●永前誠
病院からパトカーで連行され、俺は警視庁の取調室に座らせられた。そして厳しい事情聴取…今日一日のことを細かく尋問された。それがようやく終わったのが午後10時過ぎ。無罪放免になったわけじゃなく、未だ取調室で待機を指示されている。
色々訊かれたけど正直何を話したかもよく憶えてない。彼女が逝ってしまった…そのことだけがずっと頭の中を占有してる。呆然というのか困惑というのか…まるで空回りしてるCDみたいに、悔しいくらい何も気持ちが流れない。涙の一滴も出て木やしない。俺はただ心も体も脱力し、硬い椅子にもたれていた。
「しらべちゃん…」
ポツリと呟いてみる。左頬が今頃になって痛み出す。
彼女が横たわる病室に飛び込んできた母親…泣き叫びながら何度もその体を揺さぶった。そして怒りと憎しみに満ちた瞳で俺に詰め寄り、言葉を探す時間も与えず平手打ち。さらに立ち尽くすしかない俺に「この人殺し!」「ろくでなし!」と何度も罵声を浴びせた。医者と看護師によって俺はその部屋から引きずり出され、おそらく病院が通報したんだろう、制服警官が到着した。
「人殺し、人殺し…」
声に出して言ってみる。そう、紛れもなく俺は人殺しだ。役立たずのくせに人助けなんかしようとするからこんなことになるんだ。
「人殺し、人殺し、人殺し…」
壊れたCDみたいにくり返した時、トントンと正面のドアがノックされた。
*
返事をする気も起きず無言でいると、数秒待ってから「失礼します」と低い声が入ってくる。さっき事情聴取をした刑事じゃない。視線を上げると、屋内だってのにボロボロのコートにハット姿の男が立ってた。
「どうも、警視庁のカイカンといいます」
その異様な名前も風貌も本来なら疑問をぶつけたいとこだけど…今そんな気力はない。そんなことどうでもいい。
続いてカイカンの後ろからもう一人、「失礼します」と入ってくる。今度は知ってる顔…昼間に俺の部屋に訪ねて来た女刑事だ、確かムーンとかいう。そのままカイカンの横に立つと、厳しい眼差しで俺を見た。無理もないか、あの時騙したわけだから。
ここにも俺を憎む人間が一人…本当に最低だな、俺は。役立たずどころかいない方がいいろくでなしにまで成り下がっちまった。
「永前誠さんですね。日中は部下がお世話になりました」
そう挨拶しながら机を挟んだ正面に腰を下ろすカイカン。その隣にも椅子はあったが、女刑事は立ったままだった。
「事情聴取に立ち会えなくてすいません。先にムーンと病院の方へ行っていたので」
俺は無反応。数秒の沈黙。そして…。
「お気持ちはお察しします」
狭い室内によく通る声が響いた。それでも黙ったままの俺に、カイカンはさらに「悔やんでおられますか?」と尋ねる。
「そうっすね」
ようやく小さく返す。
「さっさと病院に連れ帰ってたら、こんなことには」
今更無意味な言葉だった。それには答えず目の前の刑事は言う。
「凪野しらべさんがずっと一つの曲を探しておられたのはご存知ですね。いくつもレコードショップを回って、それでも見つからなくて…。でもあなたに巡り会えた。その曲のことを知っているあなたに。まるで奇跡です」
「奇跡なんかじゃ…ありません。たまたま俺が口ずさんでたのを彼女が聴いただけです」
「ナルホド」
独特のイントネーションでカイカンは頷く。
「出会いのきっかけは、そういうことでしたか。すごい偶然ですね」
「ひどい偶然ですよ、最低最悪な」
「ご自分を責めておられますね」
刑事は長い前髪に隠れてない左目でこちらをじっと見る。そしてコートのポケットからあの『夕焼けの丘』のCDケースを取り出した。
「あなたの車の助手席に落ちていました。これがしらべさんがずっと探していた曲ですね。私も聴かせて頂きましたが…素直に良い曲だと感じましたよ」
そんな話どうでもいい。慰めようとしてくれてるんなら余計なお世話だ。軽蔑して怒鳴りつけてくれた方がまだいいくらいだ。
俺の苛立ちにはお構いなしに、ケースが開かれる。中から一枚の紙が取り出された。
「これ、しらべさんからの手紙です。ベビーズブレスの前でピエロからもらったチラシの裏に書いた物です」
…え?
「おそらくあなたのアパートで、隣の部屋に隠れていた時に書いて入れておいたんでしょうね…もしもの時のために。お母さんに宛てたものですが、あなたのことも書いてあります」
しらべちゃんが…手紙を?
「お母さん、勝手なことをして本当にごめんなさい」
カイカンは優しい声になってゆっくりと朗読を始めた。
「でもどうしても、一日だけでも自由に生きてみたかったんです。あの日ラジオから流れてきたあの曲を、どうしても自分で探したかったんです」
胸の奥がじんわりと熱くなる。涙も滲んできた。全く声質が違うのに、刑事の低い声に彼女のあどけない声が重なって聞こえる。
「それでね、見つかったんだよお母さん。永前くんっていうとっても親切な人に出会えて、CDを聴かせてもらったの。
信じられる? ずっとずっと探してたあの曲を聴けたんだよ!
だからねお母さん、もし私に何かあっても、絶対に永前くんを叱らないで。全部私がお願いしたことなんだから。永前くんはそれを聞いてくれただけなの。永前くんのおかげで、とっても嬉しかったんだから」
膝の上で拳を強く握る。視界がぼやけて喉が痛くなる。しらべちゃん…。
「お母さん、親孝行できなくてごめんなさい。いつも看病ありがとう。お母さんの娘に生まれてよかったです。
なんてね。ではでは、これから永前くんと夕焼けの丘までドライブしてきます。
…凪野しらべ」
「う、う、うう…」
言葉にならない声が漏れる。涙も止まらない。カイカンは手紙をそっとたたむと、穏やかに言った。
「長い入院生活、くり返される発作の中で…しらべさんは自分の最期を感じ取っていたのかもしれませんね。だから危険も承知で病院を飛び出した。でもそのおかげであなたに出会えた。とても…感謝されてると思いますよ」
「感謝されるようなことはしてねえ!」
声を荒げた。
「俺がもっとしっかりしてれば…いや、そもそも俺なんかに、俺なんかに会わなければ」
喉が詰まる。そうだ、こんな最低野郎に会わなければしらべちゃんは…。クソ、クソ、クソ! どうして俺はいつもこうなんだ。どうしてすぐ病院に戻るように言わなかったんだ。
君と過ごすのが楽しくて、嬉しくて…。ごめんよ、しらべちゃん。ごめんよ。君に感謝される資格なんて、俺にはない。
「俺は…俺は…」
「今日のことだけではありません」
低い声は暖かく俺の嘆きを遮る。
「実はこのCDケースの歌詞カードにステッカーが挟まっていたんです。…ご記憶ですか?」
刑事はケースからそれを取り出して俺に手渡す。これ、確か…。
「これが何です? 昔俺が聴いてた横浜のラジオ番組の景品です。ハガキが読まれたらもらえる」
「そうです。ステッカーの裏にも書いてありますね。『ドリームドクターさん、いつもリクエストありがとう』と。このドリームドクターというのがあなたのペンネームですか?」
「ええ」
そういえば昔ラジオに『夕焼けの丘』をリクエストした時、そんな名前にしたっけ。もらったステッカーを歌詞カードに挟んでたなんてすっかり忘れてた。
「お母さんから伺ったんですけどね、しらべさんが初めてラジオで『夕焼けの丘』を聴いた時、曲名や歌手名は聞き逃してしまった。でも、曲の最後のDJの言葉だけは憶えていたそうです。
それは…『ドリームドクターさん、リクエストありがとうございました』」
まさか、まさかそんな。
「そうなんです。彼女の心をずっと支えてくれたこの曲をリクエストしたのも…永前さん、あなただったんですよ。きっと彼女もステッカーを見つけてそのことに気付いたんだと思います」
…「今までありがとう、永前くん」
助手席で呟いた最後の言葉が聞えてくる。そんな…。
「信じてあげてください、しらべさんはあなたに感謝されていますよ。それに…お母さんも」
「どういうことですか?」
「実はこの手紙、先にお母さんに見せたんですが、そうしたらあなたにも見せてくれって言付かったんです。そして…ありがとうございましたと伝えてほしいと」
「う、うう、ううう…」
胸が焼けるように熱い。唇を噛んで抑えようとしたけど、俺はたまらず声を上げた。
「わあああ!」
押し込んでいた感情が暴れだす。悔しいのか、悲しいのか、それともほっとしたのか、嬉しいのか…とにかくそれはどうしようもない爆発だった。俺はみっともなく声を上げて泣く。
「わああああ…」
机に顔を伏せた。額がぶつかって鈍い音を立てる。すると、ずっと黙ってた女刑事がツカツカと俺に歩み寄る。そしてそっと手にハンカチを握らせてくれた。
「ご苦労様でした」
静かにそう言うと、彼女は部屋を出ていく。残されたカイカンはもう何も語らず、ただ泣き続ける俺を見ていた。
●ムーン
永前の聴取に立ち会う資格がない気がして、私は取調室を出た。いつもの部屋に戻ると、警部がよく使っている壁際のソファに座ってみる。
「はあ…」
思わず溜め息。
彼は…悪人ではなかった。それどころか、凪野しらべにとっては救世主に値したのかもしれない。病院の霊安室で初めて対面した彼女はとても安らかな顔をしていた。
でも…。
私はどうすればよかったのだろう。警部の言うように最初から捜索などするべきではなかったのか。それともアパートを訪ねた時にトリックを見破って、力ずくでも彼女を病院に連れ帰るべきだったのか。
…わからない。わからなくなってしまった。
もちろん満足感ではなく、かといって喪失感とも言い切れない疲労に包まれながら、私は部屋の照明を点けるのも忘れて考え続けていた。
*
パチン、と急に部屋が明るくなる。
「どうしたんだい、真っ暗な中で」
そう言って警部が入ってきた。私は「失礼しました」と慌てて腰を上げる。
「永前さんの聴取は終わったんですか?」
「一応ね。まあしらべさんのお母さんの口添えもあるから、彼が罪に問われることはないさ。もうじき永前さんのお父さんが迎えに来て、一緒に帰ってもらうことになりそうだ」
「そう…ですか」
力なく答える。
「今日は一日走り回って大変だったね、お疲れ様。晩ごはん…というよりお昼ごはんだってまだでしょ?」
「私が勝手にしたことですから。それより、質問してもよろしいですか?」
「どうぞ」
上司はそのまま窓辺に寄り、淀んだ灰色の夜空を見る。その背中に私は尋ねた。
「警部はどうしてしらべさんを保護しようとなさらなかったんですか?」
沈黙。
「私がお尋ねしているのは、 捜索願を受理していないとか、受理しても特異行方不明者に当たらないとか、そういったルールのことではありません。何と言いますか、その、警部のお気持ちとして…保護を拒んでおられるご様子でしたので」
別に責めるつもりではない。保護してもしなくても結果は同じだったかもしれない。それでも訊かずにはいられなかった。
…返されるのはやはり沈黙。室内に蛍光灯のジリジリという音と壁の時計のチクチクという音が際立つ。
もしかして…迷っているのだろうか。不思議だ。優秀な頭脳を持ちながら異様な格好に身を包んだその姿が、今はとても人間らしく見える。
この人はこの人なりに…この矛盾した姿に落ち着くしかない理由があったのかもしれない。いや、きっとあったに違いない。そしてその矛盾に対する葛藤は、今もその心の深部に存在し続けている。
「そうだね」
数分おいてからようやく口が開かれた。
「確かに…無理をせずに病室にいたら、しらべさんはもっと生きられたのかもしれない。でもそうすれば今日のような感動は一生なかったんじゃないかな」
振り返らずに低い声は話す。
「どっちの人生が幸福かなんて…私にはわからない。刑事は捜査の専門家だけど、生き方の専門家じゃないからね」
どこか寂しそうな語り口。私はその一言一言を噛みしめる。
警部の言うとおりかもしれない。安全や健康はわかりやすい指標ではあるけれど、それだけで測れるほど幸福とは単純なものではない。
「そもそもこの世に生き方の専門家なんていない。だから…本人が選ぶしかないんだ。命を優先するのか、心を優先するのか。生き方を自分で選ぶこと、それが人間の誇りだからね」
「ですが警部」
思わず反論を挟む。
「何が幸福かはその人にしか決められません。生き方を選ぶのもその人の権利だと思います。でも…やはり命があってこその幸福ではないでしょうか。命があるから心があって、心があるから幸福を感じることができるのではありませんか?
入院生活だったとしても、生きてさえいれば、幸福はまた見つけられます」
警部は小さく「うん」と頷く。私は続けた。
「しらべさんだって、もし永前さんに出会えなければ、探していた曲にも出会えずにただ命を落としただけかもしれません。それでも彼女は後悔しなかったでしょうか」
「わかってる。しらべさんのしたことは無鉄砲だし、たくさんの人に迷惑をかける行為だ。でも私は…できるだけその我儘を許してあげたいって思ったんだよ」
「何故です?」
警部はゆっくりこちらを振り返った。
「私も許されてる人間だからさ。だからきっとしらべさんもみんなに感謝してると思うよ。永前さんにも、お母さんにも、病院の先生や看護師さんにも。そしてもちろん…君にもね」
「そんな…」
昼間に私が305号室を調べていた時、隣室で息を潜めながら彼女は何を思っていたのだろう。母親が自分を案じて警察に相談したことを知りながら、それでも姿を見せようとはしなかった…それが彼女の選んだ生き方だったのか。
生き方を選ぶ誇り。もう一度自分の胸に問い掛けてみる。
それは尊い。でも…誇りよりも生きることにしがみついてこそたどり着ける未来もあるのではないか? 心を殺してでも命を生かすべきではないか?
警部の考えは理解できる。けっして間違ってはいない。それを裏打ちする経験もあるのだろう。でも私にはその逆を真とする経験がある。そう、あの時…女としての誇りを捨てなければ私は生きてはいけなかった。心より命を優先したからこそ、私は今ここにいて、貴い時間を得ているのだ。
「警部」
私の足は一歩踏み出し、私の口は正直に伝えた。
「すいません。やはり私は…どんな時でも命を守るべきだと思います。刑事としてまだ経験も能力も乏しい私ですが、今はこれが私の考えです」
そっと微笑みが返される。
「うん…わかったよ、ありがとうムーン」
警部はそれ以上の言葉を止めた。そして再び窓の方を向く。私も黙って自分のデスクに戻る。
ふと見ると変人上司のデスクには、昼食用のハンバーガーが手付かずで置かれていた。