第五章 重い扉

 結局寝付けない一夜が明けて金曜日。時刻は午前7時。朝顔ハイツは無遠慮な朝日を浴びておぼろげな輝きを見せている。
 1階の廊下で待ち構える警部と私。互いに何も言葉はない。沈黙だけの時間が過ぎ、できるならこのままその時が訪れてほしくないとさえ思ったが…無情にもあのハイヒールの足音は聞こえてきた。
「おはようございます」
 まず声を投げたのは警部。彼女は歩みを止める。
「少しお話よろしいでしょうか」
「悪いんですけど、またにしてください」
 昨日以上に面倒くさそうな態度が返される。
「どうしてもお話がしたいんですが」
「疲れてるんですよ」
「とても大切なことなんです、下田綾菜さん」
 あえてなのか、低い声は彼女のフルネームを呼んだ。仕事上がりのその手には今朝もスポーツバッグが提げられている。警部はそれを指差した。
「そのバッグにはお仕事で使う化粧道具や衣装が入ってるんでしたね。昨日お部屋にお邪魔した時、あなたはおっしゃいました…衣装のカツラが一つ足りないことでスナックのママから叱られたと」
「ちょっと、何なんですかいったい」
 お構いなしに話しを始める相手を綾菜は睨む。しかしそれさえお構いなしで次は質問が放たれた。
「なくなったカツラとは、黒いオカッパですね?」
「そ、そうですけど。それが何です?」
「ならば私はどうしてもあなたと今お話をしなければなりません」
 指差していた手を下ろすと、警部は「お願いします」と頭を下げた。私も従う。
 早朝の空気に流れる静寂。彼女の柑橘系の香水は今日もきつめだった。そのままの姿勢でじっとしていると、やがてあきらめたような溜め息。
「早くしてくださいね」

 このまま廊下で立ち話というわけにはいかない。一方で綾菜の自宅の部屋はこちらも都合が悪い。彼女にお願いしてアパートの空き部屋を使わせてもらうことにした。部屋に戻って荷物を置くと、若き大家はすぐに星のキーホルダーが付いた鍵を持って不機嫌そうに出てくる。そして「あたし、眠いんですからね」と107号室のドアを開けた。
 中に入ると確かに空室。八尋そよかの部屋と同じ間取りだが、家具が何もないせいでがらんと広く感じる。ただ空気はさほど淀んでおらずほこりっぽくもない。
「ここはつぼみさんが入浴に使ってらっしゃる部屋ですよね」
 私が尋ねた。
「そうです。空き部屋だから使わせてますけど、電気代とか水道代が余計にかかるのは勘弁してほしいですよ。そんなことよりさっさとお願いします。あたしに何の話ですか?」
「では」
 椅子もソファもないため、三人立ったままで警部の語りが始まった。
「今週水曜日のことです。午前11時、カメリア公園の出入り口の石段で男性が突き落とされました。被害者は堀川さんという寿司職人です」
「それなら近所でも噂になってます。201号室の八尋さんが逮捕されたんですよね。あたしは見てないですけど、八尋さんが作ったテレビ番組にその堀川って人が出てたって聞きました」
「『はにかみ屋さんのお寿司屋さん』というドキュメンタリーです。とても良い番組でしたよ。今度再放送もあるのでぜひご覧になってください」
 低い声は明るく言ったが彼女はにこりともしない。
「説明を続けます。道路を挟んだ斜め向かいの交番から、警察官が犯行の瞬間を目撃しました。昨日一緒にお部屋にお邪魔した美濃巡査です。彼女が見た犯人の外見的特徴は確かに八尋さんと一致しています。小柄、ワンピース、そして…オカッパ頭」
 綾菜の目がわずかに見開く。
「犯人は堀川さんを突き落とした後、そのままこのアパートへ逃げ込んで行きました。間もなく救急車が到着して、野次馬の中にいた八尋さんがその場で現行犯逮捕されたんです」
「だから、それがどうしたんですか。あたしとは関係ありません」
「関係はあるんです。先ほど伺ったオカッパのカツラのことで私は確信しました。犯人は八尋さんではない別の人物だと」
「あたしがそのカツラをかぶって突き落としたって言うんですか? 勘弁してくださいよ。堀川なんて人に会ったこともないし、11時ならあたしは疲れて部屋で爆睡してました」
「あなたじゃ…ないんです」
 せつなそうに返された声。私は奥歯を噛みしめる。ついにこの時が来た。真実と向き合うべき時が来てしまったのだ。
 警部は告げる…「つぼみさんなんです」と。

 まるでこの部屋だけ深海に沈没してしまったかのようだ。玄関の外からは朝の動きを始めた住人たちの気配が感じられたが、室内は湿った静寂に包まれている。綾菜は上半身をわなわなと震わせた後、話の先を続けない警部に一歩詰め寄った。
「ちょっとあんた、何言ってんの? ふざけないでよ」
 言葉はきついが、その声も挙動も明らかに動揺している。
「つぼみが犯人? あんたバカじゃないの? あの子がそんなことするわけない…っていうか、有り得ないでしょ。どう考えても変でしょ。頭おかしいんじゃないの?」
「まずは目撃された犯人が八尋さんではない根拠をご説明します」
 全く論理のていをなしていない彼女に対し、警部の言葉はあくまでも理路整然としていた。
「突き落とされた堀川さんのポケットから、八尋さんの部屋の合鍵が発見されました。ただし合鍵が入っていたのはズボンの左のお尻のポケット。左手が不自由な堀川さんがそこに物をしまうことはできません」
 ゆっくり右手の人差し指が立てられる。
「 つまり合い鍵は、犯人が仕込んだ偽の証拠です。八尋さんと堀川さんに男女の関係があることを臭わせ、警察の疑いを八尋さんに向けさせるために。倒れた堀川さんのそばに犯人がしゃがんでいるのを美濃巡査が見ています。その時に仕込んだのでしょう。
 八尋さんが犯人なら、そんなことをするはずがない」
「だ、だからって、どうしてつぼみなのよ」
「犯人は他にも、八尋さんに罪を着せるために様々な工作をしています。事件の前夜に八尋さんのパソコンのアドレスを使って堀川さんに呼び出しのメールを送ったのもそう、事件の後に八尋さんの洗濯機の中に犯行の時に着ていたワンピースを仕込んだのもそうです。
 こんなことができるのは、201号室に自由に出入りできる人物。つぼみさんはお家のバスルームを使うのが嫌でこの部屋で入浴されています。昨日私たちがお部屋にお邪魔した時もそのために出て行かれた。あの時、つぼみさんが引き出しから取り出されたのがこのアパートのマスターキーですよね。今、あなたがその手に持っていらっしゃる」
 確かに綾菜は先ほどこの部屋のドアを開けた時に用いた鍵をそのまま右手に握っていた。警部に指摘され、星のキーホルダーが小さく揺れる。
「つぼみさんは自由にマスターキーを使えた。だから八尋さんの部屋にも出入りできた。間違いありませんね?」
「だ、だからって」
「それだけじゃありません。あなたがお仕事で色々なカツラを持っていることもつぼみさんは知っていた。事前にオカッパのカツラをあなたのバッグから抜き取って保管し、八尋さんの髪形に似せて切り揃えていた。
 八尋さんは仕事が忙しくて留守も多い。つぼみさんは事件前日の夜に201号室に侵入、部屋のパソコンから堀川さんに呼び出しのメールを送り、八尋さんのワンピースと部屋の合鍵をくすねて準備完了。
 そして事件当日の水曜日、長い髪をまとめ、オカッパのカツラをかぶり、ワンピースを着て公園出入り口の木陰に潜伏。やがて園内を横切って堀川さんがやって来る。彼が石段に差し掛かったところで、木陰から飛び出して背中を押して突き落とす。道路の向かいの交番から目撃されることも計算に入れていたのでしょう。
 さらに倒れた彼のポケットに合い鍵を仕込んでこのアパートへ逃走。騒ぎを聞きつけた八尋さんがおもてに出たのを確認して再び201号室に侵入、洗濯機の中に着ていたワンピースを仕込んで自分の部屋に戻ったんです。あなたは爆睡していて気付かなかったかもしれませんが」
「嘘よ」
 綾菜が小さく言い、今度は大きく「嘘よ!」とくり返した。
「あの子はまだ中学生なのよ」
「八尋さんはかなり小柄な女性です。標準体型の成人女性が彼女に返送することはできません。しかし、中学生の女の子ならできる」
「そんなの、こじつけだわ」
 綾菜はまだ納得していない。そこで私も口を開いた。
「つぼみさんは腰までの綺麗なストレートヘアですよね。普段、縛ったりお団子にしたりすることはありますか?」
「ないけど、それが何?」
「事件の直後、私はこのアパートの廊下でつぼみさんを見掛けました。警察の動きが気になって、つぼみさんはちらちらこちらを覗いていたんです。そして廊下を立ち去った時の後ろ姿で、つぼみさんの髪には癖がついていました。あれは一度ゴムで縛って小さくまとめたからついた癖。つまり、オカッパのカツラをかぶるために…」
「適当なこと言うな!」
 鼓膜を奪われそうなほどの怒声だった。彼女は呼吸を荒げながら続ける。
「た、体型が似てるとか、髪の毛に癖がついてたとか、マスターキーが使えたとか、だからって何? そ、そんなのちっとも証拠にならないでしょ! 全部勝手な推測よ」
「証拠は…あります」
 丁寧に答える低い声。そう、感情的になってはいけない。これは闘いではないのだ。これは…。
「実は一つ不思議なことが起きていましてね。事件の日、八尋さんは午前11時ジャストに炊飯器のボタンを押しました。その炊飯器で3合のお米が炊き上がるのにかかる時間は五十分なんです」
 険しかった綾菜の顔が素っ頓狂になる。当然だ。いきなりこんなことを言われてもわけがわからないだろう。
「だから本来なら11時50分に炊き上がりのアラームが鳴るはずでした。しかし、実際にアラームが鳴ったのは12時20分、三十分も後なんです」
「あんた、いったい何の話しをしてんのよ。そんなの、炊飯器が壊れてたんでしょ」
「いえ、壊れていません。壊れて八十分も炊いたらカチカチのごはんになってしまいますよ。炊き上がったのはちゃんとホカホカのごはんでした。ちなみに、その時刻に停電があったわけでもありません」
 わずかに笑む変人上司。あきれて綾菜の勢いも弱まった。
「ではここでクエスチョン、どうして炊き上がりの時刻がずれたのでしょう?
 先ほども言いましたように、犯人は事件の後、八尋さんがおもてに出たのを確認して201号室に侵入しました。偽の証拠のワンピースを仕込むためです。ただ焦っていた犯人は床に置いてあった炊飯器を蹴飛ばし、コンセントを抜いてしまった。いずれ警察が家宅捜索をした時、コンセントの抜けた炊飯器がそのままになっているのは不自然です。誰かが部屋に侵入したのではと疑われるかもしれない。だから犯人は慌ててコンセントを挿し、ボタンを押し直した」
「ああ、それで三十分ずれたんですね。でもそれが何なんですか?」
「八尋さんがおもてに出た直後に犯人が部屋に侵入したとすれば、その時刻は11時過ぎ、11時05分とか11時10分とか。仮にその時刻にボタンを押しなおしたとしても、炊き上がるのは五十分後の12時頃。12時20分にアラームが鳴ることは有り得ません」
「だったらもっと遅い時刻にボタンを押し直したんでしょ。五十分かかるんなら…ええと、11時30分にボタンを押せばぴったり合うじゃない」
 彼女も渋々炊飯器問題に向き合う。
「ところがそうではないんです。実はある人が、11時15分から私たち警察が来るまでの一時間、ある事情でずっと2階の廊下にいらっしゃったんです。その間、201号室から誰も出てこなかったとその人は証言しています。もちろん私たちはくまなく調べましたが、201号室には誰も隠れていませんでした。
 となるとおかしいですよね。おっしゃったように12時20分に炊き上がるためには11時30分に炊飯器のボタンを押さなくてはいけない。しかし犯人は11時15分よりも前に201号室を立ち去っているんです」
「知らないわよ…っていうか、そんなのどうでもいいわ」
「どうでもよくないんです。犯人は11時15分よりも前にボタンを押し直して立ち去った。ただこの時、間違ったボタンを押してしまったんですよ。フフフ、私もうっかりしていました。炊飯器には通常の炊飯の他にもう一つ機能がある。それは…」
 立てていた指がパチンと鳴らされる。
「おかゆモードです」
 唖然とする綾菜。私も身震いした。昨夜のテレビ局での越前翔子との雑談が、まさかこんな形で役に立とうとは。
「おかゆモードとはその名のとおり、おかゆを作るための機能です。当然通常の炊飯の時よりもたっぷり水を入れなければなりません。でももしも普段の水の量でおかゆモードで炊いてしまったらどうなるか? そう、時間はかかりますがほぼ通常のごはんが炊き上がるんです。
 実際に試してみました。八尋さんの炊飯器に3合のお米と普段と同じ量の水を入れておかゆモードを押すと、七十分で炊き上がりました。少しだけ柔らかかったですが、見た目には通常のごはんと変わりません。
 これで計算が合いましたね。犯人は11時10分におかゆモードのボタンを押した。だから七十分後の12時20分に炊き上がりのアラームが鳴ったんです」
 もはや反論はない。流れるように警部の語りだけが続く。
「八尋さんが11時ジャストに押したのは通常の炊飯のボタンです。あの日のお昼、八尋さんはカレーを食べようとしていました。ちゃんとキッチンのテーブルの上にレトルトカレーの箱が用意されていました。カレーを食べるのにおかゆを作る人はいません。
 そして通常の炊飯で炊いている途中でおかゆモードに切り替えることはできません。このことからも、犯人が一度コンセントを抜いてボタンを押し直したことは間違いないんです。
 あの炊飯器は八尋さんが学生時代から使っている古い物で、ボタンの表記も薄れて読みにくくなっていました。焦っていた犯人が押し間違えても無理はない」
 低い声はさらに圧力を増していく。
「つまり何が言いたいかと申しますと、この事件の犯人は炊飯器のおかゆモードのボタンを押した人物。当然証拠は指紋です。ムーン、結果は?」
「おかゆモードのボタンから一つだけ指紋が出ました。八尋さんの物ではありません」
 綾菜の顔色が変わった。
「その指紋は、つぼみさんが入浴に使われているこの部屋のドアノブから出た指紋と…一致しました」
 途中で声が立ち止まりそうになるのをなんとか言い切る。
「あ、え、そ、そん…」
 まるで呻きのように、彼女は必死に何かを言おうとしている。
「そ、そのボタンの指紋が、事件よりも前に着いてた可能性だってあるでしょ。 つぼみが八尋さんと仲良くしてるのは、廊下で見掛けたことがあるから知ってます。前にも八尋さんのお部屋に遊びに行ってたんならその時に」
 それは藁にもすがる思いで放った反論だったのだろう。確かにその可能性は私も考えた。しかし…。
「有り得ません」
 警部が言い切る。
「確かにつぼみさんは八尋さんのお部屋に遊びに来たことがあるそうです。しかし八尋さんは、炊飯器を使う時はごはんの神様に感謝して、炊飯器を綺麗に磨いてからごはんを炊くそうです。事件の朝もそうしたとおっしゃっていました。前に触れた時の指紋がくっきり残っているはずがないんです。
 残念ですが、おかゆモードのボタンに残る指紋の人物が11時10分にそれを押したと考えるしかありません。当然その時刻に201号室に忍び込んでワンピースを仕込んだのもその人物、つまりは堀川さんを突き落とした犯人も…その人物に他ならないのです」
 なんたるロジックだ。私は全てを見通した刑事を見る。ボロボロのコートとハットをまとった天才は、ただ哀しい左目で絶句する女を見つめていた。それでも私は知っている。更なる慟哭を、彼女に与えねばならないことを。

「…どうして?」
 どれくらいの時間が過ぎただろう。ぽつりと呟く綾菜。
「どうして、あの子がそんなことをしたんですか?」
 警部と私を順に見る不安な瞳。当然の問い掛けだ。犯行の動機…警察にもずっとそれがわからなかった。
「堀川って人に何の恨みがあってあの子は。それに仲良くしてた八尋さんに罪を着せようなんて」
「それは…その」
 開きかけた警部の口がまた閉じる。ためらっている。この人にもそんな感情が備わっているのだ。ならば人の心を持たない自分が出張ろう。
「ご説明します」
 私が言うと、変人上司はわずかに驚きを見せた。
「ムーン、君…」
 構わず続ける。
「よろしいでしょうか。つぼみさんは八尋さんと堀川さんの両者に憎悪を向けていると考えられます。ただ、今あなたもおっしゃったように、つぼみさんと八尋さんは仲良くしていました。年明けから学校に通えなくなった後も、八尋さんはずっとつぼみさんの相談相手でした。
 綾菜さん、つぼみさんが学校に行けなくなった…いえ、言いなおします。行かなくなったきっかけをご存じですか?」
 目を逸らす彼女。こちらもあえて黙る。警部も何も言わない。せつない沈黙の後、やがて弱い声が返される。
「きっと、あたしのせいなんでしょうね」
 私は頷きとも否定とも取れるようにわずかに顔を動かした。
「あたしが…男とお風呂に入ってるのを見ちゃったから」
 もしかしてと思っていたが、やはり気付いていたのか。
「あの日、バスルームからリビングに戻ったら、あの子がそこにいた形跡がありました。後から学校に聞いたら月経痛で早退してたって。まずいとこを見せちゃいました」
「一緒にお風呂に入られていたのはあなたの…」
「男です。恋人とかパートナーとかじゃありません。いわゆる…男です」
 綾菜はまた警部と私を順に見る。今度は少し強気な瞳。
「刑事さんたち、どうしてそんな顔してるんですか? あたし…そんなに悪いことしてます? 独身だし、たまたまあの子に見られちゃったのはまずかったですけど、あたしだってまだ女なんです。男がいたらダメなんですか?」
「いえ」
 私は一切の共感を含まず返す。
「そりゃ思春期のあの子にとってはショックですよね。逃げた父親のこともあの子はよく思ってないし、母親にはただの母親でいてほしかったんでしょうから。まあ…気持ち悪いって思われてもしょうがないかな」
「それでつぼみさんは自宅のバスルームを使うのを嫌がるようになったんですね」
「ええ。母親と男がイチャついてたお風呂なんて入りたくないですよね」
 そこで彼女は瞳を潤ませ、口元だけをほころばせた不自然な笑顔になる。
「アハハ、あたし、これでも頑張ってるつもりですよ。旦那が借金だけ残して女と逃げて、一人でつぼみを育てて、家賃収入だけじゃ首が回らないから夜中にスナックでも働いて…。自分の時間なんてほとんどない。我慢して我慢して、これ以上我慢しろなんて無理です。
 だから、少しくらい羽を伸ばしたいって思っただけ。
 でも、でもそのことでどうしてつぼみが八尋さんと堀川さんを憎むんですか? あたしを嫌うのはわかるけど、お二人とは関係ないですよね」
「同じショックを受けたからです」
 意を決したように警部が口を開いた。
「事件の三日前の日曜日のことです。つぼみさんは町のケーキ屋に出向いて抹茶ケーキを買っています。ケーキのメッセージカードには『Dさんへ いつもありがとう。もう大丈夫。』。このDというのはディレクターをしている八尋さんのこと。つぼみさんは、八尋さんに日頃の感謝を込めてサプライズのプレゼントを計画したんです。
 こっそり部屋に入って、キッチンのテーブルの上にでもケーキを置いておこうとしたんでしょう。しかし彼女は聞いてしまう…バスルームからの声を」
 力なくまた右手の人差し指が立てられた。
「それは八尋さんと堀川さんの声でした。大人の男女の声がお風呂から聞こえる…あの日のことがつぼみさんの頭にフラッシュバックしたでしょうね。母親が知らない男性とバスルームにいる声を聞いてしまったあの日のことが」
 思わず私は拳を握る。爪が強く食い込んだ。
「ショックだったでしょう。信頼して相談していた八尋さんにまで同じことをされてしまった。つぼみさんは八尋さんが作った番組は全て見ていたそうですから、堀川さんのこともご存じだったでしょう。あんなにあたたかい番組を作っていた裏で、二人は男女の関係だった。大人の汚さにきっと傷ついたはずです。
 メッセージカードの『もう大丈夫』という言葉から見ても、つぼみさんは中学校への通学を再開しようとしていたと考えられます。ようやく立ち直りかけた心が、また押し潰されてしまったんです。
 実際に翌日の月曜日、廊下で声を掛けた八尋さんをつぼみさんは無視し、冷たい憎悪の視線を向けています。慕っていただけに、裏切られたショックが大きかったのでしょう。
 …そしてあの子は、汚い大人たちを制裁する計画を立て、実行に移したのです」
 それがこの事件の動機。清純な子供から穢れた大人への攻撃。
「そんな…」
 綾菜は腰が砕けたようにペタンとその場に座り込む。拳を握ることに加え、私は歯を食いしばって耐え忍ぶ。逃げてはいけない。この場から絶対に逃げてはいけない。
「じゃあやっぱりあたしのせい…あたしが男とお風呂なんかに入ったから」
 ずっと潤んでいた彼女の瞳からついに大粒の涙がこぼれる。それは頬を滴り、仕事用の衣装に落ちた。
「いえ」
 そっと指を下ろす警部。
「そうとは思いません。これは…不幸な偶然が重なった結果なのです。
 実は、八尋さんと堀川さんは男女の関係ではありません。だからけっして一緒に入浴することもない」
 涙目が警部を見上げる。
「八尋さんは文字起こしをしていただけなんです。専修の水曜日に堀川さんをインタビューした際の録音音声を再生して、スマートフォンの機能を使って文字に変換していた。雑音が入らないように、それをバスルームでしていただけなんです。その時刻、ボイスレコーダーとスマホだけをバスルームに残して、彼女は買い物へ出掛けていたそうです。先ほど本人に確認しました。
 つまり、つぼみさんは誤解をされただけなんですよ」
「ああ」
 綾菜が一瞬だけ嘆き、すぐに床にその両手をつく。
「あたしを逮捕してください」
 涙声が室内に散った。
「娘にこんなことをさせてしまったのは全部、全部あたしのせいなんです。娘は悪くないんです。だから、代わりにあたしを逮捕してください。お願いします」
「やめてください、お母さん」
 警部が片膝をつく。私も従った。
「確かにつぼみさんは悪くない。でも、あなたも悪くありません。この事件は、誰も…誰も悪くないんです。私があなたと話したいと思ったのは闘うためじゃない。つぼみさんを…あなたの娘さんを救済するために一緒に考えた買ったからなんです」
「お願いします、お願いします、私を逮捕して」
 彼女は壊れたレコードのようにくり返す。それは紛れもなく最愛の我が子をかばおうとする母親の姿だった。
 警部と私がなだめても彼女は止まらない。その時…。
「もういいよ」

 玄関のドアが開いて声がした。見ると、そこにはつぼみと美濃が立っている。
「つぼみ…」
 顔を上げる綾菜。警部と私も予想外のことに言葉を失う。
「もういいよ、ママ。かばってくれてありがとう」
 少女は腰までの黒髪を揺らしてゆっくり近付いてくる。そしてリビングに入ると、警部を見ながら告げた。
「犯人は私です。私を捕まえてくださ…」
「ダメよ!」
 言い終るよりも早く、母親は娘を抱きしめた。

 下田つぼみは母親にしっかり寄り添われ、そのままカメリア公園前交番で事情聴取を受ける運びとなった。慌ててやって来た吉田が警部と一緒に取調室に入る。私は美濃と共に外で待った。大隅は非番とのことで、交番の中には他に誰もいない。おもてには優しい春の陽光の中、変わらずやわらかい風が吹いている。
「よければどうぞ」
「あ、どうも。いただきます」
 美濃が振る舞ってくれたお茶を一口。彼女も自分の湯呑みを口に運んでいる。しばらくはそのまま無言の時が流れたが、やがて彼女が言った。
「あたし…完全に勇み足でしたね。あたしが八尋さんを現行犯逮捕なんかしなきゃ、こんなややこしいことにならなかった」
 私は小さくかぶりを振る。
「ポケットの合鍵のこともありますし、遅かれ早かれ八尋さんは捜査線上に上がったはずです。あなたは一生懸命仕事をしただけです。おかげで早期解決につながったんじゃないでしょうか。
 偉そうなこと言ってごめんなさい。あの、私もたくさん失敗してます。立ち直れないくらいのこともありましたけど…なんとかやってきました。美濃さんはこれからの人じゃないですか」
「ありがとう…ございます」
 メガネの奥の大きな瞳がわずかに和らいだ。私も、まさか自分が先輩面でこんなことを言うなんて思いもしなかった。
「それに、美濃さんが促してくれたおかげで、つぼみさんは全てを話してくれたんです。一番の功労者ですよ」
「そんなこと」
 デスクに湯呑みを置く小さな手。
「そんなこと…ないです。ただ、あの子のことが気になって様子を見に行ったら、107号室のドアの前に佇んで青い顔してたから、どうしたのって声掛けたんです。そうしたら『ママが警察の人と話してる』って言ってて。確かに部屋の中からカイカンさんとムーンさんの声が聞こえたので、しばらく二人でそのまま立ち聞きしました。
 カイカンさんの推理を聞いてるつぼみちゃんの顔を見てたら、何が真実なのかすぐにわかりました。だから、本当のことを言おうって、あたしは勧めただけです」
「つぼみさんは素直にそれに応じてくれたんですね」
「最初は母親への陰性感情も強くて、少し渋ってたけど、あたしが約束したら応じてくれました」
「約束?」
 私の問い掛けに新米警察官は数秒の逡巡を見せた。そして弱い笑みで答える。
「あの、あたしの名前、ローズって読むんです。暖炉の炉に渦巻の渦でローズ。母親が薔薇の花が好きだからって理由で名付けたそうなんですけど、まったく迷惑しちゃいます。あたしは全然薔薇が似合うようなキャラじゃないし、学校では男子から『ミノロース』ってからかわれるし。それで母親のことをずっと恨んでました。
 そのことをつぼみちゃんに伝えて、あたしも母親を許せるように頑張るからって約束したんです。お互い親には苦労するけど許してあげようねって。そうしたら、ちょうど綾菜さんが必死につぼみちゃんをかばう声が聞こえてきて…。つぼみちゃん、自分から玄関のドアを開けたんです」
 そういうことだったのか。彼女が恥ずかしい悩みを打ち明けてくれたことで、少女は心の中の重い扉も開くことができたのかもしれない。もう一度大人を信じてくれたのかもしれない。あるいは…つぼみとローズといういずれも花にまつわる名前に、不思議なシンパシーが生まれたのか。
 私たちがまたしばらく黙ってそれぞれお茶を口に運んでいると、奥の取調室のドアが開いて警部だけが出てきた。私も美濃も湯呑みを置いて立ち上がる。
「二人ともお疲れ様」
「お疲れ様です、カイカン警部。あの、つぼみちゃんは?」
 先に美濃が尋ねた。
「素直に全部話してくれてます。それに、お母さんも」
 穏やかに低い声は答えた。
「綾菜さんが男性とバスルームにいたのは本当ですが、いやらしいことをしていたわけじゃなかったみたいです。その男性は友達の紹介で知り合った人で、ちょっと年上ではあるけどとっても優しい人で、奥さんを病気で亡くしてて、何度か会ううちに綾菜さんも好意を抱くようになっていった。ただ正式に交際するのは、ちゃんとつぼみさんに伝えてからにしようと思っていたそうです。
 ただあの日は二人で会っていたら通り雨に降られてずぶ濡れ、それで慌てて男性を部屋に連れて行った。男性にバスルームの使い方を説明してたら、誤ってシャワーから水が出て二人してもっとずぶ濡れ。それで一緒に大笑い。年甲斐もなくはしゃいでしまったって、綾菜さんはおっしゃってました。つぼみさんはたまたまそこを聞いてしまったんですね。
 綾菜さんがその男性に好意を寄せたのは、彼ならつぼみさんのお父さんになってくれるかもという期待もあったからだそうですよ」
「そうだったんですか。それで綾菜さんとその男の人は…」
「それ以来会わないようにしているそうです」
 警部の言葉に美濃は「そうですか」とやや肩を落とした。
「警部、つぼみさんは何かおっしゃっていましたか?」
 私が尋ねる。
「そうだね。しばらくは黙ってお母さんの話を聞いてたけど、一番最後に言ってたよ」
 少しだけ笑んで、低い声は告げた。
「『ママ、もう我慢しないで』って」