同日、八尋そよかは四十八時間のリミットを前に送検を見送られ、無事釈放となった。堀川拓也もその日の午後には退院、一日休んで日曜日から仕事に復帰することとなった。
そして下田つぼみは…遠くないうちに元の生活に戻れそうとのことだった。吉田警部補の話によると、その理由の一つは、少女がまだ13歳であったということ。よって刑事罰は適応されない。もう一つの理由は、不運な誤解による動機であり、十分情状酌量の余地があるということだ。
ただ最大の理由は、被害者の二人が彼女を必死にかばっていることに違いない。そよかは、つぼみが誤解したのは自分のせいだとくり返し訴えた。自分がバスルームで文字起こしのボイスレコーダーを再生したまま外出してしまったからこんなことになった、自分は今回のことを全く気にしていない、何の精神的苦痛も負っていないと、心優しきテレビディレクターは主張したのだ。
そして堀川も、背中をおされて倒れた時に頭をぶつけたのは、自分があえて手をつかなかったせいだと説明した。手をついていればあんな大けがをすることもなく、そもそも事件にもならなかったはずだと。手をつかなかったのは、大切な右手…彼にとっては仕事を続ける上で絶対に必要な右手をとっさにかばったから。そういえば入院中の彼を訪ねた時、右手の手のひらには一切傷も汚れもなかったと担当の白神医師が話していた。そんなわけで、怪我をした責任の大部分は自分にあると、心優しき寿司職人は主張したのだ。
あの小さな石段から突き落とすという方法を考えても、明確な殺意があったとは認定し難い。きっとつぼみも命を奪うことまでは考えておらず、少しこらしめるくらいの気持ちだったのだろう。そんな論拠を並べて、吉田警部補、並びにカメリア公園前交番の面々は、つぼみに必死に手を差し伸べている。もちろん警部と私も協力は惜しまないつもりだ。
これが正しい形なのかはわからない。しかし今大人たちは確かに連携し、一人の子供を正しい道へ救い戻そうとしている。その人生だけでなく、その心をも導くために。
*
日曜日。再び警部を乗せて待ち合わせ場所へと車を走らせる。
「そういえば、吉田警部補が言ってたよ。つぼみさんは堀川さんの左手が義手であることを知らなかったらしい」
低い声が言う。
「あのドキュメンタリー番組は見てたんだろうけど、番組の中では義手について直接的な説明はなかったからね。気付かなくてもおかしくない。そのことを知ってたら、さすがに石段から突き落とすなんてしなかったはずだ」
「そうですか。では八尋さんの演出が裏目に出たんですね」
「まあね。でも一方で、あの演出のおかげでつぼみさんは救われたとも言える。堀川さんがあの子をかばったのは、もちろん彼自身の優しさも大きいだろうけど、八尋さんへの感謝の賜物だと思うよ。八尋さんが必死につぼみさんをかばってるのを知って、それに力を貸したんだ」
「…そうですね」
私はハンドルを切りながら、昨日退院後の堀川を訪ねた時のことを思い出す。
「いらっしゃいませ」
店には準備中の札がかかっていたが、彼は警部と私を威勢よく迎えてくれた。
「調子はいかがですか?」
「ありがとうございます警部さん。もう大丈夫です」
彼は翌日から再開される店の準備をしながら、穏やかにその胸中を語ってくれた。
「これまでも雑誌とか新聞とか、いくつか取材を受けたことはあったんです。だけど、その見出しはいつも『義手の寿司職人』とか『片腕のハンデを乗り越えて』とか、そういうのばっかりでした。でもあの人は違いました」
ひょいと左手が示される。
「八尋さんは僕の左手の障害を当たり前に扱ってくれました。変に取り立てることも、変に隠し立てることもなく、自然にそこにあるものとして。それに何より、僕の寿司のおいしさを伝えてくれました。それが…それがとっても嬉しかったんです」
そしてお寿司屋さんは可愛くはにかむ。堀川がそよかを全面的に信頼すると言ったのはこのためだったのだ。
「それじゃあ明日、お待ちしておりますから」
明るい声に見送られ、警部と私は彼の店『感謝寿司』を後にした。
そんなわけで本日、留置場での約束に従い、警部がそよかにご馳走をおごる。もちろん最高のお寿司を。
夕焼けに染まる朝顔ハイツに車を停めた。待ち合わせまではまだ早いか…と腕時計を見ると、ポケットのスマートフォンが振動。そよかからのメールだった。
『公園の中におります。』
*
石段を昇って園内に入ると、オカッパで小柄でワンピース姿の女が飛行機の右の翼にぶら下がっていた。容姿の似た別人ではない。あんなことをするのは、この世界で八尋そよかただ一人。
「あ、カイカンはん、ムーンさーん!」
ぶらぶら前後に揺れながらハスキーボイスを投げてくる。「どうもどうも」と警部が右手を挙げる。すると濡れ衣の晴れた被疑者は大きく反動をつけて地面にジャンプした。
「八尋そよか、無事娑婆に戻って参りました!」
「お元気そうですね」
元気なのはよいが、それなりにいい歳なのだからそんな大胆にスカートをはためかせるアクションは控えてほしいものだ。
「元気に決まっとります。今からおいしいお寿司を食べるんやから」
「フフフ、お手柔らかに」
「お言葉に甘えまーす! あ、まだ時間ありますね。ほなカイカンはん、一緒にジャングルジムで遊びましょ」
「そうですね」
彼女は再び右の翼に飛びつく。続いて警部もコックピットへ。まったく、いい大人が何をしてるんだ。周囲に散歩客がいないのがせめてもの救い。
おっとそうだ、もう一人のゲストを忘れていた。今夜の食事会には美濃巡査も参加する。待ち合せた朝顔ハイツではなくカメリア公園の中にいることを伝えておかないと。私がスマートフォンでコールすると、しばらくして彼女が出る。ただその声はガラガラで何度も咳込んでいた。
「美濃さん、どうかされました?」
「すいませんムーンさん、あたし、風邪引いちゃって。今実家で寝てるんです」
「あ、そうでしたか」
「横になってて、連絡遅くなってごめんなさい。なので今夜のお食事会はキャンセルさせてください。八尋さんに直接謝りたかったんですけど」
「それは…大丈夫と思いますよ」
ジャングルジムではしゃぐかつての被疑者を一瞥。
「私から伝えておきますから」
「ありがとうございます。本当にすいません」
「いえいえ。きっと時間外でも聞き込みをされてた疲れが出たんですよ。無理なさらないで…」
私がそう答えている途中で、電話の向こうではふすまを引く音。そして「ローズ、おかゆできたわよ。あんたの好きな七草たっぷりにしといたから。子供の頃みたいにフーフーして食べさせてあげようか?」と女性の声。さらに「あら電話中? 彼氏ならちゃんとお母さんに紹介してよ」と続く。
「そんなんじゃない、仕事の電話。すぐ行くから母さんはあっち行ってて。うん、ちゃんと食べるから。
…あ、ムーンさん、ごめんなさい。そういうわけですから」
「了解です。ではいずれまた。お大事にしてください」
恥ずかしそうな新米警察官の声に笑いをこらえながら、私は通話を終えた。彼女は彼女でご馳走にありつけそうだ。
「ムーンさーん!」
またハスキーボイスが呼ぶ。
「なにをニヤニヤしてはるんですか? はよう反対側の翼にぶら下がってくだはれ」
「どうしてそんなことしなくちゃいけないんですか」
「お腹を空かして行った方がもっとおいしくなるやないですか。小学校の時のウンテイみたいな感じですよ。ほい、ほい」
そよかは器用にぶら下がったまま移動する。私も溜め息をつきながらスマートフォンをしまうと、左の翼の方へ移動。その鉄の棒を握った。
「ええ感じや、ムーンさん」
「では管制塔、このまま離陸します」
変人上司も愚かなことを言っている。
「それやったら、京都までひとっ跳び、おねがいしまーす! お母さんのとこまで」
今夜の感謝寿司は、そよかの無罪放免と堀川の職場復帰以外にもう一つのお祝いがある。それは母の日。5月の第2日曜日に合わせて、母親と一緒に来店するとサービスをしてくれる趣向だそうだ。
親子の数だけそれぞれの形がある。支え合う関係もあれば傷付け合う関係、すれ違ったままの関係もあれば歩み寄り始めた関係もあるだろう。
親子だからわかること、親子だからわからないこと。それでも一年に一度のこの日には、少しだけ相手について優しく考えてみてもいいのかもしれない。五年後でも十年後でも、母と娘が一緒においしいお寿司を食べられるように。
思えば私の母親もそうだった。余裕のある時とない時があった。
手抜きのレトルトカレーの日もあれば、優しいおかゆモードの日もあった。
そのどちらもあたたかく、きっと母親のぬくもりには違いないのだ。
―了―