●永前誠
ベビーズブレスを出て四ツ谷駅方面へ少し歩けば、閑散とした住宅街に入る。特に今はほとんどの奴が学校なり仕事なりに出てる時間、うろついてるのは俺みたいな風来坊と、疑いもせずそれにのこのこついてくる女くらいだ。
「じゃあベイシティボーイズは神奈川県の出身なんですね」
「そうそう、高校の同級生五人でバンドを結成したはずだよ。それで横浜中心に活動してたんだ」
「横浜かあ、私と一緒です」
「え、しらべちゃんもハマッ子? 実は俺の実家も横浜でさ」
「わあ、すっごい偶然ですね。私は鴨居なんですけど、永前さんはどちらです?」
「菊名だよ。だから人に住所を訊かれた時に菊名って答えたら、まるでそんなこと訊くなって怒ってるみたいに勘違いされるんだ」
「アハハ!」
澄んだ声が笑う。
「それ、横浜あるあるですよね。懐かしいです」
「まったく、紛らわしい地名だよな」
「そうだ、横浜あるあるっていえばあれもそうです。ハマッ子はみんな語尾に『じゃん』って付けてるって思われてますけど、実際はそんなに言ってないですよね」
「そうそう、俺も滅多に言わないじゃん」
「言ってるじゃないですか、アハハ」
また笑い声がくり返される。ノリの悪い子だと思ったけど、そうでもないみたい。ようやく俺とのチューニングも合ってきた感じ。
「あ、別に敬語で話さなくてもいいぜ。歳もそんなに変わんねえし」
「そっか、ごめんなさい…じゃなくてごめん。じゃあ呼び方も永前くんにするね、フフフ」
どうやら普通の女の子だ。まあ世間知らずなのは否めないけど、笑ったり驚いたり、感情と表情が豊かなのは好感が持てる。特に東京じゃ、嬉しいのか悲しいのかもわかんねえ顔して歩いてる連中ばっかだからな。
「さっき懐かしいって言ってたけど、しらべちゃんは今は横浜に住んでないの?」
「えっと…今住んでるのは…南新宿」
「すごいな、ひょっとして高層マンション? もしかして財閥のご令嬢とか?」
「そんなことないです…じゃなくて、ないよ。永前くんは四ツ谷住まいなんだよね。いつから?」
ややぎこちないけど、敬語も少しずつ外れてくる。俺の心でも、何かが外れて懐かしい感触がする。
「四年前くらいかな」
「四年も四ツ谷で一人暮らしか、いいなあ。でもどうして?」
いつもは誤魔化す質問だった。でも不思議と腹も立たず俺は答える。
「予備校に通うためさ。実はさっきフリーターって言ったけど、別にバイトしてるわけでもねえんだ。本当は浪人生。結構難しい大学目指してて…もう五浪目」
「頑張ってるんだね」
「頑張ってねえよ。いや、その…もうやめたんだ、受験するの」
「え、どうして?」
「なんかテンション下がっちゃってさ」
少し視線を逸らすと見慣れたタバコ屋。店のじいさんは相変わらず眠そうだ。彼女はさらにどうしてと尋ねようとしたけど、俺は「この角で曲がるんだ」とそれを遮った。
「この路地に入ったら後は道なり。しらべちゃんはこっち来てどれくらいになるの? 今は大学生?」
返される無言。しばらく待って俺が言葉を続ける。
「じゃあさ、スタジオアルタとか新宿御苑とかは行ったことある?」
弱く「ううん」とかぶりが振られる。彼女は自身の身の上については語ろうとしない。俺も別に知りたいとは思わない。働いてるふうでもねえから…案外本当に名家の娘で花嫁修業中とかかもしれない。
またたわいもない話をしながら並んで歩く。そのうちに、もはや目的を失った俺の下宿が見えてくる。
「ほら、あそこの『パールトミタ』ってアパートだよ。あそこの305号室なんだ」
「へえ、すっごい」
何がすごいのかわからないけど、その声はひたすら楽しそうだった。
*
「さあどうぞ。お客さんが来るなんて思わなかったから散らかってるけど」
「お邪魔します」
ドアを開けた俺に促されるままに中へ入る彼女。思いっきりワクワクの表情。まったく…無防備にもほどがあるぜ。
お互い靴を脱ぐと、ラジカセのある部屋に通して手近な椅子を勧める。
「ちょっとそこに座って待ってて、今見つけるから」
CDラックをあさる俺の背中には、期待に満ちた視線が痛いほど感じられた。純粋というか無垢というか…そんなに楽しみなもんかね。こちとらワクワクなんてもう何年もした記憶がない。うらやましいくらいだよ。
「ええと、確かこの辺りに…」
一枚ずつCDのジャケットを確認していくと、次に触れた指先に覚えのある感触。もしかして…とジャケットを確認。そこにはオレンジ色の丘を背景に立つスーツ姿の若者五人。
「あった。これだこれだ。ほら、ベイシティボーイズの『夕焼けの丘』」
「やったあ!」
振り返って掲げた俺に歓喜の声とさらなる笑顔が向けられる。どうやったらそんなに嬉しそうな顔ができるんだよ。俺はディスクを取り出すとケースを手渡す。
「何年ぶりかな、これ聴くの。待ってな、今かけてやるから」
たいしたことするわけでもねえのに何をかっこつけてんだ、俺は。内心で照れながら、ラジカセにディスクをセットして再生ボタンに人差し指を添える。
「心の準備はいい? しらべちゃん」
「はい!」
真顔になって背筋が伸ばされる。
「ではいよいよ大公開。スリー、ツー、ワン、ミュージックスタート!」
もったいぶってからボタンを押した。すぐにキュルキュルとディスクが回り、一瞬の沈黙、そして軽快なエレキギターのイントロが流れ出す。
彼女の口から小さな吐息。ギターに続いてベース、ドラム、キーボードと参入。そして伸びやかなボーカルが歌い始めた。
俺はしばし耳を傾ける。やっぱり良い曲だ。高校卒業直後にデビューしただけあって演奏技術は拙いけど、その分純粋な情熱と若さの勢いが伝わってくる。
「どうかな、これでしょ? 探してた曲」
1番が終わったところで隣を見る。俺はぎょっとした。二つの茶色がかった瞳からは大粒の涙がこぼれていたのだ。
「え、ちょっと、しらべちゃん。何かつらいの? 曲、これじゃなかった?」
「ううん、合ってる」
涙をそのままにかぶりが振られる。
「ただ…嬉しくて」
濡れた前髪がへばりついたグチャグチャの顔でとびっきりの微笑み。俺にはわけがわからない。
「ありがとう、永前くん」
告げられる感謝。間もなく曲の2番が始まり、俺も彼女も黙ってそのまま続きを聴いた。
*
コンビニで二人分の飲み物を買って戻ると、彼女はまだラジカセにかぶりついてた。何度も何度も再生し、歌詞カードを読み返してるみたい。
「ほい、ミネラルウォーター。本当にこれだけでよかったの?」
「うん、胸がいっぱいで何も食べられそうにないから。ありがとう。永前くんには感謝してもしきれないよ」
ペットボトルを受け取って、しみじみと告げられる。
「そんな、水一本くらいで大袈裟な」
「ううん、それもだけど、この曲を教えてくれたこと」
「そんなに聴きたかったんだ」
「本当に…生きててよかった。今日出掛けてよかった」
やっぱり大袈裟じゃないかと思う。俺は床に腰を下ろして買って来た烏龍茶に口をつけた。それに合わせて彼女も一口飲む。
「あの…しらべちゃんはどうしてこの曲を探してたの?」
つい気になって尋ねてしまう。しばらくの無言、やがて彼女の指はゆっくりラジカセのボリュームを絞った。
「ちゃんと説明しなきゃね、こんなにお世話になったんだから」
「言いたくないことなら無理しなくていいけど」
「平気」
少しだけ座り直してから、その薄い唇は語りを始めた。
「実は私、ずっと入院しててね…」
ゆっくり言葉が続く中、遠くで車のクラクションや救急車のサイレンが通り過ぎていく。彼女が教えてくれたのは、物静かで控え目で、それでいて壮絶な物語だった。
心臓の病気で幼い頃から入退院のくり返しだったこと、新宿の病院へ来てからのここ十年はまともに外へ出ていないこと、発作を起こす度に命が磨り減っていくのを感じること。細く切れそうな縫い糸で、あまりにも丁寧に丁寧に、彼女の華奢な人生は紡がれてた。
「誤魔化し続けることだったの」
一度言葉を止めてぽつりと呟く。
「私にとって、生きることはね」
友達と遊びたい、学校に通いたい、街を歩いて買い物がしたい、オシャレをして旅行に出掛けたい…そんな届かない憧れに反して、徐々に落ちていく体力、不自由になる毎日、奪われる日々への恐怖。全ての気持ちは誤魔化す以外に心を持ち堪える方法がなかったと彼女は言った。
「それは…なんて言えばいいか」
俺は言葉が見つからない。もちろん驚いたが、出会った時のどこか浮世離れした儚い雰囲気の理由にはこれで納得がいった。そして恐ろしいほど白い肌の理由も。こちらが口ごもっているのを気遣ってか、その声は「でもね」と明るく続ける。
「今日は朝からとっても体調が良かったの。まるで神様が特別に健康をプレゼントしてくれたみたいに。だから行くなら今日しかないなって」
「行くってどこへ?」
「もちろん『夕焼けの丘』を探しによ。どうしてももう一度聴きたかったの、この曲」
ラジカセにあたたかい目が注がれる。
「小学校6年生に上がる前、お医者さんから、これからは東京の大きな病院で治療することになるって言われて。はっきりとは言われなかったけど、お医者さんと看護師さんの雰囲気から、私の病気はそんなに悪いんだって感じたの。それにお母さんも思い出作りみたいなことばっかりするんだもん。東京の病院に入院したら、もう家に戻れないんだろうなってわかっちゃったよ」
意味もなく床を見つめる俺。
「でも、私にはそうするしかなくて。入院の前日、私は荷物の準備もせずに部屋のベッドで寝転がってた。悲しいとか悔しいとかじゃなくて、なんかもう心が動かなくなってた感じだった。
その時だよ。たまたまつけてたラジオからこの曲が流れてきたの。最初はぼんやり聴いてたから、曲の名前も歌手の名前もわからなくて、でも…何手言うのかな、この曲の溢れるエネルギーみたいなのに、私の心は揺さぶられたの。この曲のワンフレーズワンフレーズが心を揺さぶって、そう、鐘を打ち鳴らすみたいになって、気付けば私はベッドから起き上がってラジオの前に立ち尽くしてた。
今でもはっきり憶えてる…その時の気持ち。とにかく感動が止まらなかった。理屈じゃなくて、頑張りたいって思ったの」
俺は改めて流れる曲の詞に耳を傾ける。『夕焼けの丘』は絶望の中にいる主人公が夕日に染まる丘に立ち、オレンジ色の空にまっすぐ飛んでいくトンボを見て生きる勇気を取り戻す内容だ。そんなせつない物語と底抜けに明るい局長、そして爽やかだけどどこか寂しげなボーカルが絶妙のバランスで寄り添ってる。きっと巧妙な計算で生み出された曲じゃない。これは予測してなかった化学反応。それでも間違いなくベイシティボーイズの最高傑作。
「まるで魔法みたいだった。窓際のラジオからオレンジ色の風が溢れ出して部屋中をいっぱいにした…あの時、本当にそんなふうに見えた気がしたの」
「…わかるよ」
少し顔を上げて素直に同意。この曲を具現化したとしたら、きっとそんなイメージだと俺も思うから。
「それでね、張り切って荷物を準備して次の日に入院したの。新しいお医者さんがびっくりするくらい元気な声で挨拶して。病室にもラジオを置かせてもらって、またあの曲が流れないかなって、楽しみにしてたの。
だって誰の何ていう曲かわからないんだもん。朝から晩までずっと、ラジオを流しっぱなしで待ってたの。でも、一度も巡り会えなくて」
無理もない。ベイシティボーイズは地元の横浜では少し話題になったけど、わずか一年ほどで無名のまま解散した。俺も中学の時に、たまたま彼らがゲスト出演したラジオを聴いてなきゃその存在を知ることもなかった。今から思えば、あれも神奈川限定のローカル番組だったんだろう。『夕焼けの丘』は素直に良い曲だと思ったからCDを買ってその後もラジオにリクエストしたりしてみたけど、結局全国区になることなくその存在はレコードショップから姿を消した。
「東京のラジオじゃベイシティボーイズはかからなかっただろうね」
「そうなの。でも私、サビの部分の歌だけはなんとなく頭に残ってたから、それを手掛かりにお母さんにCDを探してもらったんだけど、やっぱり見つからなくて。それでもあきらめきれなくて…どうしても自分で探し出したくて」
「それで今日?」
「もう今日しかないなって思ったの。こんなに体調が良い日はもうないかもしれない。不安もあったけど、自分を信じて飛び出そうって」
自分を信じて…か。俺の大嫌いな言葉だ。それこそヒット曲の常套句だけど、根拠も実績もない奴がただ感情だけで「自分を信じて」と口にするのはおかしいだろ。人には限界がある。そのことを受け入れもせずに自分を信じるなんてのはただの馬鹿だ。
でも…今目の前にいる彼女はどうだろう。いつ発作を起こすかもわからない心臓を抱えて、頼りない命を抱えて…保証のない一日に足を踏み出した。根拠も実績もなく、自分だけを信じて。
俺はようやくその顔を正面から見る。不思議なほど穏やかな表情。少し沈黙が生まれたので「体調はどう?」と今更問う。
「おかげ様で、すこぶる快調。あ、でもそろそろお昼のお薬は飲まなくちゃ」
彼女はポシェットから取り出した錠剤を慣れた手つきで口に運び、ペットボトルの水を注ぎ込んだ。
「こんないい気持ちでお薬飲むの初めてかも」
そして二つの瞳がじっとこちらを見る。
「え、何?」
「本当にありがとう、永前くん。…いい人だね」
「そんなことねえって」
恥ずかしい。少なくとも君を部屋に誘った時、俺には邪な思いもあったよ。感謝される資格なんて俺にはない。ごめんな。そんな綺麗な目に俺なんか映しちゃダメだよ。
頭を下げて謝ろうとしたけど、やっぱりやめてペットボトルを口に運ぶ。そこで彼女は思いついたように「今度は永前くんのこと教えてよ」と言った。
「さっきから私ばっかり話してるじゃない。確か大学受験の予備校に通うためにここで一人暮らし始めたんだよね。なのに…どうしてやめちゃったの?」
それは話したくないことだった。でも彼女への申し訳ない気持ちが俺の背中を押した。
「…俺ね、オチコボレのボンボンなんだよ」
そんなセリフから始まる情けない語り。彼女の経験と比べたらあまりにもしょうもない俺の話。それを小さく頷いたり吐息を漏らしたりしながら、彼女は黙って聞いてくれた。そして話してるうちに気付く…ずっと俺は、誰かにこうやって聞いてもらいたかったんだと。
俺の親父も親父の親父も医者だった。そして二人の兄貴も医者になった。だからってわけじゃないけど、俺も医学部を目指した。それ以外…考えられなかった。
でも分不相応は何にでもある。まず現役の受験は見事に失敗。それで親父に相談して、東京の予備校に通うために菊名の実家から四ツ谷に出てきた。そして始まる浪人生活…でも受験は数打ちゃ当たるってもんじゃなかった。一浪目、二浪目、三浪目と失敗して今年の春もまた不合格。さすがにやる気も失せてしまい、そもそも本当に医者になりたかったのかどうかもわからなくなっちまった。
「それでさ、今年はもう予備校にも行かずにブラブラしてんだ。親父には勉強してるって嘘ついて仕送りだけはもらってさ…最低のチャラスケだろ? まあ親父も半分気付いてるみたいで、送ってくれる金は減らされてるけど」
「そう」
少し悲しそうな呟きが返された。俺はパンと軽快に手を叩く。
「はい、お粗末様。俺の話はこれにておしまい! それよりベイシティボーイズだろ、せっかくだからしっかり聴こうぜ」
再びラジカセのボリュームを上げる。彼女は「うん」と小さく頷いた。
*
それからまた二人で色々な話をした。歳が近いから漫画やアニメなんかの話題も共通点が多い。まあ彼女は入退院をくり返してたから時々知らないこともあったけど、その点に気遣いながら俺はできるだけ楽しい時間になるよう努めた。
「フフフ、こんなに誰かと話したの何年ぶりだろ」
「こちとら暇な偽浪人生、なんぼでもつき合いますぜ」
「またそんなこと言って…実家のお父さん、きっと心配してるよ」
「もうあきらめられてるって。それに兄貴たちもいるから病院の後継ぎも問題ねえし。
あ、実家っていえばさ、ベイシティボーイズの出身は横浜だろ? 実は横浜には『夕焼けの丘』のモデルになった丘もあるんだぜ」
「本当?」
途端に目が輝いた。やっぱり笑った顔が可愛い。
「俺が中学生の頃、ベイシティボーイズが地元のラジオにゲストで出た時に確か言ってたんだ。港が見える公園で、そこにある丘でこの曲の歌詞を思いついたって。ちょうど季節も今頃でさ。何度か車で前を通ったことあるけど、確かに綺麗な公園だよ」
「そうなんだ」
またワクワクを膨らませてる彼女に俺は「行ってみるかい?」と尋ねる。そして言い終わらないうちに元気良く「うん!」の返事。
「了解。じゃあ俺の車で連れてってやるよ。あ、でも体調は大丈夫かな」
「平気だよ。それより永前くん、車まで持ってるの?」
「ボンボンだって言ったろ?」
声を出して二人で笑う。俺が笑うなんて…いつ以来かな。そして次の言葉を続けようとした時…。
…ピンポーン。
ふいに鳴る玄関のチャイム。滅多に客なんて来ないのに。宅配便か? それともまた有料放送の受信料の取立てか?
彼女に「ちょっと待ってて」と伝えて俺はインターホンの受話器を取る。
「はいもしもし?」
「突然すいません」
知らない女の声だった。
「警視庁のムーンという者ですが」
背筋が凍る。ムーンってのはよくわかんねえけど、警視庁ってことは警察だ。
「あ、あの、何の用ですか?」
「実はある女性を探しておりまして。少しお話を伺いたいのですが」
「ちょっとお待ちください」
曖昧に返事をして受話器を置く。振り返ると不安そうな顔。手短に来訪者を説明すると、「きっとお母さんだ」と呟く。
「私を探してほしいって…お母さんが警察に通報したんだよ。それできっと」
「じゃあ…どうしようか。今日はもう帰る?」
ブンブンとかぶりが振られる。
「お願い、まだ連れ戻されたくないの。一緒に…一緒に夕焼けの丘を見に行きたい。それが終わったらちゃんと病院に戻るから」
「でも」
「お願い。今日は特別な日なの。きっと、きっとこんな日はもうないから。お願い…永前くん!」
茶色がかった瞳が潤んだ。次の言葉をあぐねる俺。そして玄関からまた…。
…ピンポーン。
●ムーン
二度目のインターホンを鳴らした。まだ応答はない。
落ち着け、焦ってもしょうがない。
腕時計を見る。そんなに時間を要さずにここまでたどり着けた。私は気持ちを落ち着けるために、改めて自分の足取りを振り返ってみる。
警視庁を飛び出した後、まずしたことは交通課に勤務する友人に頼んでタクシー会社を当たってもらうことだった。目的はもちろん、今朝すずらん医大病院から凪野しらべを乗せた車両を特定するため。十年も入院している患者だ、土地勘や体力を考えてもどこかへ向かうならタクシーを利用した可能性が高い。
コールバックはすぐに来た。それらしき人物を乗せた車両が見つかったとのこと。その運転手の証言によると、細身で色白の女性客はできるだけ品揃えの多いレコードショップへ行ってほしいと要求、そのため新宿通りにある大手販売店まで送迎したという。
凪野しらべがどうしてそんな場所を目指したかはわからなかったが、私はさっそくその店に向かった。すると店員も彼女らしき客を憶えていた。その女性は曲名も歌手名もわからないCDを探していて、結局発見できなかったため、店員は別の店を紹介したという。
CDを探すことが危険を冒して病院を抜け出した理由なのだろうか…と考えながら私は彼女の行方を追った。次に彼女が訪れたのは同じく新宿通りのレコードショップ。しかしそこでも結果は同じ、また紹介されて次の店へ…と渡り歩いてやがて紹介されたのが新宿と四ツ谷の境目にあるベビーズブレスというショッピングモール内の店舗だった。
ところが私がそこに赴いて確認したところ、彼女らしき客は来店していなかった。今日は平日で客足も少ないから来ていたら必ず憶えているはず、と店員たちは口を揃えた。
かくして忽然と凪野しらべの消息は途絶えたのだが、そのショッピングモールの正面玄関でビラ配りをしていたピエロを発見。念のためにと母親から預かった彼女の写真を見せると、ピエロはその女性にチラシを渡したと証言してくれた。時刻は正午頃。渡そうとしても無視されることの多い中、とても嬉しそうに受け取ってくれたので印象に残っていたらしい。しかも彼女は一人ではなく、金髪にピアスの若い男と一緒に店から出てきて、そのまま連れだっていったというのだ。
CDを探していたはずが今度は男と歩いている? ますます行動原理がわからない。しかもそんな軽薄そうな男と…。
とにかく私はピエロから二人が向かった四ツ谷方面の道を教えてもらいそちらへ進む。そして刑事の基本・聞き込みをしながら回ったところ、タバコ屋の眠そうな老店主がそれとおぼしき二人連れの男女を目撃してくれていた。
二人が入っていったという路地を進むと、先は行き止まり。そこには家具屋とパールトミタというアパートがあるのみ。路肩に愛車を停めて家具屋を見ると本日は定休日。そうなると二人はアパートの方に入っていった可能性が極めて高い。車を降りて見上げると6階建て。造りは古いが、屋上にはそれとは不釣り合いに有料放送のアンテナが立っている。
私は玄関に並ぶ住人たちの郵便受けの中に富田姓を発見。最上階に住んでいる。アパート名からこの人物が大家ではと予測し訪問するとビンゴ、愛想の良い壮年の女性で、「金髪の若い男の子なら、きっと305号室の永前誠さんですよ」と教えてくれたのだ。
かくして私はこの部屋をつきとめるに至ったのである。
もう一度ドア脇のプレートを確認する…『305 永前』とあるから間違いない。スムーズにここまでたどり着けたのは、とても運が良かった。いや、運だけでないとすれば、気付かぬうちに私の捜査能力が向上していたのだろうか。あの人のそばにいた年月で、私は刑事として成長していたのか?
…「いいかいムーン?」
人差し指を立てて得意げに語る変人上司の顔が浮かんだ。いかんいかん、今はそんなこと考えてる場合じゃない!
まだインターホンからの応答はない。もう一度チャイムに指を伸ばそうとしたところで、ガチャリとドアが開かれた。
「お待たせしました」
現れたのはTシャツにジーンズ姿の青年。浅黒い肌に金髪、左耳にはピアスも光っている。ショッピングモールのピエロやタバコ屋の老店主が目撃した男に違いない。ただチャラついた容姿とは裏腹に眼光は鋭く、一応愛想は浮かべているが目の奥は笑っていない。
「突然すいません。先ほどもお伝えしましたが、私は警視庁のムーンと申します。この部屋にお住いの永前さんですね?」
警察手帳を出すと、彼はやや緊張した面持ちで「ええ」と返す。さらに間髪入れず彼女の写真を示すと、その瞳が一瞬泳いだのを私は見逃さなかった。
…当たりだ。
「凪野しらべさんという女性です。今朝、すずらん医大病院から姿を消されて、お母さまから警察に相談がありまして」
黙っている男に私は「行方をご存じありませんか?」と続けた。
「どうして…」
数秒の間をおいて口が開く。
「どうして俺に?」
「彼女があなたと歩いていたという目撃証言がありまして」
臆病者ならここで折れるはずだ。しかし彼はより眼光を強めると、不敵に笑って答えた。
「知りませんね、人違いじゃないっすか? 目撃証言なんて当てになんないですよ」
「細身で色白の女性と金髪の男性が一緒に歩くのを見たと、複数の人が証言してるんです」
「刑事さん、ここは東京っすよ。色白の女も金髪の男も何千人もいますって」
痛い所を突かれる。そう、目撃証言だけでは必要十分条件を満たせない。
「本当にあなたではないんですか? 嘘をつくのはよくないですよ」
「失礼だなあ、いきなり尋ねてきて人を嘘つき呼ばわりっすか」
「すいません。ですが、本当にご存じありませんか?」
「しつっこい刑事さんだな、知りませんって。俺、これでも医大を目指して浪人してる受験生なんすよ。勉学に励む毎日で、女の子と遊んでる暇なんかないんすよ。むしろストレス溜まりっぱなしだから、デートの一つもしたいくらいで」
勉学に励んでいる風貌ではないと思うが。
「そうだ、刑事さんでもいいです。よく見たらすっごい美人だし、今からお茶しません? 上野にオシャレな喫茶店があるんすよ」
「致しません」
思わず冷たく返してしまう。
「そうっすか。じゃあ俺、勉強に戻りますんでこれで」
そう言って彼が閉めようとしたドアに、私は慌てて膝を割り込ませる。
「ちょっと、何なんすか」
「刑事です」
「それはわかってますけど、危ないじゃないっすか。ドアを閉めるんでどいてください」
「本当に勉強をされるんですか?」
「しますよ、してますよ、受験生っすから。近所迷惑なんで早くドアを閉めさせてください」
「では、ドアを閉めるの『閉める』は英語で何と言いますか?」
「は? 何を言ってんすか」
「受験生ならわかりますよね」
「そんなの『close』でしょ」
「ではcloseという単語には他にどんな意味がありますか?」
あまりにも間抜けな作戦だが時間稼ぎには仕方ない。
「は? 何なんですかもう」
「医大を受験されるのなら、当然英語も勉強されてますよね」
「し、してますけど」
「でしたら答えてください」
「Closeには他に…『近付く』とか『親密になる』とかって意味があります」
どうやら受験生というのは口から出まかせでもないらしい。考えている間に室内を伺おうとしたが、男が立ちはだかっていてほとんど中が見えない。
「ほら、もういいでしょ。マジに近所迷惑っすから帰ってください」
「わかりました。では最後に一応室内を確認させてください。それで彼女がおられなければ退散いたします」
もしここで捜査令状を見せろなどと言ってきたらアウトだったが、永前は面倒くさそうに頭を掻くと、ゆっくりドアを開いた。
「じゃあさっさと済ませてください」
*
305号室に招き入れられてさっそく観察開始。まずは玄関。凪野しらべの母親から、彼女はマジックテープタイプの白いスニーカーを履いていると聞いている。しかしここにそんな物はない。念のため靴箱の中も検めさせてもらうが、それも徒労に終わった。
玄関を上がった先には6畳ほどの部屋。赤本が無造作に置かれた勉強机、その隣には参考書や問題集が並ぶ本棚。背表紙には『難関大学突破のための』なんて文字も見えるから、永前が医大を目指す受験生というのはやはり本当らしい。本棚の向かいには電子レンジの乗った冷蔵庫、その横には小さな流し台とコンロ。見る限り人間が隠れられるスペースはない。
「お部屋はここだけですか?」
「見ればわかるでしょ、ワンルームっすから。浪人の身でそんな何部屋もある家に住めませんって」
「テレビがありませんね」
「勉強の邪魔っすから」
「ベッドもありませんが?」
私が言うと、彼はソファを足で示す。
「ここで寝てるんすよ。いけませんか?」
確かにソファの上にはたたまれた毛布。一応めくらせてもらう。
「あっ」
思わず声が出た。もちろん凪野しらべが現れたわけではない。毛布の間から飛び出してきたのは二匹のトンボだった。驚いてしまった私に永前の冷ややかな目が注がれる。
「失礼しました」
一つ咳払い。落ち着け落ち着け、そう胸の中でくり返しながら改めて室内を見回す。
「冷蔵庫の中も見てよろしいですか?」
「まったく、ほんとにしつっこいなあ。この中に人が隠れられますか?」
あきれ顔で開かれる冷蔵庫の扉。そこにはペットボトルやパンが無造作に放り込まれているのみ。当然か。彼女がいくら細身でもここに入れるわけがない。
「窓も失礼します」
勉強机の前にある出窓にも手を伸ばすが…開くのはわずか数センチ、とても人間は出入りできない。そもそもここは3階だ。
「ちなみにそちらは?」
左右の壁にはドアが一つずつ。私は右の方を示して尋ねた。
「トイレと風呂っすよ。まさかそこまで確認するんすか?」
「念のためですから、捜査にご協力ください」
…本当は正式な捜査ではないが。私はゆっくりそのドアを開ける。そこには小さな脱衣所と洗濯機。そして前方には洋式トイレのある固執。右手には浴室。私は洗濯機のドラムに浴槽、便器の中まで確認したが、凪野しらべは影も形もない。心の中でどんどん自信がなくなっていく。
「刑事さん、いい加減にしてください。正直そんな所まで見られるのは不愉快です。プライバシーの侵害っすよ」
「どうもすいません」
立場が逆転した。平謝りで元の部屋まで戻る。そして左の壁のドアについても尋ねてみた。先ほどの右の壁のドアよりやや小さい。
「そこは収納です」
「すいません、これで最後ですので確認させてください」
彼は渋々といった感じでそのドアを開く。確かにそこは収納、五段ほどの棚になっていて衣類や小物が無造作に置かれていた。奥行きは50センチほど…全ての棚を取り外しでもしない限り、人間が隠れるのは不可能だ。
「納得して頂けましたか?」
ドアを閉めると、右手を腰に当てて永前が言う。私はすがる思いでもう一度だけ室内を見回した。
…無理だ。仮に縛ったり身体を折り曲げさせたりしたとしても、人間を隠せるスペースなどない。私は抜き打ちで訪問したのだから、事前に外へ移動させることも不可能。彼女はここにはいない、そう判断するしかない。
「誰もいらっしゃらない…みたいですね」
「気が済みましたか?」
怒りのこもった声。室内には、トンボたちが羽音をさせて所狭しと飛び回っていた。
*
「お騒がせしました」
305号室を出て重い足取りでアパートの廊下を進む。すると、スーツ姿の女性とすれ違った。まさかと思ってその顔を観たが、凪野しらべとは明らかな別人。年齢は三十台前半、茶髪のボブで背もすらりと高い。そのまま観察していると、女は一部屋ずつチャイムを鳴らして在宅を確認している。
「あの、警察の者ですが」
手帳を示すと彼女は品の良い驚きを見せた。
「ここで何をなさってるんですか?」
「仕事で回ってるんです」
「訪問セールスですか?」
「いえ、集金です、有料放送の」
彼女は名刺を取り出す。聞けば半年前にここの大家がアパートの共同アンテナに有料放送のアンテナを取り付けたらしい。そういえば先ほどそんなアンテナを見た。それにより住人はみんなその放送を見られることになったが、そうなると当然支払いも生じるわけで、彼女は未だに支払いを渋る住人を回って徴収しているとのことだった。
「みなさん、お留守が多くてなかなか捕まらないんです」
「そうでしたか。お仕事の邪魔をしてすいません。実は人探しをしていまして」
凪野しらべの写真を見てもらう。もしかしたらと思ったが、全く見覚えはないとの返事。
…そんなにうまくはいかないか。
彼女に仕事の邪魔をしたことを詫び、さらに重たくなった足取りでアパートを出ると、私は愛車に乗り込む。
さて困った。絶対と思ったのだが…ここまで追ってきて手掛かりはなくなってしまった。いったいどこで間違えたのか。もしかしてピエロの目撃証言からして別人だったのだろうか。刑事としての捜査能力が上がってたなんて…とんだ自惚れだ。
しばし途方に暮れる。そして気付けば私は携帯電話を手にしていた。
悔しいけど…相談してみるか、あの人に。色々動き回ってイライラもおさまってきたし。でもなあ…やっぱりシャクだなあ。
腕時計を見る。凪野しらべが姿を消してもうすぐ六時間。
そうだ、大切なのは彼女の安全。意地を張っている場合じゃない。私は意を決してコールした。
「おかけになった電話は現在電波の届かない所にあるか…」
まさかの電源切り。そこまでする? 確かに勝手に飛び出してきたのはこっちだけどさ。ああもう、またイライラしてきた!
エンジンを掛けると、私はあてもなくアクセルを踏み込む。走り出す愛車はいじけたように嘶いた。