あれは…カーネーション。
赤信号で停車していると、横断歩道を渡る婦人が大切そうに手にしている花に目を奪われた。歩みに合わせてかすかに上下しながら、ゆっくりと目の前を横切っていく白い花。連休を終えてまた忙しなく動き出した東京の喧騒の中にあるからだろうか、小さなその一厘がやけに清らかに映った。そんな5月の水曜日。
「いやはや」
助手席からの声。もともと花に見惚れるような心は持ち合わせていないので、意識はすぐにそちらへ向く。
「なんだかややこしいことになりそうだね」
さほど深刻そうでもなく言葉はそう続いた。私は溜め息混じりに返す。
「今更ですけど、本当に私たちが行かなくてはいけないのでしょうか」
「ご指名だからね。まあいいじゃない、困った時はお互い様さ」
「それはそうですが」
フロントガラスからは春の陽光が注いでいる。カーネーションの婦人はもう横断歩道を渡り切っていた。
私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。ボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪が右目を隠した異様極まりない姿。そう、現在私の運転する車の助手席に座っているこの不審人物こそ、そのカイカン警部なのだ。
我が上司が何故にこんな格好をしているのか…部下としてはおおいに嘆きたい。しかしその嘆きが意味をなさないのは百も承知。まったく慣れとは恐ろしいもので、なんだかんだでもう何年もこの変人の下で働き、いくつもの事件現場に出向いてきた。
ただし今日に限っては少々事情が異なる。本来ならミットに捜査の割り振りが来てから出動するのが正しい流れなのだが、今回はとある傷害事件を担当している所轄捜査員から、被疑者の取り調べが難航しているからと直接協力要請が入ったのだ。この仕事は持ちつ持たれつ、警部が言ったように困った時はお互い様。しかし…。
「ムーン、信号が青だよ」
指摘されてはっとする。ダメだダメだ、あれこれ考えていても始まらない。
「失礼しました」
胸の中で深呼吸して、私はアクセルを踏んだ。
*
間もなく指定された交番が視界に入ってくる。昭和の人情ドラマに出てきそうな小さな佇まいの交番。道路を挟んだ向かいには公園も見えた。
「見てごらん、あれがカメリア公園前交番だ。正面の公園がきっとカメリア公園だね。どうしてこんな名前なんだろう」
警部が振り返りながら言った。私もサイドミラー越しにちらりと見るが、たくさんの木が並んでいることに加えて、公園自体が道路よりも高い位置にあるため園内の様子はよくわからない。
「椿が植えてあるからじゃないですかね。カメリアというのは椿のことですから」
「そうか。てっきり葛飾区の亀有をもじってるのかと思ったよ」
「そんなわけないでしょう。はい、到着です」
交番脇の駐車場に車を止めると、変人上司は前に向き直る。
「運転お疲れ様。わあ、なんだか懐かしの派出所って感じ。知ってるかい? 昔は交番のことを派出所とも言ってたんだよ」
「警察学校で習いました。確か平成6年の警察法改正で、交番という名称に統一されたんですよね」
「博識だねえ。でも派出所っていう呼び方もいいよね。ほら、亀有の派出所を舞台にした有名な漫画もあるじゃない。実際に亀有の駅前に行くと、あの漫画の主人公の銅像が立ってる。それくらいキャラクターと共に、派出所っていうネーミングも愛されてるのさ。
いやあ、憧れちゃうなあ。いつかは私もそんな存在になりたいもんだ」
警視庁の前にこの人の銅像が立ったら、日本の警察機構はおしまいだと思う。ただ、本庁の刑事であるこの人が、交番のお巡りさんに憧れる気持ちはわからなくもない。住民と同じ町で暮らし、同じ空気を吸い、道ですれ違えば冗談を交わし合う。そんなふれあいの中で勤務する交番の警察官。一方、そびえるビルから町を見下ろし、凶悪事件が起こった時だけ出向いて捜査する本庁の警察官。もちろん医療における診療所と大学病院のように、それぞれの役割があるのはわかっている。ただ、相手と距離を置き人を疑わねばならないこの仕事において、本庁の警察官が専門性だけ肥大してどんどん人から離れていくのに対し、交番の警察官は人との近さを失わずにいられている…そんな気がするのだ。
私が交番に勤務したのは研修中のごく短い期間だけだが、それでもあの日々は今もあたたかい記憶となって、時々胸の奥にぬくもりを与えてくれている。
「じゃあ…そろそろ行こうか」
警部が笑みを弱めたのに合わせて私も車のエンジンを切った。そうだ、今は憧憬に浸っている場合ではない。
二人同時に車外へ出ると、眩い陽光の中でやわらかい風に迎えられる。そのまま無言で歩き出す上司に私は従った。腕時計を見ると、時刻は11時40分。
「こんにちは」
低い声が挨拶を投げる。交番の中にいたのは一人だけ。窓際の椅子に腰掛けている制服姿の婦人警官。ショートボブに黒縁メガネの彼女はまだ若く、戸口の警部にジロリとその大きな瞳を向けた。返答はない。表情からいぶかしんでいるのは明らかだが…まあそれも当然だ。
「ご連絡をいただいた警視庁の者ですが」
何も言わない警部に代わって私が手帳を出して説明する。すると彼女はすっくと腰を上げ、その場で敬礼してみせた。
「お疲れ様です。あたし、カメリア公園前交番の美濃巡査です」
「どうも、警視庁のカイカン警部です。こちらは部下のムーン巡査」
「どうも、はるばるありがとうございます」
「いえいえ、警視庁は近所ですから」
「あ、そうですね。でも、わざわざ変装して来るなんてびっくりです」
「私はいつもこの格好ですよ」
巡査は絶句した後、「そうですか」と引きつった笑顔。まったく、未来或る若者を混乱させるんじゃないっつーの。それにしても、警部の容姿を気に下彼女は、カイカンやムーンという妙な名前については気にならないのだろうか? まあ気にされても恥の上塗りだが。会話が止まってしまったので、私は本題を切り出すことにした。
「それで、お呼びになった吉田警部補はどちらですか?」
「奥の部屋で犯人の取り調べをしてます。ご案内します」
ちょっと私の言い方がきつかったか。美濃は真顔になって警部と私を奥へと導いた。まあ小さな交番だ、案内するといっても数メートルの距離。
「こちらです」
薄暗く短い廊下の先に示されたのはくすんだ灰色のドア。
「失礼します、美濃です。警視庁の方が来ました」
「入ってもらってください」
室内から間髪入れずに返事。彼女は「どうぞ」と身を引いたので、警部がノブに手を掛けた。私もごくりと唾を呑み下す。
いよいよ…いよいよご対面か。
警部と私が呼ばれたのは、けっして被疑者が凶悪だからではない。精神的に不安定だからではない。扱いに忖度を要するVIPだからでもない。被疑者自身がリクエストしたからだ。
「ご足労をお掛けしました。日比谷署の吉田です」
ドアを引くと、すぐそこに座っていた紺のスーツ姿の男が会釈。四十代半ば、焦げ茶色の肌に広い額が印象的な刑事。
「警視庁のカイカンです」
「突然ご連絡をしてすいません。ただ被疑者がどうしてもと言うもので」
「構いませんよ。では入らせていただきますね。ほら、君も中に」
「あ、はい。ムーンと申します。失礼します」
警部に続いて私も入室。美濃は入らないようだったので後ろ手にドアを閉める。すると、すぐに変人上司の足が止まった。
三畳ほどの室内。吉田と机を挟んで置かれたパイプ椅子にその女は座っていた。一瞬背筋に冷たい感覚が走る。私と視線が絡まると、女の漆黒の瞳は妖艶に細められた。
涼しい空気。しばしの沈黙。そして放たれる第一声。
「お越しやす」
この場に不相応な京都の挨拶。固まっている警察官三名をからかうように、女は可愛く小首を傾げて見せる。
「また会えて嬉しいわあ、カイカンはん」
黒髪のオカッパ頭が深々と一礼。そしてゆっくり顔を上げてから、そのハスキーボイスは笑顔で告げた。
「またよろしゅうおたの申します。容疑者の八尋そよかです」