第四章 隠れて

●永前誠

 横浜方面に走る車中、カーステレオにはずっとあの曲が流れてる。通り過ぎていく景色…道も空も風も海もまるで歌詞そのままに、全てはオレンジ色に染まっていた。
「大丈夫? 車酔いしてない?」
「うん、平気」
 横目で見ると、助手席の彼女は淡い夕焼けに包まれながら、CDケースを胸に抱いてまっすぐに進行方向を見つめてる。そして時々小さく曲に合わせて歌を口ずさんだ。
「ちょっと道が込んでるけど、日が暮れるまでには着くと思う」
「うん。…こんなに綺麗な夕焼け見たの初めて」
 そういうもんかな。確かに空は大きなスクリーンみたいに染み一つなく、遠くに見える海も星屑を浮かべたみたいにキラキラ輝いてるけど…俺には特段綺麗には思えない。ずっと病室にいた彼女にとっては、こんな世界でも美しく見えるのだろうか。ハンドルを握る手を俺は少しだけ緩める。
「よかった、勇気出して飛び出してみて。世界はこんなに広いんだね」
 俺はそんなふうに感じたことはない。この世界は狭くて退屈で…どこにも居場所なんかないと思ってたから。いつの間にか、そう思い込んでたから。
 …会えてよかった、君に。
 心の中で伝える。ただの暇潰しのつもりだったけど、俺は今とても幸福な時間を与えられている。
「永前くんのおかげで、今日は本当にいい日になったよ」
 少し沈黙を挟んでから告げられる。
「しらべちゃん、今日だけって言わずにこれからも仲良くしようぜ」
「え?」
「友達になろうぜ。そう、距離を縮めるって意味のClose。今度お見舞いも行くからさ。すずらん医大病院だったよね。差し入れは何がいい?」
「ありがとう…でも、ごめんね。なんだか…」
 急に声が小さくなった。
「そ、そっちの意味じゃない…みたい」
 助手席を見ると、彼女は涙を流して俯いてる。CDケースごと胸を強く押さえてる。
「おい、どうしたんだよ!」
「違うからね。ハア、ハア」
 呼吸が荒い。一番最初に会った時の苦しそうだった姿がフラッシュバックする。
「わ、私、嬉しくて泣いてるんだからね」
 息が詰まって声はどんどん弱くなる。俺は慌てて車を路肩に停めた。
「おい、しっかりしろって! すぐ病院へ連れてくから」
「ここでcloseかな。わ、私の人生は」
「何言ってんだよ!」
「今までありがとう、永前くん」
「しらべちゃん! おい、嘘だろ、平気だって言ってたじゃん!」
「じゃんって言ってるじゃん、フフフ。でもね、もう…」
 ダメみたい、と囁いた瞬間…CDケースが落ちた。

●ムーン

 ベビーズブレスの屋外駐車場。日没間近の夕闇の中で警部の謎解きが始まる。
「いいかいムーン? つまりこういうことだよ。確かにしらべさんは永前さんの住む305号室にいた。隠れていたんだ」
「しかし」
 当然私は反論する。
「部屋の中はそれこそ穴が空くほど見ましたけど、人が隠れられる空間はありませんでした」
「その部屋の中にはね」
 また右手の人差し指が立てられる。
「実はもう一部屋あったのさ」
「305号室の他にも永前さんが部屋を借りていたとおっしゃるんですか? 大家さんはそんなことは一言も」
「そうじゃない。305号室の中にもう一つ部屋があったんだ。しらべさんはそこに身を隠していた」
「そんな、確かにワンルームでしたよ。右の壁のドアの先はバスルームでしたけど、そこもちゃんと調べました」
 チェックに抜かりはないはずだ。しかし低い声は指摘する。
「問題は左の壁のドアさ」
「あれは収納のドアですよ」
「いや、実は隣室へつながるドアだったんだ」
 わけがわからない。私は改めて報告する。
「ちゃんとドアを開けて確認しました。間違いなく収納でした。奥行きは50センチくらいで、そこに衣類や小物が置いてありましたから」
「ドアのサイズにぴったり合う、奥行き50センチの棚を向こう側からはめ込んでいたのさ」
 衝撃の見解。低い声はなおも続く。
「こうすればドアを開けても収納に見せかけられる。その棚の向こうに部屋があるなんて思わないよ」
 まさか! 反射的に言い返しそうになるのをぐっとこらえて考える。落ち着け、冷静になれ。確かに、私が見たのがドアにはめ込まれた棚だった可能性もなくはない。しかし…。
「警部、私は抜き打ちで訪問したんですよ。チャイムを鳴らしてから彼が玄関に出てくるまで長く見積もっても七、八分でした。そんな短時間で…」
「単純な仕掛けだよ。棚を動かすだけなんだから、数分あればできる」
「いえいえ、仕掛けを思い付くための時間が必要です。それにちょうどぴったりはまる棚が隣室にたまたまあったなんて、都合が良過ぎます」
「もちろん突然アイデアがひらめいたわけでも、偶然そんな棚があったわけでもない。普段からそうやって利用していたんだ…隣室の存在を隠すためにね」
 ますますわけがわからない。
「どうして隠すんです? いい大人が隠し部屋で忍者ごっこですか?」
「その部屋にテレビが置いてあるからさ。永前さんはテレビを持っていないように装ってたんだ」
「ですから、どうしてテレビを持っていることを隠すんですか?」
「フフフ…持っていたら支払わなくちゃいけないからね」
 不気味に笑う警部。その瞬間、私はアパートの廊下で出会ったスーツ姿の女性を思い出した。そうか、そういうことか。
「つまり…受信料を払わないためだったと?」
「そう。いくらアパートの共同アンテナで有料放送を受診したとしても、さすがにテレビを持っていない住人にまで支払わせるわけにはいかないからね。
 取り立ての人が来たら、永前さんは室内にテレビがないことを見せて、支払いから逃げていたんだよ。収納にカムフラージュするための棚は、もともとそのために用意されていたんだ」
 なんてことだ。確かにこのトリックを使えば、テレビを置いていないワンルームに見せかけることができるだろう。
「もちろん他の住人の部屋と比較されたら間取りが違うのはすぐバレちゃうけどね。でも普通は玄関先で支払うから、取り立ての人に部屋の間取りを見せる可能性は低い。まあ仕送りで暮らす浪人生の、涙ぐましい生活の知恵ってところかな」
「ただのズルの悪知恵ですよ」
 そう返しながら考える。警部の推理は一応筋が通っている。あのアパートの向かいに家具屋もあったから手ごろな棚を入手することもできただろう。しかし…いかんせん推測の域を出ていない気がする。不動産屋に確認したわけでもないのに、警部はどうしてもう一つの部屋が存在すると言い切れるのか。私はその疑問をぶつけてみた。
「それはね、トンボだよ」
 先ほどトンボがとまったハットを左手で触りながら最後の解説が始まる。
「君が永前さんの部屋を訪ねた時、ソファに置かれた毛布の間からトンボが二匹飛び出した。部屋には出窓があったけど開くのは数センチ。そこからトンボが二匹も入ってきて、しかも揃って毛布の間に入り込むなんて有り得ないよ」
「ではどうして…」
「簡単なことさ。外に毛布を干した時にトンボが貼り付いて、そのまま取り込んでしまったのさ。ということは、305号室には毛布を干せるだけの大きな窓、あるいはベランダがあるってこと。つまり…」
「もう一部屋ある、ということですね」
 私がそう言うと警部は「そのとおり」と立てていた指をパチンと鳴らした。まさかあのトンボがヒントになるなんて。毎度ながらこの人の推理力は計り知れない。納得するしかない結論だった。
 おそらく永前は寝床がない不自然さを誤魔化すために、干していた毛布を慌ててソファに置いたのだろう。しかしそのことが逆にトリックを露呈させてしまった。
 待てよ、ということは…彼女は今もあのアパートに?
「行きましょう!」
 私はまた警部を助手席に押し込むと、急いで愛車を発進させた。

 パールトミタの前に到着。太陽は完全にその身を隠し、辺りは夜に包まれていた。私は遺産で車を出たが、警部はやはり動こうとしない。
「行きましょう、警部」
「ムーン、私たちにそこまでする権利はないよ」
「でも、彼はしらべさんが部屋にいることを警察に隠したんですよ?」
「それが犯罪とは限らないさ。しらべさん自身が望んだことかもしれない。
 世の中には自分を探してほしくない人もいる。だから本人が望めば警察が捜索願を受理できなくなる制度もあるんだ」
「知っています、捜索願不受理届です。しかししらべさんがそれを提出しているわけではありません」
「心情は似たようなものかもしれないって言ってるんだ」
 だとしても彼女には心臓の病がある。命の危険がある。それにずっと病院暮らしで世間知らず…軽薄な男に騙されているのかもしれない。取り返しのつかないことになるかもしれない。そう、今まさにこの瞬間にも…!
 結局昼間と同じ平行線の議論。私はくり返し保護の必要性を訴えたが警部は偉そうな屁理屈ばかり。
「警部だって母親や主治医に会いに行かれたじゃないですか。しらべさんを心配されてるんですよね? でしたら早く…」
「私が情報を集めたのは、いざという時のためさ。彼女からSOSがあった時、警察がすぐに動けるようにね」
「SOSできない状況かもしれないじゃないですか! もういいです、私は…行きます」
 背を向けて走り出す。低い声は何も投げかけてこなかった。

 チャイムを何度鳴らしても応答がなかったので、また最上階の大家を訪ねる。そして事情を説明した上で合鍵を預かり再び305号室前に戻った。
「永前さん、失礼しますよ、警察です」
 鍵を開けて中に入ると室内は暗い。照明を点けて先ほどの部屋に進むが誰もいない。私は迷わず左の壁のドアを開ける。警部の推理どおり、そこはもう一つの部屋だった。
「凪野さん、凪野しらべさん、いらっしゃいますか?」
 呼びかけながらその部屋の照明も点ける。室内にはテレビ、ラジカセ、ベッド、そして収納としてドアにはめ込まれていた棚もあった。奥には小さなベランダも見える。しかし…人間の姿はどこにもない。
 そのまま8畳ほどの室内を探索する。そして絨毯の床に長い黒髪が落ちているのを発見した。
 間違いない…彼女はここにいたのだ。では今はどこに? まさか永前に拉致されて別の場所に?

 急いで外に戻ると、警部が車のそばに立っていた。この辺りは外套も少ない。夜の中に佇む上司の表情は、ハットと前髪に隠されて全くわからない。
「あの、警部」
 報告しようとした私より先に、重たい声が言った。
「今…病院の先生から連絡が合ったよ」
「え?」
「永前さんが病院に駆け込んだそうだよ」
 そしてその声は続けた…「心肺停止状態のしらべさんを抱えて」と。