第三章 女の約束

 一夜が明けて木曜日。時刻は午前7時。警部を助手席に乗せた私は、再び朝顔ハイツを目指している。
 頭の中でリプレイする映像は、夕べ警視庁に戻ってから警部と共に観賞した番組。そう、八尋そよかが手掛けたドキュメンタリー『はにかみ屋さんのお寿司屋さん』だ。15分ほどの短い特集ではあったが、堀川が職人として精を出す姿、彼が握ったみずみずしい寿司を口に運んで笑みをこぼすお客たちの姿が、穏やかな空気の中で生き生きと描かれていた。
「…良い番組でしたね」
 自然に唇がそう動く。
「あのドキュメンタリーのことかい? そうだね、私も改めて観賞してそう思ったよ。越前さんにディスクを借りてよかった。八尋さん、いい仕事してたよね」
「はい」
 ちょっと悔しいがそれは認めるしかなかった。どこがどう良かったかと問われると答えにくいものの、素直に心が和んだ。ドキュメンタリーと呼ばれるものをこれまでにも何本か見たことはあるが、妙に刺激的だったり、教育的だったり、感動的だったりで、どれも濃い味付けだった。だがそよかの番組は薄味、でもダシはしっかり効いているというか、はっきりしたメッセージ性があるわけではないが、私の心は確かに何かを感じて満たされていた。もちろん堀川の人柄もあると思う。ただ何と表現すればいいのだろう、子供の頃に読んだ『星の王子様』の絵本に「本当に大切なものは目に見えない」という一文があったが、その目に見えない大切なものがたくさん映っているような、そんな優しい内容だった。
「あれを見る限り、やっぱり八尋さんと堀川さんの間にもめ事があったとは思えないね」
「そうですね。あの、改めてお聞きしますが、警部はこの事件をどう思われてますか?」
 数秒置いて低い声は答える。
「八尋さんが犯人ではないとすると、疑問は大きく二つある。
 いいかい? 君も言っていたように、たまたま犯人と八尋さんの容姿がそっくりだったとは思えない。犯人は八尋さんに罪を着せるために、わざと彼女に変装をしたと考えるのが自然だ。かといって罪を着せるためだけに、無関係の堀川さんを突き落としたとも思えない。
 となるとどうなる? 犯人は八尋さんと堀川さん、両方に対して恨み、あるいは憎しみを持つ者と考えられる。堀川さんを襲い、その濡れ衣を八尋さんにかぶせることで、二人に同時にダメージを与えようとしたんだ。でも…今のところ、二人に対して動機を持っていそうな人間は見当たらない」
「そうですね」
 私は頷く。
「それに警部、犯人は八尋さんに罪を着せるために彼女の部屋の合鍵を堀川さんのポケットに仕込みました。ただし彼では使わないはずのポケットに。これは犯人のミスですよね?」
「そう思うよ」
「だとすれば、犯人は堀川さんの左手が義手であることを知らなかったことになります。堀川さんに恨みを持っているのに義手のことは知らないなんて…おかしくありませんか?」
「ナルホド。犯人は堀川さんとさほど親しくない可能性があるわけか」
 黙り込む警部。もちろん親しくなくても恨みや憎しみを向けることはあるだろうが…どうもちぐはぐだ。そもそもそよかと堀川は番組制作で知り合っただけの仕事上の関係。そんな二人を同時に攻撃しようなんて、はたして犯人はどんな人物なのか。全くイメージが浮かばない。
「もう一つの疑問は何ですか?」
「八尋さんの炊飯器でご飯が炊きあがるのに、30分も余計にかかったことさ」
「それは重要なことでしょうか。確かに不思議ですけど、事件と関連しているとは思えません」
「…かもしれないけどね。もしかしたら途中でアパートが停電したとか、何か私たちの知らない要因があるのかもしれない。一応大家さんに確かめてみようよ」
 この仕事は無駄骨を折ってなんぼ。私が了解を返そうとした時…。
「あ、そういえば!」
 低い声が先に言った。
「もう一つ疑問があったのを忘れてた。夕べ届いた所轄からの報告書を見て、わからないことがあったんだよ」
「報告書は私も目を通しました。吉田警部補が書かれたものですよね。特におかしな所はありませんでしたよ。犯人の目撃証言も、美濃巡査が話していたとおりで」
「わからなかったのは彼女の名前さ。下の名前の読み方がわからなかった。漢字で暖炉の『炉』に渦巻の『渦』だったけど、読み方は『ロカ』さんでいいのかな」
 私は溜息。それこそ炊飯器以上にどうでもいい疑問だ。
「おそらくそうじゃないですかね。今の若い子には色々な名前がありますから。そもそもカイカンとかムーンとか名乗っている私たちが、人様の名前をどうこう言えませんよ」
「フフフ、そりゃそうだ」
 皮肉を込めて伝えたつもりだったが、変人上司は笑っていやがる。やれやれ、私はハンドルを切って朝顔ハイツへの道を急いだ。

 アパートに入って1階の廊下を進むと、なんと一番奥のドアの前に制服姿の婦人警官が立っていた。ショートボブの後ろ姿。そう、先ほど噂していた彼女だ。
「あ、美濃さん、おはようございます。どうしたんです、こんな所で」
 挨拶を投げる警部に、彼女はゆっくり振り返る。
「お疲れ様です。そちらこそお二人でどうしたんですか?」
「昨日の事件を調べてるんですよ。それでアパートの大家さんからお話を伺おうと思いまして」
「そうですか。あたしも、アパートの住人に聞き込みをして回ってたとこです。確かにあたしの思い込みで八尋さんを犯人だと決め付けてました。それは反省してます。でも、あの人が犯人の可能性だって消えたわけじゃないですから」
「それはもちろんそうですね」
 警部と私は彼女の近くまで来て足を止める。
「それで美濃さんはどういった聞き込みを?」
「八尋さんは堀川さんとの男女関係を完全に否定してます。メールも送ってないし合鍵も渡してないって。だから二人が親しい仲だってことが証明されたら、彼女が嘘をついたこともばれて、そこから自供を引き出せるかもって思ったんです。
 堀川さんが八尋さんの部屋に出入りしてたんなら、住人の一人くらいそれを目撃してるはず。だから一部屋ずつ当たってたんです」
「ナルホド。成果はいかがでしたか?」
 感心したように警部は腰に手を当てる。
「昨日の夜から今朝に掛けて当たったんですけど…このアパートで堀川さんを見たことあるって人はいませんでした」
 わずかにトーンが下がる。それにしても、交番勤務の後に時間外で聞き込みをするとはたいした熱意だ。私がそのことを伝えると、新米警察官は「当然のことです」とまっすぐな瞳で答えた。言葉を失った私に代わって再び警部が尋ねる。
「ところでどうしてこの部屋の前にいらっしゃるんですか?」
「ここだけずっと留守でまだ聞き込みができてないんです」
 ドア脇の表札を見ると『110号室 下田』とある。そうだ、ここは昨日あの少女が入っていった部屋、つまり…。
「大家さんの部屋ですね」
 私は確認した。
「はい。大家の下田綾菜(しもだ・あやな)さんの部屋です。昨日の夜も今朝も何度かチャイムを鳴らしたのに、応答がなくて」
「娘さんもいるはずですが」
「誰も出てきません。親子で出掛けてるのかな」
 平日に外泊というのも珍しい。さて、留守ならどうしたものか。一度警視庁に戻って出直すか? それを伺おうと警部を見ると…。
「あ!」
 変人上司は思い出したように美濃に向き直った。
「昨日報告書を読んでいて気になったのですが、あなたの下のお名前…あれはロカさんとお読みするんでしょうか?」
 またどうでもいい世間話か…と私はうんざりしかけたが、途端に彼女の表情がすっと冷たくなる。まるでこの場の空気まで瞬間冷却されたようだ。無言だけが返される。
「あ、いや」
 さすがのこの人もそれを感じ取ったらしい。
「その、何と言いますか、最近の若い方は難しいお名前が多くて大変ですね。ハハハ」
 誘い笑いで取り繕っても、彼女の氷の眼差しは変わらない。
「命令とおっしゃるならお答えしますけど」
「いえ、いいんです。結構です。すいません」
 そんな愚かなやりとりをしていると、アパートの入り口からこちらへ近付いてくる一つの音。カツ、カツ、カツ…ハイヒールの足音だ。
「ちょっと、あんたらうちの前で何やってんですか?」
 見ると年齢は30歳前後、クワのように尖った前髪に濃いメイク、薄手のワンピースの上にジャンパーを羽織り、スポーツバッグを提げた女。
「いったい何ですか。警察呼びますよ…って、ああ、お巡りさんですか」
 警部の陰になっていた制服警官の存在に気付いたらしい。
「もしかして、うちの娘になにかあったんですか?」
「いいえ、そうではありません」
 不安そうな彼女に低い声が答える。近寄ると柑橘系の香水がややきつい。
「大家さんですね?」
「そうですけど」
「私は警視庁の刑事でカイカンといいます。こちらは部下のムーン、そしてカメリア公園前交番の美濃巡査です」
 返される怪訝な顔。あまりよい言い回しではないが、このいかにも水商売風の女性が朝顔ハイツの大家・下田綾菜であった。

 彼女はあからさまに面倒くさそうだったが、廊下で警察と話すのも体裁が悪いということで部屋に上げてくれた。
「仕事明けで疲れてるからさっさとお願いしますね。あたしちょっと着替えてお風呂沸かしてきますから、適当にその辺座っててください」
「すいません。お茶などはお構いなく」
 警部がそう言うと、綾菜は一瞬立ち止まり、素っ気無く「はい」と答えてそのまま奥へと消えた。変人上司に続いて私も床に着席。美濃はしばらく綾菜の背中に厳しい眼差しを注いでいたが、やがて私の隣に正座する。
 気まずい沈黙。所在なく室内を見回すと、あまり掃除や整理整頓は行き届いていない。そよかの201号室よりもふたまわりほど広いようだが、彼女の部屋が自然光を採り入れて明るさに満ちていたのに対して、カーテンを閉め切られたこの部屋は薄暗い。壁際にはいくつものダンボール箱、ソファの上には女性週刊誌が開いたまま放ってある。空気もこもっており、タバコの残り香も漂う。テレビのディスプレイも、もう何ヶ月も拭かれていない様子だ。
「またレトルトカレー」
 美濃が呟いた。見るとメガネの奥の瞳はダンボール箱に溢れたレトルトカレーのパックを睨んでいる。
「美濃さんはよっぽどレトルトカレーがお嫌いなんですね」
 私が言うと、彼女はメガネを少し直す。
「あんなものがあるから、料理に手間をかけたくない母親はどんどん楽をするようになるんです。毎日毎日レトルトばっかりで…食べさせられる子供にしたらたまったもんじゃないです」
 間もなく浴槽にお湯が溜められる音がして、Tシャツ姿の綾菜がリビングに戻ってきた。
「それで、警察の方がどんなご用でしょうか」
 女性週刊誌を横にのけて彼女はソファに腰を下ろす。
「見てほしい物があって」
 警部よりも先に口を開いたのは美濃。聞き込みのために用意したのだろう、堀川の写った写真を胸ポケットから取り出すと、腰を上げて綾菜に示す。
「この男の人に見覚えはないですか?」
 目の前に突きつけられて彼女は迷惑そうな顔をしたが、それでも数秒凝視して「知りません」と答えた。
「本当ですか? 手に取ってしっかり見てください」
「知らないですって。誰ですか、この人」
「このアパートに出入りしてたはずなんですけど。例えば2階の八尋さんの…」
「ストップ、美濃巡査」
 警部の制止が飛んだ。その圧力に押されて彼女は渋々引き下がる。新米警察官が元の場所に座ってから低い声は始めた。
「失礼しました。写真の男性についてはご存じないということで了解しました。もう少し伺わせてください。先ほど仕事明けとおっしゃいましたが、夜勤のお仕事ですか?」
 若き大家はさらに不機嫌そうに溜め息。
「警察なら見ればわかるんじゃないですか? ホステスですよ」
「そうですか。いや、スポーツバッグを提げてらっしゃったから何かなと思いまして」
「銀座の高級クラブで働いてるように見えます? あたし、場末のスナックのホステスです。指名してもらうためには、甘い声で喋ったり、男の好きな服着たり、ヘアースタイルも変えたり、そんなこともしなきゃいけないんです。バッグにはそのためのメイク道具とか、服とかカツラが入ってるんです。そういうのも自分管理でさせられて。
 あ、もしかして店のことを聞きに来たんですか? 違法のサービスをしてる店じゃないですよ。本当です」
「ご安心ください、それを調べに来たわけではありませんので」
 かぶりを振る警部。
「しかし、大家さんもしながらスナックでも働くというのは大変じゃないですか?」
「大変ですよ。大変に決まってるじゃないですか。別にしたくてしてるわけじゃない。あたしだって家賃の収入だけでやってけるんだったらそうします。借金があるから仕方なくて」
 そこで彼女は黙る。警部も言葉を止めた。隣の美濃は変わらず厳しい眼差しで綾菜を見ているが…私はそれに違和感を覚えた。あまりにも厳し過ぎる瞳。まるで憎悪を宿しているかのようだ。

 …ガチャリ。

 沈黙を破ったのはドアが開く音。奥の部屋から出てきたのは、手酒袋を携えた一人の少女。朱色のジャージ姿。そう、昨日アパートの廊下で見かけた長い黒髪の少女だ。癖のないしなやかなストレートを腰まで伸ばしている。少女は私たちの来訪を知らなかったようで、目を丸くしてその場に立ちすくんだ。
「お邪魔しています。警察の者です」
 美濃の制服を見ればわかるとは思うが、一応私はそう挨拶した。
「こんにちは」
 目を伏せてか細く返すと、少女は母親に一瞥もくれずそそくさとリビングを通り過ぎる。
「お風呂?」
 尋ねる綾菜。しかし少女は棚の引き出しから星のキーホルダーの付いた一本の鍵を取ると、無言のまま玄関から出て行った。ドアが閉まってから警部が問う。
「娘さんですか?」
「そうです。つぼみです」
 無愛想な返答。あまり触れられたくない様子。
「お風呂とおっしゃいましたが、銭湯かスパにでも行かれたのですか? それにしてはまだ時刻が早いと思いますが」
「アパートの空き部屋でシャワー浴びてるんです。その、うちのお風呂がちょっと壊れてて」
「しかしあなたは先ほどお風呂のお湯を溜めに行かれましたよね?」
 綾菜は小さく舌打ち。やりとりから親子の関係がうまくいっていないのは明らかだった。
「思春期だから色々難しいんですよ」
「今日は平日の木曜日ですよね。学校は…」
「ほっといてください!」
 破裂したように突然荒げられる声。ぎょっとする警察官三名に対して、女は立ち上がってさらに言葉をぶつけてくる。
「いったい何なんですか、さっきからイライラすることばっか言って。あたしだって精一杯やってるんです! 旦那に借金残して逃げられて、死んだ親のアパートを引き継いで、スナックで働いて、なのに娘には部屋に引きこもられて…これ以上何をどうしろって言うんですか!」
「あの、下田さん」
「あたしだって疲れてるんです、ギリギリ…っていうか、もう限界なんです。今日だって接客がなってないとか、カツラが一個足りないとかってスナックのママに叱られるし、家に帰ったら帰ったであんたらがいるし、娘はおかえり一つ言ってくれないし。
 もう何も考えた区内、さっさと寝たいんです!」
 一頻り怒声が続いた後、最後は「帰ってください」と涙声が告げた。淀んだ空気に沈黙だけが立ち込める。
「すいませんでした」
 警部がゆっくり腰を上げ、私と美濃も従う。
「配慮が足りませんでした。お詫びします」
 低い声が謝罪を告げても綾菜は無言で俯くのみ。
「最後に一つだけ教えてください。昨日の昼、このアパートが停電したことはありますか?」
「知りません、朝に帰った後、昼間は夕方の出勤までずっと寝てますから」
 感情のない声が答える。そして浴室からはお湯が溜まったことを報せるメロディが聴こえてきた。

 110号室を出てアパートの入り口まで戻る。落ち込んでいるわけでもないだろうが、警部が無言のままなので私から切り出した。
「これからどうしましょうか」
「そうだね」
 ハットのツバを触って少し考えてから低い声は答える。
「ひとまず君と美濃巡査でつぼみさんからも話しを聞いてみてよ。事件当時も学校に行かずにアパートにいたんなら、何か知ってるかもしれない」
「私たちだけでよろしいんですか? 警部は…」
「さっき部屋で会った時、つぼみさんは私に対して怖がってる…というよりも嫌がってるような顔をしてた。ご両親も離婚してるし、思春期だし、もしかしたら大人の男に対して嫌悪感があるのかもしれない。だから君たちだけで話してみてよ。私は交番で待ってるから」
 性別や年齢ではなくその異様な格好を嫌悪したのでは…と思ったが、口にはせずに私は了解を伝えた。そしてアパートを去っていく後ろ姿を見送り、美濃と二人でしばらく廊下で待っていると、107号室からまだ髪の乾き切っていない少女が出てきた。
「あの、少しいいかな?」
 美濃が声を掛ける。少女の肩がびくんと震えた。
「下田つぼみちゃんよね。あたし、美濃っていうの。今、ある事件の捜査でこのアパートに住んでる人に聞き込みしててね、警察のお姉ちゃんにちょっと話聞かせてほしいんだけど」
「え、あ…はい」
 緊張は明らかだが、少女は応じてくれた。美濃がちらりとこちらを見たのでまずは私から始める。
「ムーンと申します。昨日の昼間ですが、このアパートが停電したということはありますか?」
「え、停電ですか? えっと」
 おどおどした瞳。小柄な体躯がより小さく見える。
「わかりません」
「昨日はずっとお部屋にいらっしゃいましたか?」
「いましたけど、電気は点けてなかったから」
「そうですか。私たちは昨日もここに来たんですが、つぼみさん、私たちのことを気にしてましたよね。階段の踊り場から見てたり、廊下にいたり…。何か伝えたいことがあるのなら教えてください」
「あ、いえ、そういうわけじゃ。ただ窓から婦人警官さんが来たのが見えたから、何かあったのかなって思って」
「わかりました」
 私の言葉が止まったタイミングで美濃が「じゃあ」と例の写真を取り出す。
「つぼみちゃん、これまでにアパートの中でこの男の人を見たことある? ゆっくり思い出してみて」
 恐る恐る写真を見つめる少女。美濃はじっとその表情を観察する。ただその眼差しは先ほど母親に向けたものとは打って変わり、優しさに満ちていた。やがて薄い唇が「はい」と動く。
「見たことあるのね?」
 新米警察官が身を乗り出すと、小さな目撃者は大きく頷いた。
「あると思います…いえ、あります。先月に何度か、アパートの入り口とか階段で見ました。あたし、その、今学校行ってなくて、時々アパートの廊下とか、周りとか、散歩してるので」
 申し訳なさそうに眼を伏せる少女に美濃はかぶりを振る。
「それは気にしなくていいの。それより写真の男の人、誰かのお部屋に遊びに来てた感じかな? 例えば…」
「美濃さん!」
 私は彼女の言葉を制する。先ほど部屋で綾菜に聴取した時もそうだったが、こちらから八尋そよかの名前を出しては誘導尋問になってしまう。この辺りはまだまだ経験不足。不満そうに美濃は口をつぐんだが、つぼみは自らその名を告げた。
「201号室の八尋さんだと思います」
 私と美濃は息を呑む。
「二人で一緒にアパートに帰って来たり、お部屋に入るとこ見ましたから。すっごく仲良しだから、八尋さんの彼氏かと思ってました」

「そう…」
 交番で拾った警部を助手席に乗せて下田つぼみの証言を報告すると、重たい溜め息が返された。
「難しい風向きになってきたね」
 私は黙って頷く。これまでの捜査から、そよかは犯人によって濡れ衣を着せられた可能性が高まっていた。しかしここに来てまたそうではない可能性が浮上。そよかと堀川が親密だったとすれば、美濃が言ったようにそよかは嘘をついていたことになり、その疑わしさは格段に濃くなるのだ。
「警部、いったい何が事実なのでしょうか。ここまで証言が食い違うと…」
「八尋さんと堀川さんはプライベートな関係を否定している。でもつぼみさんは二人が仲良くしている姿を目撃している。見間違いや勘違いでないとすれば、どちらかが嘘をついてることになる」
 そこで右手の人差し指が立てられる。
「必然性から考えれば、八尋さんと堀川さんの方が嘘をついてる可能性が高い。男女の関係を知られたくなくて嘘をつくのは、大人にはよくあることだからね」
「確かに、事件と無関係の中学生が嘘をつく理由はありませんもんね」
「あるいは、無関係ではないのか」
 感情のない声が言った。アクセルを踏む右膝が一瞬震える。え? あの少女が…事件に関係している? この人はそんな可能性まで視野に入れているのか?
「警部はあの子に何か気になる部分がおありなんですか?」
「気になるというほどじゃないけど。実はね、君たちを交番で待っている間、大隅さんから色々話しを聞いてたんだ。長年あの交番で勤務されたあの人は町の人たちのことを誰よりもご存じだからね。下田つぼみさんのことも小さい頃から見てたって」
 立てていた指がゆっくり下ろされる。
「小学校低学年の頃にあのアパートへ引っ越してきて、その頃から父親はいなかったけどお母さんとは仲良しで、よく二人で買い物もしてた。去年の春に中学生になってからも、嬉しそうに制服に身を包んで、元気に交番の前を通って通学してたって。大隅さんが戸口に立ってると笑顔で挨拶するくらい社交的な女の子だったそうだよ。
 それが…年明けから滅多に姿を見掛けなくなって、特にお母さんと一緒の姿を見かけることはなくなったって」
「八尋さんもおっしゃってましたね。しばらく学校に行ってないって」
「さっきの様子じゃお母さんとも口を聞いてないみたいだし、一人で部屋にこもって、あの子はどんな気持ちでいるんだろう」
 そこで警部の言葉は止まる。数々の事件を解明してきたこの人でも、閉ざされた心の奥までは見抜けない。学校で何かあったのか、母親と何かあったのか、それともSNSでトラブルに巻き込まれでもしたのか。きっと大人たちの知り及ばない理由があって、あの少女は重い扉を閉ざしている。それが不登校という形で表れているのだ。そしてそんな子供たちがこの社会で確実に増え続けている。
 しかし私たち警察官にできることは、せいぜい子供たちを狙う悪意の毒牙を一つでも折ること、そして非行の道へ迷い込みかけた子供たちの袖を掴んで正しい道を示すことくらい。本当の解決のためには司法だけの努力では足りず、行政・教育・医療・福祉との連携による総合的な支援が必要なのだ。何度も研修で聞いて理屈はわかっている。わかっていても、それぞれの日々に追われる中で爪の先ほどの連携もできていないのが実情。子供たちのために大人たちが連携…本当にそんなことが可能なのだろうか。口先だけの絆が溢れたこの国で。
「これからどうされます?」
 ちっぽけな私はまたそんないつもどおりのセリフしか言えない。
「警視庁に戻りますか?」
「いや、八尋さんに会いに行こう。もう少し詳しくつぼみさんのことを聞いてみたい」

「お越しやす」
 ガラス板の向こう、ぐっすり眠って朝ごはんもおいしかったとテレビディレクターはまた留置場の快適を語った。とはいえここにいられるのは逮捕から四十八時間、あと半分ほどだ。
「八尋さん、改めてお伺いしたいのですが」
 早々に着席すると、低い声は世間話を挟まずに本題に入る。
「下田つぼみさんのことを教えてください」
「え、つぼみちゃん? なんでですのん?」
「お願いします」
「だってうちの事件と全然関係ないやないですか」
「色々と事情がありまして」
 警部はそよかと堀川が仲良くしていたという少女の目撃証言には触れなかった。ただじっと前髪に隠れていない左目で被疑者を見る。
「…わかりました」
 しばし無言の対峙をしてからハスキーボイスが答える。
「カイカンはんのことやから、きっとなんか考えてはるんやね。でも、どんなことを答えたらええんですか?」
「つぼみさんとは何度か立ち話をしたことがあるとおっしゃっていましたね。親しくされていたんですか?」
「そんなに親しいわけやないです。ほんまに、時々話すくらいで」
「そうですか。では、最初に知り合われたきっかけを教えてください」
 わずかに逡巡の素振りを見せてからそよかは始める。
「えっと、うちが初めてつぼみちゃんと話したんは…あの子が小学校6年生の時です。あっちから声を掛けてきました。『お姉さんは何の仕事をしてるんですか』って。朝早かったり夜遅かったり、うちの出勤の時刻がまちまちなんを見て不思議に思うたみたいです」
 懐かしそうに細められる漆黒の瞳。
「うちがテレビを作っとるんやって伝えたら、電気屋さんですかって言うから、ちゃうちゃう、東京ピーチテレビのディレクターやって教えたんです。そしたらすっごく興味を持ってくれて、時々立ち話するようになりました。うちの作った番組も中学校で宣伝してくれて、みんなの感想も教えてくれました。
 自分もしっかり働く女になりたいとか言うてたなあ。あの子、母子家庭やから、将来は自分が頑張ってママを楽させたいって…ほんまにええ子です」
 しばし思い出話が続く。一段落したところで警部が問った。
「とても明るくて前向きな子だったんですね。そんなつぼみさんが今年の年明けから学校に行かなくなったと聞いています。間違いありませんか?」
 無言で頷いて彼女は続けた。
「前は制服姿のつぼみちゃんを見かけることがようあったんですけど、1月からそれが全然なくなって、たまにアパートの廊下で会っても暗い雰囲気でした。それでもうちが声を掛けたら無理して笑ってくれました。あんまり外にも出てへん感じでした」
「つぼみさんが部屋にこもるようになった原因について、何か心当たりはありますか?」
 語りがピタリと止まる。警部は右手の人差し指を立てた。
「ご存じのことはありませんか? 彼女があなたを慕っていたのなら、あなたに何か相談していてもおかしくないと思うのですが」
「それは」
 唇が動きかけたが、その口はすぐに一文字に結ばれる。
「八尋さん、いかがです?」
 沈黙。そよかは俯き、前髪で目元を隠した。
「教えていただけませんか?」
 身を乗り出す警部。
「そない…言われても」
 再び沈黙。私も構えていた手帳とペンを下ろす。数分を待って、低い声は静かに告げた。
「お風呂に関することですね?」
 わずかに震えるそよかの肩。そして次の瞬間…。
「堪忍して」
 その言葉は搾り出された。これまでに聞いたことのない彼女の声色。
「どういう意味ですか?」
 意を決したように顔を上げるそよか。その瞳には切なさと揺るぎなさが讃えられている。
「つぼみちゃんと誰にも言わへんって約束したんや。女と女の約束です。そやから、うちには…いくらカイカンはんの頼みでも言えません」
 有無を言わさぬ語調。彼女の後ろで鹿威しが鳴った幻聴を私は聞く。
 そういえば昨日、越前翔子も言っていた。そよかはどんなに上から圧力をかけられても屈さず、被災者の理解が得られるまでけっして被災地でカメラを回さなかったと。それがこの女の節義。それだけまっすぐな彼女なら、少女との約束を安易に反故にはしない…いや、できないはずだ。
「…そうですか」
 警部は乗り出していた身を戻し、立てていた指を力なく下ろした。
「ごめんなさい」
 小さく謝るそよか。そしてまたしても沈黙。そのまま時間は滞りかけたが…。
「では、代わりに私が伺います」
 誰かが言った。誰だ? 私だ。私の声だ。気付けば私の唇はそう言葉を発していた。
「女と女の約束なら、私がそれを伺います。私も女ですからきっとつぼみさんもわかってくれます」
「ムーンさん」
 ガラス版の向こうの瞳が驚いてこちらを見る。
「ほんならカイカンはんには?」
「警察官には報告の義務があります。事件捜査に必要な情報だと判断されれば、私は警察官としてそれを上司である警部に報告します。ただし私個人が報告するのではなく、警察官という職責が報告するんです。女の約束には抵触しません」
 無茶苦茶を言っているのはわかっている。変人上司は呆気に取られた顔で私を見る。そよかもしばし呆然としていたが、その瞳はすっと細められて挑発的な流し目に変わった。
「了解どす」
 そして口元を緩めると、ハスキーボイスは満足そうに告げた。
「ほなカイカンはんはさっさと出て行ってくだはれ。京女は、清水の舞台からムーンはんの懐へダイブします」

 警部が退室した後、手帳とペンをしまって私はそよかの体面に座り直す。ガラス板の向こうの彼女はわずかに小首を傾げ、どこかニヤニヤしているように見えた。
「どうかされましたか?」
「いえいえ、なんでもあらしません。ほな」
 背筋を伸ばすと、彼女は前置きもなく再び語りを始めた。
「つぼみちゃんが部屋にこもるようになった理由、うちが知っとることをお伝えします。きっかけは…お母さんや。お母さんの不貞」
 私は膝の上の拳を握る。
「お母さん…つまり綾菜さんが?」
「男と関係を持っとったってことや」
 厳密に言えば、彼女は離婚して独身なので誰と関係を持とうが不貞には当たらない。
ただ母子家庭で母を慕う思春期の少女にとっては、それは相応のショックを受けても無理からぬことだっただろう。
「詳しく言いますね。あれは今年の1月の出来事です」
 そよかは説明を続けた。3学期が始まって間もない朝、いつもどおりスナックの仕事から帰った母親におかえりを伝えて、つぼみは中学校へ向かった。しかし月経痛がきつくなったため昼で早退することにし、母親は仕事で疲れて寝ているから迎えに来てもらわなくても大丈夫と担任教諭に伝えて、少女は一人で下校した。そして帰宅したところで聞いてしまう…バスルームから響く男女の楽しそうな声を。自分の母親が男を連れ込んでいることを察した少女は、その場でわけがわからなくなり、発作的にまた外へ飛び出す。そしてたまたまアパートの入り口で八尋そよかに出くわしたのだ。
「ほんまにあの時のつぼみちゃんは…心が潰れてしまいそうな顔しとった」
 出会った途端、つぼみは大粒の涙をこぼしたという。そよかはそのまま少女を抱きしめ、自分の部屋に招く。そしてあたたかいカフェオレとお菓子を振る舞いながら、涙と気持ちが落ち着くまで話を聞き続けた。そのまま日が暮れ、少女は今下校したふうを装って自分の部屋に戻った。何も知らないふりをする、それが少女の選択だった。だがそれ以来、その心は重い扉の向こうでうずくまってしまったのである。
「そういうこと…でしたか」
 聞き終えた私は目を細める。鉛を呑んだように胃が重たい。
「それがきっかけで、つぼみさんは母親と話さなくなって、学校にも行かなくなったんですね」
「それからも、うちなりに時々あの子と話をして励ましました。つらい時はいつでもうちの部屋に来てくれてええ、うちは独りもんやし、女同士なんやからって。それでちょっとずつはあの子も元気になっとるって思うてたんやけど」
「つぼみさんにとって、八尋さんは心の支えだったと思いますよ」
「あら珍しい、優しいこと言うやないですか」
 私の言葉に彼女は一度笑んでから、残念そうな顔に変わる。
「そやけど、実際はあんまり支えになれてへんかったみたい。今週の月曜日にもアパートの廊下であの子を見掛けて声を掛けたんやけど…無視されてもうた」
「それは…たまたま余裕がなかったのかもしれませんよ」
「そうかなあ。でも…一瞬振り返った瞳がめっちゃ冷たかったんや。あれは寂しいとか悲しいとかって感じやのうて…。
 悔しい、そう、あれは憎さと悔しさいっぱいの瞳やった。お母さんに裏切られた時とおんなじ感じの、相手を好きやったからこその憎さ、それを許せへん自分自身に対する悔しさ。なんであの子がうちにそんな目を向けたんかはわからへんけど」
 大きく息が吐かれる。
「きっとうち、あの子の期待に応えられてへんかったんやろなあ。仕事の忙しさのせいにして、最近はほとんど話聞いてあげられへんかったし。それにうちも汚い業界におる汚れた大人やから、あの子にそれが伝わってもうたんかもしれへんな」
 漆黒の瞳がわずかに潤んでいるように見えた。そよかの心は今、無力感に苛まれているのだろう。同じく無力な私はただ「そうですか」としか返せなかった。

 簡単な昼食を済ませた警視庁のいつもの部屋。逡巡したが、私はそよかから聞いた話をそのまま警部に報告した。この情報が今回の事件の解明に役立つかはわからない。むしろ全く無関係の可能性だって高い。それでも私は警察官として、いや…あの少女に関わった一人の大人として、この痛みを共有したかったのだ。
「ナルホド」
 話を聞き終えると、おしゃぶり昆布を指に挟んだまま警部は感情なく言った。
「確かにお母さんが知らない男性とバスルームにいたら、ショックだよね。そうか、それであの子は別の部屋のシャワーを浴びるようになったんだね。お母さんに対しても軽蔑の目を向けて。
 でも、ずっと優しくしてくれてた八尋さんにまで冷たい態度をとったのはどうしてかな」
「もしかしたら、八尋さん個人に向けた感情ではないのかもしれません」
「どういうこと?」
「大人全員に向けた不信感とでも言いますか、私も含めて、今の大人の大多数はちっともかっこよくないですから」
「君らしい見解だね」
 警部は苦笑い。そして昆布を口にくわえると椅子から立って大きく伸びをした。
「それじゃ少しでもかっこいい大人にならないと」
「どうされるんですか?」
 私も腰を上げる。
「もちろん仕事をするのさ。それ以外に私にかっこよさがあるかい?」
 そうはっきり言われても困る。ただその意見には賛成だ。今は心を立ち止まらせていても仕方がない。大人として、責任ある社会の一因として、しっかり役割を果たさねば。私の役割は、この変人かもしれない天才…もとい、天才かもしれない変人と、事件を解明し犯人を逮捕することなのだ。
「よしムーン、もう一度事件の情報をまとめるぞ!」