第三章 助けて

●永前誠

「見つかるかと思ってドキドキしたね、フフフ」
 片手にスニーカーを持った彼女が、悪戯っ子の笑みで姿を見せた。
「すごいよ永前くん、この仕掛け」
「そんなことねえって。それよりしらべちゃん、いいの? お母さん心配してるみたいだぜ。さっきの刑事さんも一生懸命だったし」
 一瞬申し訳なさを過らせたけど、その顔はすぐに晴れやかになる。
「平気、お母さんには後でしっかり説明するから。あの曲の舞台になった丘を見たら、ちゃんと病院に戻るから」
 正直なところ、俺はだんだん不安になってきてた。警察が動いてることもそうだけど、それ以上に彼女の健康状態のことが。
「体調は本当に大丈夫なのかよ」
「うん、自分の体は自分が一番よくわかってる。だからお願い。一生に一度の我儘だと思って、私を夕焼けの丘に連れてって!」
 二つの茶色がかった瞳に迷いはない。彼女の頭上をさっき毛布から出てきたトンボが通過する。
「ほら、トンボさんが飛んでるよ。あの曲の歌詞にもトンボさんが出てくるもんね。これはもう神様が行けって言ってるんだよ」
「そう…かな」
「そうそう。大丈夫だって、私、神様に気に入られてるから」
 まっすぐで、可憐で、儚い笑み。俺も合わせて頬を緩める。
「わかった、連れて行ってやるよ」
「ありがとう! 明日からは真面目にまた患者さんするからね」
 俺も明日からまた不真面目な役立たずに戻る。今日はきっと俺にとっても一生に一度の人助けの日なんだ。

 アパートの周囲に女刑事がいないのを確認して、裏の駐車場へ移動。そして素早く愛車の四駆のそばまで来る。
「フフフ、なんだか忍者みたい」
「のん気だなあ。ほら、乗って」
 助手席のドアを開く俺。
「車高が高いから気を付けてね。足、上がるかな」
「うん、大丈夫。あ、でもスカートだからちょっとあっち向いてて」
 俺はプッと吹き出す。
「もう、なに笑ってんのよ」
「ごめんごめん、やっぱ女の子なんだなあと思って。はい、向きました」
「どういう意味よ。よいしょっと。うわあ、すっごい、すっごいよ永前くん」
 視線を戻すと彼女は宇宙船にでも乗ったみたいに車内を見回してる。
「すごくねえって。ボンボンの馬鹿息子が親父にせがんで買ってもらった車さ」
「車じゃなくて、永前くんがだよ。運転できるなんてすごい」
「別に…。じゃあドア閉めるから」
「ありがとう。あ、閉めるはclose、closeには近付くとか親密になるとかの意味もあるんだよね」
 さっきの女刑事とのやりとりが聞こえてたらしい。
「いいなあ、大学受験か。私も英会話を勉強してみようかな」
「閉めるぜ、気を付けて」
 顔を見ずにドアを閉めると、俺は後ろから回って運転席に乗り込んだ。
「お嬢様、シートベルトはよろしいですか?」
「バッチリじゃ」
「では、出発3秒前。スリー、ツー、ワン…」
 今は今だけを考えよう。彼女の今日が少しでも楽しくなるように。
「スタート!」
 とびっきりの明るさで俺はアクセルを踏み込んだ。

●ムーン

 その後も新宿や四ツ谷の界隈を巡回してみたが、この大都会でひょっこり凪野しらべを見掛けるなんてことは当然ない。成果の上がらないドライブに見切りをつけた私は、ひとまず警視庁へ帰巣する。いつもの部屋に戻ると、警部は自分のデスクにいて、その口にはおしゃぶり昆布。後ろの窓に広がる秋空はほのかにオレンジ色を帯び、流れ込む陽光が室内の物陰に濃いコントラストをペイントし始めていた。
「やあムーン」
 低い声が言った。ただそれ以上の言葉は続かない。バツが悪かったが、頭を下げることにする。
「警部、勝手をしてすいませんでした。ただ今戻りました」
「見つかったのかい? しらべさん」
 咎めではなく問い掛け。私は顔を上げた。
「いえ…」
 タクシーの運転手、レコードショップの店員、ビラ配りのピエロ、タバコ屋の老店主、アパートの大家と辿って、永前誠という男の部屋まで行き着いた経緯、しかしそこに彼女はいなかったという結果を報告する。
「レコードショップ…」
 聞き終えた変人上司は、昆布をタバコのように指に挟むとそう呟いた。
「レコードショップがどうかされましたか?」
「いや、実はさっきすずらん医大病院まで行って、しらべさんのお母さんに会ってきたんだ。それと主治医の先生にもね」
 言葉を失う私。警部は照れ臭そうに笑う。
「捜索して保護するっていう君の意見には反対したけど、まあ状況は把握しておくべきかなと思ってね。それでまずしらべさんが病院を飛び出した理由を見つけてみようと思ったんだ」
 先ほど携帯電話の電源を切っていたのは、院内にいたためだったのか。
「お母さんもなかなか思い出せなかったことなんだけどね、何年か前、しらべさんは頻りに一つの曲を探してたんだって」
「一つの曲…」
「そう、音楽ね。看護師さんにも尋ねて回ったりもしてたらしい。なんでも入院前にラジオから偶然流れてきた曲で、曲名も歌手名もわからない。でもどうしてももう一度聴きたいからって。
 当時お母さんもレコードショップを探したんだけどやっぱり見つからなくて。最近はその曲の話題も口にしなくなってたから、もうあきらめたのかなってお母さんは思ってたそうだよ。
 でももしかしたら…そうじゃなかったのかもしれない」
「では、しらべさんは自分でその曲を探すために病院の外へ?」
「あきらめられなかったんだろうね。君が調べてくれたように、タクシーでレコードショップに向かったんなら多分間違いない。
 それと主治医の先生の話だと…彼女の心臓はかなり限界が近いらしい。本人にもそれとなくは伝えていたそうだよ」
「そんな、では急いで彼女を見つけないと」
 思わず私はそう言ったが、警部はやはりそこには同意しない。無言で昆布をくわえるだけの上司に私は続けた。
「しかし、それなら尚更…しらべさんは今どこにいるんでしょう。最後に紹介されたのはベビーズブレスというショッピングモールの中の店舗ですが、そこには来てませんでした。まさかそこに行く途中で倒れてるんじゃ…」
「いくら他人に無関心な東京でも、若い女性が倒れてたらさすがに誰かが通報するよ。それならとっくに病院に連絡が入ってるはずだ。
 ビラ配りのピエロが、彼女と金髪の男性が連れだって店を出て行ったのを目撃してるんでしょ? しらべさんは確かにベビーズブレスまでは行ったんだよ。館内には入ったけど、レコードショップには行かずに金髪の男性と出てきた。ということは…」
「その男にそそのかされたということですか」
「そんな恐い顔しなさんな。強い意志で病院を飛び出したしらべさんがひょいひょいナンパに引っ掛かるわけないさ。一つの曲を見つける目的で動いていた彼女が、店に行くよりその男性と一緒に行くことを選んだとすると…」
 ゆっくり右手の人差し指が立てられる。
「ずっと探してた曲の手掛かりを、彼が持っていたからじゃないかな。どういう経緯でしらべさんがそのことを知ったのかはわからないけど、もしそうだったら初めて会った人についていったのも納得できる。まあその人が君の睨んだ永前さんだとは断定できないけど」
 警部の推理を受けて、改めて考える。
 ずっと一つの曲を探していた彼女。どの店を回っても発見できない。そんな時に何かの拍子にその曲のことを知っている男と出会ったとしたら? ずっと病院で生きてきた女だ。大人になる中で当然経験する世の中や男の汚さを彼女は知らない。もしあの軽薄そうな男の口車に乗せられついていってしまったのだとしたら?
 私の中で新たな不安が加わった。
「警部、行きましょう」
「どこへだい?」
「彼女と歩いていた男が、永前さんかどうかを確認する方法があります。二人が出会ったのはベビーズブレスの館内です。つまり防犯カメラを調べればいいんですよ。私はもう永前さんの顔を知ってるんですから」
 そうだ。二人が一緒に写っていれば彼女と連れだったのは彼だと特定できる。
「確かにそうだけどね。でもその人の部屋にしらべさんはいなかったんでしょ?」
「それはそうですが。もししらべさんと一緒にいた男が彼じゃないことが防犯カメラの映像で確認できれば、完全に彼は無関係だということになります。もしその逆であれば…もう一度永前さんを事情聴取すべきです!」
 こちらの勢いとは裏腹に、デスクの上司は黙ったまま。
「お願いします。主治医の先生も危ない状態だとおっしゃっているんですよね? お願いします、警部! しらべさんを助けてください」
 先ほどより深く頭を下げる。返される沈黙。ゆっくり顔を挙げると、警部はくわえた昆布を口先で回しながら小さく唸っていた。

 …プッチーン!

 堪忍袋の緒が切れた私は乗り気でない上司の首根っこを掴んで駐車場まで連行、腕ずくで愛車の助手席に押し込むと、あのショッピングモールへ向かって急発進。到着すると、辺りはすっかり夕焼けに染まっている。
 動く気のない上司を車に残して、私は一人館内へ。そして警備員に事情を伝えて防犯カメラが見られる部屋に通してもらった。息を呑みながらモニターで確認。
 すると…確かに写っていた。本日の正午頃、店の1階で金髪の男に声を掛ける色白の女。何やら話してから、正面玄関の自動ドアを出て行く二人。笑顔でピエロからチラシを受け取る彼女は凪野しらべ、そして隣でピエロを無視する彼は紛れもなく…永前誠だった。
 駐車場まで駆け戻ると、車外に出て昆布をくゆらせていた上司に私は防犯カメラの内容を報告する。
「警部、やはり永前さんだったんです。彼は私に彼女のことなんか知らないと言った…偽証したんです」
「…そうなるね」
「行きましょう、彼のアパートに」
「でもしらべさんは部屋にはいなかったんでしょ?」
「どこか別の場所に監禁してるのかもしれません」
「監禁って、発想が過激だよ。別に永前さんが悪人だって決まったわけじゃない。しらべさんと少し一緒に歩いて、世間話をして別れただけかもしれない。
 だからそんなに恐い顔しなさんなって。納得いかないかい? だったら、彼の部屋にしらべさんがいた痕跡が何か一つでもあったかい?」
「それは…」
 そんな物があれば私だってその場で永前を問い詰めている。いや待て、私には気付けなくても、この人なら何かわかるかもしれない。いくつもの事件の謎を解いてきた、この人の頭脳なら。
「聞いてください」
 この目で見た室内の様子を洗いざらい説明する。警部はそれを聞きながら長い前髪を立てた人差し指にクルクル巻きつけ始めた。考えごとをする時の癖だ。私が言葉を止めても指の動きと黙考は続いている。
 ふと訪れる喧騒の中の静寂。遠くの空を見ると斜陽が燃えるように赤い。その赤さがまるでもう時間切れだと言っているようで、さらに不安を掻きたてた。
 …無理か? 確かに警部の言うように、何か一つでも根拠がなければこれ以上永前を追及するのは難しい。何か、何かなかったか? 彼の部屋で私は何か見ていないか?

 その時、警部のハットに一匹のトンボがとまった。聞き覚えのある羽音。
「そういえば」
「何代?」
 警部はこちらへ意識を向けた。
「永前さんの部屋のソファ…そこに置いてあった毛布の間からトンボが二匹飛び出したんです」
「そう…東京にもトンボがいるんだね」
 そんな秋の風物詩に和んでいる場合じゃない。しかしそう言った瞬間警部の指は回転を止め、同時に防犯カメラの映像を制止したように全身の動きが固まった。
 まさかこれは…いや、間違いない、この人の頭脳に何かが着火し、今思考回路にはものすごい量の電流が流れているのだ。
 もう問い掛けても意味はない。私はひたすらにその時を待つ。夕焼けの残り火は燃え尽き、徐々に闇の浸食を許し始めた。少し冷たい風が吹き抜ける。

 …ペチン。

 立てられていた指が鈍く鳴らされた。ハットから飛び立つトンボ。それが合図であったかのように低い声は告げる。
「確かにいたんだ…しらべさんはその部屋に」
 そして警部はくわえていた昆布を呑み込んだ。