1
「よしムーン、もう一度事件の情報をまとめるぞ!」
木曜日の昼下がり、警視庁のいつもの部屋に低い声が響いた。私は強く頷く。
「はい。あの、時系列で整理してはいかがでしょう」
「いいね。ではホワイトボード準備!」
準備も何もいつも部屋の隅に置いてあるではないか。私はその前に立ち、マジックを構えた。
「いつでもいけます」
「よし。じゃあ事件当日の出来事を時系列で…いや、その前にあれを忘れちゃいけないな。まずは事件前日の夜、八尋さんから堀川さんに呼び出しのメールが送られた」
「はい」
私はマジックを走らせる。
「文面は『明日11時にうちのアパートへ来てください。大事な話があります。』だったね。送信時刻は確か…午後10時10分」
「その時刻でした。送信元のメールアドレスは八尋さんがパソコンで使っているものでしたが、彼女はそんなメールは送っていないと証言しています」
「では続いて事件当日の水曜日。午前11時ジャストに堀川さんから八尋さんに電話が掛かってくる。内容は『公園の出口に着きました。今から行きます。』というものだ。その電話を受ける直前に、自室で炊飯器のボタンを押したと八尋さんは証言している」
「はい。そして通話中の堀川さんを何者かがカメリア公園の出入り口の石段から突き落としました」
自分で言いながら私は板書を続ける。
「その光景を道路の向かいの交番から美濃巡査が目撃します。彼女はすぐに倒れた堀川さんに駆け寄って救急通報、記録ではこれが11時02分です」
「そうだね。犯人はそのまま朝顔ハイツへ逃走。救急車が到着して堀川さんが運ばれた後、野次馬の中にいた八尋さんを美濃巡査が現行犯逮捕したのが11時08分、これも所轄の報告書に書いてあった」
「はい。八尋さんは通話の途中で堀川さんが『うわあ』と声を上げたことに驚いて、急いで部屋からおもてに出たと証言しています。そして交番に連れていかれた八尋さんは容疑を完全否認して緘黙。警部を呼べば話すと言ったため…」
「フフフ、相変わらず無鉄砲な人だよね。仕方なく吉田警部補から警視庁に応援要請が入って、私たちが慌てて駆け付けたのが…何時頃だったかな」
「11時40分でした。交番に入る前に腕時計を見たので憶えています」
一応それも書いておく。
「よし。交番で八尋さんと話した後、私と君で八尋さんの部屋に行った。そして炊飯器の炊き上がりのアラームが鳴ったのが…」
別に仲良しさんではないが、警部と私は同時に言った。
「12時20分」
思わず顔を見合わせてから私は咳払い。そしてそれも板書する。
「この後に美濃巡査が来て、洗濯機から例のワンピースを発見…という流れだね」
「はい」
それも追記して、私はマジックを置いた。改めて並んだ文字を読む。
火曜日
午後10時10分、八尋から堀川へ呼び出しのメール。 *八尋本人は否認。
水曜日
午前11時00分、堀川から八尋へ到着を告げる電話。その直前に八尋は部屋で炊飯器のボタンを押す。通話の最中に堀川は石段から突き落とされる。八尋は驚いておもてに出る。
11時02分、事件を目撃した美濃が堀川に駆け寄り救急通報。
11時08分、堀川が搬送され野次馬の中にいた八尋を美濃が逮捕。
11時40分、カイカンとムーンが交番に到着。
12時20分、八尋の部屋で炊飯器の炊き上がりのアラームが鳴る。その後で美濃が訪れ洗濯機から薄桃色のワンピースを発見。
改めて整理すると、特段おかしな箇所はない…そう、ただ一点を除いては。
「やっぱり炊飯器問題が謎だね」
ホワイトボードの前に立つと、口に昆布をくわえたまま警部が言う。
「八尋さんによると、普段は3合なら五十分で炊き上がる。11時ジャストにボタンを押したのなら、11時50分にアラームが鳴るはずだ。でもそれが12時20分に鳴った。どうして三十分もずれたんだろう」
「警部、確かに不思議ですけど、それが事件と関係あるのでしょうか」
「事件と同じタイミングで生じた謎であることは間違いない。このタイミングはただの偶然なのか…どうしても気になるんだよ。この炊飯器が赤の他人の物ならまだしも、被疑者の八尋さんの物なんだからね」
そう言われると私も気になってくる。
「やはりアパートが停電したのでしょうか。あるいはタイマーで12時20分に炊けるようにセットしておいたとか」
「停電の情報はないし、八尋さんはタイマーは使ってないって言ってる。間違いなく11時ジャストに手動でボタンを押したと証言してるんだ」
昆布をしまう警部。ではどうなる? もしもこの事象が事件と関連して生じたものだとすると…。少し考えてから、私は頭に浮かんだことを口にしてみる。
「例えばこういうのはいかがでしょう。
八尋さんが犯人ではないとすると、洗濯機から見つかった薄桃色のワンピースは犯人が仕込んだ物ということになります。犯人は堀川さんを石段から突き落とした後、その罪を八尋さんにかぶせるために犯行の時に着ていたワンピースを彼女の部屋の洗濯機に隠した。
それを裏付ける根拠もあります。八尋さんは、室内に衣類が脱ぎ散らかされているから片付けてほしいと私に頼みました。でも実際に部屋に入ってみると、リビングの床に服なんて落ちてませんでした。せいぜい脱衣所に靴下が片方だけ落ちてたくらいです。
これは、ワンピース一着だけが洗濯機の中にあるのは不自然なので、犯人が脱ぎ散らかされた服も拾って洗濯機に放り込んだからではないでしょうか」
「カムフラージュか、ナルホド。その方がいかにもワンピースを洗濯物の中に隠した感じになるもんね」
前髪に隠れていない左目が興味を示す。
「靴下が片方だけ脱衣所に落ちていたのも、それを裏付けている。八尋さんが脱衣所で靴下を脱いだのなら、さすがにそこにある洗濯機に入れたはずだ。脱衣所に落ちていたのは、犯人が脱ぎ散らかされていた衣類をまとめて脱衣所に運んだ時に落としたから。そう考えれば納得がいく」
私は頷く。
「でもムーン、その推理と炊飯器がどうつながるんだい?」
「犯人が201号室に忍び込んだとすると、それはいつのことでしょうか。八尋さんは堀川さんからの通話が切れた後でおもてへ出ました。犯人はそれを確認してから忍び込んだと考えられます。
部屋に入った犯人は、着ていたワンピースを洗濯機に隠し、さらに室内に落ちている衣類も拾い集めてそれも放り込んだ。八尋さんがいつ戻って来るかわからないわけですから、犯人はこれらの作業を焦って行なったはずです。
…だから、うっかり炊飯器を蹴飛ばしてしまったのではないでしょうか」
「いいぞムーン」
低い声を弾ませて右手の人差し指が立てられる。
「見事な論理展開だ。あの炊飯器は床に置かれていた。私も部屋に入った時、蹴飛ばしそうになって君に注意されたね。焦って服を拾い集めていた犯人なら蹴飛ばしてもおかしくない」
「はい。そして蹴飛ばされた表紙にコンセントが抜けた。犯人は慌てて挿しなおし、改めて炊飯のボタンを押した。これが三十分のタイムラグの正体です」
「お見事!」
思い付きだったが、うまく筋が通ったようだ。しかしほっとする私に警部は続けた。
「でも、どうかな」
嬉しそうな口元。
「ムーン、犯人が炊飯器のボタンを押しなおしたとして、その具体的な時刻はいつかな?」
「それは…12時20分にアラームが鳴ったわけですから、お米が炊きあがるのに必要な五十分を逆算すると、11時半頃ということになります」
「そうなるよね。でもそれはおかしくないかい?
さっき君が言ったように、八尋さんがいつ部屋に戻って来るかわからないわけだから、犯人は急いで作業したはずだ。八尋さんは11時ジャストの通話の直後におもてへ出た。仮に犯人が忍び込んだのが11時05分だとして、11時半までは二十五分もある。服を拾い集めて洗濯機に放り込むのにそんなにかからないよ」
「それは確かにそうですが、焦っていて余計に時間がかかったのかもしれません」
「そんなに焦っていたのなら、作業の途中で逃げるんじゃないかな。ワンピースだけ放り込めば、一応の目的は達成なんだから。いつ人が来るかもしれない場所に三十分近くもとどまるのは相当なストレスだよ」
「もしかしたら、八尋さんが美濃巡査に逮捕される姿を犯人は窓から見て、しばらく戻って来ないとわかったからのんびり作業したんじゃないですか?」
「おいおい、八尋さんが逮捕されるのを見たんなら犯人はもっと焦るだろう。いつ警察が部屋を調べにやって来るかわからないじゃないか」
それも道理か。ではどうなる? 11時半に犯人が炊飯器のボタンを押し直したという私の推理は間違いか?
「せっかくのロジックを否定してごめん。まあ人間はロボットみたいに合理的に動けるわけじゃないからね、本当に頭が混乱して11時半まで犯人が201号室にとどまったのかもしれない。君の仮説が正しい可能性も十分にある」
この人なりのフォローなのだろうか。警部は優しい声で続けた。
「だから君の推理の裏付け証言を取りに行こう」
「誰の証言ですか?」
立てていた指がパチンと鳴らされる。
「…ロミオだよ」
一瞬思考が固まったがすぐに思い出した。事件の日、警部と私が初めて朝顔ハイツに行った時、2階の廊下で嘆きの声を上げていた男だ。警部はそれをシェイクスピアの悲劇に喩えていた。何よりも脳裏にまず浮かぶのは、男の顔よりもあの緑色のモヒカン頭だが。
「憶えています。八尋さんのお隣、202号室の住人の彼氏でしたよね」
「彼はそこで何をしてた?」
「閉め出されたって言ってました。11時に来る約束だったのが遅刻して、それで恋人がむくれてるって」
「彼はどれくらい遅刻したんだっけ?」
そういえばそれも嘆いていたな。確か…。
「ほんの十五分って言ってたと思います」
答えてから私ははっとする。ということは、11時15分から男はあそこにいた。警部と私が男と会ったのは…腕時計を見たから憶えている、12時15分だ。その一時間、彼はずっとあの廊下にいたことになる。
「君の言うように犯人が11時30分に炊飯器のボタンを押し直したのなら、それ以降に201号室を出たはずだ。となれば11時15分から廊下にいたロミオに必ず目撃されている」
だからロミオとは似ても似つかないっつーの。私が呆れている間に変人上司はすでに部屋の出口に向かっている。
「これから会いに行くんですか?」
「もちろん、善は急げさ」
いったい何が善なのか。ただ、八尋そよかが送検されるまでのリミットは刻々と迫っている。じっとしている場合ではない。私も駆け出した。
2
再び朝顔ハイツへ。202号室のインターホンを鳴らすとモヒカン野郎…もといあの青年は恋人女性と共に部屋にいた。すっかり仲直りしたらしく、こちらが目のやり場に困るほどのイチャつきぶりであったが、彼も、そしてショッキングピンクに髪を染めたその恋人も、快く聴取に応じてくれた。
「だから昨日は11時ちょうどにこの部屋に来る約束だったんすよ。俺、ちょっと遅刻して…最初は五分くらいの遅れだったんす。でも、カメリア公園の前に人だかりができてて、救急車も来てなんだか騒がしかったからついそっちに行ったんす。そしたら頭から血を流したあんちゃんが運ばれてって、その後で婦人警官のねーちゃんが犯人に手錠を掛けたんす。
しかも、しかもっすよ。逮捕されたんはこの部屋の隣に住んでるオカッパ頭のねーちゃんだったからびっくらこいて。何度か廊下で顔を合わせたことがあるから知ってるんす。交番に連れてかれるのをぼんやり見てて、どうしたんだろって考えてたんす。それで結局十五分遅刻したってわけっすよ」
「そんなにお隣の可愛いオカッパちゃんが気になったの? あたしとの約束をほったらかしで?」
「違うよハニー。その、なんつうか、俺の正義感みたいなもんさ。あのオカッパちゃんが逮捕される悪い奴だったら、これから俺がハニーを守らなきゃなんねえだろ? な、そういうことさ。あんなんたいして可愛くねえ、一番はハニーだって」
「もう、ダーリンったら、刑事さんの前で何言ってんの。でも刑事さん、この人の言ってることは本当です。あたし、イライラして時計睨んでたから間違いない。ダーリンが来たのは11時15分でした。それからずっと一時間くらいドアの外で謝ってました」
「あなたが廊下におられた間、誰かが通ったり、部屋から出てきたりしましたか?」
尋ねる警部。
「いや、誰も見てないっすね」
「お隣の201号室にも誰も出入りしてませんか?」
「してないっす。俺は刑事さんたちが来るまでずっと廊下にいましたけど、誰も見てません。本当っす。それにしても…」
こちらを見てニヤけるモヒカン野郎。
「女の刑事さん、やっぱり美人っすね。本当は女優なんじゃないっすか?
…あ、いや、違うんだよハニー。これも俺の正義感さ。ハニーより綺麗な女なんていねえって」
「もう、ダーリンのバカ!」
勝手にしてくれ。咳払いして私は尋ねる。
「もう一つ彼女さんに伺いますが、昨日、お部屋が停電しましたか?」
「え? 停電?」
目をぱちくりさせて女は答える。
「ううん、停電なんてないわ。あたしずっとテレビつけてたけど、消えたりしなかったもん」
「俺を閉め出してテレビ見てたのかよ、やれやれだぜハニー」
「あたしを待たせたお仕置きよ、ダーリン」
「まったく可愛い奴だぜ」
「もう、刑事さんたちが見てるわ」
警部と私は苦笑いを交わす。
…と、とにかく必要な証言は得られた。11時15分以降に201号室を出た者がいないのなら、11時30分に犯人が炊飯器のボタンを押し直したという私の仮説は儚く崩れ去るしかない。
二人に礼を言って廊下に出る。壁にあった配電スイッチを確認すると、201号室と202号室はブレーカーを共有していた。彼女が停電を否定している以上、そよかの部屋も停電していないのは確実。よってそのせいでお米が炊けるのに時間がかかったわけでもない。
…論理は完全に破たんした。
*
「すいません警部、余計な手間を取らせてしまって」
朝顔ハイツを出ながら詫びる。
「いやいや、こういった地道な調査が刑事の基本だよ。しかしそうなるといよいよ炊飯器問題はミステリーだなあ」
「純粋に壊れていただけじゃないですか? あの炊飯器、学生時代から使ってるって八尋さんがおっしゃってたじゃないですか。ボタンの文字表記もかすれて読めないくらいでしたし。たまたま五十分の炊飯が八十分かかったんですよ」
「そうかなあ。壊れて八十分も炊いたらあんなにふんわり炊き上がらないと思うけどなあ。ほら、あの時蓋を開けて中を確認したじゃないか。おいしそうに炊けてたよね」
それもそうか。とはいえ、これ以上炊飯器問題に時間を割くのはさすがに不毛だろう。私が無言になると警部も言葉を止める。やわらかい風が吹き抜けた。
「警視庁に戻られますか?」
「そうだね…。あ、大隅さんだ」
ふいに低い声が言った。交番の方を見ると、引退の近い老警官は物差しくらい背筋をまっすぐ伸ばして戸口に立っていた。
「午前中にも会ったけど、一応挨拶しようか」
歩き出す警部。愛車をアパート脇に残して私も従う。ふと道路の向かいを見ると、公園出入り口の石段は現場保存のテープを解かれて日常の風景に戻っていた。
「ご苦労様でございます」
カメリア公園前交番まで行くと、大隅はまた敬礼で出迎えてくれる。
「捜査の進展はいかがですかな」
警部は「それがなかなか」とかぶりを振る。
「そうですか。あの京都弁のお嬢さんが犯人とは思いたくないですが、かといって他の誰かを犯人とも思いたくないですし。まったく、事件というのは嫌なもんですなあ」
「同感です」
無言の上司に代わって私が答える。老警官はそっと春空を見上げて陽光に目を細めた。
「そういえば、今朝美濃さんと話したんですけど」
思い出したように言う低い声。大隅も視線を戻す。
「彼女の下の名前、ちょっと珍しいじゃないですか。暖炉の炉に渦巻きの渦。それでロカさんですかって尋ねたら途端に不機嫌にさせてしまって」
「そりゃあ警部さん、失言でしたな。ハハハ、実は僕も美濃ちゃんが着任したばかりの頃に同じポカをやりまして。親しみを込めて下の名前で呼んだら、急に表情が冷たくなってしまって、慌てて取り繕いましたよ。それ以来美濃ちゃんとしか呼んでません。
若くても女の人は恐いですなあ、ハハハ。あ、こりゃ失敬」
私を見て大隅は頭を下げる。もちろん冗談の範疇だ。
「それと美濃ちゃんには母親の話題もNGですぞ。前にお母さんはどんな人だいって尋ねたら、とてつもなく怖い顔になってましたからな」
「お母さんと何かあったんですか?」
と、私。
「なんだかとても忙しい人だったようでして、子供の頃の美濃ちゃんのごはんはしょっちゅうレトルトや冷凍食品になっとったそうです。ハハハ、食い物の恨みは恐ろしいですからな」
美濃が綾菜に向けた厳し過ぎる眼差しを思い出す。彼女がレトルトカレーに、正確にはそれに頼って家事に手を抜く母親に嫌悪感を持っていたのは、その生い立ちのせいだったのか。
「それに加えて、変な名前を付けられたことを未だに根に持っとるようで」
「それはそれは。でもロカというのはそんなに変な名前ではないと思いますけど」
「警部さん、あれはロカではないんです。読み方は…」
「ただ今戻りました」
まさに噂をすれば。通りの反対側から姿を見せたのは、制服姿の美濃。徒歩での警邏からの帰りらしい。
「特に異常ありませんでした。…あ」
大隅のそばに警部と私がいることに気付くと、彼女は小さく会釈。
「何の話ですか?」
まさか聞こえていたわけではないだろうが、新米警察官はメガネの奥の瞳をじっと大隅に向けた。
「お、お疲れ美濃ちゃん。いや、昨日の事件の捜査について警部さんから伺ってたんだよ」
「そうですか。それでカイカン警部、その後の進捗はどうですか? 八尋さんは自供しました?」
「いえ、完全否認のままです」
彼女の顔が少し曇る。
「まだ…認めないんだ」
「気になりますか?」
「あたしが逮捕したんですから。あ、大隅さん、これパトロールのお土産」
迷いを振り払うように笑みを作ると、彼女は小さな紙袋を掲げた。
「3丁目のお店のチーズケーキです。好きだって言ってましたよね」
「おお、ありがとさん。そうなんだよ、僕がここに来た頃からあるお店でね。憶えててくれたのかい」
「一応」
警邏中に寄り道して買い物…厳密に言えばよろしくないのかもしれないが、それを咎めるほど私は潔癖ではない。これくらいで規律違反になるのなら、隣の変人上司はもはや始末書を束で書くしかない。それに、町に溶け込むことで得られる意外な情報もあるのだ。
「そういえば、そのお店でたまたまつぼみちゃんの話しを聞いたんです」
美濃がこちらを向いた。
「あたしの前にケーキを買ってたお客さんが、つぼみちゃんの同級生のお母さんみたいで、お店のママさんとつぼみちゃんのことを話してたんです。まだ学校を休んでるから心肺だわって。そうしたらママさんがこう答えたんです…『つぼみちゃんなら、この前の日曜日にケーキを買いに来たわよ』って」
あの少女が町に出てケーキを? 警部も興味を示す。
「それであたし、自分がお会計する時にママさんにさり気なく訊いてみたんです。つぼみちゃん、抹茶ケーキを一つ買って行ったそうです。しかも『いつもありがとう。もう大丈夫。』っていうメッセージカードを添えて。元気そうな顔が見られてよかったってママさんは言ってました」
「そいつは本当によかった」
深く頷く大隅。個人情報保護の観点からすれば色々言われてしまいそうだが、たくさんの大人たちが町に暮らす一人の少女のことを気に掛けている。素晴らしいことだ。
「じゃあそのケーキはお母さんへのプレゼントかな」
「大隅さん、それが…」
美濃は言葉を濁す。今朝の親子の雰囲気を見た私にも、とてもケーキを贈る間柄には思えなかった。それとも少女は自ら仲直りの一歩を踏み出そうとしたのだろうか。
「お店のママさんにつぼみちゃんのメッセージカードの宛名を訊いたんです。つぼみちゃんは『Dさんへ』と書いてほしいって言ったそうです」
「Dさん? アルファベットのDですか? イニシャルですかね」
思わず尋ねる私。
「ママさんもそう思って、彼氏かしらってつぼみちゃんに訊いたそうですけど、彼女は『そんなんじゃなくて大切な人』ってはにかんで答えたそうです」
彼女の母親の名前は綾菜。どう転んでもDではない。
「まさか…ダディ」
私が言うと美濃がすぐに否定する。
「父親ってことですか? ないない。だって借金残して逃げちゃった人ですよ。そんな相手に感謝のケーキを贈るはずないです」
それもそうだ。隣を見ると、警部は立てた人差し指に長い前髪をクルクル巻き付けて黙考中。
「お友達の名前だとすると…Dとはまた難しいですな。団十郎とか、伝助とか」
「大隅さんったら、時代劇じゃないんだから。大介くんとか堂本くんとかじゃないですか?」
「おお、そうかそうか」
「今の子はSNSで交流しますから、外国の人かもしれませんよ。デイジーとかディカプリオとか」
「いやいや、案外相手は刑事でダーティ・ハリーとかダイ・ハードかもしれんぞ」
交番コンビは楽しそうに話している。私も考える。つぼみの周囲でイニシャルDの人物…一瞬ダーリンと呼ばれたモヒカン野郎が浮かんだが即時却下。ただケーキを手渡すとなると、その相手はつぼみの身近にいるはずだ。
またやわらかい風が吹く。長い前髪がそよぎ、警部の指が止まった。そして低い声は告げたのだ。
「…ディレクターさん」
3
いよいよわからなくなってきた。つぼみはテレビ局のディレクターというそよかの仕事に憧れを持っていた。色々相談に乗ってもらってそよかに感謝もしていた。だからお礼のケーキを贈ろうとしたとしても不思議はない。ただそよかはケーキをもらったなんて言っていなかったし、むしろ月曜日につぼみに声を掛けたら冷たく無視されたと話していた。日曜日にケーキを贈ろうとした相手を月曜日には拒絶する…少女のこの変化はいったい何を意味しているのか。
「何かがあったんだよ」
ハンドルを切りながらその疑問をぶつけると、警部は揺るぎない声で答えた。
「あの子の八尋さんに対する価値観を揺るがす何かが、日曜日と月曜日の間で起こったんだ。そして八尋さんのアドレスから堀川さんを呼び出すメールが送られたのが火曜日の夜。彼が突き落とされて八尋さんが逮捕されたのが水曜日」
「いったい、何をおっしゃってるんですか?」
「八尋さんにまつわるこの出来事の連続性は…きっと偶然じゃない」
「ま、待って!」
思わず叫び、私は車を路肩に停めた。
「待ってください警部。まさかあの子が…」
「考えてもごらん。八尋さんと堀川さんが仲良くしているのを見たと証言しているのも…あの子一人だけだ」
心臓に鈍痛。
「そんな…嘘ですよね。あの子がそんな」
助手席はもう何も語らなかった。
*
そのまま車を走らせて、再び留置場の八尋そよかを尋ねる。案内してくれた吉田警部補はそろそろ彼女を送検したい旨を語ったが、警部は有無を言わさぬ語調でギリギリまで待ってほしいと返した。困った顔で額に手を当てる彼を廊下に残して入室する。
「あらカイカンはんにムーンさん、何度も来てもろうて恐縮です」
「追加でお話を伺います」
「ええですよ。暇やから次の番組の企画書を作ってたんです。係りの人に預けとりますから、ムーンさん、お手数やけど翔子さんに届けてくれはりますか?」
相変わらずのん気なことを言っている。世間話を無視して着席すると、警部はさっそく本題を投げた。
「この前の日曜日、下田つぼみさんからケーキをもらいましたか?」
「え、何ですのん?」
「抹茶ケーキです。つぼみさんからプレゼントされましたか?」
一切笑顔のない問い掛け。漆黒の瞳が揺れる。
「つぼみちゃんからケーキ…? いえ、うちはそんなんもろうてません。もろうたら絶対憶えとります。そやけど…」
彼女は記憶を整理するように右保保に手をやった。
「そやけど、いつやったか、つぼみちゃん言うてました。『そのうちサプライズプレゼントしますから』って。学校行かれへんようになった後、何回か話聞いて少し元気になってきた頃やったと思います。うちはそんなん別にええよって言う田んですけど」
「サプライズ…」
低い声がくり返す。何かを察したのか、ガラス板の向こうで小柄なディレクターは立ち上がった。
「どういうことですのん? なんでそんなにつぼみちゃんのことばっかり調べてはるんですか? うちの事件と関係ないですよね」
「ありがとうございました」
答えずに腰を上げる警部。
「ちょっと、カイカンはん! ああもう、ムーンさんも待って」
私も無言の一礼だけを返して退室した。
4
その後、警視庁のいつもの部屋に戻ったが、警部はずっと座って黙考するのみ。私も手帳とホワイトボードを交互に見ながら思考を巡らせるが、何もまとまらない。むしろ突如浮上してきた可能性に心がおののき、頭が回るのを邪魔しているようだ。窓に見える濁った東京の空はもう夕暮れから夜に向かっている。
「ダメだね」
やがて低い声が言った。
「つながりそうでつながらない。こういう時は気分を換えよう」
「賛成です。どうしましょうか」
「とりあえず、晩ごはんを買いに行くがてら、八尋さんに頼まれた企画書を届けに行こうか。お借りしたディスクも返さなくちゃいけないし」
*
東京ピーチテレビに到着。夕陽の残照も消えて辺りは夜に包まれている。部屋を尋ねるとそこにはまた越前翔子しかおらず、忙しそうに受話器を耳に当てていた。ただその声は相変わらずアニメのヒロインのように可愛い。
「留置場で企画書なんて、まったくあの子らしいわ」
電話を終えると、彼女はやや疲れた笑みで対応してくれた。そしてそよかの手書きの企画書にさっと目を通してそれをヒラヒラ揺らして見せる。
「普通だったら、『潜入、留置場の実態』とか、『冤罪ディレクターの真実ルポ』とか、そんな企画を打ちそうなもんだけど、あの子はそうじゃないんです。見てください、『穴場のビューティ・サロン その名は留置場』ですって。いったいどんな優雅な生活をしてるのかしら」
警部も私も苦笑い。さすがにそんな番組を放映したら世間のバッシングを受けそうだが、やりかねないのがあの女の恐ろしいところだ。
「お勤めでお忙しいのにわざわざ持って来ていただいてすいません。プロデューサーとしてお詫びします。本当に我侭な子で」
「いえいえ。それと、これもお返しします。ムーン」
警部に言われて私はディスクを差し出す。
「改めて拝見して、とても良い番組だと思いました。堀川さんの人柄と寿司職人としての情熱が伝わってきて」
「ありがとうございます、カイカンさん。たくさんの視聴者からそういう感想が届いてます。上の反対を押し切って八尋の演出を強行した甲斐はありました」
「反対があったんですか?」
「ありますあります、むしろないことがないくらいで。これじゃつかみが弱いだの、インパクトに欠けるだの、カタルシスがないだのって。テレビドラマならともかく、ドキュメンタリーにもそういうのを求められちゃって…。ドキュメンタリーも作品だからって言われればそうなんですけど、結局は数字なんですよ」
彼女の視線を負って私は壁に貼られた視聴率のグラフを一瞥。
「伝わる人にだけ伝わればそれでいい…映画なら時々そう割り切って制作する監督もいますけど、公共放送のテレビじゃそこまでアーティスティックにはなれません。番組も、悪い言い方をすれば商品ですから。ただせめて、イエロージャーナリズムにはならないようにって自分を戒めながら働く毎日です。
あ、すいません、愚痴っぽくて。ちょっと疲れてるみたいです」
「大変なお仕事ですよね。八尋さんはいつも楽しそうですが」
「あれがあの子の見所なんです。堀川さんのドキュメンタリーも、上はタイトルを『義手を着けた寿司職人』にしろって言ってきました。その方がつかみもインパクトも大きいからって。それでも八尋は笑顔で闘いました。絶対にタイトルは変えないって」
そういえば…番組の中で彼の左手の障害については特段ピックアップされていなかった。「左手が不自由な堀川さんは右手でシャリを握る。それはまるで淡い雪を掴むかのように優しい手付き」とナレーションされたくらい。よく見ると魚を切る時に添えられる左手が義手なのだが、さらりと観賞しただけでは視聴者がそのことに気が付かなくてもおかしくない。かといってあからさまに隠し立てもしていない、そんな絶妙な演出だった。あのドキュメンタリーのあたたかい雰囲気の理由は、そんな自然な心遣いにもあったのかもしれない。
「八尋はあくまでおいしいお寿司を握る堀川さんと、それを食べに来るお客さんを描きたかったんです」
「それで番組名は『はにかみ屋さんのお寿司屋さん』ですか」
「ほんとに頑固な子ですよ。間に挟まれてるこっちは生きた心地がしませんでした」
「でも最終的に八尋さんの主張が通ったということは、プロデューサーのあなたが決断されたんですよね?」
警部の優しい問い掛けに翔子は恥ずかしそうに「まあ」と返した。
「普段妥協ばっかりしてますから、たまにはいいかなって。結果、数字が良かったから上はホクホクでしたけど。ほんとにいい気なもんです」
そこでデスクの上のスマートフォンが振動。断わってから耳に当てると、彼女は少し向こうに身をそらした。プライベートな電話らしい。警部と私も数歩離れる。
「ごめんね、今夜も遅くなりそう。あの子の具合はどう? うん、お願い。まだおかゆがいいと思う」
どうやら相手は夫らしい。警部と私はさらにデスクを離れたが、すると今度は別の声が聞こえてくる。それはデスク脇の閉じられたドア。その向こうの部屋で誰かが話しているのだ。
「どなたかいらっしゃるみたいですね」
「でもムーン、よく聞いてごらん。この声…」
そう言われて集中すると、確かにおかしい。どうやら二人の人間が話し合っているようだが、その一方が明らかに越前翔子なのだ。アニメのような可愛い声質といい、話し方といい、間違いない。しかし当の本人はデスクで夫と通話している。
「どういうことだろうね。越前さんは二人いるのかな?」
「そんなわけないでしょう」
私は即答。ドアを開けたらそこにもう一人翔子がいる…なんてことがあればドッキリ番組だ。
「双子? クローン人間? それともドッペルゲンガー?」
「何をおっしゃってるんですか。きっと録音した声が流れてるんですよ」
「ナルホド。でも何のために?」
変人上司はポケットからおしゃぶり昆布を取り出して口にくわえる。
「そう、そのボタンよ。水の量だけ間違えないでね。じゃ、お願い、終わったらダッシュで帰るから」
通話を終えた翔子が肩をすくめてこちらに来た。
「娘が風邪引いてて。旦那が仕事を休んで看病してくれてるんですけど、私は今夜も残業で…ママ失格です」
そっとデスクの上の写真立てを手に取る彼女。そこには幼稚園の制服を着た少女が写っている。
「今朝も風邪でしんどいのに『ママお仕事頑張ってね』って送り出してくれたんです。けど…本当は寂しいんだろうなあ」
「あの、一つよろしいですか?」
右手の人差し指を立てて低い声がぶしつけに尋ねた。
「このドアの向こうからあなたの声がするんですが」
「あ、それは」
写真立てをデスクに戻してプロデューサーはビジネススマイル。
「すいません。打ち合わせの文字起こしをしてまして」
意味がわからず警部も私もきょとん。翔子は腰に手を当てた。
「つまりですね、打ち合わせを録音した音声を流して、それをスマホのアプリが文字に変換してくれてるんです。ほら、最近はメールの文面とかも声で入力できるじゃないですか」
確かに、カーナビに目的地の設定をするのも然り、スマホやタブレットに指示を与えるのも然り、近年の音声認識技術の向上には目覚しいものがある。
「打ち合わせで話した内容が自動で文字の記録に?」
「そうです。それを邪魔な音が入らないように隣の部屋でやってるんです。ほんとすごい時代ですよね。ほとんど漢字変換の間違いもないですし。昔はスピーチの内容を文字に起こす時なんか、何度も録音テープを聞き返しながら手作業で打ってたわけですから」
警部は黙っている。文明の利器の進化に感動…しているわけではないらしい。あれ、もしやこれは…!
「カイカンさん?」
ノーリアクションになった相手にプロデューサーは尋ねる。しかしコートとハットをまとった刑事は、静止画像のように微動谷しない。
「大丈夫です、これはその…」
「あ!」
私が説明しかけた時、彼女が嬉しそうな声を上げた。
「八尋から聞いてます。これが噂のスーパー推理モードですね」
どんなモードだ。確かに今警部の思考はものすごい勢いで回転している。まるで原始人が木の枝をクルクルこすって火を起こすがごとくだが、しばらく見守っても煙の一つも出てくる様子はない。翔子の目は再びこちらに向く。
「それであの子は…八尋は大丈夫なのでしょうか」
真剣な問いだった。見所ある後輩を本当に案じているのだろう。
「このまま犯人にされてしまうなんてことは…」
「捜査は少しずつですが進んでいます。八尋さんが犯人でないなら、それは必ず明らかになります」
とは言った者の、四十八時間のリミットが来ればさすがに吉田も彼女を送検するだろう。煮え切らない私に翔子は無言で目を細める。
「それより、警部はしばらくこのままでしょうから、越前さんはお仕事に戻られてください。ほら、その、娘さんのためにも早く帰らないと」
「そうですね」
真剣な顔から一変、はにかんでデスクに戻ると、彼女はまた写真立てを手に取った。
「ママはもうちょっとだけお仕事頑張るから、しっかりパパのおかゆ食べてね」
私も歩み寄り、そこに写った少女を覗き込んだ。目元が母親に似ている。
「お名前は何とおっしゃるんですか?」
「ゆうです、越前ゆう」
「しっかりおかゆ食べてね、ゆうちゃん。せっかくのパパの手作りなんだから」
私が言うと彼女はプッと吹き出す。
「ごめんなさい。うちの旦那は手料理とかできないんです。おかゆくらい作れるでしょって言ってもわからないって言うから、それでさっきも炊飯器での作り方を教えてたんです。お水を多めに入れて、炊飯じゃなくておかゆモードのボタンを押しなさいって」
…パチン!
その瞬間、高らかな音が室内に響いた。警部が立てていた人差し指を鳴らしたのだ。私も翔子もそちらを向く。
「おかゆ…モード、そうだとしたら…」
一時停止が解除されたように動き出す警部。やがて独り言もおさまり、前髪に隠れていない左目がじっと翔子を見た。
「どうかされたんですか、カイカンさん」
「ご安心ください」
そしてくわえていた昆布が警部の口に吸いこまれる。
「真犯人は八尋さんではありません」