったのか、彼女もまた警戒心をあらわにして「はい」とだけ返した。
「そちらにお座りください」
小わきにノートパソコンを抱えた戸塚が椅子を勧める。彼女は黙って従った。
陽光が窓から差し込むカンファレンスルーム。しかし今からここで行なわれようとしているのは白衣の医療者によるカンファレンスではない、黒衣の司法者による吊るし上げだ。
「あの、お話とは何でしょうか」
口火を切ったのは意外にも玲子の方だった。江里口はじっと彼女を見据える。
「恩田さん、正直にお答えくださいね。そうすれば悪いようにはしません」
そしてその問いは投げられた。
「昨夜当直室で土橋先生を毒殺したのは…あなたですね?」
朝の空気を緊張が貫く。目を見開く玲子。言葉は何も返されない。少し待ってから彼は続けた。
「お答えいただけないようですね。では理由を説明します。それを聞いていただいた後でもう一度お尋ねしますね。
まず本件を他殺と判断した根拠ですが、その後の捜査で土橋先生は週末に飲み会の約束をしていたことがわかりました。しかもその約束をしたのは当直に入る直前です。これで自殺は考えられません」
わずかに彼女の唇が動いたが声は漏れなかった。
「では殺人事件となると、犯人がどのように彼を毒殺したのかということが問題になります。毒は缶コーヒーの飲み口に付着していました。土橋先生はそれを口に運んで絶命しました。この缶コーヒーは給湯室の冷蔵庫にあった物です。しかし、冷蔵庫に残っていた19本の缶コーヒーに毒の痕跡はありませんでした。1本だけに毒が塗られていて、たまたまその1本を土橋先生が選んだとは考えられません。
では毒はどこでどうやって缶コーヒーに付着したのでしょうか。毒物反応が出たのは他に遺体の右手の人差し指、そしてデスクの上のノートパソコンの電源ボタンです」
玲子が小さく息を呑む。
「極めて簡単な仕掛けですよ。犯人はノートパソコンの電源ボタンに毒を塗っておいたんです。犯人は土橋先生が当直中にパソコンを使うことを知っていた。彼は必ずパソコンの電源を入れる、つまり彼の右手の人差し指に毒を付着させることができる。後は彼が缶コーヒーの飲み口に自分で触って毒を付けて、そこに口を運ぶ。彼が必ず缶コーヒーを飲むことも犯人は計算に入れていたんです」
玲子の顔がどんどん青ざめていく。口調は丁寧なままだが、江里口の語気も徐々に強まっている。
「遺体が発見された時、パソコンの電源が入っていたのが証拠です。よってこの事件の犯人の条件その1、犯人はパソコンの電源ボタンにあらかじめ毒を塗ることができる人物、すなわち日中施錠されている当直室に出入りできる人物。それは鍵を管理している総務課課長、あなたです」
私はぎゅっと奥歯を噛む。彼女は目を見開いたまま石のように固まり、ただ唇だけをわなわなと振るわせていた。
「昨日の朝、当直の医師が帰った後、あなたは部屋の清掃のために当直室に入りました。その時に毒を塗ったんですね?」
「違います!」
初めて明確な否認が返された。
「どうして私だと決め付けるんですか? 朝帰った当直の先生が毒を塗った科もしれないじゃないですか」
「いいえ。朝帰った先生…お名前は出崎先生とおっしゃるんですよね、この病院の勤務医の。確かに彼にも毒を塗るチャンスはありました。しかし、自分が部屋を出た後で当直室は掃除されてしまうんですよ? デスクと一緒にパソコンも水拭きされるかもしれない。そうしたら塗った毒も剥がれてしまうじゃないですか。それに、メンテナンスなどで事務員が日中パソコンに触る可能性だってあります。もしそんなことになったらその事務員の指先に毒が付着して大変なことになります。
犯人がそんな危険な犯行計画を立てたとは考えられません。よって犯人の条件その2、犯人は自分が毒を塗った後で誰もパソコンに触らないことを知っていた人物。それは出崎先生ではありません。備品も含めて当直室を管理しているあなたです」
見事だ。警部にも匹敵する、あるいはそれ以上の論理の組み立て。物理的にも心理的にも毒を塗ることができたのは彼女しかいないと江里口は示したのだ。この推理を跳ね返すのは並大抵ではない。
「そんな、私はやってません、いつもどおりの清掃をしただけです」
「蒲郡さんが防犯カメラをチェックしてくれました。あなたが当直室を出た後、夕方土橋先生が来るまで誰も当直室を出入りしていません。もう認めていただけませんか?」
「知りません、毒なんて。だいたいどうして私が土橋先生を手に掛けなくちゃいけないんですか。いいましたよね、当直に来てくれる先生は貴重だと。大切にこそすれ殺害するなんて…全く動機がないじゃないですか!」
「ありますよ」
ヒステリックになる彼女に反し、江里口は全くリズムを乱されない。まるで罪状を並べ立てる閻魔のごとく、淡々と論拠を示していく。
「あなたは彼と不倫関係にありましたね? その関係がこじれたとすれば十分な動機になります。彼との関係を隠すためにあなたが遺体のポケットから携帯電話を抜き取って処分したこともわかっています」
「そ、それは…いえ、そんなこと知りません」
「ではこのパソコン、中を見せていただいていいですか?」
控えていた戸塚が言った。やはり抱えていたのは彼女のパソコンだったのか。
「それは…業務用ですので無断で見られては困ります」
彼女が慌てて言い返す。その反応があまりに過敏だったので私もそこに松野可奈が話していた写真のファイルがあると確信した。
「院長からは捜査協力の承諾はいただいております。もし必要でしたら事務長に立ち合いを求めますか?」
悠然と言い放つ江里口。本当にそんな許可を取ったのか、それともはったりなのかはわからない。だが彼女には効果充分だったようだ。観念したように「パソコンを見てもいいです」と返された。
「ではさっそく」
長机にパソコンを置くと戸塚が慣れた手つきでキーボードを叩く。彼女も内心の狼狽を隠すように毅然としてそれを見ている。携帯電話も処分した彼女ならきっとパソコンのデータも消したのだろう。だが甘い、少し知識のある人間なら削除されたファイルは造作もなく復元できるのだから。
「…これですね」
数分で戸塚が手を止めた。そしてパソコンをくるりと回転させて全員に見えるようにディスプレイを示す。そこには土橋と玲子、二人が腕を組んで旅館の前で記念撮影した写真。
「もう…いいです」
ついに牙城が崩れる。玲子は顔を伏せると弱弱しく「不倫を認めます」と白旗を振った。戸塚は写真の表示を消し、また自分の方に向けて何やら操作を始める。
「お気持ちはわかりますよ。職場のパソコンに好きな人の写真を入れておいて、勤務中に時々ちらっと見たりして…僕にも経験があります」
江里口がとても優しく語りかけた。
「では恩田さん、改めてお尋ねしますね。土橋先生を殺害したのは…あなたですね?」
「いいえ」
顔は伏せたままだったが声ははっきりと聞こえた。彼女はここにきてまだ否認を続けるつもりなのだ。江里口も溜め息。
「認めていただけませんか? 今なら自首扱いにすることもできます」
「私はやっていません。確かに土橋先生と関係を持っていました。それがバレるのが怖くて彼の携帯電話を処分したのも私です。でも、でも…」
彼女が顔を上げる。まるで何かに覚醒したような、これまでとは違う表情がそこにあった。
「私がしたのはそれだけです。毒を塗ったりなんてことは断じてしておりません」
私は考える。これは彼女の本心なのか、ただの悪あがきなのか。確かに彼女が犯人だというのは状況証拠に過ぎない。不倫関係という動機があったことも、当直室に出入りできたということも、自分の後に誰もパソコンを触らないと知っていたということも、数学的にいえば必要条件は満たせていても十分条件は満たせていない。つまり彼女が毒を塗ったという決定的な証拠はないのだ。だが多くの場合それでも犯人は陥落する。そして犯人の自白こそが十分条件になるのだ。しかし彼女がそれをしないとなると…有罪の立証は難航する。
江里口の唇が小さく「チッ」と動いた。私も溜まってもいない唾を呑み下す。そうなると毒の入手経路などを洗ってそこから追い詰めるしかないか?
「恩田さん、これは何ですか?」
淀みかけた空気にメスを入れたのは戸塚だった。彼は再びこちらにディスプレイを示す。私も目を見貼る。そこには『犯罪計画書』と銘打たれた文書ファイルが開かれていた。
犯罪計画書
1.朝の清掃の時に当直室のパソコンの電源ボタンに毒を塗る。
2.日中当直室はいつもどおり施錠しておく。
3.午後5時、Dが来訪。事務室で鍵を渡す。Dはいつもどおりエレベーターで4階へ行く。給湯室で無作為に缶コーヒーを1本取る。当直室に入って鍵を掛ける。そしてパソコンの電源ボタンを押す。
4.指に毒が付着した状態で缶コーヒーに触れれば飲み口にも毒が付着。そして飲もうとして口をつければ毒が体内に入りDは絶命する。
5.午後6時、栄養士と共に夕食を当直室へ運ぶ。当然応答はない。合鍵でドアを開け、Dの遺体を発見する。その騒ぎに乗じてパソコンの電源ボタンの毒を拭き取る。
6.警察によってDは自殺と判断される。
以上 文責 恩田玲子
「隠しファイルとして保存されていました」
垂れ目を吊り上げた厳しい顔で戸塚が言う。
「ファイルの作成日は三日前。文中のDとは土橋先生のことでしょう。これはあなたが書いたんですね?」
ガタン、と大きな音がした。彼女が立ち上がったのだ。
「知りません、そ、そんなファイル。私は作っていません!」
「さすがにそれは通りませんよ、恩田さん」
座ったままの江里口が冷ややかに告げた。
「計画書を作成する犯罪者は珍しくありません。段取りを整理するために、そして犯罪の実行を断固たる決意にするために。特にあなたは事務員です。普段から色々な起案書や計画書を作り慣れている。だから犯罪の時もそうされたのですね?
これはあなたの犯行を立証する決定的な証拠です」
「知りません!」
半狂乱で叫ぶ玲子。しかしそれが届くことはない。これで必要十分条件は満たされた。客観的にどう見ても彼女は黒だ。
「恩田さん、詳しくお話を伺いますので警視庁までご同行願います。拒否されますか?」
任意同行に応じないなら逮捕する…口にはしなかったが江里口はそれくらいの迫力だった。彼女の瞳に絶望が浮かぶ。魂が抜かれたようにおとなしくなると、泣きそうな声が「行きます」と告げた。
「では戸塚くん、よろしく」
そのまま戸塚に連れられて彼女は部屋を出て行った。バタン、とドアが閉まる音が悲しく室内に響く。
「フウ…」
大きく息を吐く江里口。
「不倫の写真を示しても否認された時は正直焦りました。でもまああんな決定的な証拠を残してくれていたとは…戸塚くんのお手柄です。取調室で尋問すれば、今度こそ落ちてくれるでしょう」
彼が腰を上げたので私も従った。
「いかがでしたか、ムーンさん。僕のミットの捜査は」
じっと私の目を見て彼が問う。事件発生から約15時間、見事な解決というしかないだろう。
「素晴らしかったです、江里口警視」
「ありがとう。君の優秀さも見せてもらいましたよ」
こちらに歩み寄ると彼は私の両肩に手を置いた。
「本気で待っています。ミットの異動、考えてくださいね」
私はやはり何も返せなかった。気持ちがモヤモヤしていたからだ。異動が嫌とかそういう次元の話ではなく、もっと重要なことについて。
…恩田玲子は本当に犯人なのか?
*
一緒に警視庁へ戻ることとなり、私は夜間通用口の前で江里口が来るのを待っていた。この通用口は日中も職員専用の出入り口として使われているようだ。カウンターの窓口には蒲郡ではない別の警備員が座っている。
「ちょっとすいません」
私の前を白衣姿の男性が通る。この病院の勤務医だろうか。研修医…というほど若くはないがどこか軽薄な雰囲気がある。通り過ぎざまに彼がいやらしい一瞥をこちらに向けたのを私のセンサーは敏感に感じ取った。
「おはようっす!」
彼はカウンターの小窓から中の警備員に声を掛ける。
「あの、蒲郡さんは」
「おはようございます、出崎先生。蒲郡は夜勤明けで帰りましたよ。どうかされましたか?」
「そうっすか。いや、たいしたことじゃないんすけど。まあいいや、会ったら俺がお礼言ってたって伝えといてください。当直室の件でっていえばわかりますから。俺、明日からしばらく旅行に行っちゃうんで」
「了解致しました」
「よろしくっす!」
年上の相手に対してはいささか無礼な作法で右手を上げると、彼はカウンターを離れる。その際、また私にいやらしい目線。まったく、死んだ土橋といいこいつといい、男ってのはどうしてこうなんだ。せめて勤務中くらい邪気を封印しやがれ!
あれ? それより今、確か出崎先生って…。そうか、土橋の前日に当直していたのはこいつだったのか。
「お待たせしました、ムーンさん」
入れ替わりに江里口が姿を見せる。幸いこの人にはそういったいやらしさがないので助かる。私を引き抜こうとしてくれるのも、純粋に刑事としてなんだろうから。私は不良品の人間なのに…そんなに綺麗な瞳で見つめられると、なんだか申し訳ない。
「では警視、私の車で警視庁までお送りします」
「お願いします」
晩夏から初秋に向かう日射しの中、私たちは駐車場の車までただ黙って歩いた。
2
「ナルホド」
独特のイントネーションで警部が頷く。警視庁のいつもの部屋。私は変人上司に今回の一連の経過を報告した。
「スピード解決とは、さすがはエリーだ。まあ正確には恩田さんが罪を認めてくれたら本当の解決だけどね」
「警部は今回の江里口警視の捜査をどう思われますか? 何か気になることなど…」
「さあね。人様の仕事にケチつけられるほど私は偉くないさ。君こそどうなんだい? その口ぶりだとどこか疑問があるのかな。君は実際に捜査に参加したんだから疑問を挟む権利があるよ」
「いえ、その、疑問と申しますか、いくつか細かいことが気になって」
「刑事らしくなったじゃないか。例えば?」
「恩田さんの犯罪計画書によれば、遺体を発見した時にパソコンの電源ボタンの毒を拭き取ることになっていました。しかし実際には微量ですが検出されています。ただ単純に拭き忘れた、あるいは拭き残したということかもしれませんが」
「確かに計画書まで作って完全犯罪を企てた犯人としてはお粗末だね。でも人間ってそういうもんじゃないかな。多くの犯人がどこかでミスをするもんさ。被害者の携帯電話を抜き取ることに気を取られていたのかもしれないよ」
「あと、犯罪計画書を職場のパソコンで作っていたというのも気になります。いくら隠しファイルにしたって、職場のパソコンですから他の人間が触る可能性があるのに」
「実際不倫の写真は部下に見つかってたわけだしね。そうそう、間違って自宅に電話を掛けて奥さんに不倫がバレちゃったんでしょ? 恩田さんって人は案外オッチョコチョイなのかもしれないね」
「オッチョコチョイな人が完全犯罪ですか? そもそも当直室で殺人を犯す必要がないと私は思います。推理小説じゃないんですから」
「まあね」
そこで警部はコートのポケットからおしゃぶり昆布を取り出して口にくわえる。
「確かに大胆不敵な犯罪だ。君の気になる点もわかる。けどどれもエリーの推理を覆すほどの反証じゃないさ。そんなに気になるなら取り調べにも立ち会ってくればいい。今やってるんでしょ?」
「最初少しだけ見せてもらったんですが、彼女、完全否認なんですよ。動機も、状況証拠も、物的証拠まで揃ったのにまだ否認。これも私がモヤモヤする理由です」
「そう…」
警部は目を細める。もしかしてこの人なら何かを見抜いてくれるんじゃないかと期待したが…。
「どう思われますか? 警部なら捜査方針をどうされますか」
「わからんね」
低い声がつっけんどんに返す。そして昆布をコートのポケットに戻すと警部は大きく伸びをした。
「これはエリーのミットの事件、私は考えない。私は自分の担当の仕事しかしないよ」
昨夜烏龍茶を飲みながら江里口と交わした会話を思い出す。誠実さを信条としている彼ならきっと今の警部のようなセリフは口にしない。この人にはやっぱり…正義感なんてないのか? ふざけた気持ちでこの仕事をしているのか?
「そうですか」
それだけ答えて私は会話を終えた。
*
正午近くになった頃、何気なくポケットに手を入れてそこに入っている物を思い出す。蒲郡の名刺、江里口に渡してほしいと頼まれていたんだった。
「それは何だい?」
警部が久しぶりに口を開いて私の手にしている物を尋ねた。
「名刺です。事件の時お世話になった蒲郡さんの」
「警備員さんだったね。防犯カメラをチェックしてくれたり、優しい人なんだろう」
「はい。今朝も一人の先生から何かお礼を言われてました。蒲郡さんはもうお帰りだったので、他の警備員さんに言付けてたみたいでしたけど」
そういえば…と、私の心がにわかに波立つ。あの出崎とかいう軽薄な医者、「当直室の件で」って言ってなかったか? 当直室のことで蒲郡にお礼…いったい何だろう。事件とは関係ないのかもしれないがちょっと気になる。さっきはあいつのいやらしい視線にイライラしてあまり考えなかった。
「どうしたムーン、恐い顔して」
「いえ、たいしたことでは」
「そうかい? 何か気になるんなら確認した方がいい。さっきも言ったけど君は捜査に参加したんだから関わる権利が…いや、義務がある。たった一つの小さな情報で捜査がひっくり返ることもあるって君も知ってるでしょ。取り調べも難航してるみたいだし、君の動きがエリーの助けになるかもしれないよ」
「わかりました」
無駄骨には慣れている。私は名刺に記された蒲郡の番号に電話した。すぐに愛想のよい声が返される。私は改めて挨拶してから本題に入った。
「夜勤明けでお疲れのところすいません。一つ、確認よろしいですか。いえ、もしかしたらどうでもいいことなのかもしれませんが」
「何でもお尋ねください。私も早く事件が解決してほしいですからな」
「助かります。あの、出崎という先生がおっしゃっていたのですが…」
私がそのことを尋ねると蒲郡は少し困ったような反応を見せた。
「まいったなあ、出崎先生とは内緒にするって約束したんですが、でも捜査のためなら仕方ありませんな」
「お願いします」
「昨日のお昼、出崎先生から電話が掛かってきて一つ頼み事をされまして。先生は水曜日の夜の当直で昨日の朝お帰りになったのですが…。実はあの、当直の時に当直室のパソコンでエッチなサイトを見ていたと」
「ええ?」
予想外のワードに私は変な声を出してしまう。警部もちらりとこちらを見た。
「それで、パソコンからその閲覧履歴を消しておいてもらえないかと頼まれたんです。他の先生に知られたくないし、当直室を管理してるのは恩田さんですが女性だから頼みにくい、それで私にお願いしたいと」
「それでどうされたんですか?」
「頼まれたとおりにしましたよ。すぐ当直室へ行って履歴を消して差し上げました」
どうやって部屋の中に…と言いかけて私は黙る。そうだ、玲子も事情聴取の時に言っていたじゃないか。当直室は警備員の持っているマスターキーでも開け閉めできると!
「まああの先生はまだ若い、気持ちはわかりますからな。男と男の約束で内緒にしておいたんです。ハッハッハ」
楽しそうに笑う蒲郡。なんともしょうもない、しょうもないが…捜査の情報としては極めて重要だ。私は彼の笑い声を遮って質問を投げる。
「蒲郡さん、その時当直室のパソコンの電源は入れましたか?」
「え? そりゃ入れましたよ。入れないとインターネットの履歴も消せません」
「それをなさったのは昨日の何時頃ですか?」
「ええと、昼食の前でしたから正午くらいかと」
「その後で昼食は食べたんですか?」
彼からすればわけのわからない質問のラッシュだろう。戸惑いながらも彼は「食べましたよ、古女房の握ったおにぎりを」と答えた。
携帯電話を持つ手が震えだす。なんてことだ…昨日の正午、蒲郡は当直室に入ってパソコンの電源ボタンに触れている。もしその時点で毒が塗られていたのなら、当然彼の指先に付着し、その直後におにぎりを食べたのなら彼が中毒死してしまうはず。食べる前に手を洗ったとしても、全く体調に変化がないとは考えにくい。
ということはどうなる? 朝の清掃の時に毒が塗られたとする江里口の推理は根底から成立しなくなる。あの犯罪計画書の内容とも一致しなくなる!
「ありがとうございました!」
急いで通話を終えると私は変人上司に向き直る。警部は流し台でカップラーメンにポットのお湯を注いでいた。
「どうしたんだいムーン、血相変えて」
「警部、大変です!」
3
「そんなまさか」
取調室の隣の控室。その事実を伝えると江里口は激しい動揺を見せた。横で戸塚も言葉を失っている。
「じゃあ恩田玲子は…」
「犯人ではありません。少なくとも、警視の推理された方法での犯行は不可能です」
「だって、防犯カメラをチェックしてくれた蒲郡さん本人が言ったんだぞ。昨日の日中、誰も当直室を出入りしなかったって」
「いえ、蒲郡さんは『誰も怪しい人は侵入しなかった』とおっしゃったんです。彼自身が出入りして防犯カメラにその姿が写っていたとしても、わざわざそんな当たり前のことを報告しなかったんですよ」
私の言葉に江里口の身体がプルプル震えている。蒲郡への怒り? いや、そうじゃない。きっとこの人は自分自身に怒っているのだ。自分自身の目で防犯カメラをチェックしなかったことを。そこで恐る恐る戸塚が問う。
「では警視、蒲郡が毒を塗ったってことですか? 正午に当直室に入ったその時に」
「何を言ってるんだ。彼が当直室に入ったのはたまたま出崎先生に頼まれたからです。そんな偶然を…予測できたはずがないじゃないですか!」
「江里口くん、いいかい?」
低い声が割り込む。私の後ろで黙っていた警部が口を開いたのだ。
「これは君のミットの事件だ。だから本来私たちが口を出すべきではないのはわかってる。でも捜査に参加したムーンが入手した情報だ。それは君に報告する義務がある。内容が重大なので私もムーンの上司として同席させてもらった」
江里口が綺麗な瞳を濁らせ、憎悪を込めたあの目で警部を見た。
「ふざけた格好をして偉そうなことを言うな!」
「今は私の格好なんて関係ない。それより、もう恩田さんを逮捕したのかい?」
悔しそうに口をつぐんだ彼に代わって戸塚が答える。
「まだです、カイカン警部。彼女は全てを否認していましたから俺たちも慎重になっていたので」
「それならよかった。これで誤認逮捕は避けられそうだね。じゃあ後のことは君たちに任せるから。行こう、ムーン」
警部は踵を返すとあっさり部屋を出ようとした。しかしそれを呼び止めたのは他でもない…江里口の声だった。
「待て、待ってください。パソコンの電源ボタンに毒を塗ると言う方法が違っていたんなら、いったい誰がどうやって被害者を毒殺できるんです?」
警部はドアの方を向いたまま動かない。
「僕には他の方法があるなんて思えないんです。頼む、君の…君の考えを聞かせてほしい」
気付けば江里口の瞳から憎しみは消え、むしろ今はすがるような目で警部を見ている。
「フフフ…」
狭い室内に不気味な笑い声が響いた。
「なんだか懐かしいねえ。昔は君ともよく意見を戦わせたっけ。教官から出された課題の事件について、ああでもないこうでもないって」
警部がゆっくり振り返る。前髪に隠れていない左目が優しく江里口を見た。
「君が相談してくれるならいくらでも協力するよ」
4
ひとまず恩田玲子の取り調べは終了、彼女は丁重に解放された。
さて、協力すると宣言した警部だが、いくら天才気取りのこの人でもいきなり真相を見抜けるわけではない。何かわかったら連絡すると約束して警部と私はいつもの部屋に戻ることにした。
「よろしかったんですか? 担当の仕事しかしないとおっしゃってたじゃないですか」
廊下を歩きながら私が尋ねた。
「基本的にはね。でもお願いされればできる範囲で手伝いはするよ。それにしてもエリーが私に頼むとは、よっぽどショックだったんだろうなあ。確かに蒲郡さんの証言が出なければ私だって恩田さんを疑ったかもしれない」
「しかし警部、彼女が犯人ではなかったとするとあの犯罪計画書は…」
「そう、それだ」
警部が右手の人差し指を立てる。
「あれは偽物ってことになる。真犯人は土橋先生を殺害するだけでは飽き足らず、その罪を恩田さんに着せようとしたんだ」
「二人を恨んでいる人間が真犯人ということですか。しかし警部、真犯人はどうやって土橋先生を毒殺したんでしょう。先ほど江里口警視も悩んでおられましたが、これが最大の謎です」
「そうだね。まあ腹が減っては推理はできぬ、まずは腹ごしらえといこう」
ちょうど部屋に帰り着いたので私がドアを開ける。
「やあお帰り」
ビンさんの声に迎えられた。頭に白髪の混じったミットの長は奥のデスクで微笑んでいる。自由人のこの人は基本的に捜査は警部と私に任せ、自分はのんびり過去の未解決事件の捜査資料を読み返したり、その関係者を回ったりしている。だから部屋にいたりいなかったりするのだ。
「お疲れ様です、ビンさん。何か捜査の割り振りは来ましたか?」
警部が会釈して言った。
「いや、何も来てない。平和なもんさ。でもお前たちは忙しそうだな」
「はい、江里口警視のミットから捜査協力を頼まれまして」
そう言いながら警部は流し台に向かう。するとポットの横には全く同じ銘柄のカップラーメンが二つ並んでいる。「あれ?」と戸惑う警部にビンさんが笑った。
「やっぱりお前のラーメンだったのか、カイカン。僕も全く同じのを持ってきていてね、今お湯を入れたところだ」
「そうだったんですか。いやあ、おいしいですよね、このタンドリー味のラーメン。そうそうビンさん、3分ピッタリよりも2分30秒で食べた方がおいしいんですよ」
「そうなのか。今1分30秒だからあと1分で食べごろだな」
やれやれ、事件は暗中模索なのにのん気な会話だこと。するとコピー機がガガガと独特な音を立てて動き出した。これは…FAXが届いた時の音。何枚か取り出し口に吐き出されている。音が止まってから私はそこに手をやって溜まっている紙束を掴んだ。
「FAXかい? ごめんムーン、さっき僕が印刷した紙がそのままだった。きっと一番下に混ざっているね」
ビンさんが言った。私は紙の束の底の二枚を抜いて手渡す。
「こちらの二枚ですね?」
「助かったよ、ありがとう」
そして手元に残った紙束を見ると例の事件の捜査資料だった。
「警部、江里口警視からFAXです。捜査資料をまとめた物のコピーですね」
「わざわざFAXで送らなくても届けてくれればいいのに」
警部はカップラーメンを一つ持ってデスクに着く。
「問題の犯罪計画書のコピーもあるかい?」
「ええと…ありますね。はい、こちらです」
手渡すと、警部はそれに目を通しながらまたおしゃぶり昆布を口にくわえた。モグモグと口先で昆布を動かしていたが…ふいにその動きが止まる。左目も紙の一点を注視している。何か…ヒントを見つけたのだろうか?
やがて警部は黙って紙をデスクに置き、カップラーメンのフタを開いた。
「そういえばムーン、さっきどうしてビンさんが印刷した紙が二枚だってわかったの? 届いたFAXと一緒になってたのに、内容を見ずに渡してたよね」
「それはわかりますよ。警部こそ、同じカップラーメンが二つ並んでてどうしてそれがご自分のだってわかるんですか?」
「ハッハッハ」
そこでビンさんが大きく笑った。ミットの長は2分30秒のラーメンを味わうべく流し台に向かっている。
「カイカンもムーンもお互い面白い所に疑問を持つんだな。よく考えてみろ、答えはおんなじだぞ」
どういう意味だろう…と私は戸惑ったが警部は何も反応しない。見ると言葉を止めて黙っている。いや、止まったのは言葉だけではない。蝋人形になったかのように警部の全身はそのままの体勢で完全に固まっていた。
…来た。これはこの人の頭脳が着火したサイン。今警部の頭の中ではお湯を注がれたカップラーメンのごとく、乾いた謎が熱を帯びてどんどん真実へと向かって調理されているはずだ。いつもながら何がきっかけになったのかさっぱりわからない。でもこうなると部下としてはクッキングタイムが終わるのをただひたすらに待つしかない。食べごろは3分ジャストか、2分30秒か、どっちでもいいけど待つ身としては果てしなく長い。
「ムーン」
やがて警部が言った。固まっていた体も動き出す。その向こうではビンさんが気に留めた様子もなくおいしそうにラーメンを啜っている。
「はい」
私は緊張して答える。調理…いや推理は完成したのだろうか?
「江里口警視に連絡してくれ」
低くて重たい声が告げた。
「真犯人がどうやって毒を飲ませたのかわかった」
次の瞬間、おしゃぶり昆布は警部の口の中へ吸い込まれていった。
★読者への挑戦状
ビンさんのヒントをきっかけにカイカンは事件の真相を見抜いたようです。
はたして、真犯人が土橋幸一を毒殺したトリックはいかなるものか?
次章へ進む前に、ぜひ3分間、頭の中で謎解きパズルをお楽しみください。