●永前誠
「その曲、教えてください!」
後ろから突然の声。
ここは『ベビーズブレス』、新宿と四ツ谷のちょうど境目辺りにあるショッピングモールだ。特段用があるわけでもなく、ゲームや雑貨のフロアをぶらついて、そろそろ帰るかと1階まで下りてきた俺。そんな風来坊に話し掛けてきやがったのはどこのどいつだ?
足を止めて振り返る。そこには一人の女が立ってて、肩で激しく息をしてた。他に誰もいないから、俺が話し掛けられたのは間違いなさそうだけど…目の前の顔に見覚えは全くない。
「あ、あの、すいません、ハア、ハア」
苦しそうに胸に手を当てながらもその言葉は続く。
「私、ハア、ハア、その曲が…ハア、ハア」
少し背中を丸めてはいたけど、二つの茶色がかった瞳はまっすぐに俺を見つめてる。いったい何なんだよ、こいつ。
「どういうこと? 人違いじゃねえかな」
「いえ、あなたで合ってます。ですから、その…ハア、ハア、ごめんなさい、走って追いかけたから」
「とにかく、まず呼吸を落ち着けなって。ほら、ゆっくり息して」
優しく返す。とんだ偽善者だ。面倒くさいと心の中では舌打ちしてるくせに。
「あ、ありがとうございます」
歳の頃は20歳前後。小柄のやせ型で腰までの長い黒髪が印象的だけど、あまり手入れされてる感じはしない。服装も薄水色のジャケット、紺のスカート、マジックテープの白いスニーカーと、はっきり言ってダサい。少なくとも新宿を楽しむ格好じゃない。
しばらく呼吸が整いそうにないので、俺はバツ悪く頭を掻きながら周囲を見回した。不景気かな、平日の館内は商売繁盛とはほど遠い。正面玄関の自動ドアを出入りする客もまばらで、ビラ配りのピエロも暇そうに店先に立ってやがる。
しかし…妙な女だ。やぼったい容姿もそうだけど、まとわりつく空気がどこか浮世離れしてる。いきなり金髪ピアスの俺に話し掛けたのだって、無警戒というか無防備というか。それにこんなに息を切らして、いったいどんだけ走ったんだよ。その割には足音には気付かなかったけど。
「びっくりさせてごめんなさい。もう、大丈夫です」
ようやく落ち着いて、あどけない声が言った。改めて見ると肌が恐ろしく白い。
「あの、今、あなたが口ずさんでた曲の名前を…教えてほしいんです」
一瞬呆気にとられる。何を言ってるんだ? 新手のキャッチセールスか?
「できたら歌手の名前も。…あ!」
こちらの胸中を察したのか、「私、怪しい者じゃありません」と慌ててかぶりが振られる。
「ただ私、その、さっきあなたが歌ってるのが聞こえたから。下りのエスカレーターに乗ってらっしゃる時に。私、ちょうど隣の上りのエスカレーターに乗ってて、すれ違う時に耳に入ったんです。
ですからお願いです。その曲、教えてください。どうしても知りたいんです!」
何が「ですから」なのかわからないけど、激しく下げられる頭。この女、曲のことを知るためだけに急いで下りエスカレーターに乗り換えて、俺を追いかけて来たってのか?
「歌ってたかな、俺。あんまり憶えてないんだけど」
「大きな声じゃなかったですけど、歌ってました。確かに『夕焼けに向かうトンボを見つめて』って。それ、ずっと探してた曲なんです」
恥ずかしげもなく一節を口ずさみ、すがるような目で俺を見る。事情はさっぱりわからないけど、必死なのは伝わってきた。
今のフレーズだけで曲はすぐに思い当たる。ああ、あの曲か。まあ確かに口ずさんでたかもしれない…無意識に歌うのは俺の癖だからな。
「失礼なお願いですいません。でも私…」
詐欺の類ではないみたいだし、どうせ退屈してたところだし、ちょっとくらい相手してやるか。俺は鼻の頭を人差し指で掻いてから右手を腰に置いた。
「わかったよ。でもまずお互い自己紹介からしようぜ。俺は永前(ながまえ)、下の名前はチャラスケ」
「はい、永前チャラスケさんですね」
からかうつもりだったのにこっちがずっこけそうになる。
「おいおい、冗談だよ冗談。ノリが悪いなあ。チャラスケなわけないだろ。本当は誠(まこと)、永前誠ってんだ」
「あ、そうなんですね。ごめんなさい、私、冗談とかよくわからなくて」
「別にいいけどさ」
俺は苦笑い。
「年齢は23歳、フリーターね。で、そっちは?」
「あ、はい。私は凪野(なぎの)っていいます。下の名前はしらべ…21歳です」
「凪野しらべちゃんね、可愛い名前じゃん。オッケー、それでさっきの曲だけど、タイトルは『夕焼けの丘』ってんだ。歌ってんのはベイシティボーイズってバンド」
「夕焼けの丘…ベイシティボーイズ…」
そう呟くと、嬉しそうな笑みが口元から顔全体に広がっていく。お、笑うとマジに割と可愛いかも。
「ありがとうございます! さっそくレコードショップでCDを探してみます」
息を弾ませてエスカレーターへ引き返そうとする細い背中。そのまま見送ってもよかったんだけど…。
「ちょっと待って、しらべちゃん!」
つい呼び止めてしまった。
「店に行っても売ってねえよ。もう十年くらい昔の曲だし、ベイシティボーイズは横浜だけで活動したインディーズのバンドだから」
不安そうな顔が向けられる。
「インディーズって何ですか?」
「あ、えっとその、何手言うかな、大手の流通に乗らない自主制作のCDってこと。だからそもそもたくさん出回ってねえし、ベイシティボーイズはすぐに解散しちゃったから。中古ショップでもあるかどうか」
途端に曇る表情。
「そんな顔すんなって。大丈夫、なんなら今から俺の家に来る? その曲のCDなら持ってるぜ」
「本当ですか!」
今度は打って変わって雲一つない快晴笑顔。飛び上がりそうに喜ぶと、「行きます!」と太陽みたいな明るさが向けられる。この子、感情と表情が直結してるみたい。おいおい、そんな簡単にチャラスケの部屋に来ちゃっていいのかよ。
安請け合いし過ぎたかと一瞬後悔したけど、まあいいや、予定があるわけでもなし、暇つぶしがてらそれくらいしてやるか。
「じゃあさっそく行こうぜ」
俺が歩き出すと彼女はぴったり後ろをついてくる。いやいや、そうじゃねえだろう。
「あのさ、並んで歩かない?」
振り返ってそう伝えると可愛い驚き顔。
「あ、そうですね。じゃあ…並んじゃいます」
ちょこんと隣にやってきたのを確認して、改めて足を踏み出す。どうも調子が狂うなあ。
「ここにはよく買い物に来るの?」
「いえ、初めてです。ベビーズブレスっていう名前も初めて聞きました」
「そう? 都内にはいくつか系列店があるからそれなりに有名なんだけど。でもじゃあなんでここに?」
「CDを探してレコードショップを巡ってたら、ここを紹介されたんです」
「そんなに『夕焼けの丘』を探してたの?」
「はい!」
ためらいのない返事。やけに眩しい。
俺たちはそのまま正面玄関の自動ドアをくぐる。夏の酷暑を思えば随分優しい秋の日射し。ビラ配りのピエロがチラシを渡してくるのを俺はすっと無視したけど、彼女は嬉しそうに受け取った。
「おいおい、新宿でそんなのいちいちもらってたらすぐに両手がいっぱいになっちゃうぞ」
「そうなんですか? フフフ、それもいいかも」
チラシを丁寧に折り畳んでポシェットにしまう姿に 呆れながら、俺は腕時計を見る。もうすぐ正午。
「ありがとうございます。本当に、その、何手言ったらいいのか」
隣でまた頭を下げてくる。
「まだ何にもしてねえよ。それにたいしたことするわけじゃねえし」
偽善者は優しく笑顔を返す。
そう、何もたいしたことはない。どうせ俺は…たいしたことなんてできねえんだ。
●ムーン
私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
正午。外勤に出たついでにその変人上司から頼まれた昼食用のハンバーガーを片手に警視庁へ戻る。すると、その場がにわかに騒がしい。
「お願いです、力を貸してください」
一人の女性がそう声を上げ、複数の署員が「お気持ちはわかりますが」「お母さん落ち着いて」などの言葉でそれをなだめている。女性は40代半ば、漏れ聞こえる情報から推測すると、どうやら入院中の彼女の娘が姿を消し、それを警察に探してほしいと嘆願しているらしい。ただし彼女の娘が姿を消したのはほんの数時間前の話で、しかも自らの意思での外出、戻る旨の書き置きもあった様子。
「あの子は心臓の病気なんです。万が一にでも発作を起こしたら、大変なんですよ!」
「普段外出はなされないんですか?」
「病院の庭とか売店とかには行きますけど。でも単身で院外へ出るなんてもう何年もしてないんです」
「病院にはご相談されましたか?」
「もちろんしました。看護師さんが病院の周りを探してくれてます。でも見つからなくて、だから私、ここに来たんです。捜索願というのを出せば、警察は行方不明の人を探してくれるんでしょ」
「ご心配はわかりますけどね、少し冷静になりましょう。お嬢さんはご自身の病状もご存じなんですよね。未成年でもないですし、自ら外出されたわけですから行方不明には当たりません。警察が捜索というわけにはいきませんよ。それも今朝のことですし、お帰りまでもう少し待ってみてはいかがでしょう」
「それであの子に何かあったらどうするんですか! 早く捜索隊を出して!」
そんなやりとりが続く。署員の対応は正論だ。事件性もなく、責任能力を有した成人が戻ると約束して自ら出掛けたことに対して、警察が捜索願を受理するのは難しい。捜査員を動かすとなればなおさらだ。
ただ…母親の心配もわかる。私は思わず立ち止まってその光景を見守ったが、さらに数分のやりとりの後、結局母親が折れる形でその場は散会となった。背中をすぼめてトボトボと出口に向かう後ろ姿には大きな落胆が浮かんでいる。
…仕方のないことか。警察のマンパワーにも限界がある。人員は優先順位の高い任務に割かれるべきであり、一から百までなんでもかんでも対応するわけにはいかない。
そう思って私もエレベーターへと歩き出す。しかし、どうにもやりきれない。そういえば午後の仕事は書類整理だけだったな。
気持ちが決まるのが早いか、私の足は踵を返す。
「あの、ちょっとお待ちください!」
そして私の口は警視庁を出ていく彼女にそう呼びかけていた。
*
「それでご丁寧に相談に乗ってきたわけかい?」
私からハンバーガーの袋を受け取りながら、壁際のソファで低い声が言う。室内でもボロボロのコートとハットに身を包み、しかもその長い前髪が右目を隠す、そんなどこからどう見ても不審人物のこの人が我が上司のカイカン警部であるとは誠に嘆かわしい。
「はい。詳しく伺ったんですが、失踪した娘さんは凪野しらべさんというお名前で年齢は21歳、すずらん医大病院に心臓のご病気で長期入院中です」
「失踪って…本人の意思での外出でしょ」
「それはそうなんですが…警部、聞いてください」
私は母親から伺った彼女の病状、そしてその深刻さを説明する。小学校低学年の頃から入退院をくり返し、この十年ほどはずっと病院暮らし。治療により病気の進行を遅らせることはかろうじてできているが、根治が望めるわけでもなく、大きな発作を起こす度に少しずつその身体は衰弱している。そんな彼女が今朝、ベッドに『一日だけ自由にさせてください』と母親へのメモを残して姿を消した。
「発作を起こせば命の危険もあるそうなんですよ」
語気を強めてそう締め括った私に、警部は「ああそう」と小さく返す。普段からその前髪のせいで表情が読み取りにくいのだが、それを差し引いても今日はなんだか反応が薄い。私は「いかがしましょうか」とたたみ掛けた。
「いかがって…君はどうしたいんだい?」
「できれば捜索に向かいたいと思います。確かに捜査一課の任務ではありませんが、警察官として探すのに協力すること自体は問題ないですよね」
「う~ん」
唸りながらソファから腰を上げると、変人上司はハンバーガーの袋を自分のデスクに置く。
「いいかいムーン? 警視庁として捜索願は受理してないんだよ。こういった場合、協力するにしてもまずは近くの交番じゃないかな。病院の最寄りの交番に連絡は?」
「すでに母親が足を運んで協力をお願いしておられます。でもそれでは広域の捜索はできません。だから警視庁までいらっしゃったんですよ」
「しらべさんはお薬やお金は持って出られたのかな?」
「はい。一日分の内服薬と普段院内の買い物で使っている財布を持って出たようです。ただし、心臓のご病気のために携帯電話は普段から使っておられません」
低い声はもう一度「ああそう」と呟く。
「ムーン、君の気持ちもわかるけど、やっぱり現時点では捜索の対象にはならないよ。病院も把握して、最寄りの交番にも伝えているんならそれで十分だ。確かに病気のリスクもあるけど、ご本人はそれも承知で出かけてるんだから。
それに一日自由にさせてってメモに書いてるんだ。ちゃんと戻る意思も示されてる。これは行方不明でも失踪でもない。遅くても明日には戻って来るんだから」
「それを待っていて手遅れになったら大変です!」
私は苛立ってしまう。どうも警部の対応が気に食わない。もっと興味を示してくれると思ったのに。
「警察学校でも勉強したと思うけど、捜索願を受理したとしても警察が積極的に捜索するのは特異行方不明者だけだ」
特異行方不明者…一人では生きていけない子供であったり、誘拐などの事件に巻き込まれた可能性があったり、自殺や他害行為に及ぶ危険があったりする行方不明者のことだ。そうではない行方不明者は一般家出人とされ、積極的な捜索対象とはならない。確かに凪野しらべの場合は特異行方不明者とは認定されず、現時点では一般家出人とも言い難い。
「自分の意思で姿を消した人の場合、仮に警察が見つけたとしても、できるのは『お家に帰りましょう、ご家族が心配してますよ』と伝えることくらいだ。無理矢理に保護したり連れ帰ったりはできない」
「ですが警部、しらべさんは入院中の身です。これは無断離院に該当します」
「無断離院者を積極的に捜索するのは、その患者さんに著しい判断能力の欠如が見られる場合…例えば重度の認知症のおじいちゃんがふらりと出て行っちゃった場合とかだね。あとは本人の意思ではなく、法律の力で強制的な入院になっている患者さんが姿を消した場合だ。
でも、しらべさんは違う。強制入院させられているわけでもなく、確かな判断能力を有して自分の意思で行動している人だ」
「しかし、ドクターストップを破ってます」
「そうかもしれないけど、それはしらべさんとお医者さんの治療契約の違反行為であって、警察が取り締まる違法行為じゃない」
「ですが、命の危険があるんですよ? 市民の安全を守るのが警察官の務めじゃないですか」
溜め息を吐く警部。
「確かにリスクはあるけど、そのリスクを冒すのもその人の権利だよ」
「そんな」
「この社会には、危なっかしい生き方をしている人なんていくらでもいる。君はその人たち全員を保護するって言うのかい?」
そんなこと言ってない…と口に出そうになるのをぐっと堪える。違うよ警部、そんなんじゃない。確かに私たちは全員を守ることなんてできないよ。この世の中には今この瞬間にだって危険にさらされている人がどこかにいる。私の言ってることは中途半端な正義かもしれない。でもせめて…せめてそのことを知ったのなら、気付いたのなら、精一杯その人の命を守ろうとするべきじゃないの? 法律や規則もわかるけど、それが万能じゃないことはこれまでの捜査でだってたくさん経験してきたじゃないか。
心の中で警部への失望がインクの染みのように広がっていく。変な格好も、ヘアースタイルも、時々口にくわえるおしゃぶり昆布も…そんなふうに一見ふざけていても、最低限のモラルだけはしっかりした人だと思ってたのに。
ようするにこの人は気が向かないのだ。気が向いた事件にだけ取り組むんだったら、それはただの趣味…社会正義なんかじゃない。もちろん私だって正義を語れるような立派な人間じゃない。でも、だけど、だからこそ…!
「警部」
両方の拳を握り締めてから問う。
「もう一度確認します。できるできないではなく、私たちは警察官として凪野しらべさんを捜索するべきとは思われませんか?」
私はまっすぐにその左眼を見つめる。警部は右手の人差し指を立てたが、すぐにそれを下ろしてから言った。
「…思わないよ」
「そうですか、わかりました」
身を翻して私はドアに向かう。
「どこに行くんだい? 君、お昼ごはんまだでしょ」
後ろから聞こえたが無視してそのまま部屋を出る。1階まで下りると、待たせていた母親に今から私が捜索に当たることを告げた。そして彼女には病院へ戻ってもらう。もしかしたら凪野しらべから連絡が入るかもしれないから。
頭を下げる母親を見送ると、私は駐車場へ向かいそのまま愛車に乗り込んだ。
イライラする。警部の下についてもう何年にもなるが、今までずっと従ってきたつもりだ。突飛な行動に驚かされたり、時には捜査のルールを破ることもあったりしたが、それでも全ては被害者のため、事件解決のためと信じて協力してきた。
…「そりゃ大変だムーン、すぐしらべさんを探しに行くぞ!」
きっとそんな返事がもらえると思ってたのに。私がここまであの人と意見を違えたのも、あの人に幻滅したのも、おそらく初めてのことだ。
「もう、どうしてよ!」
乱暴にエンジンを掛け、間髪入れずにアクセルを踏み込む。私の叫びに応えるように愛車は威勢よく嘶いた。